2020/7/12 週報メッセージ

朝祷会の恵み 

朝位 真士 

  私は牧会の助けの一つとして朝祷会(超教派の祈り会)に出席しています。信徒(1961年12月、北九州復興教会の山中日出刃牧師より受洗)の時も、9年間サラリーマンとして仕事に支障のない限り、北九州と東京で早朝七時過ぎからの祈祷会に出ていました。牧師になってからも朝祷会によく出席しています。これが超教派の方々との交わりの原点となっています。

 最近出席した青山朝祷会で、浜田耕司郎牧師の『祈りの道』という御本に出会って、いくつかの感銘を受けました。その中の「神との時間」という項目の中で、「祈」という八木重吉の詩が記載されていました。「ゆきなれた路のなつかしくて耐えられぬように、わたしの祈りのみちをつくりたい」とありました。浜田先生は「私たちが歩んでいるキリスト者の道は、地図にもない未踏の小道ではありません。使徒・聖徒・先輩兄姉らによって踏み固められた大道なのです。それと同じく、祈りの道は主イエスによって切り拓かれた父神に至る道、イエス御自身がそのものでもあります。そして、その道を進む原動力は聖霊である祈りの霊です。」と述べておられます。

 他の箇所では「優先順位」として、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)が紹介され、祈りの習慣をつくることや、神との時間をつくることの大切さを訴えておられます。例話としてアサヒビールの樋口廣太郎兄が出てきます。会社の危機を救うために社長として派遣された時のこと。彼は「主よ、何とかしてください」とは祈らず、「主よ、感謝します。シェアが拡大し、社員とその家族全員が喜んでいます。お客様にも喜ばれています。ありがとうございました」と、既にそうなったこととして祈り続けました。領収書の祈りに徹し、請求書の祈りは一切しませんでした。結果はと言えば、彼の祈りと熱意によって新商品が生み出され、会社の危機は救われ、感謝した通りになったということです。私たちも領収書の祈りに徹しましょう。

「神の愛の勝利」2020・7・12説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・31~39節を通して聖書を見ていきましょう。今日でローマ8章が終わります。米田豊先生はこの全体を通して律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌として、1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉的な人と霊的な人。14~17神の子たる者の特権。18~22今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び31~34神の保護、選び。キリストのとりなし35~39愛、神の愛による勝利。永遠の安全。と分解しています。

本 今日のローマ8・31~39節を見て下さい。ローマ8・31~39節には、主イエス・キリストの溢れる御恵みと、このキリストを信じて生きる者に与えられている勝利の人生が、声高らかに歌い上げています。ここはローマ書のキリスト教信仰の基本の結論であります。「神がわたしたちの味方である」(8・31)は、この結論の要約言ってもよいでしょう。「味方」と訳された言葉(ギリシャ語の(ヒュペル)は、英語ではforであり、「ために」とも「代わって」とも訳されています。神はわれわれのために身代わりになってくださったと言うのであります。32節は「その御子さえ惜しまず」とい言葉は創世記22章12節の言葉そのままであります。族長アブラハムがイサクを献げる場面です。

創世記22章を見て下さいp31です。この時の「自分の独り子を・・・惜しまない」という言葉が、その通りにローマ8・32節に使われています。神御自身は御子イエス・キリストを惜しまないで十字架につけて人間のために犠牲とされたのであります。人間の救いをめぐる神の愛の活動は、それは、現在的であって、過去的ではない。といことである。神によって、御計画のままに行われる救いに実施すなわち、神の救いのみわざは、不思議な面をもっているのである。これによって神の愛の生きた力にふれるのである。愛は理論ではない。悪魔との戦いのなかに、具体的にあらわれるのである。キリストを信じる者は、自分が、その愛の中あることを信仰を持って知らされるのである。

神の愛が、「わたし」に与えられていることを信仰によって知る時、神は「わたし」の味方であるという確信を与えられるのである。神は「わたし」の味方と考えるなら、その線に立って、大別にして2つになる。神の側の事柄と、キリスト者側の事柄とである。神の側の場合は1・神はキリストを死に渡したもう。2・万物をも賜う。3・キリストは、父なる神のみこころに一致して死に、そしてよみがえりたもうた。4・キリストは、神の右に座して、わたしたちのためにとりなしたもう。その支配はおわることがない。キリスト者の側の事柄は、神の側の出来事を原因として、あらわれるのであるが、つぎの3つのことがいえます。1・キリストにある者は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣をうける。2・わたしたちを愛して下さったかたによって、あらゆる苦難に対して勝利をえる。3・勝利を得る毎に、神の愛の強さを知り、この愛からわたしたちを引き離すものは何1つないという確信が与えられる。38節をもう1度見て下さい。キリストのうちにある神の愛と「わたし」とを絶縁させるものは1つもない。これがキリスト者が神の愛に押し出されて、わたしのものとするのであります。キリスト者は、神の良き兵卒であります。兵卒は、将軍に対して忠誠をもつ。最悪の事態が身に降りかかっても、たじろがないのが、勝利をねがう兵卒である。キリスト者の信仰の戦いこそ、これである。テモテヘの手紙2・2・1~7節p392見て下さい。キリスト・イエスの兵士としてパウロが書いています。キリスト教の歴史は、キリスト者のキリストへの忠誠の歴史といってもよいでありましょう。

結び

もう1度8・31~39節を見て下さい。特に31節にあった問いに対する回答であります。キリストを通して働く神の愛の力から私達を引き離すものは何もないのであります。神との出会いの故に、永遠なる者と向き合った存在として歴史と人生の最後の瞬間にも、8・39のですから、わたしたちは「御国に生きる」者となるのであります。フイリピ3・20~4・1p365を見て下さい。パウロはローマ書の8・38~39節にもこのことを語っています。どんな被造物もキリストにある神の愛から私達を引き離す事は出来ないと言う確信の告白であります。

悪しき霊の働きは、現代においても種種の占いや迷信の虜になっている。キイスと者はその現実をみて、自らを正すと共に、完全に自由と勝利を得ているかどうかを自問して身を引き締めなければならない。最後に8・31節を歌います。

「万事が益となる」2020.7.5説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ8・18~30節を通して聖書を学んで行きましょう。最近地球の温暖化で太平洋上の島国が海面下に沈んで行くという現象も起こっています。人間が自分達だけの快適な生活を求め、また産業を発展させ、環境破壊が地峡の生活を危機に陥れています。生態系の危機であります。これまでの経済を考える人間中心の考え方から、自然環境に関心を広げ、「自然」にやさしい、人間以外の動植物や地球全体と共存する生き方が求められています。パウロはローマ8・19節から22節において、人間と世界が運命共同体として生きており、人間が罪と滅びから解放される日まで、自然や生命もまた、呻きながら、完成の日を待っていると教えています。

 聖書を見て下さい。8・18~25節ここでは栄光の道が語っています。キリストにあって、悪の力に対する苦闘を続ける事は、楽なことではない。しかし、神は、キリスト者が、そのような行き方を続ける事によって、ついには、神との交わりの深さ高さ広さに達することを約束されたのであります。今のこの時に苦しみとやがてわたしたちに現わされようとする栄光との間には、比較にならないほどの大差がある。パウロはここで、被造物全体の秘密をつげるのである。被造物全体は、人間をめぐって、相互に関連している。人間が神との関係の破れの中にいる限り、造られたものはみなその破れの中にいる。

しかし、パウロは、現実から目を離してはいない。被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共にうめき共に産みの苦しみを続けているというのである。神の勝利の歌は、「うめきのシンフォニー」のつづきである。苦難なくして栄冠はない。キリストの中にある呻きこそ、栄光へ通じている。キリストにある呻きは、絶望の呻きではある。確かな根拠にたっている呻きである。その根拠は御霊の最初の実をもっているということである。聖霊の与えられる約束をイエスが与えられたことはヨハネ福音書によって、明らかであるが、パウロにとって聖霊が与えられ、それによって、驚くべきことが、つぎつぎと、あらわれてきたことが重大である。聖霊は、御父と、御子とより出で、御父と御子とともに、創造し、いのちを与えたもうたのである。従って、聖霊の働きのあるところ、そこに、具体的な現象があるのである。全人類、全被造物に、個別的にそれぞれの身分の変化を実現させるおかたこそ聖霊なる神である。このような三一の神のみわざこそ、わたしたちが、忍耐して待望する心のよりどころである。

8・26~27節を見て下さい。ここでは聖霊のとりなしが語られています。キリスト者の弱さは、現実の問題に直面して、正しい方向をとらええないという点である。この弱さを助けてくださるのが、聖霊である。キリストは、聖霊のことを助け手と呼ばれた。それは弁護者という意味である。キリスト者の弱さをしりつくしたうえに適切な支えを与える御方であるというのである。しかも、聖霊は、言葉にあえあわせない切なる呻きをもって、キリスト者に代わって、祈って下さるのである。8・28~30節を見て下さい。ここに選びの奥義が語られています。

結び

ここに神の恵みの選びが語れています。パウロはローマ8・17節において、キリストの救いを与えられたものが、神の子であり、神の国の相続人であることを語りました。そして、18~27節にかけて、最初の人類の堕罪によって、死と滅びの呻きの中にある人間と世界に神が聖霊を送って共に苦しむことによって救いの道が開けたことを教えました。

今日のところは、その結果で、人間を救う為に神恩寵の選びが語られています。8・28をもう1度見て下さい。「神を愛する」のは、神の愛を受けてそれに応える姿であります。パウロは、イエス・キリストの十字架と復活によって、人間を救う神の愛が溢れるばかり注がれたとき、人間はその愛を神に返し、「神を愛する者たち」とされたのであります。パウロはこれを「ご計画に従って召された者たち」と言い換えています。ここに「神の予定」という考えが表されています。神が以前から「ご計画」なさり、その救いを人間一人一人の人生において、実現してくださるのであります。「召される」というのは、神が予定された救いを与える為に、歴史的な働きかけ、呼びかけをされることであります。「万事が益となるように共に働く」という場合の「万事」は、18節に出てくる「現在の苦しみ」のすべてのことだと思われます。それは、具体的には後の35節から39節に列挙されているような苦難や滅びであります。被造物と人間はそれによってうめきくるしんでいうのですが、神はそれら全てを摂理の御手を動かして、究極の救いと光栄へと導かれてゆかれるのであります。8・29~30ここに神の救いのご計画が「救いの秩序」として示されています。

人間の救いは、「予知」、「予定」「召し出し」「義認」「栄光」という順序を踏んで実現するのであります。私達は「現在の苦しみ」の歴史の中で、神の救いのご計画を読み取り、希望が与えられ、それゆえ忍耐をもって前進するものであります。最後に私の証をさせて下さい。5~10分以内です。時間がなければ割愛します。お祈りします。

2020/7/5 週報メッセージ

あらゆる境遇に処する秘訣を心得ている

朝位 真士 

  パウロのフィリピ四・一三に「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とあります。この箇所について、尾山先生は次のように注解されていました。

これは、生活問題に関する信仰の奥義を体得したということでしょう。富んでいる時には信仰が順調であるけれども、貧しくなると信仰まで貧しくなってしまうという人があります。また、これとはちょうど逆で、貧しい間は信仰が生き生きとしていたのに、富むようになると信仰がなまってくるという人もあります。順境の時には信仰を持っていたのに、逆境になるとへこたれてしまうという人もありますし、逆境の時にはその大波小波を乗りきっていたのに、順境になったら信仰がなくてもやっていけるとでも思っているように、信仰のことなど忘れてしまっているという人がおります。このように、人間というものはどこかに弱点を持っているものです。人生というものは、いろいろな試練の嵐が次から次へと襲ってくるものです。そういう時、貧であれ富であれ、逆境であれ順境であれ、ありとあらゆる境遇に置かれても、これに処する秘訣を身につけるというのが、信仰者の生活なのです。つまり、信仰生活というものは、テクニックで解決していくものではなく、全生活でぶつかっていくものなのです。

 私たち信仰者も様々な問題課題を解決するために、あらゆる方法を見つけようと努力します。確かに人間的な方法で考え、努力することは大切ですが、最終的には凡てのことは神の御手に委ねて、神の最善、万事を益としてくださることを信じて従っていく時に、やがて最善の結果が与えられます。パウロのあらゆる境遇に処する秘訣を得たという信仰、私たちもそういう生き方をしたいものであります。

「神の相続人」2020.6.28説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・12~17節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの8章を律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉に従わず霊のよって起きる生活。14~17神の子たる者の特権。と分解しています。そして8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみに関する望みと慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26、27)。私達の境遇に関する勝利の霊(28、29)となる。31節以下は8章の結論である。そして8章は勝利の凱歌をもって終わる。この大変化は、きよめられて聖霊に満たされた結果である。

今日の8・12~17節を見て下さい。ここでは1口で表現するならば神の子たちといえます。神によって創造された最初の人、アダム、とエバ最初の父また母は、創造主である神によってゆるされた範囲の自由をもっていたにちがいない。しかし、悪の力の誘いによる正常な神関係の喪失によって、神によって許された自由をも失ったのである。その代わりに、人間は、悪の力との関係において、悪に走る自由をえた。

つまり、罪に落ちた人間は、ただ1つの自由だけを持っている。それは悪ヘの自由である。これは奴隷的意志に結び付くものである。もし、人間が、悪の力の奴隷状態から脱出することが出来れば、そのとき、神との正常な関係が回復されるのである。パウロは、「肉」と「霊」という2つの言葉によって悪の力の下の状態と神の力の下の状態とを描き出すのである。

 肉に従っていきるとは、反神的な力の奴隷となっていたことに義理を感じて、「反神的な力に調子を合わせて生涯をささげつづけるなら」ということで、「生きる」は、「歩む」よりも強い調子を出しているのである。このような生き方の結果は自動的に「死」より外はないということになる。いま1つは、霊によってからだの働きを殺すという生き方である。「霊によって」とは、「肉」によっての」正反対である。聖霊の働きのもとにあって、これに調子を合わせるように導かれる事によって、反神的な肉の同盟者であるからだの働きを積極的に窒息させていくのである。

「からだのはたらきを殺すこと」は、人間のもっている自然の力の努力ではなくて、むしろ、神によってさずけられた働きだからである。聖霊が、キリストの死とよみがえりとを証するところ、そこに積極的に、悪の力に抵抗する力が与えられるのである。聖霊のみ業が活動最中に起こる出来事こそ、「わたし」にとっての奇跡的現実なのである。

合理的に筋を立てて述べられない領分がある。しかも、「わたし」は現実に、「からだの働きを殺す」というはなばなしいことをやってのけているのである。これをキリストにおける実存とか終末的出来事とかいってもよいでしょう。このような生き方が、身についてくれば、神の御霊に導かれている者という光栄ある名が与えられるのである。このような者は、また、神の子であるともいわれる。神の子は神を父と呼ぶことを許されています。神の子は、キリストと有機的に、また生命的につながりを持っているからである。そのキリストは「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで従順であられた」。神関係において、これほど典型的な態度はないのである。

神の子のあり方はここに、その全貌が示されているのである。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」とイエスはいわれた。神の子は、神の相続人、キリストと共同の相続人としての資格は、キリストのなかで与えられる。その資格の第一は、キリストと共に死ぬことにほかならない。死ぬには、従順を必要とする。死ぬことは、反神的不従順と絶縁することであるからである。悪魔との絶縁は、神との結縁を意味し、死から脱出して、永遠のいのちの相続人とされることである。

結び

もう1度ローマ8・12~17節を見て下さい。ここに神の子供とされるキリスト者が描かれています。特に8・16節に注意してください。神の子供としての身分を与えられることは、当然法的な権利が伴う。それは「相続人」(8・17)ということばで表される。相続するものは神の国で、相続人とは神の支配にあずかる者のことである。キリストは現在すでに神の国の支配者として御父の右にあって支配しておられる。

しかがって私達は、キリストの統治に共にあずかる者となるのである。「キリストとの共同相続人」とはこのことであります。ただしその際に、キリストが相続人として栄光の座に着座するために、まず十字架の苦難を通られたことを思い起こさなければならない。「私達がキリストと、栄光をともに受ける」ためには、キリストと苦難を共にしなければならない。キリストの御霊を受け、御霊の導きをうけることは決して熱狂的な事柄ではない。私達はキリストによって神の子として導かれ、霊の賜物を注がれて、神の国の相続人として立てられていることを思い、「神の国と神の義を求め」(マタイ6・33)のために「キリストと共に苦しんで」(8・17)愛の業に励み、キリストと共にその栄光をも受ける希望をもって歩みたいものであります。

2020/6/28週報メッセージ

クリストファ・サン師からのメッセージ

朝位 真士 

  台湾を始め福音派の世界で用いられ、日本にも来られて大伝道集会を開催された、エヴァンジェリスト(大衆伝道者)の先生からお手紙をいただきました。その中のメッセージに感動しましたので、その大意を記載します。

 新型コロナウイルスの発生は氷山の一角であり、人類が神の創造の原理に違反した結果が引き起こした問題を記していますとの序文で始まります。この苦難の時代に、私たちは見張りを忘れず、警鐘を鳴らし、祈らなければなりません。第一に私たちは神を求め、イエスの御声と御言葉を聞かなくてはなりません(ヨハネ一四・六~七、マタイ二四・四、五・一一)。聖書を熱心に読むこと。第二に私たちはもっと神を愛することを学ばなければなりません。神から来る愛は、すべての恐れを追い払うことができます。サタンは常に真理を誤解させ、神の意志を行わないように、私たちを欺こうとします。だまされない唯一の方法は、「神を愛する」ことです。神を愛することに集中し、一人ひとりがイエス・キリストを見上げる時、私たちはいのちの光の中を歩くことができるのです(ヨハネ八・一二)。第三に私たちは霊とまことによって神に礼拝を捧げなければなりません(ヨハネ四・二三、一五・七)。第四に私たちは継続的にイエス・キリストの内に留まらなくてはなりません(ガラ二・二〇)。第五に私たちはへりくだって神と共に歩まなければなりません(ミカ六・八)。

 神を求め、真に神を愛し、神に近づき、神に留まり、神と共にへりくだって歩んでまいりましょう。

2020/6/21週報メッセージ

牧会雑感

朝位 真士 

  「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときにはわたしの霊を注ぐ。・・・・・・主の名を呼び求める者は、救われる。」(使徒二・一七~二一)

 わたしはペンテコステの日(五月三一日)に二人の夫妻が受洗されたことを心より感謝します。コロナウイルス感染症流行による自主礼拝の最中に受洗されました。私の伝道者生涯の中で、いろいろと感動的な場面がありました。人々の不安と恐怖の中で、神様は私達クリスチャン並びに求道者の方々に、まさしくグッド・ニュースを届けてくださいました。

 その感動が冷めやらないうちに、私は月一回の病気治療で、二人の主治医と看護師たちに証しをする機会が与えられました。一人の女医はカトリックの信者で、診察の時は必ず信仰の話で長びきます。私は患者ですが、時々立場が逆転して、ドクターの方が私に信仰のアドヴァイスを求めてこられます。私は牧師として先生のカウンセラーの立場となり、信仰と実社会との関連、家庭的な問題、信仰の話に花が咲きます。私は病気のことを忘れるくらい楽しい一時をもっています。また十数年来の主治医の老医師との会話でも、信仰の話に花が咲きます。ご家族は信者で、先生はまだということですが、大部心が解けて、求道心が与えられています。先生のために祈ってください。私の病気も小康状態です。お祈りください。

2020/6/14週報メッセージ

新型コロナウイルス感染拡大に伴う「緊急事態宣言」解除にあたって

                                                              朝位 真士

  教団より5月29日付で報告がありました。

  教団としては4月10日付で「新型コロナウイルス感染拡大防止に関する声明」を公表し、「極力、教会に集めない方法で礼拝をささげることを講じてください」など4項目についてお願いをいたしました。上記の「お願い」については所期の目的を一応達したものといたします。今後、それぞれの教会、伝道所のご判断で、徐々にあるいは段階的に通常の活動の回復をはかっていかれることと思いますが、なお以下の諸点についてご配慮ください。

 (1)第1信でお伝えしましたように3密(密閉、密集、密接)を避ける方法で、礼拝やその他の集会を行ってください。また、換気と消毒にはくれぐれも留意をお願いいたします。

 (2)主日礼拝や大きな集会は、時間差で数回に分散して行うことも1つの方法です。

 (3)これまでのデータから、高齢の方、基礎疾患のある方は、感染によって重症化する確率が高いことが分かっています。体調の変化などがみられた場合は、礼拝などには出席されず、自宅で過ごされることをお勧めしてください。

 (4)今回の感染拡大によって、教会の内外で傷つき、痛みを負った大勢の方々がおられます。その方々への愛の配慮をいたしましょう。

 私はこの報告を聞いて、大変複雑な思いにかられました。たしかにウイルス感染予防に最善の注意が必要です。教会も個々人も必要です。私自身は高齢であり基礎疾患を持っています。私の個人的見解は、主の御用なれば、1日も長く牧会・伝道をさせていただきたいということです。主の御心を祈るものであります。

「聖霊による命」2020.6.21 説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・1~11節を学んで行きましょう。この8章は律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。米田豊先生は

1~2キリストにある自由。1罪に定められることのない生涯。2いのちの御霊の法則による罪と死の法則からの解放。3~4律法の要求を満たすキリストの贖い。5~13肉的な人と霊的な人。5~7肉の思いと霊の思い、8~9肉におる者と霊におる者。10~11

聖霊の内住と、その霊魂と肉体に及ぼす影響。12~13肉に従わず霊によって生きる生活。14~17神の子たる者の特権。18~22

今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30

摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び。31~34神の保護、選び。キリストのとりなし。

35~39愛、神の愛による勝利、永遠の完全。8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると、私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみ関する望みト慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26^27)、28節は、神はどのような苦痛や患難も、摂理の内に(万事を益となるようにして下さり)(28)、かえってそれによって(御子のかたちに似たものとしようとして)(29)いる。31節以下は8章の結論である。

8・1~11節を見て下さい。この8章は別の注解者によると、全体を貫いているのはキリスト者の自由の宣言であり、それはさらに4つの部分に分かれている。1~11節は聖霊にあるキリスト者の生、12~17子たる身分、18~30終末的自由への希望、31~39勝利の喜びの歌、と区分することができる。

今日の1~11節は聖霊にあるキリスト者の命である。この箇所は「キリストによる新生」について語っています。ローマ7章は律法下にある人間の困難な状況が語られていますが、8章は聖霊に生かされる新しい生活が示されています。律法からの解放は、キリストが人間をさまざまな掟に縛られた生活から解き放ち、立ち上がらせ、前進させていく力を伴うものでありました。人間を外側から縛る律法ではなく、内側から導く霊による生活を論じたのがこの8章です。8・1節を見て下さい。2節はその理由です。イエス・キリストに結びつくときに、霊的生命の原理が力強く働いて、人間を、破滅させる罪と死の原理から人間を解放すると言うのであります。この8・1節はパウロが特に愛して使用した信仰用語です。人間がキリストの人格的な力に覆われ、キリストの愛と命に包まれた状態を示しています。

私達がキリストの手の中にある、キリストの中にいる、in Christであります。詩139・7~9にあるように私達がどこへ行こうと、キリストの愛の中、キリストの命の中にあります。これが「キリストにある」ことであり、これを認め、受けることが信仰であります。3節を見て下さい。

 このキリストによって、罪と死の法則(律法)が打ち破られ、神の命の霊が働く過程が語られています。この点を理解するために1つの例を挙げたいと思います。種痘するとき、天然痘の病原菌が直接私達の肉体を侵すと、私達の肉体はそれに抵抗することが出来なくて、顔かたちが崩れたり、死ぬ場合もあります。しかし、人間より体力のある牛に感染させると、病気にはなりますが、やがて体の抵抗力によって、病原体を打ち負かして健康に戻ります。そのときに牛の体内に出来る「抗体」を人間の体内に移す「種痘」によって、人間も天然痘に対する抵抗力を得ることができます。イエス・キリストの人生と十字架の死は、人間の内に宿るあらゆる罪の力をキリストが引き受けられた状態であります。特に、十字架の死は、人間が神を離れ罪に死ぬ、その死の力にキリストも吞み込まれたことを示しています。しかし、我々にとっては絶望である死も、キリストにとってはおわりではありませんでした。主は3日目に甦られました。このキリストを死人の中から甦えらせた力、「神の力」「聖霊の力」であります。罪による死の力に打ち勝ったキリストの霊的抗体である聖霊を受ける時、私達はこの力によって、罪と死の力に勝ち、新しく生きる者であります。このようにパウロは、イエス・キリストによって、罪と死に至る「肉に従って歩む道」から永遠の命に至る「例に従って歩む道」への転換を説いてきましたが、キリストの十字架と復活による救いの完成は、キリスト者の実生活においては、終末の完成に向かって進行中だと考えています。キリスト者は、原理的には霊的人間として生きていますが、現実的には「霊に支配と肉の支配」の葛藤の中で、ルターが言う「義人にして同時に罪人」としてしかし霊的人間としての成長の希望を持って生きています。8・11節を見て下さい。

キリスト者の希望を未来形で書いたのであります。

結び

もう1度ローマ8・1~11節を見て下さい。

この素晴らしい神様の大きな恵みの中にあるということを、わたしたちは確信したいと思います。それが、わたしたちのすべての悔い改めや献身の根拠であります。パウロ今日のところでは、この事実、わたしたちが御霊を確かに宿している。そうであるならば、わたしたちは御霊の世界の中に入れられているのであります。この御霊の法則的な確かさによって死の体から必ず救われるのであります。このことを信じ、また感謝したいのであります。祈ります。

「感謝すべき福音」2020・6・14説教要旨

朝位真士

今日はローマ7・13~25節を通して「感謝すべき福音」と題して聖書を見て参りましょう。この箇所全体を通して聞こえてくるのは、キリストにあって義とされた人間の雄々しい戦いの声ではなく、実に惨めな罪の奴隷のうめき声である。

1・18-3・20において、パウロは神の怒りの下におる人間の罪について述べている。しかしそこに描かれてるのは罪の支配下でうめき嘆く人間ではなく、罪の中にありながらなお自ら高ぶる人間の姿であり、更にその状態をよしとする倒錯した心であった。

そのような人間の姿は、福音の光に照らされて初めて明らかにされる。7・7―13では、罪は神の律法や戒めを通してそのいとわしい

姿を現わすほど邪悪であることが示されたが、それに続く箇所でパウロは、生きながら地獄を経験した人間のことを語っています。

 今日のローマ7・13~25節を見て下さい。この13~23節まで二律背反を語っています。パウロは、律法は、聖なるもの、正しいもの、また善なるものと言い、さらに、この段では、霊的ものであると言った。このことを記憶しておくことは、ここにあるパウロの自己分析についていくのに役だつのである。次に、ここに見る事柄は、キリストと出会って、罪のゆるしを与えられた後のパウロの自己分析であることである。なぜなら、このような思い切った自己分析は、キリストの光なかである。そのことは、24節と25節からわかるのである。

キリストを信じる者は、その信仰によって罪がゆるされる。しかし、罪がゆるされ、神との関係が、正常にされるのは、あくまでもキリストの中においてである。しかし、キリストを信じる者は、キリストに免じて神との正常な関係に立たされるにしても、キリスト者の中身は、やはら、まだ「古いわたし」なのである。キリスト者は、義とされた者であると同時に罪人であると言うことがキリストの中にある者に対して言いえられるのは、ここに述べた理由である。

キリストの中にある「わたし」は、霊的な律法、すなわち、神をみなもととしている律法をよろこび受けるはずなのだが、現実のわたしは、肉につける者であるからそうはしないとパウロは告白する。キリストを知っても体質の改善は、全面的に完成したわけではない。まだ「肉のもつ特有の傾向をもっている」ので、「罪の下に売られた者」として存在する。

しかし24~25節を見て下さい。勝利は約束されている。人間失格の叫びである。自分で自分を救うことができないのに、自分で救おうとすれば、死ぬよりほかはない、それは、死に勝ちをえさせることである。ところがここで、人間理性では説明のつかない救いがキリストからきたのである。だから、パウロの言葉は、簡単である。

しかし、その言葉は、勝利者の凱歌である。万歳の叫びである。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」といっただけである。ギリシャ語では、「感謝、神に対して、イエス・キリスト、わたしたちの主によって」の順序である。

キリストの御業を証する御方は、聖霊である。感謝は、聖霊の証に対し反射的におしだされる。父なる神が、その感謝をおうけになる。そして、イエス・キリスト、私達の主こそ、救いのみわざの実行者である。だからキリストを通路として、「わたし」の感謝と讃美とは、父なる神の御前にささげられる。ここに三位一体の神のそれぞれの役割をのぞきみると共に、「わたし」は、このような生ける神の御手のうちにあって、この方に応答しているのだという確信をもたらされるのである。

この神にしてはじめて、罪の支配に対する勝利を得ることが出来るのである。罪と死と悪魔と三つが上げられ、人間をほろびに導く恐るべき力として知られているが、父と子と聖霊なる神は、この力の上に立って悪の力を克服したもうのである。「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とイエスは弟子達を勇気づけられた。パウロが彼の問題に悩み抜いて、主から与えられた導きもこれであった。すなわち、この世にある限り、キリスト者は二律背反を体験する。しかし、罪の律法は、キリストによって、骨抜きにされている。牙のない毒蛇である。大胆に自分の罪を認め、これを告白し、また、それ以上に大胆にキリストを信じ、神の御心に従う事こそ、」キリスト者の行くべき道である。これは、ルターが、メランヒトンに宛てた手紙の一節の内容であるが、パウロの線に立っているものであることは、だれにでも、解るところである。

結び

 もう1度ローマ7・24~25節を見て下さい。この14~25節は神の律法と罪の法則が語られています。

パウロのこの議論によって、「律法」がそれ自体「罪ではない」と言うことは確かに明らかにされ、「律法は良いものであること」が明らかにされました。しかし「律法」は、私たちをこの内部の渇藤から「救う」ことについては無力であることも、明らかになりました。律法は罪を目覚めることに有効であります。その罪がひとつの法則性さえ持っていることに目覚めさせることに有効であります。しかし、その手強い、法則性さえ持っている「罪」からわたしたちを解放する「救い」の力は、掟にはありません。

パウロは24節で、「私は何という惨めな人間なのだろう」と叫んだのではありますが、これは決して、自分の中に内部分裂があるから「みじめ」だという叫びではありません。私の中に善い事をしたいと言う思いもあれば、しかし実際には悪い事ばかりすると言うことを、彼は「みじめ」だと言っているのではありません。そんなことであれば、ギリシャの文化人でもローマの文化人でも皆言ってきたのであります。

パウロがここで本当に自分のみじめさを告白しておりますのは、救ってくれるはずの「律法」に「救い」の力がない、と言うことを知ったからです。「いのちに導く律法」が、「罪」を目覚めさせるには力がある、「罪の法則性」を知らせることにも有効なのに、その力からわたしを解き放ってくれない、「律法」だけでは救われないという事実にパウロはぶち当たっているのです。神様が人間に与えて下さった宗教、「これを行え、さらば生くべし」と言って下さったその「律法」が救うことについては無力だとしたならば、人間はどこに希望を託せますか。「私はなんと惨めな人間なのだろう」しかし、「感謝すべき」ことに、「私達の主 イエス・キリストによって、神は」その無力な「律法」とは違う“恵みによって私達を罪の力から救う、救いを与えてくださったのであります。これが「感謝すべき福音」なのであります。もう1度7・24~25節を見て下さい。

1923年6月1日創立