「神の栄光をあらわしなさい」2021・4・25説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント6章12~20節を学んでいきましょう。この6章12~20節は3つに分類されます。12節肝要な原理。13~18節きよくあるべき勧め。19~20節私達の身分と肉体の神聖。6章の後半および7章は、肉欲について特に警戒しなければならない彼らに、肉体と結婚の神聖さをといたものであります。肉体はきよめられ義とされたものであるからきよく(9~12)、主のものであるからきよく(13~18)、聖霊の宮たるものであるからきよい(19~20)と説く、食欲も性欲も、それ自身は罪ではなく、神がお与えになった本能であるが、それに支配されてはならない(12)。この体は義の器として主に奉仕するため(13)、また聖霊の宮として主を宿し、からだをもって主の栄光を現わすためである(19~20)。

(主はからだのためである)(13)。キリストは私達の魂を救うだけでなく、からだをもいやし、また再臨の時にはこのからだをあがなって栄化をさせて下さる。キリスト者のからだはこのように尊いものであり、現在においても(キリストの肢体)であるゆえに(15)、淫行によりこの特権を失って遊女と一体となることなく、主と結合して(主と1つの霊になる)べきであります。(16~17)。私達は金や銀でなく、キリストの尊い血によって買い取られた奴隷であるから、身をもって神に奉仕し、ただ神の栄光を現わすために生活すべきであります(19~20。このからだをどのように用いるかによって、きよい生活を送るか不潔に陥るかがきまる。わたしたちはこの体を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」神にささげ、(ローマ12・1)、こうして聖霊の宮とされ、聖霊の内住を体験し、この体をもって神の栄光をあらわすべきであります。

1コリント6・12~20節を見て下さい。福音は人に自由を得させる。すなわち、罪から解放する。しかし、ギリシャ人の中には、この自由をはきちがえをしている者もいた。そして、何でも」自由である、といっていろいろの不義をあえて犯していた。その中でも、不品行は、大きな問題であった。だから、ここではそれを取りあげて、福音の自由がいかに道徳的に制限のあるものであるかを明らかにする。パウロは、キリスト者は何物にも拘束されない、いわゆる、キリスト者の自由を与えられているからであります。しかし、この自由は放縦ではない。それは喜んで自らを、他のために拘束する自由である。高い道徳的原理のためには、その「全て赦されている」ことが、条件づけられ、制限されるのであります。自由はよいことである、しかし、それは勝手であってはならない。それが、他人の「益になる」かどうか、常に反省されなければならない。何でも許されている。だが、それを正しく「支配」しているかどうか。それに捕らえられ、その奴隷となるならば、そこに災いは始まる。食欲でも、性欲でも、それ自体は許されている。悪いものではありません。しかしそれらを濫用し、その奴隷となるならば、醜い生活とならざるをえません。それは実に「主のために存在」そしてまたするものであります。そしてまた「主はからだのため」にあるという。主は実に、この身をも、あがなわれる。そして、わたしたちが生きるのは、ただ主のためである。わたしたちはこの身をもって、主の栄光を現わさなければなりません。ここに、私達が、不品行を戒めなければならない第一の理由があります。主への奉仕のためにこそ、このからだを、用いるべきであります。ここに、不品行をしてはならない第二の理由があります。15節をもう1度見て下さい。キリストは教会の首であり、信徒はそのからだの肢体である。人は、キリストと結合して聖化され、遊女と結合して、滅びる。ここに不品行を慎まなければならない第三の理由があります。引用された聖句は創世2・24からであります。キリストも、結婚のことを説くにあたり、マタイ19章、マルコ10章が用いられた。19~20節をもう1度みてください。人の体は、聖霊の宿る、宮であるという。教会が神の宮であるだけでなく、ひとり、1人が神の宮である。この体は聖霊の宮である。これをけがす不品行を、あえてしてはならない理由があります。私達は、罪と滅びから、キリストの血という価をもって買い取られたものであります。わたしたちは、積極的に、この体を、神の栄光のために献げなければならない。

結び

もう1度1コリント6章12~20節を見て下さい。わたしたちは不品行の誘惑に弱いものであります。あの怪力サムソンにしても(士師16章)p409、あの信仰深いダビデにしても(サムエル記下11章)p495、不品行の前にもろくも敗北した。わたしたちも他の罪に対しては戦うことが出来ても、不品行からは逃走するのが1番賢明であります。エジプトの総理大臣にまでなったヨセフは、かって奴隷の身分であった時にも、その女主人の誘惑から見事に逃れ、姦淫の罪を犯さなかったのであります。キリスト者はキリストによって罪を贖われた者であります。だからパウロが「あなた方は、代価を払って買い取られたのです」(20)。

むしろ「自分のからだをもって、神の栄光を現わす」ことであります(20、ローマ12・1,

フィリピ1・20)

わたしたちは毎日主の祈りを唱えていますがこの祈りを惰性で祈るのではなく、真剣にいのりたいものであります。