「初代教会のキリスト者生活」2020.6.7  説教要旨

朝位真士

 今日は本来であれば、桜ヶ丘教会創立97周年記念チャペルコンサートで、毎年岸義紘先生をおよびして、特別集会を開催するところですが、ご存知のようにコロナウイルス感染症流行のため4月12日イースター礼拝より自主礼拝を勧めている関係上、三密を防ぐ為岸先生には申し訳ありませんでしたが、今回に記念特別礼拝を中止させて頂きました。皆さんも残念だと思いますが、現状は仕方のないことです。そこで、今日は初代教会のキリスト者の生活を聖書使徒2・40~47節を通して、2000年前の信者の生活に思いを馳せてみたいと思います。

 聖書使徒2・40~47節を見て下さい。ペテロは多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲がった時代から救われよ」と言って勧めた。とあります。この世は、神の創造の正しい目的から外れて、罪のために不信仰、不従順となった時代であるとは、パウロ、ヨハネの思想にも見られる(フィリピ2・15)2・41その日1日で、3000人が受洗し、彼等は専心、42節使徒達の教えを守り福音の奥義と信仰の訓練を与えられた。ここに2・41~42節の中で4つのことが語られています。1・使徒たちの教えを守り。2・信徒の交わりをなし(コイノ二ヤ)。3・共のパンをさきユダヤ教の風習によって、家の教会では、食物を持ちよって共同の会食をした。はじめに感謝の祈りをささげて後、パンをさいてわけ、イエスと共にした食事のことを追想した。後、これが記念として行われ、会食と別に聖餐の礼典となった。4・祈りはかれらの共同生活を支配する、大切な要素であった。以上4つは、初代教会の礼拝と、組織の内容を明らかにしている。こうして教会は、新しい共同体として発展した。次に2・43~47節を見て下さい。最初の信徒の教会生活が語られています。43節に恐れが生じたとありますが、これは神に対して畏敬の念を持つことは、信仰を一層強固にする。そして使徒達によって多くの不思議な業としるしが行われていたのであります。特に癒やしの奇跡を行った(5・12~16)ことは、著しい特色のある業であった。そして彼らの所有物はみな、神の恩恵の賜物と考えていたから、44節「すべてのものを共有し特に貧しい信者の窮乏を支えるためには45節「財産や持ち物を売り、そのお金を使徒達を通して、公平に分配した。こうした相互扶助の共産生活は、彼らが愛の精神をもつて自発的に行ったのであり、聖霊の賜物を受けた彼らの信仰の発意であった。使徒達は、かつてガリラヤにおいても、イエスと共に、このような生活を送ったことがある(ルカ8・3)。しかし、この共産生活は、エルサレム教会以外には行われていなかったようであります。このような生活の中に、彼等は、聖霊による「喜び」と真心をもって46節日々心を1つにして信者の家々である教会に分かれ集まって、使徒たちの教えをうけ、共に祈り神を讃美し、パンをさき記念の聖餐と、食事を共にし、共同の愛餐を行った。また、彼らは敬虔なユダヤ人と同じく律法を守り、エルサレムの宮の日々の礼拝に、出席することも忘れなかった。彼らの信仰と、愛の実践生活は、一般に人々からは好意をもたれ、救われる者が、日々彼等の仲間に加えられていった。

結び もう1度2・40~47節を見て下さい。ここでウイリアムバークレーによるとここに初代教会の特徴を見ることが出来ます。

1・学ぶ教会

2・交わる教会

3・祈る教会

4・敬虔な教会

5・何かが起こった教会

6共有の教会(44-45)

7・礼拝する教会(46)

8・喜びの教会(46)

9・好意を持たれる教会

初代の教会では、神の民に魅力が備わっていたのである。

私達は教会成長のためにどうするかあれこれ考えるよりも、まず教会としてどうあるべきかを検討することが大切である。桜ヶ丘教会創立100周年に向かってお互いに神様から知恵を頂くためにお祈りをしていくましょう。

2020/5/31 週報メッセージ 

ペンテコステの恵み

                                                                     朝位 真士

  今日はペンテコステ礼拝です。二〇〇〇年前の初代教会の誕生を記念する日です。聖書使徒二章一七節、「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」とあります。一九九四年四月に私共夫婦と高校生の息子と中学生の娘の四人で、マンション教会である桜ヶ丘教会に西海静雄、満希子先生の後任として赴任させていただき、素晴らしい役員、信徒、求道者の方々に支えられて今日まであることを感謝いたします。

 私は二〇〇〇年九月、前任地の曽根集会所の献堂二十周年記念にフミ子牧師と招かれました。その時「私を強くして下さる方のお陰で」というテーマで、フィリピ四章一〇~一三節のテキストを通して、私の救い、召命、献身、北九州復興教会と曽根での一九年間の恵みを語りました。特に会堂建築二回、復興教会新会堂と曽根会堂の建築、共同牧会、信者の方々と約四十日間八千戸に個別トラクトを配布したこと、曽根で苦労したことが恵みでした。私共の辞任後、曽根担当教師が一〇名近く赴任しました。私共が復興教会と曽根集会所の二つの教会の牧師を全うすることができたのは、皆様のお祈りの支援と共に何よりも神様の恵みが大であったと今でも感謝しています。

 桜ヶ丘教会も二六年目を迎えています。いつまで御用できるかわかりませんが、人間的な思いとしては、主が支えてくだされば二〇二三年の百周年まで全うできたら感謝です。それには教会員の皆様との愛と祈りと忍耐がなければなりません。「人の心には多くの計画がある。しかし、主の御旨が堅く立つ」とあります。主の御心が最優先されなければなりません。とにかく、コロナウイルス感染症が早く終息すること、そしてもう一度皆様と礼拝堂で礼拝や諸集会が守られることを祈るのみです。主に栄光を帰しつつ。

「初代教会の誕生」2020・5・31 説教要旨 

                       朝位 真士

今日はペンテコステ(聖霊降臨節)の礼拝です。使徒2章14~21節を通して。ペテロの説教を見ていきましょう。この2章は聖霊降臨の状況が記されています。2・1~4節ペンテコステにおける聖霊降臨、5~13群衆の驚き、14~41ペテロの説教,42~47当時の初代教会の信者の生活と礼拝が記されています。弟子たちは主の約束を信仰の雄一の根拠として、祈りに祈って10日間も祈り続けた。キリストを十字架につけたエルサレムの町の真っただ中において、滅び行く魂に福音を説く、主の復活をあかしして、聖霊の力の必要を痛切に感じて、忍耐を持って祈った。そのために(一緒に集まって)(心を合わせて)一致の祈りを捧げた(1)神はこのような祈りに必ず答えられる。今日の教会が、その使命と責務を深く自覚し、このような熱心さと忍耐と一致をもって祈るならば、必ず証の原動力である聖霊が下ります。五旬節は原名そのままにペンテコステとも

言われ、また聖書には別名「七週の祭り」とも言われている(出34・22)。安息日の翌日の初穂(復活の初穂なるキリストの予表―1コリ15・23)を献げる日より七週過ぎた50日目に新殻の素祭をささげる日で(レビ23・15~16)。この日に聖霊が下り、教会が誕生された。主の復活から50日目に教会が新しく形成せれることが、このように律法の中に模型的に予告されたのである。

使徒2・14~21節を見て下さい。ここでは聖霊降臨に関するヨエルの預言(2・16~21,ヨエル3・1~5)

p1425。が成就するのは、世の終わりの大リバイバルの時であるが、ペンテコステの日にその予表的成就があつた。聖霊降臨はキリストの復活と昇天の結果で、聖霊を受けるということは、すべて神に召され、悔い改めて罪ゆるされた人々に与えられる約束である。この恵みの時代における私達が信仰によって受けることのできる特権である。今日教会に必要なのはこの聖霊である。きよめる聖霊、また聖霊の力である。

もう1度2・14~21節を見て下さい。この箇所は全体を通じて、旧約聖書と新約聖書にあらわれている大いなる主の日の基本的内容を教えています。ここではヨエル3・1~5節から自由に引用したものである。ヨエルは、メシヤの来臨とイスラエルの信仰復興に関して語っているが、その信仰復興は聖霊の注ぎによって起こると言っています。その預言が、実に今実現したのだとペテロは解説している。神の霊が人間に与えられるというのは、決して当たり前の出来事ではなく、そこには異常現象が起こったりもする。この新約時代には天変

地異が起こることも予告されている(使徒2・19~20)。これは特に、主の再臨の時に起こるものと見ることができます。しかし、その混乱の中でも、「主の名を呼ぶ者は,みな救われる」(21)との約束が与えられています。すなわち、天地宇宙がその根底より揺り動かされる時にも、神により頼む者、主イエス・キリストを信じている者には救いがあると言うのです。

結び

この2・14~21節は、旧約の預言者ヨエルの預言が成就したこと。すなわち、メシヤ時代が到来したこと。22~28節はイエスこそ旧約で預言されたメシヤであること。すなわち、イエスの復活によってメシヤとしての資格があること。29~35節は、旧約のダビデがメシヤではなく、イエスが復活と昇天と聖霊の注議によって、真のメシヤであることが実証されたこと、彼らがみなその証人であること。ヨエルはいつ頃の預言者であるか判明していませんが学説によるとペルシャ時代の末期紀元前400年から333年頃の預言者と言われています。ヨエルとは(ヤーウエーは神)という意味だそうです。ペルシャ時代が滅んで、その後神はユダヤ人の全ての人々に(霊)を注がれる(ヨエル3・1)これがヨエル書の信仰の根本であり、このヨエル書の預言が、新約聖書では「聖霊降臨」の預言として引用されていることは良く知られていることであります。(使2・17~21。ヨエルの預言は、神が世の終末の時に全ての国民に対して行う審判を説いたものであるが、ペテロは、今や旧約の預言の時代は終わって、キリストによって始まる終末の時代がきたのであると見ています。

預言、幻、夢は、聖霊に満たされた時に与えられる賜物であって、性や年齢や、地位、男女の僕や境遇によって、区別されることはない。また天に奇跡、地にしるし、の天変地異が、キリストの再臨の前に起こる(マタイ24・29)。主の大いなる輝かしい日は、すべての人の目にあらわとなる、主の審判の日である。太陽の光は消えて暗やみとなり、月は血の色を呈して、やがて地上に血を流す大虐殺の来るエルサレムの滅亡の預言の型を呈している。こうしたたとえは、旧約の預言者エゼキエル、イザヤ、アモス等も用いている。そのとき、主の名を呼ぶ者は、みな救われるであろう。終末の預言において救われる者は、「残れる者」である。ペテロは、この「残れる者」をイエスを信じ、御名を呼び求める少数の群れと見たのである。

今日洗礼を希望しておられる方は皆救われます。ハレルヤ!感謝であります・

「律法は聖であり正しい」2020・5・24説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ7・7~12節を見ていきましょう。米田豊先生は7~25節は律法によってはきよめられない事。7~12節は律法の目的。律法と罪の関係。13~14律法と罪とわたしの三者の関係。15~24内住の罪のための煩悶。25上救主の発見。25下律法の下にある実際の状態。と分解しています。

 7節以下12節を見て下さい。7節以下では(それでは・・・律法は罪なのか)(7)と、(では、善なるものがわたしにとって死となったのか)(13)との2つの問い提出して、それに答える。まず、律法とはいかなるものかを述べて、(聖なるもの)(正しく、善かつもの)(12)また(霊的なもの)(14)で、その目的は罪を示すにあることを説き(七)律法の下にあっては罪が活動するもので(9)、本来は人を生かすかためにあたえられた律法(ガラテヤ3・11~12)が、かえつて人が罰せられることを述べている(10)。人の生来の罪は、(戒めによって機会を捕らえ)人を誘って罪を犯させ、ついに死に至らせる(8、11,13)。ローマ7章は、「福音が律法から解放をもたらすもので」あることを教える者でありますが、今日の箇所では「律法」とは何かここでパウロは律法そのものが悪しき者、間違ったものであるかのように考えることはハッキリ否定しています。7・12「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものである。」と語っている。「律法」という言葉は日本のキリスト教の術語であって、他ではあまり使われません。英語ではLAWで、「法律」と同じ言葉です。聖書において用いられている場合は、神の法律、神の掟という意味が強いので、神が与えてくださった人間生活のルールであります。このルールにそって生活する事によって、人間として訓練され、堅実な生活を築くことができるのであります。もう1度7・7~12節を見て下さい。ユダヤ人が、生まれますと物心の付くときから、親から読み書きを習いあるいは言葉を教わりますその言葉、その文字は、聖書の掟であります。だからユダヤ人がものが言えるようになって最初に言える言葉は、釉薬聖書の律法の言葉であり、彼らが字を書けるようになる最初は旧約聖書の掟の文章でありました。ところがユダヤ人は、男子13歳から神の戒めを自分自身の責任でことごとく守る責任を請け負う1人前のユダヤ教教徒として成人式「パル・ミツワ」、“戒めの子`という意味でありますが、これを迎えるのであります。それはそのころにならなければ暗記していた神の戒めの意味が分からないからであります。私達クリスチャンは、決して、神の戒めを首尾よくまもり果たす事によって、神様から義とされて救われるのではありません。そのような手続きから解き放たれております。わたしたちはただ、自分が無力であることを、キリストを私の救い主として信じますと言えば、その信仰によって、恵みによって救われます。

結び

 もう1度ローマ7・7~12を見て下さい。ここまでの事柄を要約すれば、律法は、もともと、神のみまえにおける人間にいのちにいたる行為の規準を与えられる者であるのに、「古いわたし」に接蝕するときは、かえって、死に導く結果をもたらすことになってしまうのである。これがパウロにいつわりのない告白からひきだされる結論である。12節を見て頂きますと、パウロは、この段で、「律法」と「戒め」とをならべ、相互の関係を示してくれる。律法は総括的な表現であり、戒めは、律法と特定の部分出関係する。言葉を換えて言えば、戒めが集まって律法を構成するといえるのである。律法も戒めも聖なるものであるということは、律法も戒めも、共に神にぞくし、神より出で、神にぞくし、神のためにこの世のものとくべつされていることを意味しているのであります。しかがって、これらは、神の側に立つものであって、罪の側に立つものではなく、したがって、罪のそとにあるのである。さらに、律法及び戒めが正しいと言うことは、それらは神のみこころと一致していて、人間の行為に対して規準となりうることを示しているのである。これらのものが、善なるものであるとは、悪と何のかかわりをもたず、むしろ、積極的に、われわれを、刑罰と死とをもたらす悪から遠ざけるように強要するだけの倫理的な力をもっていることをあらわしている。このように、律法と戒めとは、「聖」「正」「善」として性格づけられるものを本質としていることがわかるのである。

2020年度桜ヶ丘教会 特別礼拝のご案内

6月7日(日)10:30~  創立97周年記念礼拝・チャペルコンサート 講師 岸義紘先生  ※誠に残念ですが、中止とさせていただきます。岸先生には、毎年創立記念特別礼拝においでいただいています。感謝とともに、次年度開催できることを願いつつ、祈ります。

新型コロナウィルス感染症の拡大に伴い、国から緊急事態宣言が発出され、5月25日に緊急事態宣言は解除されました。なお、大都市東京都では、段階的に自粛要請の内容が見直されている状況です。

当教会においては、緊急事態宣言の発出、自粛要請に伴い一部特別礼拝・集会日程については、とても残念ですが中止等の変更もしております。ご確認ください。自粛要請の段階的な解除に伴い、5月31日の日曜日「ペンテコステ礼拝」については、可能な範囲で、共に捧げる事を祈りつつおります。なお、計画している特別礼拝を、今後予定どおり開催できますことを願い、祈っております。

以下の日程のとおりです。

1 5月31日(日)10:30~ ペンテコステ礼拝   
※原則自宅での礼拝をお守りいただきます。 受洗予定の方がいらっしゃいますので、少人数で礼拝を捧げる予定です。
2 6月7日(日)10:30~ 
創立97周年記念礼拝・チャペルコンサート 講師 岸義紘先生  ※中止とさせていただきます。
3 10月18日(日)午後2時~4時
 ジャズコンサート・高田光比古バンド
4 11月1日(日)10:30~
召天者記念礼拝:天に召された信徒の方々を覚えて礼拝を捧げます。
5 12月20日(日)10:30~
クリスマスチャペルコンサート ベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生
 ●上記10月から12月の特別礼拝については、新型コロナウィルス感染症の感染拡大等状況を踏まえ、開催方法等を検討の上、その都度お知らせいたします。  

2020/5/24 週報メッセージ

最近考えていること

朝位 真士

  新型コロナウイルス感染症流行のため、桜ヶ丘教会は四月一二日(日)のイースター礼拝から自宅礼拝を続けています。この時に御言葉が与えられました。ヤコブ四章一三~一五節「よく聞きなさい。『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけしよう』と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、『主の御心であれば、行き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです。」

 私は小学校四年生の時、病気をして一ヶ月間入院しました。その後健康が支えられて、今日まで守られました。ところが、昨年六月に前立腺癌を発病し、現在病院に行って癌治療に励んでいます。昨年はそのような病気を抱えながら、ホ群夏期聖会で九州に行って参りました。三回のメッセージをさせていただいた時に、私は機会ある毎に語りました。「使命がある限り生かされる。」自分にも、他者にも語りました。

 私は一九七五年に神学校を卒業して、一九九四年まで一九年間、母教会の北九州復興教会と曽根集会所でフミ子師と共に副牧師として開拓伝道に従事しました。復興教会のバックアップもあり、借家(最初は農家の借家二回)の次に、土地三百四十坪と鉄骨二階建て五〇坪の建物が与えられました。曽根専心一五年間、家族四人で最初は一〇人前後でした。その後三九人の受洗者が与えられました。私たちも後期高齢者夫妻となり、あと何年主の御用ができるかわかりませんが、御用が与えられている間、全力を注いで主の業に励んでいきたいと思う今日この頃です。このコロナウイルス流行の時期に、皆様お祈りしてください。

「神に対して実を結ぶ」2020・5・17説教要旨

朝位 真士

今日はローマ7・1~6節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ7章は米田豊先生は

全体を律法に対する死。律法の下の生涯。心の内の矛盾分解としては1~6律法からの解放された信者の身分。1~3律法は人をその生存中だけ支配する。夫に死別した妻の例。4~6律法と信者の関係。7~25律法によってはきよめられないこと。7~12律法の目的。律法と罪の関係。13~14律法と罪と私の三者に関係

15~24内住の罪のための煩悶25上救う者に発見、感謝。25下律法の下にある実際的な状態。

聖書ローマ7・1~6節を見て下さい。私達信者は律法の下にいない身分の者であることをしるす。いったい

(律法は人をその生きている期間だけ支配するもので)、死んでしまえば律法の束縛から免れるうえ、夫が死ねば妻は再婚することが出来る(1~3)。これは夫が死んだ場合であるが、私達はさきに律法という夫を持ち、

その夫に縛られていたけれども、私達がキリストの死に合体して、(律法に対して死んだので)律法から

解放されたのである)(4~6)。私達が夫である律法に不従順であったため、律法である夫が私達を殺そうとしたのを、キリストがその刃の下に入って私たちの代わりに死んで下さった。それゆえ私達は、キリストによって、律法と死別した身分である。(4上、ガラ2・19)。そして(死人の中からよみがえられたかた)すなわちキリストに嫁ぎ(4下)、今度はキリストを夫として、今迄のように(死のために結ぶ)のではなく、(神のために実を結ぶに至る)のである。(5、4)。キリストの死は私達を「罪から解放し」、(6,7)、(律法から解放)し、(6)、世と絶縁させる(ガラ6・14)。私達は、罪から解放されたので、きよい生活を送ることができ、律法から解放されたので、その生涯と奉仕に自由があり、世と死別したので、世の誘惑に勝つことができる。キリストの死の力は讃美すべきである。

結び

もう1度ローマ7・1~6節を見て下さい。クリスチャンが、今新しい主、主イエス・キリストのものとなって再婚出来ている。このことは事実です。説明の必要はありません。しかしともすると気づかないでおりますことは前の夫の掟(律法)、古い掟に引きずり回されているということです。前の夫は死んだのです。前の律法からの解放されたのです。ルーテル教会の神学者岸千年先生はこの7章全体を律法と律法からの解放としており、7章1~3節は律法の用法。7・4~6キリストの死と律法と分類されています。律法は人をその生きている期間だけ支配するといって、律法の機能は1時的であって、その期間が過ぎれば、その力は、それ以上に及ばない、夫と妻との関係を例に取れば、夫と妻というこの世における秩序の中での関係は、夫の在世中の問題である。だから夫が死ねば律法から解放される。妻は、女性として自由を得るのである。パウロはここで、未亡人の再婚をすすめていうのではなくて、1つの状態からの解放の実例を律法における夫と妻との関係にとっているのである。ですから私達は「神に対して実を結ぶ」それは「きよきに至る実、その終極は永遠のいのち」である。人がキリストとの一致によって生活を守るとき、もはや罪への欲情を喚起させる律法の法に規制されないのである。「精神を尽くし、心をつくしてイエス・キリストに忠誠を献げようとするのである。」また実として考えられるのは御霊の実ガラテヤ5・22~23節「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つの実です。また人がキリストとの一致によって生活を守るとき、律法ではなく、愛の生活の動機となる。愛の力は律法の拘束が実行することの出来なかったことを実行させるのである。ここでキリスト者はキリストの花嫁である故に、「神に対して実を結ぶように」といつているところである。木が水を注がれて養い育てられると、時が来ると、実を付けるように、神の恵みに潤され育てられた者は、神のために、神を喜ばせる生活を産み出していく者である。それにはヨハネ15章にあるぶどうの木と私達の関係を良く現わしています。葡萄の木と私達の関係、キリストに結び付くつまり教会に連なって行くならば、実を結ぶ事が出来ます。

2020/5/17 週報メッセージ

緊急事態宣言延期について思う

朝位 真士

  新型コロナウイルスの感染拡大に伴って政府の緊急事態宣言が五月三一日まで延期され、声明が出された。日本全国並びに世界各地において、このウイルスの猛威が私共の心を不安にしている。感染された方の一日も早い回復を祈る。私共も感染源にならないように、また感染しないように「新しい生活様式」の実践例が示された。①基本的な感染対策、②日常生活で、③買い物、④娯楽、スポーツなど、⑤公共交通機関、⑥食事、⑦冠婚葬祭など、⑧働き方などが記されていた(朝日新聞、五月五日朝刊)。私はこの新聞記事を見て、どうすべきかということを考えさせられた。もちろん国民として、都民、市民として十分注意して生活していかねばならないが、私が大変心を痛めていることは、礼拝(自宅礼拝も大切ではあるが)や各集会、教会総会が開催されないことである。

 旧約聖書はヘブル語で神を次のように説明している。①アドナイ。神が世界と人類の所有者であり支配者であることを示す(詩一三六・六)。②エロヒーム。神の権威と全能性を強調する(詩一三六・一)。この神を歴史と創造の主として、神に対する感謝をささげる歌が詩一三六編である。③エハバ。神は契約の主であり、その約束は不変であり必ず成就させる方であることを示す(詩一一八・一四)。新約聖書では次の通りである。①ゼオス(神)。神性をもち、人間の歴史と自然を支配する絶対的な権威を示している(ヨハネ一・一~二)。②クリオス(主)。生きた支配者であることを強調している。いのちの主は最善の時に最高のことをしてくださる方である(使徒二・二五)。③パテール(父)。万物の源であり、神の慈愛を強調している。父なる神は人間を子として慕い求めておられる。また、子を訓練し忍耐と清さを教えてくださる父である(ヨハネ一五・一六)。(『新キリスト教ガイドブック』より)  私はこのコロナウイルス感染症の流行がやがて終息することを信じるものであるが、この時期に私達の信仰、特にイエス・キリストに対する信仰を考える時であると思う。自分たちの信仰の真価が問われる時期である。

2020/5/10 週報メッセージ

自主礼拝を守って

 朝位 真士

  新型コロナウイルス感染症流行のため、世界的に大きな不安を抱えています。その中で、教会としても四月一二日(イースター)から自宅礼拝を勧めさせていただいています。大変ご不便をおかけしています。早く終息が与えられて、皆様とご一緒に会堂で礼拝が献げられる日を祈っています。四月二六日は、まさしく自主礼拝を守らせていただき、教会においては、私達夫婦で礼拝、司会、奏楽、献金をさせていただきました。  そのため毎回事前に週報並びに教会の印刷物を約三十通郵送させていただいております。近所の方々二十軒程は私達が訪問し、ポスティングをさせていただいています。本来は訪問先の方々の安否を尋ねるのが必要ですが、直接お会いしないで、ポスティングの際に祝福をお祈りしています。ジェリー・ミンチントンの「心の持ち方」という文章の一部をご紹介します。「どんな状況でも笑う機会を見つける。笑うと体内でエンドルフィンが分泌され、それが素晴らしい作用をおよぼす。それに加えて、笑いは疲れた心を癒し、精神的エネルギーをふたたび充電し、ストレスと緊張を解きほぐしてくれる。笑いは人間だけに与えられた才能である。この才能を最大限に生かそう。笑う機会を増やして心の健康を増進するために、様々な状態で面白い要素を見つけることを日頃から心がけるといい。これを数週間実践すれば健康的な習慣が身につくはずである。周囲の人々はあなたの変化に驚くに違いない。」この時期によいアドヴァイスではないでしょうか。(Ⅰテサロニケ五・一六~一八)

2020/5/3 週報メッセージ

最近考えている事

朝位 真士

  新型コロナウイルス感染症の記事で、皆様大変心を痛めておられることと思います。感染された方々の一日も早い回復をお祈りしたいと思います。また医療従事者の方々、それに関係しておられる方々のご苦労は大変なことと思います。教会も例会は休止、礼拝も自宅礼拝を守り、本当に大きなストレスを抱えています。しかし、私はこの時いくつかの発見をしました。それは、教会に集まって共に礼拝を献げることや、皆さんとの交わり(コイノニア)や、教会活動がどんなに大切であるかということです。良いことは、新しい発見、インターネット活用、ユーチューブ配信、電話や郵送による交わり、また一〇〇周年(二〇二三年)に向かっての取り組みなど。しかしこのコロナウイルスによって、多くの方々が悩みや苦しみにあります。それは決して良いことではありませんが、その試練や悩みのことで、私達の信仰の内実が問われるのではないでしょうか。  私は御言葉が与えられました。第一コリント一〇章一三節、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とパウロが語っています。この試練に桜ヶ丘教会関係者の方々が心を一つにして勝利することをお祈りしてください。

1923年6月1日創立