榊原紀惠子 のすべての投稿

2026/9/13 週報メッセージ

羊飼いのいない群れを見て

川﨑 信二

日本基督教団の『教団新報』は、以前は月2回発行されていましたが、現在は月1回の発行となっています。

教会数や教師数の減少、事務局の人員不足など、さまざまな事情があるのだと思います。最近の『教団新報』を読んでいて、特に目に留まるのが、誌面最後の「教師の去就」の欄です。就任、辞任、隠退、死去などが記されています。その中でも、「就(代)」「辞(代)」という表記が多くなっていることに気づきました。「代」とは代務者のことです。

本来、代務者が辞任すると、主任担任教師が就任するという流れが考えられます。しかし、長い無牧師の期間を経て、教会も教師も病み、代務者交代に至ることもあります。

代務者は一つの教会だけではなく、他の教会にも仕えなければならないことがあります。代務であっても、主任担任教師と変わらないような働きを求められることもあります。

そのような教会と教師が増えている現状を思うと、教会も教師も疲弊することなく、喜びをもって礼拝を捧げられる環境を、どうすればつくることができるのかと祈らされます。

これからの教会は、今までの形を変えていかなければならないのかもしれません。しかし、そのような不安の中にあっても、私たちは主イエスを見上げます。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ……」。(マルコ6:34)

主は、飼う者のいない群衆を見過ごされませんでした。深く憐れみ、御自分のもとへと招いてくださいました。

教会の未来が見えにくく、不安を覚える時にも、私たちには羊飼いがおられます。教会の形が変わっても、主イエスが私たちの羊飼いであることは変わりません。

不安の中にある一人ひとりの群れを、主イエスがこれからどこへ導いてくださるのか。その御声に耳を傾けながら、主の愛に支えられて、ともに歩んでゆきたいと思います。

2026/9/6 週報メッセージ

死者を敬うこと、神を仰ぐこと

川﨑 信二

  亡くなった方や遺骨を「1柱(ひとはしら)、2柱(ふたはしら)」と数えることがあります。「柱」という数え方は、神道において神を数える単位に由来しています。日本では古くから、亡くなった人を敬い、その人を御霊として祀る風習があって、故人や遺骨、位牌にも「柱」が用いられてきました。

 しかし、私たち主に繋がる者としては、「1人、2人」あるいは「1名、2名」と数える方がよいのではないでしょうか。「柱」という言葉には、単なる日本文化としての意味だけではなく、人を神格化し礼拝の対象とする宗教的な意味合いが含まれるからです。御霊も人に対してではなく、神の霊(聖霊)に対して用いるのが聖書的です。

 亡くなられた家族に語りかけること自体が悪いわけではありません。故人を思い出し、感謝を伝え、そのことで心が慰められることもあるでしょう。しかし、私たちは死者に祈り求めるのではなく、神様に祈る者です。人を礼拝することなく、神様だけを仰ぎたいと思うのです。

 人に意見を聞くことは大切です。主イエスが5000人に食べ物を与えようとされた時も、フィリポに尋ねると、彼は「200デナリオンあっても足りない」と答えました。

一方、アンデレは5つのパンと2匹の魚を見つけました。弟子たちがそれぞれの考えや持っているものを出し合う中で、主イエスが大きな御業をなしてくださいました。

 教会も同じです。互いに意見を聞き、語り合いながら歩みます。しかし、その中心におられるのは主イエスです。人の価値観や評判も参考にしながら、まず主を仰ぎ、共に祈り、御心を求めて話し合っていく。そのような中で、私たちは神様の御業を見させていただくのです。

 悲しみの中にある時も、死者に頼るのではなく、私たちの祈りを聞いてくださる神に信頼して歩みたいと思います。

「死人に伺いを立てる者があってはならない」(申命記 18:11)

2026/8/30 週報メッセージ

イエス様の声

川﨑 信二

私たち牧師は、エアコンの効いた礼拝堂で、マイクを用いて御言葉を取り次ぎます。聖書の解き明かしを聞くために集まった皆さんに語るのですから、福音を届けるには恵まれた環境です。路傍伝道でさえ、今ではスピーカーを使うことができるので大声を発する必要はありません。(新宿で路傍伝道の様子を先日見かけました。)

では、イエス様はどうだったのでしょうか。マイクもスピーカーもありません。ガリラヤ湖畔で大勢の人々に語られたイエス様の声は、どれほど大きかったのでしょう。

ガリラヤ湖周辺には、斜面がすり鉢状になった場所があり、地形や湖面の反射によって、声が遠くまで届きやすい自然の音響効果があったと考えられています。イエス様は、そのような場所で群衆に御言葉を語られました。イエス様の声がどんなトーンだったのか、野太い渋い声だったのか、あるいは品性のある落ち着いた美声だったのか。一度でいいからその肉声を聞いてみたい、と思うのは私だけでしょうか。

そのことよりも、私が心を留めたいのは、声の大きさではなくイエス様が「何を語られたか」です。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

私たちにはマイクがあります。しかし、どれほど設備が整っていても、語るべき福音がなければ意味がありません。イエス様が届けられた福音を、私たちも今日、心を込めて語り、また謙虚に耳を傾けたいと思います。

2026/8/23 週報メッセージ

鐘の音に思う

川﨑 信二

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

(マルコによる福音書1章15節)

先週は牧師家族4人で磐城教会の礼拝に出席しました。

桜ケ丘教会には屋上に大きな鐘があり、礼拝前には私が鐘を鳴らしています。磐城教会にも鐘があり、礼拝堂の入り口に置かれた小さな鐘が、礼拝前に時を告げるように鳴り響いていました。教会員の方が順番に鳴らしているそうですが、その音色が何とも心に沁み、礼拝に向けて私自身の心も整えられる気持ちになりました。

「どうしたら、あんなふうに鳴らせるのだろう。私もあんなふうに鳴らしてみたい」と思いました。

振り返ってみれば、私の鐘の鳴らし方は一本調子で、音だけは大きい。神田川近くの家にまで届くほどだそうですが、その音が果たして人の心に響いているのか。それどころか、もし不協和音になっていたら……と不安な気持ちになる時があります。

かつて「鐘を鳴らすのはあなた」という歌のフレーズがありましたが、聖書において時を告げるのは神様です。主イエスは「時は満ちた」と告げられました。救いの時が来たことを、神ご自身が知らせてくださったのです。

つまり、鐘を鳴らしグッドニュースを届けてくださるのは神自身ですし、神の国をくださるのも主イエスの業であり、私たちの業ではありません。だから、私たちは神の御言葉に聴き、従うのです。それが幸福の道です。

しかし、その知らせを人々に伝えるために、神様は私たち人間をも用いてくださいます。私たちの小さな働きを通して、救いの福音を知らせ、道行く人々を主イエスのもとへと招いてくださるのです。

鐘の大きさではなく、その音色が人の心に届くことこそ大切です。私自身も、ただ大きな音を響かせるのではなく、主イエスへと人を招く音色を、この教会から響かせることに心を注ぎたい、と願わされています。

2026/8/16 週報メッセージ

 大波のように

川﨑 理子

桜ケ丘教会に着任後、お手伝いを続けてきた教区中高生キャンプですが、昨年度より教育部委員となり、今年は開会礼拝を担当いたしました。テーマは「私の賜物って何だろう(Ⅰペトロ4:10)」。

中高生と共に「賜物」や「互いに仕え合うこと」について御言葉に聴きました。最初のアイスブレイクでは自分自身を見つめ直すワークを行い、初参加のメンバーもすぐに打ち解け合うことができました。

夜のシェアリング前には、幼稚園の今月の賛美歌でもある「大波のように」を、私がジェスチャー付きで歌うと、かつて園児だった中高生たちが笑顔で合わせてくれました。キャンドルの灯りの中、神様の大きな愛が一人一人の胸に大波のように寄せ、広がっていくのを感じる豊かな証の時となりました。

翌日は「心の4つの窓」(心理学)を用いたワークを行い、自分も知らない自分を神様が知っていてくださることに気づく学びとなり、楽しく賑やかな時となりました。

この若い魂がこれからも主に導かれ、それぞれの教会に温かく迎えられますように。クリスマスの再会を楽しみに、皆が笑顔で帰路についた恵みのキャンプとなりました。