2020/10/18 週報メッセージ

ハイデルベルク信仰問答より                                              朝位 真士 

  ハイデルベルク信仰問答は、入門講座で学ぶべきテキストです。私の教会では部分的にしか学んでいませんが、大変信仰の手助けになる問答です。第1~第2の問は唯一の慰めについて。第3~第4、第11問は人間の悲惨について。第12~第85問は人間の救いについて。その中で、第26~第28問は父なる神について。第29~第52問は子なる神について。第53~第64問は聖霊なる神について。第65~第68問は聖礼典について。第69~第74問は聖なる洗礼について。第75~第85問はイエス・キリストの聖なる晩餐について。第86~第129問は感謝について。その中で、第116~第129問は祈りについて。

 一つひとつを学ぶには時間がかかりますが、各人でハイデルベルク信仰問答を学ばれると、大変信仰が充実してくると思います。私は全部を完全に理解していませんが、部分的にでも学ぶと大変有意義だと思います。例えば、問3~11、人間のみじめさについて。問3~5、罪の認識。問6~8、原罪。問9~11、罪に対する罰。問12~85、人間の救いについて。問12~15、罪責、償い、仲保者。問16~19、真の仲保者(福音)。問20~23、まことの信仰。問24~25、三位一体。問26、父なる神。問27~28、摂理。問29~30、救い主イエス。第31~32、キリスト、キリスト者。問33~34、神の子、われらの主。問35~36、処女降誕。問37~39、苦難と十字架。問40~44、十字架の死の意義。問45~48、復活、昇天、臨在。問49~50、昇天と支配。問51~52、かしらなるキリストと再臨。問53、聖霊。問54~56、教会、聖徒の交わり、罪のゆるし。問57~58、体の甦り、永遠の生命。問59~61、信仰による義。問62~64、信仰とわざ。問65~68、説教と聖礼典。問69~71、洗礼。  問129まで恵みが満載で、信仰生活の手引書です。                            

「神の国は義と平和と喜び」2020・10・18説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ14・13~23節を通して聖書を学びましょう。このローマ14章は信仰の弱い者に対する態度。自由と愛の道。意見より愛。分解(信仰の弱い者に対する愛の態度)1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~12ひとりびとり皆キリストのさばきの座の前にたつことを思って、人を裁くべきでないこと。13~21食べ物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)22~23信仰によって行うべきこと。

ローマ14・13~23節を見て下さい。ここでは一口で語ると信仰生活の中心と周辺を語っています。この14・13~18節は愛の配慮が語られています。食物に関して、パウロは、もう1度、これを取り上げて、基本的な考え方をうちだしています。彼は、消極的な面と、積極的な面との二面を語るのであります。消極的な面について、彼は妨げになる物や、つまづきとなる物を兄弟に前に置かないように「決意」するのだという。しかし、こうすることの動機は、互いにさばき合う事の原因となるものを除きさるということであります。神が、命じておられないことは、お互い愛によって決定すべきことであります。食べ物のことで、愛が失われたら、これは重大なことであります。積極的な面については、パウロは、私は、主イエスにあって知りかつ確信しているといって、それ自体、汚れているものは1つもない。ただ、それが汚れていると考える人にだけ、汚れているのであると述べた根本問題は何か。「食べ物」と「わたし」の関係ではなくて、「キリスト」と「わたし」の関係であります。キリストこそ、信仰に強い者のためにも、弱い者にためにも、死んで下さったのであります。教会の中で、キリストから無縁のことであれば、それはもはや教会ではなくなる。それは社交団体か、禁欲修練場となるでありましょう。しかし、教会史は、キリストの教会がそのあるべき姿を失って、教会が老化現象を起こすのは、キリストから目を、他に向けるときであることは、実例の示していることであります。教会は、三位一体の神との出会いの場所であって、「あなた」と「わたし」と言う生命的な関係を持ち続けるところであります。

ローマ14・17節を見て下さい今日はこのところから題をつけました「神の国は、飲食ではなく、義と、平和と聖霊における喜びである」(口語訳)「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(新共同訳)。とパウロがいう意味は、神の国は、キリストのみという一本の線に繋がれているということであります。キリストなしには、義も平和も、聖霊における喜びも考えられないからであります。わたしたちの全身全霊をキリストに向けようとするとき、私達の内に容易ならぬ抵抗を覚えます。これに打ち勝つ者は、「わたし」ではなく、「キリスト」であります。キリストはこのような抵抗の中は御自身を投げ込みたもうたのであります。そしてこの抵抗の中で、死ぬ事によって、抵抗を無力にしたもうのであります。否、その抵抗を滅ぼしたもたのであります。だからキリストの勝利は、全力をあげた悪魔の抵抗のただ中で、得られたものであります。キリストの勝利の中で、キリスト者の奉仕の生活は、営まれるのであります。14・19~23節をみてください。ここでは信仰の筋が語られています。中心的な事、根本的な事が、力強く推進されるならば、周辺の問題は、中心部には入って来ない。神と関係のある中心問題を第一に考えることが、重要であります。「わたし」の生活川筋の流れを、激しくすることによって、川岸によどんでいる沈殿物は、押し流されてしまう。信仰生活の中で得た知恵によって、肉食や、飲酒や、その他、弱い兄弟をつまづかせないように、また駄目にしないようにすることは、勿論良いことであります。ただし、この信仰の体験を他人に向けないで、自分自身に向ける事が大切であります。信仰の決断こそ、日常生活において持たれるキリスト者の態度であります。

結び

もう1度ローマ14・17節を見て下さい。ここで信仰生活の基本姿勢を提示しています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」義とは神との正しい関係であります。「平和」とは人と人との関係が愛に根ざしして完成した状態であります。「喜び」とは自分が神と隣人と愛で結ばれる時に味わう思いであります。主イエス・キリストは最大の掟として、神と人との縦の関係(神への愛の関係)と隣人同志の横の関係(隣人愛の関係)という「人生の座標軸」の確立を教えられました(マルコ12・28~34)p87ここには神の国の基本の姿が示されています。パウロもここで、神の国の基本的な生き方から、教会生活の具体的なあり方を示す。

2020/10/11週報メッセージ

ハイデルベルク信仰問答より                                              朝位 真士 

  ハイデルベルク信仰問答は、入門講座で学ぶべきテキストです。私の教会では部分的にしか学んでいませんが、大変信仰の手助けになる問答です。第1~第2の問は唯一の慰めについて。第3~第4、第11問は人間の悲惨について。第12~第85問は人間の救いについて。その中で、第26~第28問は父なる神について。第29~第52問は子なる神について。第53~第64問は聖霊なる神について。第65~第68問は聖礼典について。第69~第74問は聖なる洗礼について。第75~第85問はイエス・キリストの聖なる晩餐について。第86~第129問は感謝について。その中で、第116~第129問は祈りについて。

 一つひとつを学ぶには時間がかかりますが、各人でハイデルベルク信仰問答を学ばれると、大変信仰が充実してくると思います。私は全部を完全に理解していませんが、部分的にでも学ぶと大変有意義だと思います。例えば、問3~11、人間のみじめさについて。問3~5、罪の認識。問6~8、原罪。問9~11、罪に対する罰。問12~85、人間の救いについて。問12~15、罪責、償い、仲保者。問16~19、真の仲保者(福音)。問20~23、まことの信仰。問24~25、三位一体。問26、父なる神。問27~28、摂理。問29~30、救い主イエス。第31~32、キリスト、キリスト者。問33~34、神の子、われらの主。問35~36、処女降誕。問37~39、苦難と十字架。問40~44、十字架の死の意義。問45~48、復活、昇天、臨在。問49~50、昇天と支配。問51~52、かしらなるキリストと再臨。問53、聖霊。問54~56、教会、聖徒の交わり、罪のゆるし。問57~58、体の甦り、永遠の生命。問59~61、信仰による義。問62~64、信仰とわざ。問65~68、説教と聖礼典。問69~71、洗礼。  問129まで恵みが満載で、信仰生活の手引書です。                          

「主イエスキリストの為に生きる」2020・10・11説教要旨

朝位真士

序 今日はローマ14・1~12節を学んで行きましょう。この所では信仰の弱い者に対する態度、自由と愛の道。意見より愛。ここでは信仰の弱いも音に対する態度として1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~121人1人皆キリストの裁きの座の前に立つ事を思って、人を裁くべきではないこと。13~21食物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)。22~23信仰によって行うこと。14章は、互いに人を裁いたり、食物その他ささいな事のために人をつまずかせたりしてはならない。8章の恵みの体験した者は12~13章の愛の生活を送り、また14章では信仰の弱い者に対して寛容でなければならない。ローマの信徒への手紙は使徒パウロが書き残した手紙の中で、最も長いだけでなく、その思想的雄大さと深さにおいて、他に類を見ません。新約聖書の最高峰であります。パウロは14~15章と2つの章を割いて、当時のローマ教会にあった2つのグループの対立について、意見をのべ解決を図ろうとしています。これは現代の私達にも教えられることです。ここではキリスト教会のあり方が問題になっています。キリスト教信仰にとって教会は大切な意味を持っています。日本基督教団の信仰告白においても「教会は主イエス・キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」と告白されています。キリストを信じると言うことは、キリストの体である教会の1つの枝として生きるということ、ぶどうの木に1つの枝にされることであります。しかもその教会は、今ここで私達が生きている、ここ教会がキリストの体であり、またそう呼ばれるにふさわしい姿を取るように命じられています。そして教会には、人間の集団として持たざるを得ない、さまざまな問題が突き付けられています。それをキリストの体としての教会にふさわしいものにしていく課題として受け取るべきであります。

本 ローマ14・1~12節を見て下さい。ここでは信仰の弱い者と強い者が1~4節に語られています。信仰の弱い者というのは、「信仰に対して弱い者」つまり、キリストを信じて、キリスト者の仲間入りはしたが、信仰理解において、また、信仰の生活化において未熟な者のことであります。こういうキリスト者を、交わりの中へ全面的にいれよとパウロは言っています。そして信仰の弱い者となる原因となる考え方を、いたずらに

批判するにとどまってはならない。先ず第1に食べ物の問題。信仰生活について未熟な者は、肉食をしてはいけないと考えて野菜だけを食べる。しかし信仰のことが、よくわかっている者は、何をたべても良いと考えています。神が主人で、強い者も弱い者も、この主人に聞き従うべきであります。弱い者を強い者に変化させるのは、主人である神であります。人間にはできないことも、神には出来るのであります。

結び

もう1度ローマ14・1~12を見て下さい。キリスト者の生活は、主にあって死に、主にあって生きる生活であります。キリストこそ、キリスト者生活全体を支配ささるお方でありますから、キリスト者相互のさばき合いは、筋が通りません。キリスト者1人1人は、主イエス・キリストに対して、自分の言い開きをするべきであります。「自分に言いひらき」とは、どういうことでしょう。それは、自分が、主イエス・キリストの神の座を侵して、弱い者を、批判したこと、また強い者を非難したことに対して、申し開きをするということであります。愛の欠けていたことに対する自己批判ともなるのであります。パウロは寛大な立場の方に共鳴しています。信仰の弱い人は教会に来られた場合、兄弟愛をも持って受け入れなければなりません。避けなければならない3つの態度があります。1つはいらだった態度を避けなければなりません。2つは嘲りの態度を避けねばなりません。3つは軽蔑の態度を避けねばなりません。14・2~4節には他人の見解に対する寛容が語られています。14・5~6同じ目的にいたる異なった道。14・7~9孤立の不可能性。3つの面から人は隣人と絶縁することは出来ない。1・過去から隔離することが出来ない。2・現在から孤立することは出来ない。3・未来から孤立することは出来ない。まして、人は到底イエス・キリストから絶縁することは出来ない1・この人生において、キリストは永遠にいける存在でありあります。2・死でさえもその現在を打ち破る事は出来ない。14・10~12神の裁きにある人間。あがなわれた目的は「神の栄光のために生きる」ということであります。その言行、動作、生死の目的はすべて神の栄光のためにするのですから感謝することが出来るのです。

ローマ14・7~8節をみて下さい。

「愛の実践」2020・10・4説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ13・8~14節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ13章は社会人としてのキリスト者の義務が述べられています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務、8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。本

 ローマ3・8~14節を見て下さい。良い市民、国民である資格は、隣人に対する愛と、自分の生活における聖潔である。8節以下にこの2つを記しています。8節をもう1度見て下さい。(愛は律法を完成する)。十戒も、神を愛し人を愛することに総括される(マタイ22・37~39)。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛のほか、何人にも負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(8-10)。私達は律法の下にある者ではないが、ここ愛の黄金律の下にある者である。次に、きよい生活をする理由の1つは、キリストの再臨が近いことであります。私達は(時を知っている)。目を開いて聖書の上から時代の兆候を見れば、今はまさに冷淡、怠慢、不信仰の惰眠からさめるべき時である(11)。いまや世はいよいよ暗黒を増しているが、それだけ明け方が近づいているのであります。(12)。キリストは「義の太陽」であられ(マラキ4・2)、キリストが来られる時、夜は開け、輝く黄金時代がきます。目を覚まして準備していなければならない。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12・14,第1ヨハネ3・3)。(やみのわざ(すなわち罪に行為―エペソ5・11~12)を捨てて、光の武具を着け)なければならない。第1テサロ二ケ5・8)。武具は戦闘に参加するためのものであります。ただ自分のきよめを維持していれば良いというのではありません。きよめを維持するにも、悪魔の誘惑に対して戦う必要がありますが、この武具を受けて主の聖戦に参加するべきであります。(主イエス・キリストを着る)(14)とはキリストをわたしの義、わたしの聖として受けること(第1コリント1・30)であるとともに、(光の武具)としてきることであります。

結び

もう1度13・8~14節を見て下さい。特に8~10節は愛の実践が語られています。今日の題はここよりつけさせて頂きました。キリスト者の負債は、愛だけであります。だから、キリスト者は、一刻一刻に、愛の負債を支払らなければなりません。愛が実践されるところ、そこに、律法が、完全に履行されます。姦淫、殺人、窃盗、貪欲等を禁止する十戒も、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という一句に含まれます。これが、自分を一番愛することであり、自分がするのと同じようにするようにすすめ、それを実践することが隣人を愛することになります。自然のままの人は、自分を憎むようにしない。しかし、キリスト者は、キリストの中で、神にそむく自分を憎む事が出来るのであります。すなわち自分を愛することになります。律法の要求は、自然的人間の本性、すなわち、自己愛に反すると言うことが出来、従って自分を放棄する愛、アガペーなる愛こそ、これを満たすと言うことが出来ます。11~14は時を知るアウグスティヌスを新しい生活に導いた聖句は、実にこれでありました。彼は、お酒と好色と、エロスの暗黒の生活と絶縁し、キリストにある真昼の生活に入ったのでありました。これは、主イエス・キリストを身につけることであります。キリストを着物とする仕方に2つある。1つは、キリストの死と復活とを信仰によって、受けて神の御前に立つ資格を与えられる時であります。これは義の衣であります(マタイ22・12)。いま1つは、聖化の資格において勝利者キリストの中で、勝利を与えられつつ前進することであります。(エペソ6・13以下)には、防御と攻撃との両面に用いられる武具が記されています。キリスト者は、敗北の別名ではありません。むしろ、キリストにあって勝利者であり、悪の力に対して果敢な勇士であります。ここでまとめますと1・聖書が告げる愛の負債は一般的な人間感情に根ざすだけでなく、もっと深い愛の経験から出ています。それは主イエス・キリストによって恵みが与えられ、罪を許されると言う、破格の愛を与えられていることに由来します。2・この愛に生きる事は「主イエス・キリストを身にまとう」ことになります(13・14)3・キリスト者はこの愛の業をなすに当たって「時を知る」(13・11)ことにより、一層の励みが与えられます。

2020/10/4 週報メッセージ

今日まで守られて感謝

朝位 真士 

  「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

  私は1961年12月24日クリスマスに受洗した。当時18歳の高校生であった。九州で友人のM君によって教会に導かれた。伝道者として献身する前は小さな会社に九年間勤務し、東京転勤と同時に淀橋教会の故小原十三司先生にご指導をいただき、1975年、神学校(東京聖書学校)を卒業と同時に母教会である北九州復興教会に赴任。清水会堂と曽根会堂(当初は農家の民家、後に新会堂)の二つの教会において、家族(フミ子牧師、憲義牧師(琴平教会)、真奈)4人で19年間御用させていただく。

 1994年、ホ群人事で西海静雄、満希子両師の後任として、当時マンション教会であった桜ヶ丘教会に赴任。フミ子師は東京聖書学校の音楽教師と牧師の二足のわらじ。その間、長男憲義は献身して東京神学大学に編入して四年間の神学の学びを終え、藤沢教会に伝道師として赴任。数年前より琴平教会に赴任して牧会にあたる。娘真奈は結婚して二人の子供のママとなり、子育てに専心。私は前立腺がんを発症し、治療しつつ牧会に励んでいる。2003年より、女子少年院の教誨師、篤志面接員を委嘱され、社会奉仕にあたらせていただいている。

 桜ヶ丘教会赴任26年目を過ぎて、創立100周年(1923年創立)記念を目指して、教会員一同と共に祈りと牧会、宣教に励んでいる。現在新型コロナウイルス流行の中、教会は工夫しながら礼拝を守っている。ユーチューブ配信も、役員の配慮によって継続されている。

 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

2020/9/27 週報メッセージ

高齢者の生き方

朝位 真士 

  高齢者にとっての教会、教会の高齢者への対応について考えます。

高齢者にとっての教会 

  • 幸いな教会生活

高齢者にとって、教会の存在は何重もの意味で幸いであると言うことができます。教会に集い、その交わりの中に身を置くことは、肉体的にも精神的にも霊的にも良い結果につながるからです。歌う、聴く、人と交わり「祈り合う」ということをすることによって、心身に刺激が与えられ、霊性に祝福がもたらされるからです。教会出席は、すばらしい老化対策であると言えます。たとえ健康の理由で出席が許されないとしても、教会の祈りに覚えられていることは、それはそれで、いかに大きな祝福でありましょうか。

  • 高齢者は教会の宝

人生の先輩、信仰の先輩としての高齢者たちが礼拝に喜んで出席している姿は模範であり、励ましであり、慰めであるからです

 教会の対応

  • 教会が高齢者への敬愛の精神を高める必要

教会において、高齢者が尊ばれ大切にされることは神のみこころであり、聖書の教えにかなったことです。「あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」(レビ19・32)ということばが表している精神は、普段から教会の中で教えられ、養われ、実践される必要があります。これらのことについて、どのようなことが考えられるでしょうか。①教会が高齢者への敬愛の精神を高める必要。②教会が高齢者の奉仕できる場を提供する必要。③教会が高齢者に配慮し、高齢者が不自由しない設備を整える必要。何よりもあたたかい言葉をかけ、失礼のないようにしたいものです。(『クリスチャン生活百科』より)

「キリストの愛における行い」2020・9・27説教要旨

朝位真士

序 

 今日はローマ13章1~7節を学んで行きましょう。ローマ12章では教会の一員としてキリスト者の生活を語ったが、13章では社会の一員としてのキリスト者の生活をしるす。12章の主題は献身、及び愛であり、13章の主題は、服従、愛および正しい行いであります。私達は教会内において良き信徒であるだけでなく、教会外においても良き市民、国民でなければならない。神に献身して奉仕する信者は、市民として叉国民としては、権威者に服従し、愛と義の生涯を送る者であります。真の信者は、この両側面において模範的でなければならない。

ローマ13章1~7節を見て下さい。この13章全体は社会人としてのキリスト者の義務を語っています。1~5権威者に服従すべき義務、6~7納税の義務。8~10律法を完成する愛、11~14キリスト再臨の切迫とその準備。となっています。さて12章の初めに神に対する献身を説いたが、13章の初めには世の権威者に対する服従を説いて(1~2)います。全ての権威の源は神であります。この世の権威者は(彼が神を信じると否とにかかわらず)神が摂理のうちに立てられた者で、神に代わって治める者でありますから、私達はこれに服従しなければなりません。(第1ペテロ2・17p430引用)これがキリスト教の基本的道徳であります。キリスト者は、社会の秩序を乱す闘争運動などは、キリスト者の参加すべき者ではありません。勿論神の御心に違反する為政者にたいしては毅然とした態度を表明すべきです。信仰を脅かす事柄にたいしてはノウといわねばなりません。私達ホーリネスの群れは政府の宗教弾圧に対しては毅然とした態度を表明しました。信者は皆、主にあって自由な者であります。しかし、聖書は、王や権威者に服従することを説いています。全ての権威は神によって立てられています。(ダニエル2・21,37)p1381,1383、それゆえ、神に献身する者は、信仰に矛盾しない限り人の権威に服従する。権威に背く者は神に背く者である(2)。全ての権威者は、未信者であっても、私達を保護し、安全におらせるための神の僕であり、神を代表して悪人を罰するのであり、いたずらに刑罰を施すことありません(4)。それゆえ、悪を行うなら刑罰を恐るべきでありますが、善を行うなら恐れるには及ばない。かえってほめられる(3)、それゆえ、ただ刑罰を恐れて従うのではなく、神に対する義務であることを思い、良心の命じるところに従って服従すべきであります。(5)よき市民、国民の資格は、隣人に対する愛と、自分の生活におけるきよめであります。来週の8節以下にこの2つのことを記しています。(愛は律法を完成する)十戒も、神を愛し人をあいすることに総括されます。(マタイ22・37~39)p44。愛は神と人とに対して果たすべき義務で、この愛の他、何人も負債として果たすべきものはない。愛があれば(律法を完成する)(13・8~10)。

結び

もう1度13・1~7節を見て下さい。

この13章は、キリスト教的政治倫理、すなわち政治権力に対するキリスト者のありかたを教えたものとして有名な箇所であります。この場合ヨハネ黙示録13章が引用されました。p467参照ローマ13章が権力者を「神に仕える者」として社会の秩序を整える正義を実践する限りにおいて「権威に従うべき」であると教えるのに対して、ヨハネ黙示録が書かれた時代は、政治権力が皇帝礼拝を強要し、弾圧をもって絶対服従を迫り、ローマ帝国は悪魔から遣わされた獣の姿で描かれています。それゆえ、これに抵抗することはキリスト者の使命であります。(黙示13・10)「ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。」p467と書かれています。政治権力への抵抗として、現代で最も徹底した姿勢を示したのは、第2次世界大戦末期のディートリッヒ・ボンへッファーでした。彼は世界侵略とユダヤ民族撲滅を目指すナチスの政治が、人間の限界を超えた悪魔的支配であると判断し、それを阻止するために、緊急手段としてのヒットーラー暗殺計画を支持し、担いました。その計画は事前に発覚して、彼は死刑に処せられましたが、これは黙示録13章の1つの担い方であります。このような中で、教会は、人間のエゴイズムを直視し、十字架の福音がそれに打ち勝ち、神が十字架においてこの罪と戦い、罪人を裁くと共に新たに生まれ帰らせて、罪と戦う者とされる事実を宣べ伝えなければなりません。そして教会において福音を聞いてキリストと出会った者が、地の塩、世の光としてこの世に出て行くことによって、道徳的導きとなるのであります。

2020/9/20週報メッセージ

牧会雑感                                                                 

朝位 真士 

  聖書マタイ7章7節~11節、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。・・・・・・このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

 少し長い箇所を引用しました。私は社会人になってからも、4年間の神学生時代にも、早起きしてまず聖書を読み、祈りに30分から1時間かけて、デボーションの時間をもたせていただいています。テキストとしてアパルームや『信徒の友』の日課の聖書を拝読し、黙想し、具体的な祈祷課題について時間をかけて祈っています。多忙な現代人には、このような至福の時間をもつことは不可能でしょうが、私は幸い神様に仕える主の僕として、このような尊い時間をもたせていただいています。

 先日、ある方から祈祷課題が示されました。具体的には申し上げられませんが、その方の会社員が39度の高熱を出していて、もしコロナに感染したら会社も家族も大変だという緊急課題でした。日頃から良き交わりをしている兄弟の祈りの要請でした。その課題について何十回祈ったことでしょうか。神様の御心を示してくださいと、本当に真剣にお祈りさせていただきました。その翌日、兄弟から喜びの電話をいただきました。風邪であったということです。私がこの件で考えたことは、祈りは神様の御旨が優先するのだということです。必ずしも私共の願い通りには答えられないかもしれませんが、「ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8章28節)ハレルヤ!!                 

「キリスト教的愛の生活」2020・9・20説教要旨

朝位真士

今日はローマ12・9~21節を通して聖書を学びましょう。この12章は1~2献身と、聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の兄弟に対する愛の行為と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と善行。

ローマ12・9~21節を見て下さい。

9節以下は、信者相互に対する態度として、愛と一致を、また、反対する者に対する態度として、祝福し、忍耐をもって愛の行いをなすべきことを説いています。12章前半においては神に対する献身と奉仕を勧めたが、この後半において同志と敵に対する愛を力説しているのは、大いに考える事であります。キリスト者の生涯は、神に対しては奉仕、人に対しては愛の生涯でなければなりません。上に向かう関係だけでなく、横に広がってゆく関係があります。神に対する奉仕においていかに熱心であっても、人に対する行為において深い愛がなければ、そのキリスト者生活は完全なものとは言えない。表面における熱心な奉仕のうらに、こうした愛の生涯がなければならない。神に対して忠実であるだけでなく、人に対しても親切でなければならない。コリントⅠ・12章に奉仕のための種々の賜物をしるしたのち、13章で愛を詳しく説いているのもそのためである。ただ教会内の兄弟姉妹に対してだけでなく、反対者や迫害者に対しても愛をもって接すべきことを説いています。これは山上の垂訓にある教えで、私達は主に仕えるには熱心で、霊に燃え、主に仕え、人々とは、出来る限りすべての人と平和に過ごし、敵に対しては、善をもって悪に勝つべきであります。ある人はこの一段を次のように分解しています。この一段は愛の生涯であります。1・この愛の実質―内部的面(12・9~13)。偽りのない愛(9上)、純潔な愛(9下)、兄弟愛(10・上)謙遜愛(10下)、熱烈な愛(11上)、忠実な愛(11中)、奉仕する愛(11下)、望みある愛(12上)、忍耐深い愛(12中)、祈り深い愛(12下)、2・この愛の行為―外面的愛(13-21)。聖徒に対して(13)、迫害者に対して(14)、幸福な人に対して(15上)、悲しむ人に対して(15下)、争いやすい人に対して(16)、弱い者に対して(16中)、悪人に対して(17上)、すべての人に対して(17下、18)、怒りやすい人に対して(19)敵に対して(20,21)。

コリントⅠ13章は、愛の内容分析をして、愛の本質をあきらかににした愛の賛歌として有名であります。そこでは愛の広さ、真実さ、情け深さ、さらに、その永遠性が記されています。ここではその愛を外に向かって用いる事が、勧められています。ルターは、キリスト者は、ひとりのキリストであるといったが、この言葉は深い意味をもっています。キリストは、愛なるものでありますから、ひとりのキリストになることは、外に対して、愛となることにほかならない。信仰によって神の御前に立つ資格が与えられる時、信仰のほかにも、神と「わたし」のあいだに入り込む事は出来ない。というのは、神はすべてをもち、「わたし」は何も持たないからであります。ルターは、「私」は、乞食だといいました。だから愛をもっていると考えてはならない。信仰があると言っても、これは、神と「わたし」とのつながりを神が与えて下さる賜物なのだから、「信仰」という孤立した品物を「わたし」が持っているわけではありません。「私」だけでは「信仰」はなりたたない。「神」と「わたし」とがあって「信仰」という状態が出来るのであります。愛があっても、そのなかに顔を出すことは出来ない。ところが、愛の活動は、「わたし」が、神との交わりを許されるにいたって、俄然、活発になるのであります。キリストが、ご自身を「わたし」のために与えたうたことは、愛を与え尽くされたことに他ならない。そのことを真として、受け入れる信仰者は、また友のために命を捨てるのであります。愛は、キリスト者を通して、活動します。だからパウロは愛には偽りがあってはならないというのであります。12章19~21節を見て下さい。箴言25・21~22p1024を見て下さい。これこそキリストにおいて完全に具体化された真理であります。キリスト者の行為には、神の力が加っています。行為自体が、神にもちいられて、キリストのあかしとなるのであります。キリスト者の生活は、このような意味において勝利の生活であります。

結び

 もう1度12・9~21節を見て下さい。

パウロは12章から「キリスト者」はいかに生きるかという倫理を教えて前回12・3~8節においてキリスト者は教会において、丁度体に手足があるように、1人一人が結び合い連帯して、1つの共同体を築いていくように教えています。今日のところは、体の中を血が流れているように、わたしたちの共同体を生かすものが、「愛」であることを教えています。キリスト者はキリストの愛に動かされて、愛に生きるように促されています。しかしわれわれが純粋な愛を変わりなく貫く事は、決して生易しいことではありません。私達の愛はすぐ枯れてしまいます。我々の愛の泉であるイエス・キリストにつながり、キリストの愛を注がれることによって、真実の愛を燃やし続ける事が出来るのであります。12・11節「霊に燃えて」と言う言葉で思い起こされるのは、ルターが「キリスト者の自由」の中で、神と人との関係を、火と鉄とに譬えているところがあります。鉄はそれ自身では黒く冷たいのですが、火の中に入れられると、焼けて真っ赤になり、それ自体が火のようになります。わたし人間は罪に蝕まれ、心は冷えて、鉄のように重く冷たいのですが、主イエスの恵みの炎に燃やされると、鉄が火に焼かれて真っ赤になるように、私達も喜びと愛に赤く燃えるのであります。

1923年6月1日創立