「福音を伝える者の幸い」2020・8・16 説教要旨

朝位 真士

序 

 今日はローマ10・14~21節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの10章全体を神の義と、律法の終わり。救いを得る道。信仰の根拠と全体をまとめています。また10・14~17節では福音宣伝者の特権と責任。18~21節はイスラエルの不従順と、異邦人の救いとまとめています。(信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである(17)。それゆえ、伝道者の伝えるべきものは主の言葉、神の言葉で、信仰の根拠はこのはかにはありません。しかし、聞いたことのないものを信じる事は出来ない(14)。ここに、すべての伝道者および信者の責任がある。伝道者は勿論「時が良くても悪くてもそれを励み」「御言を宣べ伝え」なければならないが(第2テモ4・2)、全ての信者も、つとめて福音の恵みを、多くの人にあかししなければならない。

18~21節に、神がユダヤ人を悔い改めさせるための3つの方法を示す。神を求めなかった異邦人でさえ恵まれることを示し(ゆえに彼らも信じさえすれば救われる)。次に彼らが異邦人の妬みを起すようにさせ(19、11・14)、そして更に(服従しない反抗する民)にも(手を差し伸べて招いておられる(21)。それゆえ私達も、この神の恵みと愛の心をもって、いかなる反対者や不信仰な者のためにも、祈りまたあかしをするべきであります。

ローマ10・14~21節を見て下さい。14節には3つの問いが列挙されています。この一連の問いの強調点が、「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞く事が出来るでしょう」と語っています。15節のイザヤ52・7節の引用によってp1148宣べ伝える者はすでに派遣されていることが明らかになっています。したがってパウロは、聞いたことを何故信じなかったのか、何故御名を告白し、呼び求めないのかと、ユダヤ人の不信仰を責めているのである。

信仰が従順と結び付くように、不信仰は神が提供しておられる恵みを拒むことに直結しており、そのような人々は不従順の責任を問われる事になる。このイザヤ52・7節の引用は「良いことの知らせを伝える人々」と複数形にすることによって、キリストの福音を宣べ伝える人々をさしています。「なんと美しいことか」は、彼らが派遣され、福音を語ることがちょうど良い時になされたことを物語っています。福音はそれほど周到に伝えられた。したがって、自分は彼らから福音を聞かなかったという言い訳は成り立たないのであります。

しかし16節を見てください。これはイザヤ53・1節からの引用です。ここで言われている「知らせ」は、福音のメツセージ、福音の内容であります。苦難のしもべ(メシヤ)についての使信をだれも信じなかったというこの嘆きのことばは、そのまま、十字架につけられたキリストを語る説教を聞いても信じなかったユダヤ人に対する嘆きとなっています。次に17節は「キリストについてのみことば」であります。しかしユダヤ人たちは、復活して天に挙げられた主が、聖霊によってかたられる御言葉を聞いたのであります。

それにもかかわらず福音を拒絶した彼らの責任は重大であります。18節は、イスラエルから彼らの弁解の根拠となるものをすつかり取り去るために記されたものであります。これは詩編19・4節の引用であります。(詩編19・5節新共同訳)ユダヤ人たちは、キリスト教の説教を聞いた。この詩編19・5節を福音の世界大の宣教という意味で用いています。19節は18節の内容をいつそう深く掘り下げています。まずモーセの言葉、申命記32・21節p333引用言葉によりローマ10・20節はイザヤ65・1節の引用p1167には異邦人によって神が「見いだされ」、また神も彼らに御自身を現された。という特別掲示と、それに対する応答があったという事をイザヤ65・1節で語っています。ローマ10・21節を見てください。これはイザヤ65・2節の引用同じくp1167神は「不従順で反抗する」イスラエル人に、忍耐強く憐れみを持って語り続けられるのであります。

まるでルカ15章の放蕩息子の父親のようであります。しかし、福音の宣教は、復活のキリストの言葉を全世界に向かって語ることであり、信仰と、不信仰、従順と不従順の応答を導き出す。それによって、神の永遠の予定は実現していくのであります。私たちの近くにある御言葉を拒否することは、1・18以下で論じられた「神を知っていながら、その神を神としてあがめない」罪以上の思い責任を人に課すのであります。神のみことばが人と出会うところで実現していきます。それだけに、福音を伝道する者にも、これを聞く者にも大きな責任が伴うのであります。

結び

もう1度10・14~21節を見てください。キリスト教は伝道の宗教であります。キリスト教では、キリストの福音を聞き知った者は自分の方から出かけて行って、これを伝えようとします。伝道、ミツションこそ、キリスト教生活そのものと切っても切れない、基本的な働きであります。エミール・ブルンナー博士は「火が燃えることによって存在しているように、教会は宣教によって存在する」といわれました。このようにキリスト教は伝道ナシにはあり得ない。それは伝道がキリスト教の本質と関わっているからであります。

第1に伝道は主イエス・キリスト御自身からでるものであります。第2にこのキリストは、ただわれわれの所に来られて出会われたというだけでなく、我々の罪のために十字架についてくださいました。ここにキリストの愛があります。このキリストの捨て身の救いを知った私たちは、これを1人でも多くの人々に伝えなければならない責任があります。第3に伝道はキリスト者が人々に対して果たさなければならない責任があります。お互いにこの素晴らしい福音を伝えるものにしていただきましょう。

2020/8/16 週報メッセージ

前任牧師西海静雄語録よりⅡ                                             朝位 真士 

 前号でも西海先生の御本『教会に喝』より引用させていただきましたが、2004年6月29日、全力疾走の末、享年62歳で召天された先生のことを偲んで、今回も『教会に喝』より引用させていただきます。

 パニック時の心理学の権威、安倍北夫氏はある講演で次のように語られました。「どんな不安な状況にあっても、アンカーリング・ポイント(精神的な錨を下ろす場所)があれば、パニックを起こさずに済みます。信者にとってはイエス・キリストがそれであり、(突風を受けた船が沈みそうになり、パニック状態になった弟子たちがイエスによって平静を得たように)教会においては牧師がアンカーリング・ポイントなのです。」牧師が信徒にとってアンカーリング・ポイントでなければなりません。信徒が牧師のことを思ったり、牧師に会ったりすると、気持ちが落ち着き、ほっとするというようでありたいのです。何か困ったことが起こっても「教会の先生が祈っていてくれる」と思っただけで平常心を保てる、安らぐ、それが牧師の「値打ち」です。十字架と復活のスピリットが牧師の内に働いているなら、牧師が持つ人間的な弱さにもかかわらず、それは可能です。教会の存在が心の拠り所となるなら、傷が癒されます。そして、健全な霊肉を取り戻すほどに、活力が湧いてきます。ほっとすれば必ずホットになります。ほっとさせずに「熱心になれ」と言ってみても難しいのです。  私は右の文章を読んで、牧師として本当に未熟な者であることを、深く神の前に反省して祈りました。桜ヶ丘教会の皆様、牧師のためにお祈りしてください。私も微力ですが、毎日皆様方のためにお祈りさせていただいています。(ヨハネ15・9)     

主を信じる者」2020・8・9説教要旨

朝位真士

 今日はローマ10・1~13節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をイスラエルの失敗と、信仰による救いとして、1は同胞のためのパウロの願いと祈り2~3イスラエルの誤り4~8律法による義と、信仰による義9~11救いを受ける道12~13主の名を呼び求めるすべての人を救う福音とあります。

ローマ10・1~13節を見て下さい。この箇所では、信仰による救いを拒絶したことが、ユダヤ人が捨てられた原因であること、(3~4)、信仰による救いは神の企画と自由の賜物であって、旧約に預言されていること(5~11)、信仰による救いの範囲は限られておらず、一般的であること(12~21)。をしるすユダヤ人は神のために熱心であったが、それは知識による熱心ではなかった。(2)。すなわち神の御旨をわきまえての熱心ではなかった。ユダヤ人が神の義を知らなかったのは(3)、神がお知らせにならなかったからではない。神の義は律法と預言者(すなわち旧約)のあかしするところで(3・21)、神はこれをあまねく示しておられるのに(18-21)、彼らは心をかたくなにし、神の義を無視したので、知る事が出来なかったのであります。

5~13節は、律法による義に対して、信仰による義をあかしする為に、旧約から申命記(6-8、申命記30・12~14)、イザヤ書(11,イザヤ28・16)、ヨエル書(13,ヨエル2・32)など律法と預言者から適当に引用して、信じる者は(すべて)救われ(11,12)神に祈る(全ての人)は豊かに恵まれる(12)事を述べ、信仰とはただ心と口を働かせてする単純な事であると説く(8-10)救いのみ業はキリストにおいて成就しており、人の助けを必要としない。救いを得る道はただ信じるだけで、信仰による救いを得るのは実に容易で、ただ信じ、心でそれを口で告白して祈りの求め、またあかしすればよい(8~10)。ただしその救われるための信仰とは、キリストの復活を信じるのであります。(9)(口で、イエスは主であると告白)するとは、イエスを救い主として承認するだけでなく、口に言い表し、主の名を呼んで祈ることであり、叉イエスを救い主として信じることを証し、あかしすることは救いの完成に関係があります。信仰を告白し、受けて恵みを証することは、信仰生活において最も大切な事であります。(マタイ10・32~33)。p18引用しています。岸千年先生は10・1~4的をはずれた熱心(1~4)としてユダヤ人は、ユダヤ人は、確かに神に対して熱心であろうとしました。しかし、その熱心は、ゆがめられた熱心でありました。深い知識によらない熱心でありました。神の視野にたたない熱心は、馬車馬的な狭い熱狂を産み出す。神との交わりの内に、神によって導かれ。教えを受けることによって、生じる神の視野に立つ知識を、ユダヤ人たちは持ち合わせていませんでした。だから、神が預言者を通して、与えたうた、神のみまえに立つ道を見ることが出来なかった。しかし信仰によって、神の備えたもうものを心からよろこんで、受ける態度は、律法の与えられる前から、神が求めておられることであります。それを実証したものはアブラハムであった。律法には行為つきまとい、キリストには信仰がつきます。ユダヤ人の過失は、信仰によって神の御前に立つ道に、入らなかったことであります。10・5~13節では書かれた言葉と語られる言葉が記されています。

律法は書かれた言葉であります。モーセは、石の板に書き付けられた律法を神から受けた。しかし信仰による義という表現は、信仰のよって与えられる、神のみまえにたちうる資格であいます。さらにパウロは、話の筋を1歩勧めて、この信仰による義が、言葉に関係していることを告げています。主を呼び求める者には、例外なく救いが与えられるというパウロの言葉の中に神における徹底した一貫性をみるのであります。

結び

もう1度10・1~13節を見て下さい。カールバルトは、「神の言葉に」ついて、三つの形があると説明しています。第1は受肉の言葉としてのイエス・キリストであり、第2は書かれた神の言葉としての聖書。第3は語られた神の言葉としての説教だと語っています。第1のことは神御自身が人間の世界に入って来られ、神が人間になるという、イエス・キリストの「受肉」の出来事であります。第2は神の言葉である聖書は、このイエス・キリストを頂点とする「神の救いの歴史」を書き記したものであり、イエス・キリストひいては神へと人間を導くものであり、第2の神の言葉であります。そして第3に説教は、聖書を今ここで神がわたしたちに語るものとしての第3の神の言葉であります。信仰の言葉は、イエスを主と告白し、死者の中からいイエスの復活を信じるように導くものでありますから、人を救う力を持っています。「イエスは主です」との告白は、キリスト信仰の核心であり、聖霊の力のみが、この告白を可能にします(1コリ12・3)。

2020/8/9 週報メッセージ

前任牧師西海静雄語録より

朝位 真士 

  先生は2004年6月29日、享年62歳で召天された。桜ヶ丘教会の前任牧師である。開拓同然の桜ヶ丘教会で、26年間満希子先生と共に牧会された。桜ヶ丘教会辞任後、東京聖書学校舎監、吉川教会開拓者、ホ群事務局責任者、東京聖書学校教授、ホ群委員を歴任された。とてもユニークな、牧師としては珍しい希有な存在であった。その先生が生前3冊の御本を発刊された。『教会に喝ーあなたに活ー』(1997年)、『み言葉アンサンブル』(2003年)、『人生のスパイス(教会生活)』(2004年)である。

 『教会に喝~』の「信徒」の項目で、「人間は短絡的で感情的ですが、永遠の支配者である聖霊にすべてを委ねるなら、真理の御霊はこれを受け止め、悔いのない、実り豊かな一生を送らせてくださいます。」「朝のデボーションを励行しましょう。全教会員が朝の祈りを始めたら教会は活性化します。教会は弱い者が寄り掛かり合う所ではなく、主によって強められた独りでも立ち得る者が集まって、賜物を生かし合い、主の体として結ばれ、成長していくところです。個人で生きるのではなく教会人として生きるところに、個人の存在意義もあるのです。」「教会が必要以上に信徒の時間を奪わないように、信徒は礼拝を死守し、諸集会に励み、そこから生涯的な光を受けて、持ち場立場で証しを立てるのです。奉仕のために疲れ切った表情で礼拝に出るより、土曜日はゆっくり休んで、恵みを慕ってホクホクした表情で礼拝に出たほうが伝道に役立ちます。私は会堂建設のためにバザーをしましたが、信徒の方々が余りにも夢中になるのを見て止めました。寿命を縮めては・・・・・・と思ったからです。今、高齢の方々が元気でおられるのを見て、感謝しています。」(次号に続く)

2020/8/2 週報メッセージ

東京聖書学校ユーチューブ夏期聖会

朝位 真士 

  7月21日(火)10時~11時半、聖会Ⅰ。説教「何を献げていますか」(創世記22章1~14節)、説教者は大友英樹師(赤羽教会)。先生は開口一番「何を献げていますか」というチャレンジ的語り口であった。神はアブラハムを試された。神はアブラハムの信仰を試された。創世記22章1~14節、アブラハムがイサクを神に献げたという記事を通して3つの点から神に献げる具体例を語った。①これから先の将来のことを献げる。②過去を献げる。③現在を献げる。アブラハムは長年祈って与えられた最も大事な息子イサクを献げた。ここに、きよめられたみ業の具体性を示された。アブラハムが75歳の時、祝福の基となるという神の召命を受けた。その第一の試練は、長く祈って与えられた約束の子イサクを献げよとの命令であった。彼は悩みながら実践した。

 聖会Ⅱ、13時半~15時。説教「神に近づこう」(ヘブライ10章19~25節)、説教者は島隆三師(元東京聖書学校校長、東調布教会牧師)。先生は3つのポイント、①イエスの血潮によって聖所に入る、②イエス・キリストの体によって開かれた新しい道、③大祭司イエス・キリストの中から、いろいろな具体例を挙げて語られた。牧師50年のベテランで、神学教師としてのメッセージは私の心に深くとどまった。また、キム・ウォンチ師の3つの言葉が印象的であった。①私たちは毎日、旧約・新約のクスリを飲む。②私たちは毎週、教会病院に通う。③時折、聖会病院に入院する。そうすると、かろうじて健康を保つことができる。榎本保郎先生は、「学生は勉強が忙しくて、聖書を読む時間がない。主婦は子育てが忙しくて、聖書を読む時間がない。壮年は仕事が忙しくて、聖書を読む時間がない。老人は目が悪くて、聖書を読むことができない」と言われた。聖書を読むことのない現代人を批判した言葉である。私たちはきよめられるために聖書を読み、実践していこうではないか。

「神の恵みに感謝」2020・8・2説教要旨

朝位真士

 

私たちキリスト者は神のあわれみや恵みを盛られる器で、それによって神の「栄光の富」また「神の恵みの絶大な富が示されるのであります。(エフェソ2・7)怒りの器は神の裁きのため、あわれみの器は神の恵みのための器で、1つは神の義を表すもん、1つは神の愛を表すものとして用いられる。私たち異邦人信者は、なんの功績もなく、またなんの価値もなく、(義を追い求めなかった)ばかりか、かえってただ罪を追い求め、神に背を向けてわがまま勝手な生活を送っていたものであるが、救われた今は(義、すなわち信仰による義を得た)のである。(30,3・22―24)。けれども選民たるイスラエル人は、正しい律法を熱心に守っていたが、その目的の義を得ることが出来なかった。それは、行いによって得ようと努力したからである。彼らは自分の力に頼ったため、せつかくの救い主につまづいていたのである。(31,32)。彼らが力を尽くして追い求めてもなお得られなかった義を、神は価なしに私たちに与えて下さった。このお恵みを深く感謝し、「あわれみの器」としての本文を全うしたいものでる。

 ローマ9・30~33節を見てください。ここでは信仰か行為かということが記されています。パウロは、いわゆる救いにおける神の知恵の輪に直面して、その輪の跡切れを解決するものは何かという問いを出しているのであります。信仰か行為か。どちらに軍配があげられるのでしょう。この問いに対してパウロは、自分の体験から解答を出しています。「つまづきの石、さまたげの岩」こそ、救いの知恵の輪の「かなめ」である。しかも、その「かなめ」が、隠されています。それを見つけるのは、信仰か、行為か、パウロはもちろん、「信仰のみ」というのであります。神のみ前に立つ資格を得ることこそ、人類の最大の目標であります。イスラエルも、その他の民族を、それを望んでいました。ちようど、ウサギと亀とのかけくらべのように、イスラエルに伍して、他民族も走った。しかし、イスラエルの方が優位であつた。イスラエルには他民族のもたない乗り物があったからであります。それが律法であります。イスラエルは、神のみ前に出るための乗り物を持ちながら、運転を誤ったのであります。神の方向に進路をむけないで、自分の方向に向けてしまった。神に逆行したのであります。ウサギの油断に等しい決課になりました。それは、自分の行為によって神への道をうち開く行為でありました。他の民族は,律法を持たなかったので、律法を彼らのために代わって完全に履行してくださった神の子を乗り物としました。それが信仰であります。

神の子イエス・キリストは、取るに足りないように見えながら、実は、かけがえのない神の知恵であり、無力に見えながら、無限の力をお持ちでありました。これが躓きの石といわれる理由であります。詩編118編のこの言葉はキリストを象徴しています。したがってキリストは愛の人であり、また憐れみに富んだお方であります。ですから「石」は、愛またあわれみをあらわしています。このローマ9章の内容から推察して、パウロは、神の真意こそ、愛しようとし、あわれみもうとする意志であることを告げています。しかも人間の罪のゆえに、其の憐れみが、「つまづく石」として与えられていますのであります。信仰によって、それが得られるためであります。わたしたちには不可解であります。しかし、神様の側には不正はありません。不徹底はありません。あまりにも徹底されていますので、私たちは理解できません。だから信仰がひつようなのであります。へブル11・1~3p414「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人達は、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって、創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあります。ここに、信仰によって生きた人々のことが証されています。特徴的な言葉は「信仰」ということばです。これはピステスというギリシャ語ですがこれは信頼。誠実、真実という意味があります。私たちは神様に対してピステスをしていますでしょうか。これは私自身に神様が問われている質問です。皆様は如何でしょうか。

結び

もう1度ローマ9・30~33節を見てください。ここでは異邦人の救いと、ユダヤ人が見捨てられたことと、この2つの立場が生じた理由を述べています。

33節はイザヤ8・14,28・16p1073、とp1103の引用です。(1ペテロ2・6,8)p430を見てください。人が信仰による義の道を追い求める事をためらうのは、そこに十字架というつまづきが置かれているからである。しかし私たちは「失望させられることがない」。この約束は、終わりの日に罪に定められることはないということであります。

来るべき終末の審判に耐え得るためには、キリスト信じる信仰によって神の義をいただく以外に道はありません。その救いの道にそびえるキリストの十字架につまづかない人は幸いであります。

「憐れみの器」2020・7・26説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・19~29節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの箇所を9・19~23信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。24~29このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語りつています。ローマ9章においてパウロは、神の選民であるユダヤ人が、なぜ神の子キリストの福音を受け入れず、選民の資格を失ったように見えるのかという問題を取り上げてきました。これに対するパウロの第一の答えは、ユダヤ人を選民したのは、彼らの能力や素質ではなく、ただ神の憐れみであったという事でした。ですから、人間を神の民とするのもしないのも、神の自由であり、「9・18」。このように、神の恵みが自由な恵みであることを強調したのであります。これに対して人々が強く反論するであろうと予想して、その反論に対する答えを書きしるしたのが、今日の箇所であります。

本 ローマ9・19~29節を見て下さい。ここに神の真意が語れています。神は、人間を悪魔の手から解放するために、悪魔的力に御子をゆだね、そのことによって、悪魔を克服したもう。神の御計画には、一種の循環運動のようなものがある。しかし、知恵輪のように、この循環運動の中には、私達にわからない部分が含まれています。神が悪の力にふりまわされているのである。その「分からない部分」だけを見ていると、それが神に対する疑問となってくるのである。19節を見て下さい。愛と憐れみの神の手になるものが、神から不正な扱いを受けるはずがない。造られた者は、神に反逆しているのだから、当然、全被造物は、神の怒りに値するものである。それにもかかわらず、20~23節を見て下さい。そのことは神の憐れみの証拠ではないでしょうか。そのうえ、それらの「あわれみの器」のみならず、他の、怒りの器さえ、救いの恩恵を被る事が出来れば、神の憐れみは、一層あきらかになるでしょう。怒りの器に対し、「憐れみの器」が神によって前もつて用意されているという、御計画に従って、選びによる召しが、「ユダヤ人」の中だけでなく、他民族の中でも、着々と実行されたのである。パウロは、神のなされる悪の力克服の事実を聖書によって、裏づけた。ホセヤとイザヤからの引用句が、肩をならべるのである。ホセア2・25,2・1、イザヤ10・22―23、1・9の70人訳からの引用(ローマ9・25―29)。異邦人が神の民にくわえられることは、旧約の時代からすでに神の救いの計画と展望の中にあったとパウロは語っています。」ホセアの言葉とイザヤの言葉とだけでも、神は、どれほど、手際よく、悪のちからを克服し、悪の力の奴隷であった人間の身分を変えて、神の子とされるかということを的確に表現したホセアの言葉に注意することを忘れないようにしたい者です。キリストの救いのよきおとずれが、ここにきかれる。救いとは、神のみまえにおける身分の変化である。神への反逆者が、神の子となることである。奴隷と神の子とでは、身分の上に天と地との相違がある。神は、人類を滅亡にみちびくことを考えておいでにならないことをハッキリ知ることが出来る。

結び

イスラエルの歴史は、神の選びが実現されていく歴史である。また、それは滅びに定められた者の実現の歴史である。しかしそれ以上に、滅びに定められた者に対する神の深く大きな忍耐と寛容の歴史でもあり、やがて異邦人が憐れみの器として登場することを促す歴史でもあった。そして神が憐れみの器として「私達」、すなわち教会をユダヤ人と異邦人が混じり合ったものとしてお召しになるとき、神は約束を実現する。神は、ユダヤ民族だけでなく、広く世界の民の中から御自身の民を集めてくださる。教会は、新しいイスラエルであり、真のイスラエルとなるのである。人間おかれている条件の根本が、神に造られた存在ということであります。この点では人間も陶器も変わらないのであります。創世記2章には神が土で人間を造り、それに命の息を吹き入れられると生きた人間になったと言われています。人間あり陶器と同じように土のもろさをもっており、土より出でて土に帰ります。ただその土の器に神が命と恵みを注いでくださるゆえに、万物の霊長として立っているのであります。従って我々は、被造物としての謙虚さを持って、神によって造られ、置かれている条件を受け入れて、神に仕え、神に応えて生きる事が大事であります。

2020/7/26週報メッセージ

ホ群常任便り2号

朝位 真士 

  ホ群委員長の横山基生先生より送られた「常任便り2号」を抜粋して記載します。

 1.弾圧記念聖会-6月26日で78年目となる。特別の礼拝を守ってほしい。

 2.アンケートの結果-5月15日付の「ホ群常任便りⅠ」での新型コロナウイルス感染の影響に係わるアンケートは37教会から回答あり。①ほとんどの教会において4月から5月末まで礼拝や祈祷会が自粛された。②自粛中にオンラインによるライブ中継ができたところと、設備等の不足でできなかったところに分かれた。オンラインでできても、スマートフォン等を持っていない方へは、文章での説教送付等がなされている。③経済的には、今後どうなるか不安を覚えている。礼拝が通常になっても献金収入が例年と同じ程度に回復するかは未知数と感じているところが多い。ホ群としても支援方法が決まり次第、別途連絡させていただく。④ホ群への要望として挙げられた項目の多くは、IT関係に対する支援であった。ホ群の全ての教会がしっかりとオンラインで繋がる必要性を覚えた。人的・財的支援を秋のセミナーに向けて具体的に行っていきたいと願っている。

 3.オンラインホ群員会-オンラインでホ群員会を会議ソフトZoomを用いて開催した。

 4.秋のセミナー開催形式の変更-10月6日(火)のみオンライン形式。10月5日(月)・6日(火)に予定していたホーリネスの群信徒・教職共同セミナーは、開催形式を大幅に変更。そのため日程は10月6日(火)だけとし、地域毎に集まれる教会の方々は集まっていただく等をして、できるだけ多くの方々をオンラインで結びたいと願っている。現在ITの設備が不十分な教会には、10月までにホ群からの支援のもとオンラインで繋がることに尽力したいと願っている。

 5.2020年度ホ群年会の開催形式の変更と各種献金のお願い。①弾圧記念献金(予約78万円)。②東京聖書学校予約献金(予算400万円)。

「神の憐れみ(あわれみ)」2020・7・19説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・1~18節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をローマ人への手紙は8章までで一段落を告げ、8章の高い経験からすぐ12章の実行の部分に続くべきであるが、教理の終わりの部分に9、10,11章の3章を挿入して、ユダヤ人の選びと福音の関係についてしるしています。信仰による救いとユダヤ人の選びとの調和は、かなり大問題であるが、パウロは「この3章において、信仰による救の道を信じない選民が捨てられたことについて、神のために弁明している。9章では神の絶対主権からこれを弁明し、10章では彼らの捨てられたのは彼ら自身の不信仰のためであることを述べて弁明し、11章では神の知恵ある計画から弁明している。パウロはまず同胞に対する大きな愛を言い表してから(1-3)、彼らの特権を数えあげ(4―5)、神の彼らに対する約束が無効になったのではないことを述べる。信仰による救いと彼らが捨てられた事の関係は、約束に矛盾しない(6-13)。選びは神の大権によることで、信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。(14-18)。信仰による救い神の選びの秘密は聖書にかなっている(19-23)。このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語り(24-29)。かえって、異邦人が救われるのは信仰により、選民が救われないのは不信仰に為であることを説く(30-33)。

 ローマ9・1~18節を見て下さい。ここではイスラエル人に対する神の目的が全体で語られています。1-3パウロの同胞民族に対する切なる感情、4-5ユダヤ民族の7種の特権、6-13彼らに対する約束が無効になったのではないこと、14-18選びに関する神の大能と分解することが出来ます。岸千年先生はこの9章全体をイスラエルの救いを9章全体で語っています。1-5パウロの悩みパウロが、一瞬も忘れなかつた事は、同胞ユダヤ人の救いについてであった。

パウロ自身ユダヤ人であり、キリスト者を迫害した経験の持ち主でありながら、今は、キリストの証人である。彼はキリストの教えの宣教されるたびに、妨害し、時には宣教者の生命を危うくするような挙動にでたことさえもあった、にもかかわらず、パウロの心は、同胞のために燃えたのである。1-5節にパウロの人間としての暖かさを感じます。同胞が、キリストの救いに預かることと、パウロが、悪魔の手に渡されることが、交換条件になっています。6-13節を見て下さい。ここに神の選びー約束の子ここに、パウロは、神の光にてらされた選民イスラエルの実情をここに具体的例としてあげながら、神の御計画の実行にあたっては、人間にとっては、いつも疑問を含んでいるということをあきらかにしています。まず第1にパウロが問題にしたのは、神の言葉の有効性ということである。

何故なら、神の言葉の有効性が、確認されるなら、その言葉は、いつかは、必ず、成就するということも確認されるからである。次にパウロは、冷静にイスラエルの現実をながめる。その観察の結果は、次のようである。このことを追求すると二つの線が出てくる。

神の選びの計画―召しーアブラハムーイサクーヤコブー約束の子、エサウー肉の子。約束の子こそイスラエルであり、アブラハムの子孫にふさわしい内容を備えた者である。これに反して、同じアブラハムから出た者でも、その名にふさわしい備えない者たちは、肉の子である。9・14~18を見て下さい。神の真意が語られています。神は、御自身が、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を、慈しみたもうのであります。ローマ9・15~16節を見て下さい。神の自由な意志の働きから、憐れみの行為が出てくる。出エジプト7・13、8・15、9・12を見て下さい。この言葉をパウロは引用したのであります。神の愛と憐れみに対し、憎しみと、心をかたくなにすることとは、人間の側の事態に応じ、神の御計画に従ってからみあって、具体化するのである。しかし神は、どこまでも愛であり、憐れみたもうおかたであることに変化をきたすことはない。エジプトの暴君パロに対して神がなさったことでさえ、憐れみの枠からはずれてはいなかった。同時に、神のイスラエル解放の御計画からも逸脱していなかった。この二つの交わる点こそ、エジプトの暴君の立たされた場所であり、その場所で、彼は1つの役割を演じたのである。それは、神の名が全世界に言いひろめられるためであった。

結び

 今日のポイント9・15~16節をもう1度見て下さい。この箇所はわたしが箱根のケジックコンベーションという聖会でスコットランドのジョジ・ダンカン博士のメツセージを聞き献身を決意した箇所でもあります。1970年頃のことであります。そこで決心して1年間祈って毎週土曜日に淀橋教会に行って、日曜日朝5時30分の早天祈祷会に出て、教会学校から礼拝、夕拝に出て千葉の市川の会社の寮に戻り、東京まで出て仕事をして、1年後退社して聖書学校に入学して、1975年に卒業して北九州復興教会、曽根集会所に19年間奉仕して1994年4月桜ヶ丘教会に赴任にて26年目を迎えております。このローマ9・15~16節のみ言葉にお祈りの中で導かれました。先生のメツセージは出3~4章のモーセの召命の記事でしたがその夜徹夜でお祈りして献身の召命が与えられました。出エジプト33・19p150ここで神の絶対主権が確認される。神の憐れみと慈しみは、一方的に神の選びであります。救いも全く神の恵みであり、憐れみであります。前日銀総裁であり、教団阿佐ヶ谷教会の役員でいらした速水優兄弟は人生の目標は神の召しに答えることだと言われました。まさしくその通りダと思います。私達の人生の根底に、我々の誕生の前から我々を知り、神の民とすることを定め、我々を選んで導かれる、神の御手が働いているのであります。このことを心に刻み、この神の召し、招きの御声を新しく聞き、神の民の一員として、神の国の建設のために励んで参りましょう。

2020/7/19週報メッセージ

終末の徴

朝位 真士 

  マタイ24章7~14節に「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起きる。しかし、これらすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のためにあなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と記載されている。

 最近、コロナウイルス感染症流行のため、世界的に多くの感染者、死者が出ている記事が、テレビ、インターネット、SNS等で報道されている。また全国で地震や洪水の被害があり、特に私の故郷、九州では大被害を受けている。私自身、伝道者として四十数年、キリスト者として六十年近くなるが、このような被害を見たことはあまりない。

 毎日報道されるニュースは暗いものばかりである。まさしく終末の徴を予想しているかの如くである。私たちクリスチャンは霊の目を醒ましていなければならない。科学文明は進歩して、子供から大人まで便利な時代になり、インターネット、スマホ、メール等、私の幼い頃には想像もつかないほど便利になった。しかし、人間の心は本当に平安と喜びと感謝に溢れているだろうか。この終末の時代、私は神の御声を聖書から聞く。「悔い改めて、福音を信ぜよ。」私はますます伝道者として、キリスト者として、救われる魂のために時間をかけて祈り、労さなくてはならない。主の再臨が迫ってきていると感じる今日今頃である。皆様は如何お感じだろうか。キリスト者の皆様も、神の御声を聖書より聞いてほしい。

1923年6月1日創立