「恵みによって救われた」2021・4・18説教要旨

朝位 真士

この6章は聖徒と訴訟。肉体の神聖。聖霊の宮。1~8聖徒間の訴訟を嘆く。9~10神の国を継ぐことの出来ない不義に対する非難。11恵みによって救われた身分。12寛容な原理13~18きよくあるべき勧め。19~20私達の身分と肉体の神聖。6章の前半は訴訟に関する譴責(悪い行いや過失などをいましめて責める事)(1~8)、後半は淫行に関する譴責(9~20)。聖徒たる者はやがてきたるべき時代において世を裁く(支配する)者であり、(2)マタイ19・28)、更にまた天使もさばくべきものである(3)。このような権利を持つ者同志が訴訟事件を引き起こして未信者の裁判を受けるとは、非常な心得違いである。キリスト者たる者は法律の前に争う問うことは、世の人々にキリスト教を嘲笑させることである。異教徒の裁判官の前にこの世のつまらない事柄を持ち出すのは、キリスト者としての真の威厳を忘れさせることである。教会内で解決することが出来ずに、不信者の前に持ち出すこと自体よくない。互いに訴え合うのは間違っている。むしろ、かえって不義を受け、だまされるほうがよい(7)。十字架の主に従う者は、忍んで不義を受けるべきで、権利放棄、無抵抗、忍従こそ、聖徒らしい麗しい態度である。キリスト者の美徳である(へブ10・34、マタイ5・39~41)。

1コリント6章1~11節を見て下さい。彼はローマ13章に、世の中を統治する権威に、服従すべきであることを教えています。社会の公正(絶体的なものではないが)を保つ為に裁判も必要であろう。だからパウロは、全ての訴訟を否認していない。ただ彼が極力拒むのは、信者同志の訴訟である。この係争は兄弟愛によって解決し、それが出来ない時は、教会の指導者たちのあっせんで解決されるべきであります。より高い,より正しい道徳を教会は、持っているはずである、それに信者同志のごたごたを、この世のものにさばいてもらわなければならないとすれば、それは恥以外の何物でもない。教会員間の不和、不義、不実を天下に公表する結果となる。こうして、「訴え合うこと」自体が、教会員一同の「敗北」なのである。6・7~11節をもう1度見て下さい。ここでは10個の不義が数えられています。偶像礼拝と性的不道徳と経済上の不法である。その中でも、性の乱れに関するものが多いのは、特にコリントにそうした危険が多くあったからであろう。この十個の不法は、全てコリント教会の中に、あったとは考えられない。しかし。あるものはすでに教会の中に入り、他のものも侵入する恐れがあった。「神の国を継ぐ」のは、神の子とされた信者の最大の特権である。教会の道徳的郭清がいかに必要であるか。キリスト教が、真に成功するか失敗するかの分かれ目は、ここにあるとパウロは考えていたようであります。コリント人は知識を誇り、福音を理論として理解し、これを知的に表現することによって、一種の自己陶酔にかかっていた。これで神の国を継ぐことが出来ると思いこんでいた。それは間違いであります。福音はもつと具体的な事実であります。生活に具現する真理である。今日もコリント流の信者が多いことでしょう。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなた方は、主イエス・キリストの名によつて、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義となれたのである」ルターの小教理問答書には、「洗礼は罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し」といい、また「わたしどものうちにある古いアダムが、日ごとの悔いとざんげによって、あらゆる罪と邪悪と共に溺れ死に、そして新しい人が日毎に現れ、またよみがえる、神の御前に永遠に義と純潔を持って生きるようになること」といっています。すなわち、洗礼は信者の生涯に一線をかくすることであります。この線に立って、過去の罪の生涯を清算し、将来を望んでは、神のよみされる新しい生涯に踏み出すことであります。コリントの人々も、このような洗礼をうけたのであります。そうだとすれば,旧態以前とした生活に、甘んじてはならないはずであります。(ローマ6・4、ガラ3・27,2・20)

結び

もう1度6・7~11節を見て下さい。2テモテ4・2節を見て下さい。キリスト者は寛容を尽くして、過ちを犯している者を責めると言う大切な使命を負っている。さらに8~9節更に彼は神の国を相続できなくなる罪を列挙して、警鐘をならしています。最後にパウロは、主イエス・キリストの御名と神の御霊に洗われ、聖なる者とされ、義と認められた兄弟達がいることを感謝している。