2018/1/21 週報メッセージ

   断食祈祷聖会2018に出席して
                                                                                        朝位 真士
  一月八日~一〇日迄、東京中央教会で一二人の講師による聖会が開催されました。今回の主題は「王の帰還に備えて荒野に道を」で、福音派の先生方のメッセージでした。私は、八日に阿佐ヶ谷教会で開催された西東京教区全体研修会に出席して、東京英和女学院院長であり牧師である深井智朗先生の話を伺ったので、九日~
一〇日と二日間出席しました。
 九日、開会礼拝は小林佳師(インマヌエル王子教会牧師)。講演④「チャーチ・スクールの意義と苦悩」西村希望師(みどり野キリスト教会牧師)、講演⑤「衰退していく教会」渡部信先生(日本聖書協会総主事、常盤台バプテスト教会牧師)、講演⑥「激動する格差社会の中での教会」佐々木満男先生(国際弁護士)、聖会Ⅱ「次世代への自覚と重荷ー栄光の日まで伝え続ける」井上義実師(荻窪栄光教会牧師)。
 一〇日、開会礼拝は朝位真士(教団桜ヶ丘教会牧師)。講演⑦「再臨に備えて」竿代照夫師(イムマヌエル総合伝道団牧師)、閉会礼拝、高木康俊師(蓮根バプテスト教会牧師、実行委員長)。
 それぞれの先生方が専門的なお立場から語ってくださいました。西村先生は、教会学校を発展させてフリースクールのような学校を造り、若者達に福音を語っておられます。実際に二~三〇人の若者を連れて来られ、彼らの生き生きとした姿に感動して来ました。渡部先生は、衰退していく教会の具体的な事例を踏まえながら現状をアピールされました。佐々木先生は、弁護士のお立場から福音宣教をされておられるお話でした。井上先生は、福音宣教の重要性を熱く語られ、主の再臨に対する心構えについて例話を交えて語られました。私は、エフェソ六・一〇~二〇より、「神の武具」を身につけてサタンに勝利するための秘訣は、聖霊の力による祈祷であると結びました。                                                               

2018/1/7 週報メッセージ

   今年の聖句と標語が与えられて
                                                                                                             朝位 真士
  今年はヨハネ一五章一~一七節が与えられた。特に「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(五節)が桜ヶ丘教会の中心聖句であり、標語は「実を結ぶ生活」である。
 旧約聖書ではぶどうの木やぶどうの園は神の民イスラエルを例えるのに用いられる。この新約聖書ヨハネ一五章では、イエス様ご自身がまことのぶどうの木として描かれ、このイエスに接ぎ木される時、私たちは真の神の民イスラエルとして回復されるということが描かれている。そしてイエスは弟子との密接な交わりを表している。パウロはこの木と枝の関係をキリストと教会との関係、体と肢体として示している。弟子たちは、信者たちは、イエスにつながっている限りにおいて生きることができ、実を結ぶことができる。しかしイエスから離れるとその機能を失い、ついに枯れて死んでしまう。イエスにつながるものは、単なるご利益や感情の安らぎだけでなく、神と人とを愛する実践となってくることでなければならない。良い実は魂の勝利に限定されない。ガラテヤ五章二二~二三節には「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」とある。実を結ぶとは、キリストにある品性と信仰の成熟ということである。キリストのようになるための条件は剪定(刈込み)である。信仰生活の中で経験する苦しみ、悲しみ、病気、失望、野望の挫折によって枝は生き、きよめられ、実を結ぶ。キリスト者の喜びは神との関係に源がある。
 この一年、実を結ぶために主から刈込みをされるが、主はまた共にいて助け、私たちに勝利と恵みと祝福を与えられる。

2018/1/1 週報メッセージ

      二〇一八年を迎えて   
                                                                                                               朝位 真士
 新年あけましておめでとうございます。
 祈りの中で御言葉を与えてくださいと願いましたら、ヨハネ一五章一~一七節が与えられました。特に、一五章五節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」という御言葉が私の心に強く響いてきて、「実を結ぶ生活」という標語が与えられました。私共が桜ヶ丘教会に遣わされて今年で二四年目になります。前任の西海静雄先生、満希子先生が牧会しておられた時の標語が「実を結ぶ生活」で、ヨハネ一五章五節の聖句が与えられていました。二十数年ぶりにこの聖句に戻ったのは理由があります。桜ヶ丘教会の祈祷目標(一、個人信仰の確立、二、全家族の救い、三、個人伝道による教勢倍加)を、今年も祈りの中で達成させていただきたいと祈っているからです。
 昨年の聖句は「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属するもの、神の家族であり」
(エフェソ二・一九)と「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒一六・三一)でした。
 桜ヶ丘教会が開拓されて九五年目に入ります。一九二三年六月一日、初代牧師である板井康裕先生が開拓され、一九七五年、西海先生夫妻によってパールハイツ桜上水というマンションに会堂が与えられ、その後宗教法人格を取得しました。一九九七年一二月一七日、現在地に土地と建物が与えられ、今日まで主が守ってくださっています。二〇一八年は、私達一人ひとりが主にあって実を結ぶ生活を実現させていただきたいと祈っています。

2018/1/14 週報メッセージ

   西東京教区全体研修会に出席して
                                                                                                             朝位 真士
  一月八日(月・祝)、阿佐ヶ谷教会において集会があり、参加教会四六、参加者二二〇名、献金一四四、八三六円であった。テーマは「伝道とは何か」で、主講師は深井智朗先生(東京英和女学院院長)であった。「私たちが救われたこと、私たちが伝えたいこと」という題で、ユーモアを交えて一時間一五分のお話を伺った。レジメを用意して、御経験を交えながら、牧師として、ミッションスクールの院長として、大変具体的な内容を語ってくださった。要旨を左に記載します。
 はじめにー反省と「よしもう一度」という思い。(1)昨年のルターの改革から五〇〇年から学んだこと。「伝えてほしい」「もっと深く」。(2)「学ぶこと」と「変わること」。(3)「伝道論」ではなく。
 1.伝道はどこからはじまるのか。なぜ伝道するのか。(1)「救われた喜び」からはじまる。(2)神学生時代の経験と幼稚園での体験。(3)ペテロとザアカイの事例、そして私たちは?
 2.私たちは知っているのか?何を伝道するのか。(1)「いかに」ではなくて、「何を」。(2)神の国と教会、「神の国」の希望を語っているか、その前で止まっていないか。福音なのか、処世術なのか。
 3.伝道と礼拝。(1)喜びの礼拝。(2)通じる言葉。
 4.家族や友人、家庭や職場。(1)礼拝を出て、家に帰る。(2)日本の家庭とキリスト教。(3)母のこと。
 5.「教会外のキリスト教」?(1)ドイツの「教会外のキリスト教」と日本の「教会外」のキリスト教。(2)私たちは答えているか。。
 6.これまでと同じように、しかしいつも新しいことばで。(1)「新しいことば」とは救われた経験。(2)マラソンではなく駅伝としての伝道。(3)それでも種を蒔き続ける。(4)教務教師としての経験。
 結論、伝道は自分の体験を身をもって証しする、生活それ自身を通して証しすることである。

2017/12/31 週報メッセージ

   二〇一七年をふり返って
                                                                                                                                   朝位 真士
  二〇一七年も今日が最後の礼拝となります。今年の聖句はエフェソ二・一一~二一と使徒一六・三一の二つで、「神の家族」という標語が与えられました。
 この一年を静かにふり返ってみますと、一月二日にはホ群首都圏新年聖会が桜ヶ丘教会であり、町田先生と横山義孝先生のメッセージを伺いました。二月二六日に二〇一六年度第二回教会総会があり、二〇一七年度宣教方針、二〇一七年度会計予算、伝道師招聘の件について審議し、山本潤伝道師をお迎えすることになりました。役員選挙も行われました。四月三日~四日にはホ群年会があり、今春卒業した山本潤先生が当教会の担任教師として派遣されました。四月一六日にイースター礼拝が行われ、二五名が出席しました。四月二三日は二〇一七年度第一回教会総会があり、二〇一六年度会計決算が承認されました。六月四日、ペンテコステ特別礼拝並びに桜ヶ丘教会創立九四周年記念礼拝で、岸義紘先生によるチャペルコンサートが行われ、四八名の出席でした。六月二五日、ホ群弾圧記念聖会が志木教会で開催され、深谷美歌子先生のメッセージを伺いました。七月一七日には首都圏夏期聖会が赤羽教会で開催され、講師は工藤弘雄先生でした。続いて七月二五日~二六日の二日間、日本伝道の幻を語る会が開催され、山口陽一師、神代真砂美師が講師でした。いずれも大変霊的内容の深いお話でした。八月二五日~二八日、ホ群問安で北海道に行き、網走一麦伝道所(森下貴史牧師)を問安しました。九月二三日~二八日には奥羽・東北の六つの教会を問安しました。一一月二日、竹下大平兄が召天されました。一一月五日、召天者記念礼拝が行われ、「さくらんぼ通信」第一号が発行されました。一二月二四日、ベアンテ・ボーマン師、ルリ子師によるクリスマス・チャペルコンサートが行われ、同日夜には山本潤師のメッセージによるキャンドル・サービス、高田光比古バンドによるジャズ・コンサートが開催されました。
 この一年の歩みを主に感謝します。

2017/12/24 週報メッセージ

   クリスマス・チャペルコンサート
                                                                                                            朝位 真士
  今年もベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えできて、心より感謝申し上げます。先生方は一九九九年一二月一九日(日)の第一回よりクリスマス・チャペルコンサートを続けてくださり、今年で一九回目になります。
 ベアンテ先生は一九五一年スウェーデンのファルン市で誕生。一二歳からチェロを始められ、一九七一年ストックホルム王立音楽大学で最優秀賞を受賞して卒業。一九七一年~七二年ゴテンブルグ市の国立歌劇場の首席チェロ奏者を務められ、最終的にはフィンランド政府給費留学生として一九七九年シベリウス・アカデミー大学院を主席で卒業。一九八〇年から二〇一一年三月までの三一年間、東京交響楽団の主席チェロ奏者を務め、現在客員チェロ奏者として室内楽等の演奏活動のほかに、チャペル・コンサートをはじめとする宣教の働きに携わっておられます。またフィンランド・ヘルシンキ市のラマト・プフ聖書学校で聖書を学び、一九九二年カリフォルニア神学大学院より名誉神学博士号を受けられました。インターアクト協力宣教師でもあられます。
 ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツ国立フォルンバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれ、ベアンテ先生と共に各地で良い奉仕を続けておられます。
 今日のメッセージ箇所はルカ二章一~一二節で、「救い主がお生まれになりました」という題です。救い主(メシヤ)に関しての旧約の預言は、今や歴史的事実となりました。神が歴史の主であることは、定められた時、神により救い主がつかわされたことによって明らかにされました。救い主イエス・キリストの誕生は、素朴なベツレヘム郊外の羊飼いに第一に知らされ、彼らが最初に救い主を礼拝することができたことも、神の御心によることです。すべては人間の常識を破る、神の御計画が優先された出来事です。

クリスマスおめでとうございます

イメージ 1 写真:K/Kさん提供
クリスマスおめでとうございます。
明日12月24日(日)はクリスマス礼拝とクリスマスイブ礼拝が持たれます。
時刻内容は、以下のとおりです。
皆様、お気軽にお出かけください。
お待ち申し上げます。
○クリスマス礼拝・チャペルコンサート
2017年12月24日(日)10:30~
講師 ベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生
お話「主はお生まれになった」
チェロ演奏 
○クリスマス・イブ礼拝とキャンドルサービス
2017年12月24日(日)18:00~
お話 山本潤伝道師
○クリスマスイブチャペルコンサート
ジャズコンサート
 <高田 光比古 バンド>
2017年12月24日(日)20:00~
※軽食を用意しております。聖夜のひとときを教会でご一緒に過ごしませんか。
お待ちしております。

2017/12/3 週報メッセージ

   待降節(アドベント)を迎えて
                                                                                                                                   朝位 真士
  昨年もこの時期に記したと思うが、待降節第一主日は教会暦における元旦である。待降節は待望と憧憬(あこがれ)の期節である。これを「アドベント」というが、この意味は「来る(降臨)」ということである。それは、世界をあげて救い主を待つ時節である。その日は一一月三〇日の使徒聖アンデレの日に一番近い日曜日である。
 この期節は、神がみ子を世につかわすために、イスラエルを長い期間にわたって準備された、その長い数百年にわたる準備の年月に比べるならば、ここで行う降臨節の準備はむしろ短すぎる。昔の人は、大いなるみ子降誕
のお知らせを聞くために、長い長い世紀にわたって準備の時を要した。彼らは、まず第一に、神がひとりの神であることを学ばねばならなかった。ローマ人やギリシャ人は、古代人としては最も教養の豊かな民であったが、
それでもなお多くの神々の存在を信じていた。しかしイスラエルにおける信仰のあつい人々は、主なる神はただひとりの神であることを、くり返し、くり返し教えられてきた。こうして、宗教に対する正しい理解が一通り行き渡ることが、主イエス降臨の前に望ましいことであった。ユダヤ人は、ほとんど当時の全世界に散在して、正しい神観念の普及につとめた。キリスト教を受ける下地を各所に用意した。ギリシャ語は、世界語(当時の社会)となっていて、どこに行っても福音が自由に伝えられるようになっていた。主イエスは、二千年の昔、ユダヤのベツレヘムに誕生したが、多くの人々は彼を迎え入れなかった。
 私は一九六一年一二月二四日に受洗した。一八才、高校三年生の時であった。友人のM兄によって教会に導かれ、クリスマスに、北九州復興教会の山中日出刃牧師によって受洗した。あれから五六年経過している。本当にコヘレト三章一一節の御言葉にアーメンである。

2017/12/17 週報メッセージ

   クリスマスに想うⅡ
                                                                                                             朝位 真士
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ一・四五)
 クリスマス礼拝を来週に控えて、本田弘慈先生の『日々のキリスト』という、先生の大衆伝道三十周年を記念して出版された本の中にある、一二月一七日と一八日の記事を記します。
  天使の告知を受けたマリヤは、大急ぎで、親戚のいるユダの町を訪ねました。そこには、天使の告知を聞い 
 て妊娠していたザカリヤの妻エリサベツがいました。このエリサベツがマリヤを見たときに言ったことば、そ
 れが、この「信じきった人は、何と幸いなことでしょう」でした。エリサベツは天使のことばを信じて、ヨハ
 ネを宿しました。不妊の女といわれた悲しみはこのときまったく消えたのです。「信仰がなくては、神に喜ば
 れることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるこ
 とを、信じなければならないのです。」(ヘブル十一・六)
   信じるということは、難しいことです。まして、「信じきる」ことは。しかし、心からそのようにするとき、 神は、エリ
 サベツやマリヤにだけでなく、二千年後のいまの私たちにも、神のみことばを信じきる者に大きな 祝福をもたら
 します。エリサベツはバプテスマのヨハネを産み、マリヤは人類の救い主である主イエスを産み ました。そして
 マリヤは人類の歴史の中で最も幸いな女性となりました。
  それは、ただ神のことばを信じたということによってです。主はいまも、信じる者を祝福してくださいます。
 救い主イエス・キリストを信じる者は、罪が赦され、神の子とせられます。また、きよめられ、聖霊に満たさ
 れます。病めるときはいやしを、悩みの日には慰めと勝利を得ることができます。そして最後の敵、死にさえ
 も勝つことができます。
 信じることこそ勝利の秘訣であり、祝福への道です。このクリスマス・シーズンにもう一度、信仰の事について、真剣に考えてみましょう。

2017/12/10 週報メッセージ

   クリスマスに想う
                                                                                                             朝位 真士
  私は一九六一年一二月二四日、北九州復興教会のクリスマス礼拝において受洗した。一八才の多感な青春時代である。父の事業が倒産して悶々とした毎日を過ごしていたが、友人のM君によって教会の高校生の特別集会に導かれて、その年のクリスマスに山中日出刃牧師によって受洗した。ヨハネ三章一六節「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉をクリスマスが来る度に想い出すのである。
 この一六節は、全聖書の中心的メッセージを示している。神は自分の恩恵の意思によって、そのひとり子を賜ったと記されている。「賜う」とは、単にひとり子をつかわして誕生させるということではなく、イエスを「死に渡す」(ローマ八・三二)ことであり、「十字架につけて」(マタイ二六・二)殺すことである。イエスの受肉は十字架を目標としており、彼は十字架を目指して進んでいった。三章一三~一五節「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」の言葉が、ここで展開される。神の愛は抽象的ではなく、そのひとり子を人類のために十字架につけるという具体的事実の上に立っている。十字架の上にあげられたイエスを見上げること(信じることー一六節)によってのみ救いは来る。そしてその救いは世界的福音の救いで、ひとりも滅びることがない。神の愛は無限に広く、そして無条件である。ヨハネは神の愛を最高度に説き、福音が世界的であることを重視する。
 このクリスマスの時期に、教会において主の御降誕をお祝いしようではありませんか。

1923年6月1日創立