「イエス・キリストの復活」2020・4・12説教要旨

朝位 真士

2020年のイースターおめでとうございます。今日はマタイ28・1~10を通して聖書を見ていきましょう。キリストの復活は、奇跡とよばれる「不思議なみわざ」とちがい、キリストの神性と人性に関する秘儀である。それゆえ、それは、人間の理性が討議する問題ではなく、人がそれを信仰する事柄である。復活についてはただ1つの説教がある。それは、「信ぜよ」ということである。復活について、パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」(第1コリント15・17)と語っている。それ故、マルチン・ルターが語るように、「キリストの復活を否定する者は、同時に福音の全体と、キリストについて語られる全体を否定する」ということになる。キリストの復活は、キリスト者の信仰の中に、巨大な文字で書き込まれていなければならない。キリスト教教義学は、復活を単独の出来事としてではなく、キリスト教の全体にかかわる事柄として重視している。アルトハウスは、これについて、「復活の証言は、単に復活としてのみではなく、他の事柄とのかかわりにおいて力を持っている」と語っている。これは終末という者が、単に、おわりの事柄として考えられるのではなく、あらゆる「現在」にかかわるものとして受け取られるのと同様である。

マタイ28・1~10節を見て下さい。復活の並行記事はマルコ1~8、ルカ24・1~12,ヨハネ20・1~10に並行記事として記載されています。

復活への信仰と歓喜が、内村鑑三の詩の中に「天地も揺らぐラッパの一声に更生るらむ春の曙」この詩の中に溢れ出ている。復活は大きな驚きをともなう喜びへの爆発である。復活は決して「おわりの事柄ではない。ここから、新しい希望の芽が生まれ出るのである。べルナーエラートは、キリストの復活は新しいエオン(神によってつくり与えられる人間の状況とその時代の開始である)(キリスト教信仰)と述べているが復活を誠に良く表現した言葉である。

結び

もう一度マタイ28・1~10節を見て下さい。

ここでイエス・キリストの復活の重要性について3つのことを考えて見たいと思います。

1・イエスの復活は、イエスが神であったことを示しています。

  イエスは何度も、自分がよみがえることを予告していた。そして、その予告は事実となった。聖書は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大胆によって公に神の御子として示された方、わたしたちの主イエス・キリストです」(ローマ1・4)と述べています。

世の中の人々は、世界の4大聖人として、釈迦、孔子、ソクラテス、そしてイエスの名

をあげています。しかし、釈迦も、孔子もソクラテスも死んだが、復活しなかった。彼らは聖人と仰がれる偉大ナ人物であったかもしれないが、神ではなかった。唯イエスだけが、死人の中から復活し、神の子であることを公に宣言したのである。

2・イエスの復活は、私たちの救いが確実なものであることを保証している。イエスは復活によって、罪に対する刑罰であり、最後の敵である死にも打ち勝った(1コリ15・54,56)イエスは十字架において救いの約束を成就したが、復活によってその約束の成就が確実な者であることを保証した。復活によるイエスの圧倒的な勝利によって、罪も死も力を失ってしまったのである。それ故、私たちは、イエスを信じる時、義とされることが確実であるだけでなく(ローマ4・25)、罪の支配から解放されて、命のある新しい歩みを始めることが出来るようにされる(ローマ6・4-9)。そして、キリストが罪に対して勝利を得たように私たちも罪に対して勝利を得ることできるようにされたのである(1こり15・57)。

3・イエスの復活はわたし達に希望を与えてくれる。イエスは死者の初穂としてよみがえったのであり、イエスを信じる者は、死んでもよみがえらされる(1コリ15・20-22)。私たちはやがて死ななければならない。しかし、イエスを信じる者にとっては、死が最後ではない。やがてイエスが再臨する時によみがえらされ、イエスと共に永遠に生きることができる(1テサロ4・13~17)。多くのキリスト者は、この復活の希望が合ったからこそ、大胆に信仰をあかしし、殉教の死をとげることができたのである。 今日、多くの人々は、死を恐れている。しかし、キリストの復活を信じる者は死を恐れない。何故なら、キリストが死に打ち勝って復活したからである。キリスト者にとって、死は復活の栄光に到達するための、通るべき道にすぎない。復活こそ、私たちの真の希望なのである(1ペテロ1・3)皆さんはこの素晴らしいイエス・キリストの復活を信じてください。