クリスマスおめでとうございます。
キャンドルサービスを少人数で、ささげることができました。
どうぞ、主の平安のうちにクリスマスの喜びが全国全世界にありますようにお祈り申し上げます。
クリスマスおめでとうございます。
キャンドルサービスを少人数で、ささげることができました。
どうぞ、主の平安のうちにクリスマスの喜びが全国全世界にありますようにお祈り申し上げます。
お話と音楽 ベアンテ ボーマン 先生
ピアノ演奏 ルリ子 ボーマン 先生
本日は、クリスマスの特別礼拝をささげました。会堂に集うことが可能な教会員を中心として、少人数によるファミリー礼拝の形で行いました。
ベアンテ・ボーマン先生とルリ子先生によるチェロとピアノの音楽をお聴きしながら、ベアンテ先生による「人となって来られた神」という題で、「本当のクリスマスの意味」のお話をお聞きしました。
輝き渡る希望がある。それは、「イエスは私たちとともにいる」という輝き渡る希望である。どうぞ、メッセージをお聴きください。
クリスマス・チャペルコンサート
朝位 真士
今年もベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えできて、心より感謝申し上げます。先生方は1999年12月よりクリスマス・チャペルコンサートを続けてくださり、今年で22回目になります。
ベアンテ先生は1951年スウェーデンのファルン市で誕生。12歳からチェロを始められ、1971年ストックホルム王立音楽大学で最優秀賞を受賞して卒業。1971年から72年、ゴテンブルグ市の国立歌劇場の首席チェロ奏者を務められ、最終的にはフィンランド政府給費留学生として1979年シベリウス・アカデミー大学院を首席で修了。1980年から2011年までの31年間、東京交響楽団の首席チェロ奏者を務め、現在チェロ奏者として室内楽等の演奏活動の他に、チャペルコンサートをはじめとする宣教の働きに携わっておられます。またフィンランド、ヘルシンキ市のラマト・プフ聖書学校で聖書を学び、1992年カリフォルニア神学大学院より名誉神学博士号を受けられました。またインターアクトの協力宣教師でもあられます。
ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツ国立フォルンバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれ、ベアンテ先生と共に各地で良い奉仕を続けておられます。 1999年、最初にベアンテ先生夫妻が来られた時は62名の出席でした。今年は新型コロナウイルス感染症流行のため、いつものように新聞折り込み広告で外部にお知らせしたり、トラクトを配布したりすることを控えました。そして少人数でベアンテ・ボーマン先生のチェロ演奏とメッセージをうかがいたいと思います。2千年前にイエス様が誕生された時も、ヨセフとマリア夫妻は静かにお祝いしたのではないでしょうか。今年も私たちの心の中に主イエス・キリストをお迎えしましょう。ハレルヤ!!
イグナチオ朝祷会に出席して
朝位 真士
私は月1回、カトリックとプロテスタントの合同祈祷会であるイグナチオ朝祷会に出席しています。11月13日朝7時半の朝祷会に出席して、カトリックの協力司祭ヘネロソ・フローレス神父のお話を聞き、大変感動しました。先生は11月25日で86歳になられ、日本に来られて60年と言われました。「喜んで生きたい、喜んで死にたい」というテーマで、ローマ8章28節「神を愛する人、すなわち、ご計画に従って神に召された人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことを、わたしたちは知っています」という聖句より語られました。以下に内容を記します。
やっぱり、万事は益になるように働き合うことを知っています。信じています。どんな恐ろしい状況の中でも、失望したり、あまりにも悩んだりする余事がありません。現在のコロナウイルスの状況も、そしてまた、それがもたらしているたくさんの迷惑さえも、「益になる」ことを信じています。その信仰は、あらゆる失敗、あらゆる苦しみや迷惑をじっと喜んで耐え忍ぶ勇気をもたらします。「益になる」からです。幸せに生きたいだけでなく、幸せに死にたいのです。これは可能でしょうか。普通人間には「死」という言葉さえもタブーに聞こえます。怖い、やばい、・・・・・・。しかし、ある人には「死」という言葉や考えは喜びを起こすことがあります。これも、パウロのフィリピの信徒への手紙1章21~23節ではっきりと表れています。死は人生の終わりではなく、命の新しい状態への移行、すなわち、この地上の生活におけるあらゆる制約や制限のない、キリストとともに生きる命の始まりです。だから、パウロは「死ぬことはまさにもうけものである」という表現をしました。「喜んで生きること」と「喜んで死ぬこと」の可能性の秘訣は、イエス・キリストの福音”Good News”を受け入れることにあります。すなわち、神の無限で無条件の愛を信じることです(ローマ8:39)。アーメン。
朝位真士
序
今日は来週のベアンテ・ボーマン先生のクリスマスチャペルコンサート前にマタイ1・18~25節を通してイエス・キリストの誕生について学んで行きましょう。マタイ福音書はユダヤ人のために記されたもので、ユダヤ人人系図を重んじるためにこのキリスト伝の最初にまず系図を載せる。ダビデはユダ王国の初めに神に選ばれた王である。またダビデの子とは特にメシアすなわち救い主を言う言葉で、ダビデ王の子孫から救い主が生まれるという神の約束があった。この系図の中から4人の婦人がでるが、そのうちラハブはもと遊女、ルツは異邦人である。系図を重んじるユダヤ人の、しかも救い主の系図から、このような婦人が入っていることは、この救い主によって、いかなる罪人も、如何なる民族の者も救われるということを暗示している。(イエス)とは(罪から救う者)を示す名、(インマヌエル)とは(神我らと共にいます)の意味である。(21)(23)すなわち、イエスは救い主であるが、これはまた(人間の間に宿られる神の化身であることを表す名前である。このキリストは私達のためにも救い主であり、また日々私と共にいます主であられる。(なお「キリスト」とは,ヘブル語の(メシヤ)と同義語のギリシャ語で「油注がれた者」の意味である。ユダヤでは昔、王や祭司や預言者は、油を注がれてその職に任じられたキリストは、人の心を治める王であり、また、神を代表して人を教える預言者であって、その名は、この3つの職分を持つ救い主であることを示す。
本
マタイ1・18~25節を見て下さい。これは、主イエスの誕生の次第はこうであった。と紹介するマタイの記録は意義深いものであった。主イエスの降誕の次第が、これほど荘厳に美しく描き出されたのは、神に対するマタイの信仰と誠実名服従と感動によるものである。
マリヤが神の恵みを得て、主イエスの母とされたことは、名もなく、貧しい、ありふれたひとりの乙女を、その恵みの中で選び、主イエスの母とされたのである。マリヤの婚約者ヨセフも、ナザレの村の普通の労働者であったが、神は、額に汗を流しながら勤労に日々を送るひとりの男子を、救い主の父として選び出されたのである。1・18~22節を見て下さい。主イエスは聖霊によって身ごもられたと記しています。主イエスの誕生については処女降誕と言う言葉よりも聖霊降誕という表現が適切であると考えられる。19節を見て下さい。
ヨセフは不義を憎むと共に、マリヤに対してはあたたかい配慮をした。マリヤを傷つけず、密かに縁を切ろうとした。ところが20節をみてください。主の使いの告げることは単純明快である。マリヤもヨセフにも、これを信じることは容易であったとは思われない。ヨセフが主イエスの地上の父として、またマリヤは地上の母として、神にもちいられるためには、試練を通して強くされることが必要であった。
マタイ1・21~25を見て下さい。
結び
「その名をイエスと名づけなさい」イエスとは、ヘブル名のヨシュヤからきたギリシャ名であり「神は助け主」という意味を持っている。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」イスラエルの民族ばかりではなく、ルカに記されているように「すべての民」(ルカ2・10)が、主イエス・キリストの苦難と十字架の死と復活によって、もろもろの罪から救い出される。罪とは、本来、ふむべき道を踏み外すと言う語義をもって、人が自分の欲望のままに生き、神に背を向け、あるべき道筋を踏み外した存在となっていることである。それゆえ、「イエス」という名前がとなえられるごとに、神の愛があらたにおもわなければならない。「主が預言者によって言われたことの成就するためである」マタイはイザヤ7・14を引用している。「インマヌエル」とは「神我らと共にいます」と言う意味である。この名前は、主の使いが名付けたイエス「神は助け主」という名前と、その意味において同じである。25節しばしば主イエスの母マリヤだけが重んじられ、ヨセフがわすれられているが、主イエスの父ヨセフの苦悩と信仰を見落としてはならない。このようにして主イエスは、信仰あるヨセフ、マリヤ夫妻の祝福された家庭に生まれたのである。
2020年度クリスマスを迎えるにあたって
朝位 真士
今年も12月20日(日)午前10時半にベアンテ・ボーマン先生をお迎えすることができて、感謝しています。今年は6月の創立97周年記念の集会に岸先生をお迎えすることができず、また10月に高田光比古先生のジャズ・バンドをお迎えすることもできませんでした。本当に期待して祈っていたのに、大変残念でありました。しかし、クリスマスは桜ヶ丘教会のファミリークリスマスとして、普段教会に来られている信者の方々を中心に、チャペルコンサートを開催する予定です。外部には宣伝しませんが、ベアンテ・ボーマン先生ご夫妻が講師をお引き受けくださいました。今年は2月頃から、コロナウイルス感染症拡大のために各集会が休会という事態となって大変残念なことですが、ベアンテ・ボーマン先生は、「たとえ集会に集まる方々が少人数であっても、私共は御用させていただきます」という強い意志と信仰をお持ちであることをうかがい、先生方は音楽家である前にキリストの宣教者でいらっしゃいますことを強く感じました。
そのような宣教の情熱と信仰をお持ちの先生方の集会ですから、一人でも多くの方にご来会いただきたいところですが、なにぶん三密を避けなければなりません。残念ですが、宣伝は控えることにいたしました。マスク、手指消毒、換気をして、感染が生じないように祈りつつ、注意してこのクリスマス集会を開催したいと願っています。また当日は、特別に神様のプレゼントが用意されています。一人の方が受洗に導かれています。主許し給わば、私が洗礼式の司式をさせていただきたいと思います。教会員の友人で、ずっと皆様方に祈られておられた方です。是非この洗礼式が挙行できますように、皆様方の祈りを切に要請したいと思います。主に栄光を帰しつつ。ハレルヤ!!
朝位真士
序
今日はローマ16・17~27節を通して学んで行きましょう。このローマ16・17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。パウロは16章において、美しい信徒の交わりを思いつつ、1人ひとりの名をあげて挨拶を書き送った後、17節以下において厳しい警告を与えています。17節それは美しい聖徒の交わりが成り立つのは、「主であるイエス・キリスト」(18~20)とのいける交わりによるのであり、この主との関係が切れるならば、それは源をふさがれた井戸、ぶどうの幹から切り離された枝のように、霊的生命を失うのであります。キリスト者が「聖徒」(16・2、15)であるのは、自分の力による「聖人」ではなく、キリスト・イエスに選ばれ清められるからであります。そして、信徒の交わりは1人ひとりが主に従うという狭き門を通して、真の連帯の広場にでることが出来のであります。最後の16・25~27では、パウロこれまで詳細に説きあかしてきた福音をローマの信徒1同に思い起こさせ、「この福音は、世世にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものであります。その計画は今や現わされて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべてに異邦人に知られるようになりました」(16・25~26)とその意義を確認しています。そして「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように」(16・27)と、いえす・キリストにある神の栄光を讃美して結びとしたのであります。わたしたちも「ただ神の栄光にのために」(soli Deo gloria)と主を讃美しつつ生きたいものであります。
本
ローマ16・17~27節を見て下さい。パウロは、17節以下のこの部分で、信仰の友のことを思い出して、「主にある交わり」のいかに楽しいものであるかを考えていたでありましょう。しかし17節以下では、教会内の分裂の警告が与えられています。交わりをおびやかすものは分裂である。パウロは、悪の力の侵入を強く警戒したのであります。だから、キリストにあって勝つように、平和の神に対してサタンとの戦いに勝利が与えられるように祈っているのであります。16・21~24ではパウロは、この人々と共にいることの喜びを現実に体験しることを思えば、キリストにあける勝利を感謝せずにはおられなかった。ただ祝祷だけが、口からでるのであった。私達の主イエス・キリストの恵みが、あなたがた
1同と共にあるように。キリストの恵みだけが、キリスト者の生活の道しるべだからであります。25~27節では信仰の従順に至らせたえ福音の宣教は、永遠の神の命令の目的は、信仰の従順に至らせるためであります。従順は、神を仰ぎ、神の備えたもうものを、そのまま受けることであります。
結び
わたしたちを力づける神は、すなわち唯一の知恵深き神です。ローマ11・33節を見て下さい。この知恵とは救いを得させる知恵です。その知恵の内容は、「義と聖とあがない」なのです。義認・聖化・栄化、まさにローマ人への手紙のメツセージの要約です。だからこそ、「イエス・キリストにより」頌栄をささげるのです。ローマ人への手紙に現わされた救いの知恵、ただ十字架と復活のキリストを信じるだけで、赦罪、義認、聖化、栄化の恵みを受け、神を心から愛し、信じ、従う者と立たせてくださる神、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるようにアーメン
朝位 真士
序
今日はローマ16・1~16節を通して聖書をみて行きましょう。この16章は模範的信者。忠実な牧者の心。分裂の霊に働きと征服。1~2女執事フェベの推薦。3~16諸聖徒によろしくとの個人的挨拶。17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。となっています。プリスカとアキラの夫婦(3)は、天幕造りを職業とする信徒であるが、御言葉に通じ、恵みの経験に深い人たちであります。(使徒18・2,26)。パウロも天幕を製造しながら、自給伝道をしたことがあるので、彼らと同業であるため一緒にいたことがあります。そして、いつ頃わからないが、2人はかって身命を落としてパウロをかばったことがあります。それ故パウロはここで、(わたしの命を救うために、自分の命を救うために、自分の命を救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである)と言って感謝し、なおこの異邦人への使徒を救ったために(異邦人のすべての教会も感謝している)と言う(4)。2人は実に文字通り「兄弟にためにいのちを捨てる」愛の人であった(第1ヨハネ3・16)。更にこの夫婦は、至る所で家庭を開放して家庭集会を開いたらしく、恵まれた彼らの家庭が中心となって、信者が集められ集会所すなわち教会となった。(彼らの家の教会)とはそれを言う(5)。彼らは御言葉には詳しく、深い経験に進んでいたので、聖書に精通し、雄弁で熱心な伝道者アポロを自分の家に「招き入れ、更に詳しく神の道を解き聞かせ」て、更に深い経験に導いたことがあり(使徒18・24~26)、また命がけで兄弟を愛し、伝道者を守り、伝道心に燃えていた。まことに模範的な信者であります。
本
ローマ16・1~16節を見て下さい。ここに一人一人への懇切な挨拶には、大いに教えられる。ヨーロッパ大陸をまたにかけての巡回伝道者パウロが。1地方の信者個人個人の名をあげ、勲功や自分に対する親切などを1つ1つ記して、安否を問う。なんという愛の心であろう。パウロでさえ一人一人を覚え、それぞれの奉仕を忘れなかったのであれば、まして主がお忘れになるようなことはないと言うことを教えられる(へブル6・10)。パウロは、信者個人個人をつねにその心に刻んでいたことがわかる。これが忠実な牧者の心である。ここにひとりびとりのいろいろな勲功があげられている。共に働く(同労者)(3)、(自分の首をさえ差し出し)生命をも提供して捨て身になって尽くす援助者(4)伝道者のために(一方ならず労苦した)世話人(6)獄まで伴い(一緒に投獄された)忠実な同族の者(7)、(キリストにあって練達)な者(10)、(主にあって労苦している)女達(12)など私達もこのような奉仕と生涯において、主に推賞されるものになりたいです。ローマ16章は、初代教会における信徒相互の交わりが、いかに深く広いものであったかを、生き生きと示すものであります。パウロは未知のローマ教会宛に、キリスト教信仰の核心を記した長い手紙を書き送りましたが、その終わりに、自分の知人の1人1人の名を挙げて、心からの挨拶を書いたのであります。
結び
このパウロの挨拶から、初代教会の特徴をいくつか示されています第1・当時の教会には、差別と並んで女性や奴隷の名が多くみられることであります。「フェベ」(16・1)、「プリスカ」(16・3)、「マリヤ」(16・6)など、女性名が多く出てくることは、女性を男性と等しく考えるのが、キリスト教の大きな特徴であったことがうかがえます。また「フェベ」(16・1)、「アンプリアト」(16・8)、「ペルシス」(16・12)などは奴隷に多い名前でありました。さらに「アリストプロ家の人々」(16・10)、「ナルキソ家・・・人々」というのは、その家に属する奴隷のことでありました。これらの女性や奴隷は、当時社会においては男性より低い地位に甘んじなければなりませんでした。場合によっては人権も認められませんでした。しかしキリスト者は神の前ですべての人間が同一であることが知らされ、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて1つだからです」(ガラ3・28)と言う確信を持っていました。キリスト教は人間ひとり1人に対する神の愛を知ることによって、差別を廃止、人間を解放したのであります。
第2パウロはこれらの主にある兄弟姉妹たちの名を記すに当たって、「愛する」という言葉を何度も用いており、またその人達が人々のために「非常に苦労した」(16・8)ことを教会全体が特に覚えるように促していることが注目されます。「わたしの愛するエパイネト」(16・5)、「主に結ばれている愛するアンプリアト」(16・8)、「わたしの愛するスタキス」(16・9)「主のために非常に苦労した愛するペルシス」(16・12)、キリスト者は自分の使命を果たす時に、誰もみてくれ図、理解してくれなくても「神知りたもう」、「神は御心に留めて下さる」ことを信じて、自分の道を進みます。1コリ15・58節を見て下さい。p323です。第3に注目されるのは16・13節の「ルフォス、およびその母」であります。マルコ15・21節p95ルフォスはキレネ人のシモンの子であった。シモンは、キリストの十字架を負わされた、それがきっかけとなって、自分の家族がキリスト者となり、
ルフォスの母、すなわちキレネ人のシモンの妻は、使徒パウロから「彼の母は私にとっても母なのです」と感謝されています。このようにパウロはローマ16章において、美しい信徒の交わりを思っています。
初代教会の信仰を伝える
朝位 真士
前々号で主の祈りを学びました。今日は使徒信条を考えてみたいと思います。毎月聖餐式の時に、使徒信条を称えています。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の命を信ず。アーメン。」
使徒信条は初代教会で140年頃にまとめられた最古の信仰告白文で、当時のものは今より短く、今日の形態は5世紀頃に作られました。信条とは神とその働きについて信じる内容を要約したものです。作られた目的は二つあり、一つは信者がバプテスマを受ける時の信仰告白のため、二つには異端に対して聖書の真理を守るためでした。内容は、三位一体の神、すなわち父・子・聖霊なる神の働きを順に要約し、体系的な聖書理解を助けます。
主の祈りや使徒信条を礼拝や集会の時にそらんじることがありますが、一つひとつの字句や内容を深く考えないで口ずさみ、何かマンネリ化していることはないかと深く反省させられました。皆様方はいかがでしょうか。初代教会の信仰を伝える主の祈りと使徒信条を、もう一度真剣に考える必要があるのではないでしょうか。私はもう一度、一人で静かに主の祈りと使徒信条を読みながら、一息一息、主の祈りと使徒信条の深い意味を、神様から問われた感じがしました。皆様も、主の祈りと使徒信条を一呼吸一呼吸味わいながら称えてはいかがでしょうか。きっと今までにない新鮮味を感じるのではないでしょうか。
朝位真士
序
今日はローマ15・22~33節から聖書を学びましょう。この15章はパウロの書簡ですが、一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。22~29ローマ訪問の希望、30~33祈りの要求、祈祷が語られています。今日の題目はローマ15・33節よりつけさせて頂きました。
本
ローマ15・22~33節をみてください。ここではパウロは、ローマ訪問を望んでいました。しかし、ローマには、すでに、教会の土台が出来ていました。けれども、ローマを拠点として、スペインは勿論、ローマから西のヨーロッパ全土に目が向けられたかも知れません。パウロはこの手紙の冒頭でローマ訪問の切願について触れましたが、22節以下では再びそのことについて言及すると共に、ローマからスペインまでの遠大な宣教計画を明らかにします。ところが、25節からは一転して、当座の計画であるエルサレム教会訪問について、熱い胸中を明らかにしています。22節から24節をみてください。パウロの心を満たしていたものは福音を「地の果てにまで」という世界宣教のヴィジョンでした。すでにパウロはエルサレムからイルリコまで福音を満たしてきました。東地中海世界において「もはや働く余地がなく」なったと言っています。次の宣教戦略は西地中海世界です。西の果ての国がイスパニヤ、つまり、今日のスペインまでの宣教です。23節で、ローマ行きを「たびたび妨げられた」と打明けていますが、世界宣教に燃えるパウロにサタンがどんなに水をかけても、それは火に油を注ぐものなので、妨げられれば妨げられるほど、世界宣教の情熱は燃え上がったのです。24節を見ると、パウロの遠大なヴィジョンをはっきりと読みとれます。第1のことは、彼の最終ゴールは福音をスペインまでということ。第2のことは、そのことのために、ローマ教会を通過点ではなく、拠点、基地としたいという目標見です。イエス・キリストの再臨を前に、何としても福音を地の果てにまで満たしたいというパウロの世界宣教戦略は、まさに福音の遠心力によるものです。ローマ帝国の西へ西へという福音の遠心力がすさまじい勢いで働いていたことは確かです。やがてローマはその拠点となり、ペテロもパウロもその地で殉教を遂げたと言われています。25~29節を見て下さい。ここに福音の求心力が25節以下に見ることが出来ます。福音は、常に外への伝道の力と内への交わりの力をもたらすのです。26節にマケド二ヤとアカヤの教会で集めた献金をエルサレム教会に手渡すためでありました。エルサレム教会は貧しい聖徒が多くいました。この貧しい人々をかえり見ることはエルサレム教会との約束事項でありました(ガラ2・10)。何よりも福音の霊的祝福はエルサレム教会から全世界に及んだのですから、物質的祝福をもって感謝をあらわすのは当然なことであるとパウロは語っています。ここに教会の真の交わりを見ることが出来ます。26節の「援助する」も27節の「霊の物に「預かった」もコイノ二ヤという言葉が使われています。貧しさを「共有する」という「共生」の理念があります。パウロは、福音の実である愛の献金を渡すことにより、異邦人教会とユダヤ人教会が全く1つのキリストの教会の交わりに生きることを示したかったのです。パウロのエルサレム教会への感謝を表す福音の求心力は、さらに爆発的な遠心力となって世界宣教へと拡大するのです。キリストの満ち溢れる祝福の使徒、それがパウロです。遠心力による宣教、求心力による交わりを通して、行く先々にキリストの祝福が満ち溢れました。強力な遠心力を生かして救霊のみ業に当たりましょう。信仰の祈りと愛の呼びかけを持って、家族、友人、知人に救いを拡大ささせましょう。貧しい人々、国々、諸聖徒、諸教会へ、もつともつと愛の献げ物をもつて交わりを深めましょう。15・30~33節を見て下さい。熱烈な祈りに包まれて小島伊助先生は、ここに聖徒の3大意欲があるといわれました。伝道と献金と祈祷であるというのです。
結び
15・30節をもう1度見て下さい。ここに祈りの戦いの要請が語られています。祈りは戦いです。格闘です。神と相撲を取ることです。ヤコブのように、神に勝つのです。神に勝つつまり神の御手を動かすしかも1人で戦うのではありません。共闘でなければ勝てないのです。こうしてパウロは3つの祈りの課題を出しました。第1の祈りの課題はユダヤにいる不信仰者から救われることです。第2の祈りの課題はエルサレムに対するパウロの奉仕が聖徒たちに受け入れられることです。パウロは献金通して、ますます、ユダヤ人教会と異邦人教会が1つになり、「エルサレムから」世界宣教の使命が果たされるように願っていました。第3の祈りの課題は、ローマ教会において共に慰め、共に憩いを得ることです。第1と第2はセツトとなつて、その結果の最終的な祈りの課題ですから「共に憩う」そしてついに神の御旨により、喜びをもってローマに向かい、主イエスが「休ませてあげよう」と約束されたその憩いのハ-モ二―を共に奏でるのです。教会の交わりの最たるものは「憩い」です。33節は、平和の神の祝祷です。忍耐と慰めの神、希望の神は、ここでは、平和の源なる神です。波乱万丈のパウロの生涯に、常に伴っていた方が、平和の神から来る真の安息でした。ストレスの多いこの時代です。教会が真の慰め家、憩いの場所となり、そこで常に新しい力が与えられることを求めようではありませんか。平和もう1度15・33節を見て下さい。「平和の神」すなわち。神と「わたし」との間にあった不和の状態が、キリストにおいて除かれ、救いを与える神がローマの兄弟たちとともにあるようにとパウロは、祈って、この15章を終わっています。祈りに始まって、祈りに終わっているのであります。