「イエスによる永遠の命」2020・5・10説教要旨

朝位 真士


今日はローマ6・15~23節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生によると
ローマ6・15~23節を2つに分類しています。6・15~22義の僕であるゆえ、聖潔に至るべきこと。23罪の支払う報酬である死と、神の賜物である永遠のいのち(命)と分解しています。15節以下は私たちは今は(罪から解放され、義の僕となった)者(18)、また(罪から解放されて神に仕える者)(22)であるから、(義にいたる従順の僕)で(16)、(きよくならなければならない)者でこそあれ(19)、決して罪を犯すべき者ではあに、と説く。義の僕は現世においては聖潔という果実を結ぶが、その終極は(永遠のいのち)である(22)。これは(罪の支払う報酬)(死)とは全く反対で、神の純粋の恵みのみの賜物である(23)。



ローマ6・15~23節をみて下さい。ローマ6章は、古くから「義認と聖化」の問題を取り扱われています。「義認」とは、神が恵みにより、イエス・キリストの十字架の犠牲を通して人間の罪を赦し、義と認めるという、福音の神髄を表す言葉であります。それに対して「聖化」(聖潔)とは、罪を赦された人間が、この恵みに応えようとして努め励み、生活をきよめ、正しくしてゆくことです。このために聖霊が私達の内に働いて、私達を強めてくださるのであります。ルターなどの宗教改革者は「義認」福音を再発見したのでありますが。
ジョン・ウエスレーは「聖化」の問題を生涯追求し続けたのであります。この義認と聖化の2つの真理がどのような関係にあるかは、大きな問題であります。「義認」を強調すると、神の赦しをよいことにして、恵みに甘えた、生ぬるい人間を作ることになりかねません。また「聖化」を強調すると、人間が自分に生涯を潔くなっているか、向上しているかということに神経質になり、「義認」の福音が教える、「あなたの罪は赦された」という真理、あの喜ばしい真理が解らなくなってしまいます。この「義認と聖化」「福音と律法」の関係について、パウロは6章の前半において、キリスト者は「キリストと共に罪に死んだ」者であることを強調し、罪人としての古き人生から断絶されているのであるから、古い生活に安住することは不可能であるとか語ったのであります。6章後半においては、キリストの救いは、人間を罪の支配のから神の支配に移すことであり、従って救われた者とは、同時に神の支配に服して神に仕える者であり、罪の生活に安住するようなことはあり得ないことを明らかにしています。ここで罪は人間を無理矢理に引きずつていく、強い力として示されています。人間は内なる欲望を満たそうとして、誘惑に負け、罪を犯すのでありますが、それをきつかけとして、悪魔的な力が彼を虜にして、支配するものであります。この力から人間を解放するのは神の力以外にはありません。従って人間は、罪の奴隷か、神の僕であるか、いずれにせよそのどちらかの力によって、支配されている存在なのであります。「6・16」しかし6・17~18節を見て下さい。ここに決定的支配の転換が起こったことを告げています。20節には「自由の身」と訳されています。ガラテヤ5・1を見て下さい。ここにキリスト者が罪に対して「自由の身」でありつつ「神の奴隷」であるというのです6・22節を見て下さい。


結び

もう1度6・15~23節を見て下さい。カルヴァンは「キリスト教綱要」に中で、「キリスト教生活の要約」として、一言で言えば、自分を「生きた、聖なる、神の受け入れられる供え物として、神に献げる」ことである(12・1)と言い、次のように説いています。
「われわれはわれわれのものでない。・・・・したがってわれわれは、肉によって自分に都合のよいものを求めることに目的を置いてはならない。・・・その逆に、われわれは神のものである。したがって、われわれは神のために生き、彼のために死ぬべきである。われわれは神のものである。従って我々のことごとくの行動は、神の知恵と意志によって支配されねばならない。われわれは神のものである。それならば、われわれの生のいつさいの部分は、あげて(唯一の)正しい目的として彼に向かわなくてはならない。ああ、自分が自分のものでないことを教えられ、自己の理性から主権と支配とをとりさって、神に身を委ねる人は、いかに進歩した人であろう」。
(キリスト教綱要Ⅲ1,7,1)
6・23節には6章の結論として「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。と聖書は語っています。」