「旧週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2017/12/24 週報メッセージ

   クリスマス・チャペルコンサート
                                                                                                            朝位 真士
  今年もベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えできて、心より感謝申し上げます。先生方は一九九九年一二月一九日(日)の第一回よりクリスマス・チャペルコンサートを続けてくださり、今年で一九回目になります。
 ベアンテ先生は一九五一年スウェーデンのファルン市で誕生。一二歳からチェロを始められ、一九七一年ストックホルム王立音楽大学で最優秀賞を受賞して卒業。一九七一年~七二年ゴテンブルグ市の国立歌劇場の首席チェロ奏者を務められ、最終的にはフィンランド政府給費留学生として一九七九年シベリウス・アカデミー大学院を主席で卒業。一九八〇年から二〇一一年三月までの三一年間、東京交響楽団の主席チェロ奏者を務め、現在客員チェロ奏者として室内楽等の演奏活動のほかに、チャペル・コンサートをはじめとする宣教の働きに携わっておられます。またフィンランド・ヘルシンキ市のラマト・プフ聖書学校で聖書を学び、一九九二年カリフォルニア神学大学院より名誉神学博士号を受けられました。インターアクト協力宣教師でもあられます。
 ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツ国立フォルンバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれ、ベアンテ先生と共に各地で良い奉仕を続けておられます。
 今日のメッセージ箇所はルカ二章一~一二節で、「救い主がお生まれになりました」という題です。救い主(メシヤ)に関しての旧約の預言は、今や歴史的事実となりました。神が歴史の主であることは、定められた時、神により救い主がつかわされたことによって明らかにされました。救い主イエス・キリストの誕生は、素朴なベツレヘム郊外の羊飼いに第一に知らされ、彼らが最初に救い主を礼拝することができたことも、神の御心によることです。すべては人間の常識を破る、神の御計画が優先された出来事です。

2017/12/3 週報メッセージ

   待降節(アドベント)を迎えて
                                                                                                                                   朝位 真士
  昨年もこの時期に記したと思うが、待降節第一主日は教会暦における元旦である。待降節は待望と憧憬(あこがれ)の期節である。これを「アドベント」というが、この意味は「来る(降臨)」ということである。それは、世界をあげて救い主を待つ時節である。その日は一一月三〇日の使徒聖アンデレの日に一番近い日曜日である。
 この期節は、神がみ子を世につかわすために、イスラエルを長い期間にわたって準備された、その長い数百年にわたる準備の年月に比べるならば、ここで行う降臨節の準備はむしろ短すぎる。昔の人は、大いなるみ子降誕
のお知らせを聞くために、長い長い世紀にわたって準備の時を要した。彼らは、まず第一に、神がひとりの神であることを学ばねばならなかった。ローマ人やギリシャ人は、古代人としては最も教養の豊かな民であったが、
それでもなお多くの神々の存在を信じていた。しかしイスラエルにおける信仰のあつい人々は、主なる神はただひとりの神であることを、くり返し、くり返し教えられてきた。こうして、宗教に対する正しい理解が一通り行き渡ることが、主イエス降臨の前に望ましいことであった。ユダヤ人は、ほとんど当時の全世界に散在して、正しい神観念の普及につとめた。キリスト教を受ける下地を各所に用意した。ギリシャ語は、世界語(当時の社会)となっていて、どこに行っても福音が自由に伝えられるようになっていた。主イエスは、二千年の昔、ユダヤのベツレヘムに誕生したが、多くの人々は彼を迎え入れなかった。
 私は一九六一年一二月二四日に受洗した。一八才、高校三年生の時であった。友人のM兄によって教会に導かれ、クリスマスに、北九州復興教会の山中日出刃牧師によって受洗した。あれから五六年経過している。本当にコヘレト三章一一節の御言葉にアーメンである。

2017/12/17 週報メッセージ

   クリスマスに想うⅡ
                                                                                                             朝位 真士
 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(ルカ一・四五)
 クリスマス礼拝を来週に控えて、本田弘慈先生の『日々のキリスト』という、先生の大衆伝道三十周年を記念して出版された本の中にある、一二月一七日と一八日の記事を記します。
  天使の告知を受けたマリヤは、大急ぎで、親戚のいるユダの町を訪ねました。そこには、天使の告知を聞い 
 て妊娠していたザカリヤの妻エリサベツがいました。このエリサベツがマリヤを見たときに言ったことば、そ
 れが、この「信じきった人は、何と幸いなことでしょう」でした。エリサベツは天使のことばを信じて、ヨハ
 ネを宿しました。不妊の女といわれた悲しみはこのときまったく消えたのです。「信仰がなくては、神に喜ば
 れることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であるこ
 とを、信じなければならないのです。」(ヘブル十一・六)
   信じるということは、難しいことです。まして、「信じきる」ことは。しかし、心からそのようにするとき、 神は、エリ
 サベツやマリヤにだけでなく、二千年後のいまの私たちにも、神のみことばを信じきる者に大きな 祝福をもたら
 します。エリサベツはバプテスマのヨハネを産み、マリヤは人類の救い主である主イエスを産み ました。そして
 マリヤは人類の歴史の中で最も幸いな女性となりました。
  それは、ただ神のことばを信じたということによってです。主はいまも、信じる者を祝福してくださいます。
 救い主イエス・キリストを信じる者は、罪が赦され、神の子とせられます。また、きよめられ、聖霊に満たさ
 れます。病めるときはいやしを、悩みの日には慰めと勝利を得ることができます。そして最後の敵、死にさえ
 も勝つことができます。
 信じることこそ勝利の秘訣であり、祝福への道です。このクリスマス・シーズンにもう一度、信仰の事について、真剣に考えてみましょう。

2017/12/10 週報メッセージ

   クリスマスに想う
                                                                                                             朝位 真士
  私は一九六一年一二月二四日、北九州復興教会のクリスマス礼拝において受洗した。一八才の多感な青春時代である。父の事業が倒産して悶々とした毎日を過ごしていたが、友人のM君によって教会の高校生の特別集会に導かれて、その年のクリスマスに山中日出刃牧師によって受洗した。ヨハネ三章一六節「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉をクリスマスが来る度に想い出すのである。
 この一六節は、全聖書の中心的メッセージを示している。神は自分の恩恵の意思によって、そのひとり子を賜ったと記されている。「賜う」とは、単にひとり子をつかわして誕生させるということではなく、イエスを「死に渡す」(ローマ八・三二)ことであり、「十字架につけて」(マタイ二六・二)殺すことである。イエスの受肉は十字架を目標としており、彼は十字架を目指して進んでいった。三章一三~一五節「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」の言葉が、ここで展開される。神の愛は抽象的ではなく、そのひとり子を人類のために十字架につけるという具体的事実の上に立っている。十字架の上にあげられたイエスを見上げること(信じることー一六節)によってのみ救いは来る。そしてその救いは世界的福音の救いで、ひとりも滅びることがない。神の愛は無限に広く、そして無条件である。ヨハネは神の愛を最高度に説き、福音が世界的であることを重視する。
 このクリスマスの時期に、教会において主の御降誕をお祝いしようではありませんか。

2017/11/26 週報メッセージ

   信仰とは
                                                                                                               朝位 真士
  ヘブライ一一章一節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とある。聖書において信仰とは、神に対する正しい関係を表現する概念である。
 一、旧約において「信じる」に当たる動詞は「確かなもの、堅固なものにする」という意味である。祈りの最後に用いられる「アーメン」も関連する用語である。神への信仰とは、神を確かなものとすること、すなわち、信頼に値する方としての神に信頼するということである。たとえば、創世記一五・六に語られるアブラハムの信仰とは、神の真実(確かな事)に信頼を寄せることであった。このように信仰とは神の確かさへの信頼であるがゆえに、信じないものは動揺せざるを得ない(イザ七・一~九)。
 二、新約における信仰の中心はイエス・キリストを信じる信仰である。それは、イエス・キリストにおいて救いの業をなされた神への信頼であると同時に、イエス自身への信頼をも含んでいる。たとえば、福音書に記録されているイエスの癒やしの記事において、求めてくる者はイエスへの信仰(信頼)をもって彼に接近する(マタ八・
一〇、マコ二・五、五・三四)。旧約にルーツを持つ「神(とイエス・キリスト)の確かさへの信頼」という意味での信仰は、イエスの死と復活を中心とする宣教内容(ケリュグマ)と結びついて展開する(ロマ一〇・九)。すなわち、キリストの十字架と復活において明らかにされた神の救いの確かさへの信頼、確信がキリスト教信仰の中核となった。たとえば、パウロはその点を「信仰によって義とされる」という信仰義認のテーマによって展開する。パウロによれば信仰は聖霊の賜物であり(Ⅰコリ一二・三、ガラ三・三)、信仰は従順(倫理)を生み出していく(ロマ一・五、一六・二六)。ヨハネ福音書の目的は「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とされている。

2017/11/19 週報メッセージ

   教会の成長のために                                                                 
                                                                                                              朝位 真士
  「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ六・一八)
 私は最近、本田弘慈先生の『祈りは奇蹟を生む』という御本を拝読させていただきましたので、教会関係者と
恵みの分かち合いをしたく思います。
 使徒パウロはエペソにあてた手紙の中で、「祈りなさい」とすすめ、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」とすすめています。祈りは個人的な神との交わりですが、その祈りの中でとりなすともすすめられています。クリスチャンが自分と自分の身のまわりのことを真剣に祈ると同時に、他人のため、格別、キリストにある人々のために祈ることも大切です。
 キリストの教会は、クリスチャンの祈りによって進展するのです。祈っている信徒の多い教会は成長し、祈りの手が下がった時、教勢も衰えてきます。祈っている人の多い教会は火が燃えているようにいのちに満ち、生き生きとしています。しかし、祈りの少ない教会は氷倉の中のようにひんやりとした冷たさを感じさせられます。バウンズ博士は「祈りの会衆は祈りの講壇を生み、祈りの講壇は祈りの会衆を生む」と語りました。私たちもパウロのように、「忍耐の限りを尽くして」祈り続けることが大切です。主はその祈りをむなしく終わらせるようなことはなさいません。そこには必ず御霊の働きが始まるでしょう。                                                               
 私はこの本を拝読して、頭をガーンとなぐられた感じがいたしました。まず教職一同がもっともっと真剣に、教会成長のために、個々人の魂のために、主に祈らねばなりません。皆様、毎日数分でもお祈りいたしましょう。

2017/11/12 週報メッセージ

   二〇一七年ホ群信徒・教職共同セミナーに出席して
                                                                                                               朝位 真士
  過ぐる一一月六日(月)~八日(水)迄、ホ群セミナーが市川サンシティ・ホテルで開催されました。今回は「ホーリネス信仰と教会形成」を主題とし、「教会規則による恵み」を副題としました。二〇一六年のホーリネスの群結成七〇周年を経て、これからのホ群の歩みを考える時、より豊かな教会形成の必要性を覚え、このための一つの学びとして、今回教会規則に焦点をあてることに導かれました。
 参加者は信徒・教職で約九五名、席上献金は二回で約二一万円でした。開会礼拝、司会森浩師、説教朝位真士。主題講演、司会木村かたる師、講師大友英樹師。聖会Ⅰ、司会鈴木恵子師、説教田中寛也師、証し中込愛子師。二日目、パネルディスカッション、司会横山基生師、パネリスト山口紀子師、潮義男師、山本修一師、原田彰久師。伝道協議会(伝道部)「地方教会から声を聞く」、発題者中西絵津子師、中村英之師、田中寛也師。分団協議、八分団に分かれて協議。聖会Ⅱ、司会深谷春男師、説教島隆三師、証し清弘和海兄。三日目、全体協議会、司会三坂幸英師、朝位真士。閉会礼拝、司会野口佳男師、説教村上義治師。
 私は教育部の責任の一端を担う者として、皆様方にお祈りとお助けをいただき、心より感謝します。なによりも主イエス・キリストの父なる神に感謝をしたいと思います。今回は、規則検討委員会と伝道部と教育部の三者合同のセミナーであった。大友先生の「教会規則の恵み」という主題講演を聞き、私自身、信仰という名のもとに、この世のルールを無視していた傾向があったと深く反省しました。宗教法人法に基づく宗教の国家による保護と教団教憲教規については、教会を健全に運営していく上で大切な学びであったと考えています。

2017/11/5 週報メッセージ

   召天者記念礼拝に思う
                                                                                                            朝位 真士
  今日一一月五日、日本キリスト教団では召天者記念礼拝を行っています。一一月の第一聖日を永眠者記念日としています。これは九世紀の教皇グレゴリウス三世が定めた「諸聖人の祝日」(一一月一日)、また一一世紀に定められた聖人以外の一般信徒を記念する「諸死者の記念日」(一一月二日)に由来するもので、固定祝日を第一主日という移動祝日にしたものです。聖人の日の意味を調べてみると、初めは迫害による殉教者を記念するものでした。その死を通して地上に残された者たちが励ましを受けると共に、訓練の模範とするために記念の集会が行われたのです。この日は、信仰の先輩たちのことを想起しながら、お互いが担っている使命を自覚することが必要です。
 「召天者記念礼拝」には特別な基準はありませんが、キリスト教の歴史と伝統の中では、死後三日目、九日目、四十日目など、主の復活を表す三またはそれをさらに三倍した九、聖書的に象徴的な四十に基づいた日数、年数などによる考え方があったようです。教会の暦に関連して死者を記念することがキリストにあって意味づけられ、関係者が集まってもつ記念会の「主にあって共に生き、共に主をあかしする」性格が明らかにされるのです。教団の教会として公同の記念礼拝をもつのは、聖徒の日、復活節、あるいは地方によっては日本のお盆の頃などです。
 私は一九九四年四月に桜ヶ丘教会に赴任して、教会員並びに関係者の方々の告別式をさせていただいたのが、数十人に及びます。告別式を行った方のご家族や関係者で、教会に続けてこられなかった方々が多くいらっしゃるのは残念なことで、私共の責任を強く感じます。尚祈り続ける必要を感じます。

2017/10/29 週報メッセージ

    宗教改革とは何か
                                                                                                               朝位 真士
  一五一七年一〇月三一日、ドイツのヴィッテンベルクの城教会の門の扉に、若き修道士マルティン・ルターが「九五カ条」を掲示しました。それが宗教改革運動の始まりです。内容は、免罪符の問題です。それを買うと死後、地獄や煉獄でなく天国に行けると、カトリック教会が販売していたのです。救いはお金どころか、どんな人間の力をもってしても獲得できるものではなく、ただ、神の恵みによるのではないだろうかとルターは考えたのです。「恵みのみ」です。そこで彼はこの問題についての討論会を呼びかけました。ところが、その五〇年程前に発明されていた活字印刷術のおかげで「九五カ条」がたった二週間で全ヨーロッパに広がったのです。ローマ教皇庁との激しい論争が始まり、やがてそれは信仰上の問題を越えて政治上の問題となり、ルターはヴォルムスの国会に呼び出され、皇帝カール五世から自説の撤回を迫られますが、彼はそれを拒否し「われ、ここに立つ」と言いました。ルターは異端として破門されました。改革運動はプロテスタント教会の形成へと向かい、礼拝改革から教会制度の改革、教育改革、さらには社会改革へと広がり、ついに近代という時代の扉を開いたのです。
 宗教改革の三大原理の第一「信仰義認」の義認とは救いのことですが、救いはあくまで神の贈り物(恵み)であり、それを信仰を通して感謝をもっていただくのです。第二「聖書の権威」です。一人ひとりが聖書に向かい合い、そこから響いてくる神の声(心)を聴きとることが大事です。ルターは聖書を民衆の一人ひとりが読めるようにドイツ語に翻訳しました。第三「万人祭司」です。神の前にはすべての人が平等です。一人ひとりが、あたかも祭司のように神に仕えるのです。一人ひとりが、それぞれ神に与えられた務めを果たすということです。
(江口再起先生より引用)
 私は先生の講演を聴いて、宗教改革の意義を今更ながらよく理解することができ、先生に深く感謝するものです。

2017/10/22 週報メッセージ

   奥羽・東北問安を終えて
                                                                                                             朝位 真士
  九月二三日から二八日まで問安いたしました。
 二五日は、脇本教会の早天祈祷会に出席して、数名の方々とデボーションの時を持ちました。教師と共に数名の方々が出席されました。食事をいただき、阿部先生の車で信者の方が経営しているホームを見学し、その足で男鹿教会の飯田先生を訪問。最近建築された素敵な会堂と牧師館で、新卒の若々しい先生の活動的な行動に感動しました。
 阿部先生に男鹿半島周辺を案内していただき、東能代一四時四〇分発、弘前一六時二一分着、一七時二三分に三沢に到着しました。本来問安予定であった大三沢教会の牧師が手術後であり、面会できないというお断りがありましたが、私は栗澤牧師に一目でもお会いして祈りを共にしたいと願い、翌二六日午前中、先生ご夫妻にお会いすることができました。会堂にて三人でお祈りをして、教会を後にしました。
 八戸一五時〇六分発のはやぶさ二四号で盛岡に一五時四四分到着。その夜は盛岡のホテルに宿泊しました。村上先生の舘坂橋教会付帯事業の保育園と幼稚園の各施設を、先生自ら一つひとつ丁寧に説明していただきました。先生が盛岡に行かれてから建築された会堂も二〇〇人収容の大会堂でした。夜は車道より十字架がはっきりと輝いているのが見えました。二七日昼、舘坂橋教会の祈祷会でメッセージをさせていただきました。
 盛岡から仙台に移動して、仙台青葉荘教会の潮先生の出迎えを受け、夜の祈祷会のメッセージをさせていただきました。御教会は昼は二〇名位、夜は一二名位で、信仰と霊に燃えた信者の方々は大変活き活きとされていました。
 翌二八日は福島新町教会の滝山先生の出迎えを受け、先生の牧会苦労談を聞かせていただきました。御主人を亡くし、震災に遭いましたが、二人の娘さんは献身され、牧師・伝道師として主の働きをされている話を伺い、主の御名を崇めさせていただきました。