2017/12/10 週報メッセージ

   クリスマスに想う
                                                                                                             朝位 真士
  私は一九六一年一二月二四日、北九州復興教会のクリスマス礼拝において受洗した。一八才の多感な青春時代である。父の事業が倒産して悶々とした毎日を過ごしていたが、友人のM君によって教会の高校生の特別集会に導かれて、その年のクリスマスに山中日出刃牧師によって受洗した。ヨハネ三章一六節「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉をクリスマスが来る度に想い出すのである。
 この一六節は、全聖書の中心的メッセージを示している。神は自分の恩恵の意思によって、そのひとり子を賜ったと記されている。「賜う」とは、単にひとり子をつかわして誕生させるということではなく、イエスを「死に渡す」(ローマ八・三二)ことであり、「十字架につけて」(マタイ二六・二)殺すことである。イエスの受肉は十字架を目標としており、彼は十字架を目指して進んでいった。三章一三~一五節「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」の言葉が、ここで展開される。神の愛は抽象的ではなく、そのひとり子を人類のために十字架につけるという具体的事実の上に立っている。十字架の上にあげられたイエスを見上げること(信じることー一六節)によってのみ救いは来る。そしてその救いは世界的福音の救いで、ひとりも滅びることがない。神の愛は無限に広く、そして無条件である。ヨハネは神の愛を最高度に説き、福音が世界的であることを重視する。
 このクリスマスの時期に、教会において主の御降誕をお祝いしようではありませんか。