2017/12/3 週報メッセージ

   待降節(アドベント)を迎えて
                                                                                                                                   朝位 真士
  昨年もこの時期に記したと思うが、待降節第一主日は教会暦における元旦である。待降節は待望と憧憬(あこがれ)の期節である。これを「アドベント」というが、この意味は「来る(降臨)」ということである。それは、世界をあげて救い主を待つ時節である。その日は一一月三〇日の使徒聖アンデレの日に一番近い日曜日である。
 この期節は、神がみ子を世につかわすために、イスラエルを長い期間にわたって準備された、その長い数百年にわたる準備の年月に比べるならば、ここで行う降臨節の準備はむしろ短すぎる。昔の人は、大いなるみ子降誕
のお知らせを聞くために、長い長い世紀にわたって準備の時を要した。彼らは、まず第一に、神がひとりの神であることを学ばねばならなかった。ローマ人やギリシャ人は、古代人としては最も教養の豊かな民であったが、
それでもなお多くの神々の存在を信じていた。しかしイスラエルにおける信仰のあつい人々は、主なる神はただひとりの神であることを、くり返し、くり返し教えられてきた。こうして、宗教に対する正しい理解が一通り行き渡ることが、主イエス降臨の前に望ましいことであった。ユダヤ人は、ほとんど当時の全世界に散在して、正しい神観念の普及につとめた。キリスト教を受ける下地を各所に用意した。ギリシャ語は、世界語(当時の社会)となっていて、どこに行っても福音が自由に伝えられるようになっていた。主イエスは、二千年の昔、ユダヤのベツレヘムに誕生したが、多くの人々は彼を迎え入れなかった。
 私は一九六一年一二月二四日に受洗した。一八才、高校三年生の時であった。友人のM兄によって教会に導かれ、クリスマスに、北九州復興教会の山中日出刃牧師によって受洗した。あれから五六年経過している。本当にコヘレト三章一一節の御言葉にアーメンである。