榊原紀惠子 のすべての投稿

2016/4/10 週報メッセージ

   2016年度ホ群年会に出席して
                                                               朝位 真士
  過ぐる4月4日(月)~6日(水)まで、ホーリネスの群年会が東京聖書
学校および越谷コミュニティセンターで開催された。主題は「起きて、
光を放て」、副題は「ホーリネスの群結成70周年、結成への経緯を問
いつつ」であった。全国より議員ならびに関係者200名近くが出席した。
 開会礼拝の説教は久多良木師、司会永家姉。聖会Ⅰ、説教村上義治
師、立証五味明子師、司会山口英希師。聖会Ⅱ、説教島隆三師、司会横
山好江師、合唱東京聖書学校神学生。派遣式、司会・説教横山基生師。
その他、レセプション、事務会3回、東京聖書学校後援会等があり、大変
充実した内容であった。特に村上委員長が挨拶で、「七〇周年を迎えて
感慨深さと積み上げられた歴史の豊かさを味わいつつも、危機感を覚
えています。第一は時代から来る危機です。……教会という共同体が事
実上限界集落的な様相を呈し始めています。……この世にある教会は存
続の危機と言えるでしょう。第二は教勢から来る危機です。人数減少・
高齢化だけではなく財政力も入ります。現実問題、今の教会の体力は60
代・70代の信徒で支えられています。第三は献身者の危機です。」と
語られたのが印象的であった。この話は私共の教会にも当てはまると
思い、もっと祈りと信仰を強くして、全能の父、イエス・キリストの父なる
神に祈らなければならないと痛切に感じた。しかし、危機こそチャンスでもある。

2016/4/3 週報メッセージ

   ある少年院での卒業式
                                                               朝位 真士
  私の奉仕しているA女子少年院での中学生の卒業式に出席した。出身校
の中学校校長先生が一人の卒業式のため出席され、出身中学校の卒業
証書を授与された。その後、少年院の院長先生の祝辞、校長の祝辞、卒業
生の言葉があった。少年の少年院での生活の一場面が写し出され、非行
当時の心理状況と現在の心理的変化がうかがわれた。式が終わって一人
のキリスト教教誨師の先生のお話を伺う時が与えられ、大変感動したので
皆様にお伝えしたい。
 先生は長く教誨師・篤志面接委員をしておられる、80歳を超えた温厚な
先生である。少年院の授業でキリスト教的教養講話をしていた時、ある少年
がその話に感動して、少年院を出た後、母親にキリスト教の話をされた。
その少年の母親は感動して、キリスト教を求道して信者となり、教会生活を
送られるようになった。ある時、神様から牧師・伝道者になるように召命を受
けて献身し、某神学校に行かれ、現在は都内のある教会の牧師として御用
されているということである。今もその少年と母親との交流が継続していると
いうことを伺った。
 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを
見いだすだろう。」(コヘレト11・1)
 「朝、種を蒔け。夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか。」
                                  (コヘレト11・6)

イースター

イメージ 1イースター
イエス様の復活の喜びを心から嬉しく思います。
イエス様の復活は、死に勝利したイエス様が、私たちの中に生きてくださる恵みでもあります。
イエス様の十字架の死によって、すべてを失ってしまったような喪失感で使徒たち、婦人たちは、悲しみのどん底にあったことと思います。
しかし、復活という人間の思いや知恵を超えて、私たちの前にイエス様は現れました。
喪失感から、希望をもって歩むむことができる道をご用意くださいました。
イエス様と共にあることによって、私たちは新しく生まれ変わることができるのです。
イエス様は、昨日も、今日も、そしていつまでも変わることがなく、いてくださいます。
復活されたからです。
死に勝利されたのです。

2016/3/27 週報メッセージ

   最近の恵まれた出来事
                                                                                                         朝位 真士
 最近90歳を過ぎた一人の姉妹が召天された。その姉が私に1冊の本をプレゼントしてくださった。『世界最大のもの』(ヘンリー・ドラモンド著、新屋徳治・順子共訳)である。
 
  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシ
 ンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動か
 すほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽く
 そうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求め
 ず、いらだたず、不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
                                                  (コリントⅠ 13章、口語訳)
 
 宗教の世界で最大のものは「信仰」であると言われてきたが、コリントの信徒への手紙1の13章はキリスト教の根源について述べている。そこに「その中で最も大いなるものは、愛である」と結論付けられている。90歳を超えた姉は、教会でも家庭でもいつもニコニコして笑顔で若い者たちに接して、前向きな生き方、愛を実践された。
 もう一人、桜ヶ丘教会の会堂建築の時、献金をしてくださった元歯科医の女性がいる。彼女は90歳を超えておられるが、横浜のホームから毎週タクシーで礼拝に出席されている。お金を神様第一に使用されている。
 私はこの二人の婦人たちの熱心な信仰とキリストに対する愛の行為に大変恵まれ、まず神を第一とした晩年を送り、天国へ帰りたいと祈りながら、二人の姉妹たちと別れた。

3月の陽射しを浴びて

イメージ 13月の陽光が、こころにも柔らかく感じるこの頃です。
イースター、イエス様の復活の喜びを思いながら道々を歩きました。
十字架につけられたイエス様のこと思います時に、私たちの罪のいっさいを引き受けてくださったということについて、深く深く考え、復活の勝利の意味をも、しっかりと心で味わいたいと思います。
わたしたちは、それぞれ、皆改革を自分の内に求め、改革できるところはしていく必要があると先日某研修会でお聞きしました。
多様性を踏まえ、教会を見ていくことも大切であるとのこと。
角度を違えてみれば、違って見えることがあるとのこと。
違いを尊重し、調和していくことができるということを、教えていただきました。
ルターの宗教改革から500年を迎える前に、いま、私たちは、改革を自分の内に求めていくことが必要であることを感じます。改革は継続して行われて行かなければならない。
日常の生活に埋没することなく、霊に燃えて、主が語られる御言葉に耳を傾け、与えていただいている生命を大切に燃焼させたいと思います。

2016/3/20 週報メッセージ

   十字架上の7つのおことば                                                              
                                                                                                        朝位 真士
  十字架上の6時間にイエスがお語りになった「7つのおことば」を四福音書から見よう。まず十字架上でヘブル時刻第3時(午前9時)からヘブル時刻第6時(正午)までの3時間に語られた3つのおことば。
 (1)「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(ルカ23・34、口語訳)
 (2)「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。」(ヨハネ19・26~27、口語訳)                                                               
  (3)「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23・43、口語訳)
 次に、十字架上でヘブル時刻第6時(正午)からヘブル時刻第9時(午後3時)までの3時間は暗黒と沈黙の時間。主の御苦しみがクライマックスを迎えた最後の瞬間、午後3時に語られた最も重要な4つのおことば。
 (4)「三時に、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15・34、口語訳)
 (5)「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」(ヨハネ19・28、口語訳)
 (6)「イエスは酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。」(ヨハネ19・30、口語訳)
 (7)「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(ルカ23・46、口語訳)
 3時間の暗黒の締めくくりには、エルサレムの神殿の幕を上から2つに裂く、偉大な最期の祈りがあった。ヨハネには「完了した」と言われた直後に「頭をたれて、霊をお渡しになった」(19・30)とある。
           

3月13日の礼拝

イメージ 1写真:3月13日礼拝の花
説教題
「死刑の判決を受ける」
マルコによる福音書第15章
6節~15節
過ぎ越しの祭りの時期には、囚人を赦すという特赦があったということです。
その時期に、総督ピラトは、イエスを特赦で赦すという選択もできたが、祭司長たちの扇動によって群衆が囚人バラバを赦すように求めたため、ピラトは群衆を満足させようと思い、
バラバを釈放したという話でした。
イエスは死刑の判決を受け、大悪人が許されたという出来事は、イエスが十字架にかかることによって、罪人がゆるされるという十字架の福音のひな型であるということです。
日々、私たちの心は、神の義、愛に反するような思い持つことがあります。
神を敬い愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいという主の御言葉を思い出すときに、何と遠いところに身を置いているのかと反省させられます。
主が、十字架の刑をどのように受け止められ、恐怖の時を過ごされたのか。
この痛みを、我がことのように思い過ごすことは、とても緊張を覚え、持続できません。逃げたくなります。
しかし、十字架の現実をしっかり見つめ、お赦しいただき、前に向かって進みたいと思います。
桜ヶ丘教会を主が用いてくださり、どうぞ、一人でも多くの方が、当教会でイエス様にお会いになることができますように。
祈りつつ、お待ち申し上げます。

3月13日週報メッセージ

ある老牧師の手紙を受け取って
                                                                                                       朝位 真士

  「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4・2)
 最近、私は退任をされる高齢の先生の手紙に大変感動いたしました。先生はいくつかの御言葉を記しておられました。
 「福音を恥としない。……福音は……信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1・16)
  「この方以外に救いはない。」(使徒4・12)
 「十字架の言葉は滅びる者には愚かなれど、救われる我らには神の力なり。」(Ⅰコリ1・18)
  「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。……キリストがわたしを通して働かれたこと……わたしの言葉と行いを通して、また……神の霊の力によって働かれました。」(ローマ15・17)
 先生は御年85歳になられます。「伝道を最優先する教会」を願って伝道してこられました、教団能代教会で
16歳の時に洗礼を受けられ、19歳で献身され、昭和25年(1950年)4月、日本ホーリネス教団東京聖書学院第一期生として入学され、65年間伝道者として生きてこられたことを感謝しておられる先生です。私も九州時代に先生にお会いして、いつも前向きで積極的な姿勢に頭が下がっています。隠退前には母教会の能代教会で大変良い牧会をされて、後任に委ねることになったと文面から読み取ることができました。4月から千葉県習志野市の超教派「祈りの家」の牧師として御用されることになったと、手紙に記しておられた。最後まで伝道者、牧師としての生涯を全うされる御覚悟であることを感じました。先生は一言で表現するならば祈りの人であり、世界宣教にヴィジョンに燃えておられ、海外宣教も実践され、教会の牧者として模範的な先生だと思います。
私もそういう終わり方をしたいと願っています。

2016年3月6日桜ヶ丘教会の礼拝

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写真:K/Kさん提供

2016年のイースター礼拝は3月27日ということで、この素晴らしい日を前にして、様々なことを思います。
昨日3月6日(日曜日)の礼拝説教は、「ピラトからの尋問」というテーマによるお話でした。
祭司長たちは、イエスを、ローマの総督ピラトのもとに連れていき、イエスを政治的騒乱罪のかどで訴えたということです。しかし、イエスは沈黙されたということです。
<マルコによる福音書第15章1節~5節>
『夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いていき、ピラトに渡した。
ピラトはイエスに、「あなたはユダヤ人の王であるか」と尋問しました。
イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
そこで、祭司長たちは、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。』
ウイリアム・バークレーは、この沈黙について、「沈黙が言葉よりも雄弁なときがある。なぜなら沈黙は言葉が決して言えないことを語り得るからである。」と言って、5つの沈黙があることを語っているというお話でした。
1 驚きと賛美の沈黙
2 軽蔑の沈黙
3 恐怖の沈黙
4 傷ついた心の沈黙
5 悲劇の沈黙
イエスの沈黙は、神の意志に従って、人類のためにしなければならないことを知っている方の沈黙である。
祭司、律法学者をはじめとするユダヤ人たちの心には憎しみの鉄のカーテンが張り巡らされ、ピラトの心は臆病の壁に覆われ、イエスの言葉をとおすことはない状況であった。このため、語るべきことがない悲劇の沈黙であったということでした。
憎しみ、臆病の心から、イエスを締め出して、十字架につけてしまうような人間。
そのような人間である私たちを、神が救ってくださるという復活の恵み。
日々、私たちの心は自分の思いでいっぱいになり、主の御心を思う気持ちが失せてしまいがちです。イエス様の想像を絶するような御苦しみを覚えるとともに、主の平安がこころを満たしてくださり、私たちを罪から救ってくださるように祈って過ごしたいと思います。

2016/3/6 週報メッセージ

   からし種の信仰
                                                                                                           朝位 真士
  「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13章31~32節)
 からし種は聖書で神の国の早い成長と信仰の偉大な力にたとえられている。これは学名クロカラシという植物の種である。パレスチナに野生する1年草で4~6月ごろ黄色の十字花が咲き、やがて黒色の種子をつける。
 その種はケシ粒ほどの「どんな種よりも小さな」(マタイ13・32)ものであるが、一旦蒔くと芽生えて1年もたたないうちに、野生のものは馬の上に乗った人ぐらいの高さになり、栽培種は4メートルぐらいの高さに達し、太さはいずれも人の腕ぐらいになる。実にめざましい成長である。実がなると、鳥がその種をついばむためと休息に、よく集まってくる。種はしぼって油をとり、茎や殻は家畜の飼料となる。(『キリスト教逸話例話集』より引用)
 私は、神学生時代の1971年に故小原順子先生よりこのからし種をいただいた。今も大事に持っている。御父君の小原十三司師は淀橋教会の主任牧師で、当時の校長先生であった方だが、淀橋教会の講壇の左右に「からし種1粒ほどの信仰があるなら」「神には、なんでも出来ない事はない」という御言葉を掲げておられた。
 先日の桜ヶ丘教会の総会は人数が少なかったが、たとえ目に見えるかたちはからし種のように小さくても、そこに主イエス・キリストを救い主と純粋に信じる群れがあるとしたら、「小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という御言葉の通りである。桜ヶ丘教会の将来は決っして悲観すべきではなく、希望と信仰をもって前進したいものである。種に栄光あれ!!