「キリスト教的愛の生活」2020・9・20説教要旨

朝位真士

今日はローマ12・9~21節を通して聖書を学びましょう。この12章は1~2献身と、聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の兄弟に対する愛の行為と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と善行。

ローマ12・9~21節を見て下さい。

9節以下は、信者相互に対する態度として、愛と一致を、また、反対する者に対する態度として、祝福し、忍耐をもって愛の行いをなすべきことを説いています。12章前半においては神に対する献身と奉仕を勧めたが、この後半において同志と敵に対する愛を力説しているのは、大いに考える事であります。キリスト者の生涯は、神に対しては奉仕、人に対しては愛の生涯でなければなりません。上に向かう関係だけでなく、横に広がってゆく関係があります。神に対する奉仕においていかに熱心であっても、人に対する行為において深い愛がなければ、そのキリスト者生活は完全なものとは言えない。表面における熱心な奉仕のうらに、こうした愛の生涯がなければならない。神に対して忠実であるだけでなく、人に対しても親切でなければならない。コリントⅠ・12章に奉仕のための種々の賜物をしるしたのち、13章で愛を詳しく説いているのもそのためである。ただ教会内の兄弟姉妹に対してだけでなく、反対者や迫害者に対しても愛をもって接すべきことを説いています。これは山上の垂訓にある教えで、私達は主に仕えるには熱心で、霊に燃え、主に仕え、人々とは、出来る限りすべての人と平和に過ごし、敵に対しては、善をもって悪に勝つべきであります。ある人はこの一段を次のように分解しています。この一段は愛の生涯であります。1・この愛の実質―内部的面(12・9~13)。偽りのない愛(9上)、純潔な愛(9下)、兄弟愛(10・上)謙遜愛(10下)、熱烈な愛(11上)、忠実な愛(11中)、奉仕する愛(11下)、望みある愛(12上)、忍耐深い愛(12中)、祈り深い愛(12下)、2・この愛の行為―外面的愛(13-21)。聖徒に対して(13)、迫害者に対して(14)、幸福な人に対して(15上)、悲しむ人に対して(15下)、争いやすい人に対して(16)、弱い者に対して(16中)、悪人に対して(17上)、すべての人に対して(17下、18)、怒りやすい人に対して(19)敵に対して(20,21)。

コリントⅠ13章は、愛の内容分析をして、愛の本質をあきらかににした愛の賛歌として有名であります。そこでは愛の広さ、真実さ、情け深さ、さらに、その永遠性が記されています。ここではその愛を外に向かって用いる事が、勧められています。ルターは、キリスト者は、ひとりのキリストであるといったが、この言葉は深い意味をもっています。キリストは、愛なるものでありますから、ひとりのキリストになることは、外に対して、愛となることにほかならない。信仰によって神の御前に立つ資格が与えられる時、信仰のほかにも、神と「わたし」のあいだに入り込む事は出来ない。というのは、神はすべてをもち、「わたし」は何も持たないからであります。ルターは、「私」は、乞食だといいました。だから愛をもっていると考えてはならない。信仰があると言っても、これは、神と「わたし」とのつながりを神が与えて下さる賜物なのだから、「信仰」という孤立した品物を「わたし」が持っているわけではありません。「私」だけでは「信仰」はなりたたない。「神」と「わたし」とがあって「信仰」という状態が出来るのであります。愛があっても、そのなかに顔を出すことは出来ない。ところが、愛の活動は、「わたし」が、神との交わりを許されるにいたって、俄然、活発になるのであります。キリストが、ご自身を「わたし」のために与えたうたことは、愛を与え尽くされたことに他ならない。そのことを真として、受け入れる信仰者は、また友のために命を捨てるのであります。愛は、キリスト者を通して、活動します。だからパウロは愛には偽りがあってはならないというのであります。12章19~21節を見て下さい。箴言25・21~22p1024を見て下さい。これこそキリストにおいて完全に具体化された真理であります。キリスト者の行為には、神の力が加っています。行為自体が、神にもちいられて、キリストのあかしとなるのであります。キリスト者の生活は、このような意味において勝利の生活であります。

結び

 もう1度12・9~21節を見て下さい。

パウロは12章から「キリスト者」はいかに生きるかという倫理を教えて前回12・3~8節においてキリスト者は教会において、丁度体に手足があるように、1人一人が結び合い連帯して、1つの共同体を築いていくように教えています。今日のところは、体の中を血が流れているように、わたしたちの共同体を生かすものが、「愛」であることを教えています。キリスト者はキリストの愛に動かされて、愛に生きるように促されています。しかしわれわれが純粋な愛を変わりなく貫く事は、決して生易しいことではありません。私達の愛はすぐ枯れてしまいます。我々の愛の泉であるイエス・キリストにつながり、キリストの愛を注がれることによって、真実の愛を燃やし続ける事が出来るのであります。12・11節「霊に燃えて」と言う言葉で思い起こされるのは、ルターが「キリスト者の自由」の中で、神と人との関係を、火と鉄とに譬えているところがあります。鉄はそれ自身では黒く冷たいのですが、火の中に入れられると、焼けて真っ赤になり、それ自体が火のようになります。わたし人間は罪に蝕まれ、心は冷えて、鉄のように重く冷たいのですが、主イエスの恵みの炎に燃やされると、鉄が火に焼かれて真っ赤になるように、私達も喜びと愛に赤く燃えるのであります。

2020年秋10月18日(日)午後2時から4時 ジャズコンサートの中止について  「高田光比古バンド」

 コロナ禍にあって、大変残念なことですが、ジャズコンサートは中止とさせていただきます。楽しみにしていらっしゃった方々、来年、コロナの感染状況がおさまった際には開催を計画しておりますので、お待ちくださいませ。

2017年11月発行の桜ヶ丘教会(ニュースレター)「さくらんぼ通信」に投稿いただいた高田光比古氏のジャスの関する思いを掲載させていただきます。

               高田 光比古(たかた てるひこ)氏

ジャズが生まれて今年で百年です。

「教会でジャズなんて⁉︎」と言われて悲しい思いをしたことがあります。かつてニューヨークのハーレムの教会で体感した讃美歌は、あまりにも素晴らしく鳥肌が立ちました。伴奏はドラムとハモンドオルガンでした。

私は牧師の家庭に生まれ、母の胎内から讃美歌を聴いて育ち、中学高校時代、聖歌隊とブラバンドにあけくれ、大学卒業後には本格的にジャズドラマーの道に入りました。 ライブハウス等々いろいろな所で演奏させて頂いています。教会での演奏は、ことさら味わい深いものがあります。

2020/09/13週報メッセージ

牧会雑感

朝位 真士 

  9月1日付のアパルームの日課はⅡコリ12・1~10節でした。特に、「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」とパウロは語っています。

 9月1日のデボーションが終わり、外の掃除をしていました時に、大切なヴィザカードとパスモ他大切な物を紛失していることに気付きました。私は全身蒼白になり、理性を失い、信仰も失いかけていました。何度も紛失した場所に行き、また主イエスに会堂で悔い改めの祈りをしました。日頃の信仰が試されました。他者には「信仰は大切です。神様は何事も最善にしてくださいます」と語りつつ、自分の場合には、全く信仰の薄い者と化してしまいました。私は何度も会堂に入り、聖書を読み、お祈りをしました。そしてまた心当たりの場所に行きましたが、見当たりません。しかし、思わぬ所にその大事な物が落ちていました。本当に感謝でした。皆様のお祈りのお陰だと感謝しています。

 先日、95歳の元牧師先生とお話をすることができました。先生は地方で教会を成長させ、教区の責任を持たれた方です。その時、私共若い牧師のことを心配し、また群や教団のこと、現代のホーリネス信仰の継承を憂えておられました。私も若輩として襟を正される思いがいたしました。ホーリネス信仰、新生、聖化、神癒、再臨の四重の福音を改めて確認させていただき、ホーリネス人として、キリストの証人として生活させていただきましょう。

「主にある新しい生活」2020.9・13説教要旨(敬老感謝礼拝)

朝位 真士

今日は75歳以上の高齢者の方々に対して祝福の祈りを捧げさせて頂きます。

今日からローマ12章に入ります、まず今日は12・1~8節を通して聖書を学んでいきましょう。ローマ1章から11章は教理的部分で、12~16までは実践的部分が記載されています。米田豊先生は12章全体を献身と奉仕。愛の実質と愛の行為。

分解(教会人としてのキリスト者の義務)1~2献身と聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の信者に対する愛の奉仕と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と奉仕。と分解しています。パウロはどの手紙においても、まず初めに教理を説き、次に実行上の勧めを述べる。8章の高い経験を握った者は、12章以下のきよい生涯をおくるべきであります。「恵みの原理が救いの基礎として確立された(1~8)ので、聖霊はこの部分において、恵みの王国に生まれた者の品性と行為とを記しています。ここに、キリスト者の行為がその関係において7つに表されています。1・神に対してー献身(1~2)、2・教会に対してー奉仕、3・信者同志に対してー愛と一致(3~8)、4・敵に対してー祝福(9以下)、5・国家に対してー服従(13・1―7)、6・社会に対してー愛と謹慎(13・8~14)、7・弱い信者に対してー同情と寛容(14・1~15・7)。と分解されています。

ローマ12・1~8節をみてください。この処ではパウロが霊的礼拝を語っています。これは私達すべての礼拝者に対するメツセージです。特に1~2節は聖なる供え物に対して語っています。「あなたたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として献げなさい(口語訳)」パウロが「供え物」のうえに、「神に喜ばれる」、「生きた」、「聖なる」という3つの言葉をつけているのは、これらのことが、キリストにおいてのみ考えられることを、いま一度、思い出させようとしたためであります。キリストに抱かれているときだけ、神を喜ばせることができるし、そのときだけ、生きているのであります。またそのときだけ「聖」すなわち、神のものとして、この世から区別されるのであります。パウロは「あなたがたのからだ」をそのようなものにしなさいといっているのであります。この世に住み、この世に接蝕するのは、わたしたちが五体を持つてであります。涙と汗と、だまし騙され、愛し、憎む、悪魔的この世に身を置いているのであります。この世の行為は、からだがもとでになる。このからだが、自然のままに行動したらどうなるでしょうか。その結果は、どれほど恐ろしいものであることをパウロは学んだのであります。キリスト者は、この体をキリストの中に包みこまれ、キリストの中で溶かされるのであります。「生きた、供え物」という表現は、逆説であります。「殺されながらも生かされる供え物」と解釈されるのであります。キリストにおいて殺され、また生かされることは、いうまでもないことであります。このような供え物となること自体が、霊的な礼拝だというのであります。次のすすめは、この世と妥協してはならないということと心を新たにすることによって、造りかえられるというのでありま

す。12・3~8節を見て下さい。ここでは霊の賜物についての事が述べられています。この箇所ではパウロは使徒的な権威に基づいて、教会員すべてに語っています。信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。4~5節は馴染み深い比喩が用いられています。キリストの教会における一致と多様性を見事に語っています。霊の賜物がどれほど個々のキリスト者において多様にあらわれようと、それが働く場所は1つのキリストのからだ以外にないことが言われています。1人1人は全体の益のために存在しています。だから賜物は教会の徳を建てるように用いられなければならない。かしらであるキリストに属している者は、キリストにつながっていることと同時に、体に属している者との互いのつながりをも自覚して慎まなければなりません。6節後半から8節にかけて7つの賜物が記されています。

結び

もう1度1~8節を見て下さい。1・聖なる供え物(1~2)。2・1つのからだ(3~5)。3・キリスト教共同体の活動(6~8)。キリストのからだなる教会は、活動する団体である。信仰は、怠惰なものではなく、生き生きとしたもので、神のみここに叶うあらゆる活動をその中にふくんでいます。キリストのからだなる教会は、援助を必要とするものたちに奉仕をする。奉仕は無秩序になされるのではなく、組織され訓練されたやり方で有効な奉仕が実行されるのであります。その基本になるのがアガペーの愛である。1コリント13章に具体的愛の内容が語られています。p317

2020/9/6 週報メッセージ 

聖霊の祝福を得る手段

朝位 真士 

  クリスチャンが日々の実生活の中で神の恵みを知るための手段として、神は三つのもの、すなわち祈りと聖書および教会を与えてくださいました。キリスト教指導者の一人、J・R・モットーは「敬虔な聖書研究と祈りとをもって1日を始めることは、自己と罪とサタンとのその日の戦いのために人を整えることである」と語っています。神は、勝利あるクリスチャン生活のために祈りと聖書と教会によってしか得られない神の恵みを用意しておられます。そして、この恵みこそクリスチャンとしての人生をより豊かなものとするものです。

 (1)祈りーちょうど人間の呼吸のようなものです。汚い空気を吐き出すことによって清い新鮮な空気を胸いっぱい吸うことができるように、みずからの罪を告白し、悔い改め、神の赦しを求めるのです。この意味では、祈りは神との対話であるといえるでしょう。次に、祈りには四つの要素が含まれています。①賛美ー神のみわざを賛える。②告白ー知れるかぎりの罪を告白し神の赦しを求める。③感謝ーどんなに苦しくとも神の恵みを数える。④祈願ー他の人々や国家のためのとりなしと自分の願いを率直に神に語る。祈りに対する神の答えは次の四点を挙げることができます。物質的な必要を満たしてくださる(フィリピ4・19)。主のみこころを知る(箴言3・5~6、詩編32・8)。実行する力を与えてくださる(フィリピ4・13)。支え守ってくださる(イザヤ41・10)。

 (2)聖書は文字通り心の糧であり、生活の唯一の規範です。永遠に変わらない神の約束の記されたみことばは、すなわち聖書こそ新しい人生観を構築し、優れた生活の知識を得るのです。

 (3)教会ー神が地上に与えてくださっている信仰者の群れのことをいいます。目的は、人が聖書を深く学び、信仰が深められ、訓練されて成長し、全世界にキリストの福音を伝える生きたキリストの証人となることにあります。(『新キリスト教ガイドブック』より)

「神の富・知恵・知識」2020・9・6説教要旨

朝位真士

今日はローマ11・25~36節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの11・25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章(ローマ9~11章)の讃美的結論。と分解しています。パウロは今結論にたどり着く。25節にある「奥義」とは、隠されているやがて啓示されるべき救いの出来事を指しています。イスラエルの1部は、「かたくなに」なって神の民としての実を失ったが、それはいつまでもそうなのではなく、「異邦人に完成のなる時」までと言う期限付きであります。福音が全世界に宣べ伝えるまで再臨はないと言うことはこれと関係している(マルコ13・10)。異邦人の中から選ばれた者がことごとく召されて神の民となる時が到来すると、イスラエルのかたくなさも終わりをつげるのである。

11・25~36節を見て下さい。25~26異邦人全体が救いに達するまであり、こういて全イスラエルが救われると言うことです。しかしふさわしくない者はその群れから除かれ、選ばれた者からなる総体として救われるイスラエルという意味であります。26節27節で語られるイザヤ書の引用は、パウロがここで語る奥義が彼に初めて啓示された内容でないことを明らかであります。(イザヤ59・20-21,27・9)この11・25-27は神の救いの奥義が述べられています。神の奥義は聖書にしるされています。しかしそれを問われるには、聖霊によるほかはない。異邦人がすくわれるのは、キリストを信じる信仰によるのであり、イスラエルがすくわれるのも同じであります。キリストを受け入れるか、受け入れないかによって、救われるかすくわれないかがきまるのである。これは、全人類に対して平等である。この点においてイスラエル人と異邦人との間の差はなくなる。キリストにおいて、民族と民族との間にあったあらゆる差は消え去る。キリストにおいて新しい契約が成立し、万人はその契約の中で救いを約束されるのであります。これこそ、イスラエルの希望がおかれる場所であります。11・28~36節をもう1度見て下さい。パウロは、イスラエル人と異邦人との問題について、いささかの疑念を残さないようにしたいと考えた。だから、11節の結論の中で、更に、突き込んで問題を明らかにしようとしました。イスラエル人と異邦人との差がどこで生じるのか、それは福音を巡って生じるとパウロは語る。この問題は、律法という乗り物に便乗したイスラエルは、福音を理解することが出来なく神の敵となった。しかしこのことは、異邦人のためになることになった。ところが、神の選びは、不変であるから、どれほど、イスラエルが、神にそむいても、その選びは無効にされることはありません。人間の側に不誠実があっても、神においては、誠実があるばかりであります。ただし、人間の不誠実は、そのまま、神に受け入れられるのではなく、不誠実が、誠実にたちかえるには、それだけの道筋があることは、すでに見てきた通りであります。異邦人が神との交わりに入れられたのは、従順だったからではなく、彼らが不従順であったにもかかわらず憐れみを受けたからにほかならない。そうだとすれば、イスラエルも、不従順の状態にあるにもかかわらず、憐れみを受ける望みは、十分、残されているのであります。すなわち異邦人も、不従順だったし、イスラエル人も不従順でありました。しかも、神は、この不従順な者に向かって憐れみを与えられたのでした。だからパウロは、このことについて大胆に次のように言った32節を見て下さい。この言葉は、単なる楽観的発言ではありません。神の深い知恵が、背景をなしています。知恵の輪が解き明かされたのであります。わたしたちには、あまりにも、不可思議であります。独断とも聞こえます。気まぐれな非現実的な、また気休め的な楽観論とも聞こえます。しかし、これはその様なものではありません。だからパウロは、神のこのような活動に対して、33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」と言って「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう」と言っています。これは、宇宙の創造主、またこれを支えるおかたとの接蝕によって、与えられた知恵を背景として発せられる言葉であります。つまり、信仰から出る言葉であります。万物は、神より出でて、神に帰る。そのような循環運動の一局部に歯車のしきりがあったり、断絶があったりしても、神は、これを克服して、あらゆる故障に勝をえるのであります。悪との戦いにおいて、キリストは勝利者であるということは、三位一体の神の勝利ということにほかなりません。キリストの受けたもう栄光は、三位一体の神の栄光であります。神の救いの奥義を示されたパウロは、栄光がとこしえに神にあるようにといって、人間の神格化を戒め、信仰こそ、神と人間との間をつなぐ唯一のものであることを、新しく私達に思い起こさせるのであります。

結び

もう1度33~36節を見て下さい。ここは頌栄であります。イスラエルの歴史を、異邦人の救いという大問題と共に述べた後、パウロは心からの讃美をささげずにはおられなかった。神の知恵と知識は底知れず深く、その裁きは知り尽くしがたく、その道は測り知りがたい(11・33)。これは私達に、全能なる神はイスラエルの歴史を通し、また異邦人伝道を通して啓示してくださった救いの内容があまりにも偉大で私達の理解を超えていると言うことを言っているのであります。神のみ業を前にして心から讃美を献げているのであります。34,35節はイザヤ40・13~14節、ヨブ41・11節の引用であります。特に35節の「主に与えてその報いを受ける」は、律法の業による義認を暗示する表現であります。ここには、神が人類の創造主であり、保持者であり、完成者であることが示されています。パウロは1コリント15・24-28節を見て下さい。p321を見て下さい。世界の救いである神に讃美の声をあげているのであります。

2020/8/30 週報メッセージ

前任牧師西海静雄師語録よりⅣ

朝位 真士 

  西海静雄先生は2004年6月29日、享年62歳で召天されました。生前、3冊の御本、『教会に喝』『人生のスパイス』『み言葉アンサンブル』を発刊されましたが、今回は『み言葉アンサンブル』の「教会の聖性と俗性」より引用いたします。

 教会とはどんな存在でしょうか。一面ではキリストの体としての聖なるものであり、反面、人間の集団としての俗なるものでもあります。この両面を、まず聖性から見ましょう。

 教会は「天から」(使徒2・1)の聖霊降臨によって創設されました。それはこの世に存在するいかなる組織や集団ともまったく異なったことです。・・・・・・「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストいおいてお選びになりました」(エフェソ1・4)。ここで言う「わたしたち」とは教会のことです。つまり教会は天地が存在する以前に、すでにキリストのうちに存在していた、というのです。ですから教会の起源はキリストにあります。地上のいかなる要素も教会創設には参与していません。ですから教会は「聖なる者」(Ⅰコリント1・2)です。人間の集団としての教会が退廃しても、この根源的な面を見失ってはなりません。この教会はキリストの体であり(エフェソ1・23)、「御子はその体である教会の頭です」(コロサイ1・18)。

 ・・・・・・地上の教会は世的な動機で動く、俗性を持っていることを示しています。教会の方針決定や問題解決の手段として、聖霊の導きより、会議で決めるようになったのも俗性の現れです(使徒15章)。満場一致(同25)でパウロとシラスをアンティオキア、シリア州、キリキア州などに派遣することを決めたのですが、アンティオキアまで同行した二人も、「意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動を」(同22~41)とってしまいました。人間的な思いが働くほどに、俗習ぷんぷんたるものが教会に漂います。

 ・・・・・・このように、キリストの体としての「聖性」と、人間の集団としての「俗性」を併せ持っているのが教会です。地上の教会は聖なるものとされていることを、もっと深く信じるべきですし、一方で「俗性」をも深く認識し、努力や反省、悔い改めと服従をもっと徹底すべきです。

「神の慈しみと厳しさ」2020・8・30説教要旨

朝位 真士

今日はローマ11・11~24節から聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこの11章全体を神の選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸として語っていまして、11~12彼らの躓きと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。

 11~24節を見て下さい。パウロはその同胞の回復されることを期待しつつ(14、15)、特に異邦人信者に対する警告を記しています。選民イスラエルは不信仰の故に、メシヤを受け入れなかったため、異邦人が選民の地位に座して、選民に約束された祝福を受けるようになった。さきには、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく、神もないものであった」私達異邦人が(エフェソ2・12)、キリストを信じたことによって、アブラハムの子孫とされ、(ガラ3・29)、アブラハムに約束された祝福を受ける身分とされた(14)。よいオリブの枝が切り落とされて、(野生のオリブ)がそこにつながれたのである(17)。これは異邦人が神の教会に受け入れられるために、ユダヤ人が場所をふさいでいるから折られたのではない。彼らが不信仰のために折られたから、その後へ信仰による異邦人が繋がれたのである。それゆえ。恵みに馴れたり、自分の身分を忘れたりして、高ぶってはならない(18-20)。私達は神の祝福を受けるに足る価値もなく、ただ信仰によって祝福に預かっているのであるから、不信仰になれば神はいつでも捨てて惜しまれない。ユダヤ人はその警戒の見本である。彼らは選民の特権を誇った為、今神に捨てられて、あちこちに離散し、放浪の苦難をなめている。これは神の正しい罰である。それゆえ(神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切りとられるであろう)(22)。これは実に厳粛名警告である。私達は神の愛と義の両面を見なければならない。愛や恩寵の面ばかり思うと、恵みになれ、放縦になりやすく、義や裁きの面ばかりを思うと、恐れて萎縮してしまう。両面を見て初めて円満に、また健全に、信仰が成長します。選民であるユダヤ人でさえ不信仰のために捨てられたのなら、まして異邦人である私達が捨てられないことがありましょうか(21)。

神が愛によって惜しまれるのは一方の面で、「1度救われたら永遠に滅びない」などと言うことは出来ない。不信仰に陥るならいつでも捨てられる。神の慈愛を信じ、その中に留まっているゆえに神の慈愛は私達に向けられているが、この慈愛から離れるなら、私達もただちに捨てられる(22)。それ故「神の愛の中に自らを保」たなければならない(ユダ21)p451。

結び

パウロはユダヤ人たちのつまずきの問題を9~11章にかけて論じて来たのでありますが、今日の箇所においては、このイスラエルのつまずきは、彼らの失敗、挫折という、否定的な意味しかないのであろうかと問い直しているのであります。もしそうだとするならば、それは神の失敗であって、神は旧約の全歴史を通じてイスラエル民族を救いに導いて来られたのに、最後の土壇場になってこの民族を最終目標に辿りつかせることが出来なかったということになります。このような疑問に対してパウロは「決してそうではない」と強く否定し、イスラエルの挫折が、第1に神の救いが異邦人に及ぶ機会となったこと、第2にイスラエルの奮起を促せるためであることを述べて、ここから信仰的、歴史的教訓を引き出しているのであります。第1の点、すなわちキリスト教がユダヤ人から排斥されたことよって、異邦人世界に広がっていったことは、歴史的事実であります。使徒13・46~48節をp240

を見て下さい。ここに異邦人伝道に専念することになったパウロを見ることが出来ます。このように神は福音に対するユダヤ人達の拒否という悲劇も用いこれを全世界の救済へのチャンスとされたのであります。イスラエルが神の恵みから落ちて挫折を経験したことは、イスラエル自身の責任でありますが、神はそれによってイスラエルを冷たく突き放し滅びに任せるのではなく、むしろそれによってイスラエルが安易な道を歩むことから立ち止まり、目を覚まして奮起一番、新しく立ち上がる為の訓練の機会とされたのでありあます。ここで人間は、神が慈しみに溢れた方であると共に、厳しい方であることを学ばなければなりません。11・22節を見て下さい。「慈しみ(クリストテース)は「親切」とも訳せます。クリスチャンは「クリストテース(親切)である」と言われました。神は「慈しみ深いお方であります。しかし同時に神は侮られることを許さない厳しいお方であります。」「厳しい」とは「切りすてる」という意味であります。神は高ぶる者を切り捨てられます。かってイスラエルの最初の王様サウルが、その地位におごり、神の命令の背いてほしいまま振舞った時

預言者サムエルは彼の前に出て「主の言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(サム上15・23)と告げました。p452

神の厳しさは神の慈しみの裏側であります。イスラエルはたびたび神の厳しい訓練を経験してきました。このことは異邦人キリスト者たちが自分たちにも関わりのあることとして、真剣に考えるようにさとしています。ヘブル12・4~12p417ローマ11・24も見て下さい。

「恵みの選び」2020・8・23説教要旨

朝位真士

 今日はローマ11・1~10節を通して聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこのローマ11章全体を恵みの選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸。として11章全体をイスラエルの将来と奥義1~6イスラエルの中で、恵みによって残された者。

1~2上神はその民を捨てられない。2下~4昔のエリヤの時の残された者。5~6今も存する恵みの選びによって残された者。7~10イスラエル全体の盲目的かたくなさ。11~12彼らのつまずきと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエル及び異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。パウロは9章で、神の選民たるイスラエル人が不信仰の為に捨てられたからといつて、その為に神の約束が無効になったのではないことを述べ、9章から10章にかけて、かえって異邦人が信仰によって救いを受けた事を述べたが、では(神はその民を捨てたのであろうか)(1)という問題を提起する。これが11章の主題である。11章は、この1節の間と、(彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか)(11)との2つの問いを中心にしるした解答で、そのどちらにも(断じてそうではない)とまず答えておいて、その説明をする。神がその民を捨てられたのではないことについて、パウロは、1・自分もまた選民のひとりであるがゆえに(1)、2・エリヤの時の例を引いて、今も少数の残された者がいるゆえに(2~6)、3・約束は最後に必ず成就して、選民は国民として回復され、皆救われること(26)を述べる。その説明の中に預言者エリヤが(わたしひとりが取り残されたのに、彼らがわたしのいのちを求めています)と神に訴えた時、神が(バアルにひざをかがめなかった7千人を、わたしのために残しておいた)と答えられたことを引いているのは(3,4)私達が大いに学ぶべきことであります。エリヤは自分ひとりが残っていると思っていたが、神は7千人も忠実な聖徒がいると言われた。四面楚歌の中にあってただ自分ひとりが信仰に立っているなどと思うと、心細く寂しく感じられるが、自分と同じ境遇の中にあって苦難に耐えている人が他にもいると思うと励まされる私たちは、主に忠実なのは自分だけ、自分の教会だけなどと思うべきではありません。他にも隠れた敬虔な忠実な聖徒がいる。自分だけが熱心だと思うひとりよがりのうぬぼれは、人を高慢にし、偏狭にします。6節は恵みと行いの区別を明白に述べてものであります。恵みとは、神が任意に与えられる純粋の恵みで、それを受けようとする相手のいかんに関係なく、与えられます。行いとは、人間が自分の力で行う事が出来る。神の選びや救いは純粋名恵みで、人の行いや勲功を条件として与えられるものではありません。それゆえ、これを受け、その祝福にあずかる者に必要なものは、ただ信仰だけであります。ユダヤ人はただ少数の者がこの恵みの選びによって祝福を得るだけで、大多数の者は不信仰と頑なさの為に恵まれないが(7-10)、選民の不信仰によって、救いが異邦人に及び、それによって、イスラエルを奮起させるための神の御計画であります。

ローマ11章1~10節を見て下さい。ルーテル教会の岸先生はこの11章1~36節を奇しき救いの計画として11・1~4節イスラエルは捨てられたか。5~12イスラエルのつまずきと異邦人。13~24オリブの木のたとえ。25~27神の救いの奥義。28~36栄光神にあれ。と分解しています。パウロは、信仰の目をもって、神のみわざのきわまりない変転の中に、一貫した神の御計画があることを見極めることが出来たのであります。「神はその民を捨てたのであろうか」という問いに対して、躊躇なく、断じてそうではありません。と答えた。そして自分自身を例にあげたのであります。自分を、エリヤに比較していることが分かります。エリヤは異教徒バアル礼拝者の中にあって、追いつめられて孤立し、この世に自分以外にまことの神を礼拝する者はないと考えた。しかも、バアル礼拝者は、エリヤの命さえうかがっていた。彼が殺されるなら、もはやまことの神の礼拝者はいなくなると考えたのであった。しかし、生ける神は、意外な御告げをエリヤに与えた。「バアルにひざをかがめなかった7千人」が、まだ残っているということであつた。神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはなさらなかったというのがパウロの結論であります。残された少数者こそ、人の力によらないで、全く神の恵みによって選び分かたれた者たちでありました。「わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者であるという言葉のうちにこのことがよくあらわれています。1節を見て下さい。もう1度2節から10節を見て下さい。

結び

 パウロは、神の知恵の輪の功妙な仕組みに驚きの目を見張ったのであります。神は、人間より何も求めないで、人間に救いの道を備えられた。「代価なし」という言葉こそ、恵みの意味であります。そうすれば、人間の側で、神の御前に行いが悪いと言うのではなく、行いが出る場所は、ここではないということであります。恵みが純粋に恵めとして受け取られるためには、恵みが、人間を圧倒するよりほかにはありません。恵みが、人間を圧倒して、これによって恵みを受け入れる状態をつくり出す時、これを指して「信仰」というのであります。人間的に見れば、イスラエルは、民族として、自ら、神と無関係となってしまったと考えられますだが、相手は、生きて働き、敵をも愛するまことの神であります。目には目、歯には歯という仕返しをもとめる神ではなく、手におえない者たちを愛しつつ、彼らの留まるところを知らず落下する状態に終始符をうつ神こそこのまことの神であります。パウロは、自分とユダヤ人キリスト者がイエス・キリストに救われているという事実の中に、ユダヤ人に向かって神の手が伸ばされ、神がユダヤ人を捕らえて導いておられる事を、パウロは預言者エリヤの例を挙げて示しています(11・2-4)。パウロはエリヤのことを例に挙げて11・5を見て下さい。それを旧約聖書(申命29・3,イザヤ29・10、ローマ11・9~10詩篇69・23~24、70人訳)。から引用しています。

2020/8/23週報メッセージ

前任牧師西海静雄師語録よりⅢ

朝位 真士 

  西海先生は2004年6月29日、享年62歳で召天されました。満希子先生と共に桜ヶ丘教会を26年間牧会された、素晴らしい牧会者でした。生前、3冊の御本、『教会に喝』『人生のスパイス』『み言葉アンサンブル』を発刊されました。今回は『人生のスパイス』の「神中心」より紹介します。

 「すべては神への奉仕」の項目で、先生のお兄さんとの会話を記しています。一時は兄弟間でトラブルがありましたが、信仰を持って感謝して、神への奉仕として行動されたので、お兄さんとの関係もスムーズにいったとのことです。先生が献身された時、お兄さんが真っ先に賛成され、2003年夏、西海先生が重病になられた時、ドナーとして骨髄の造血幹細胞を快く提供されたそうです。「今でも兄とは仲良く、何のトラブルもありません。信仰の勝利、十字架の主の勝利です」と記載されています。

  「人の良い点を見て感謝する」では、友人の牧師の司式で結婚した若い夫婦の話が出てきます。牧師の所を訪ねてきて、「先生、もうだめです。分かれます」と言うのです。理由を聞くと、それぞれ相手の欠点を非難しました。牧師は、「あなた方も良くて結婚したのだから、今度はお互いに相手の良い点、嬉しかったこと、有り難かったことを言い合ってみなさい」と言って、別室に退きました。二人は「あなたのこういう所が好きだ」「あなたがこうしてくれたことが嬉しかった」「こう言われて慰められた」などと良い点を言い合いました。やがて牧師が呼ばれたので行ってみると、二人はにこやかに、「先生、もう一度やり直します」と言いました。「悔い改めと感謝と労りは世界を一新するのです。」

 「ハピネスホルモン」はある医師から聞いた話です。「人間には、『僕は幸せだなあ』と幸福を感じた時、ハピネスホルモンが分泌して、免疫力を高めたり、諸機能を活性する大変大きな力があります。怒りや不満は逆の働きをします。神と人とに感謝して、ハピネスホルモンに満たされ続けたい。」(つづく)

1923年6月1日創立