「神の栄光を現わしなさい」2021・7・11説教要旨

朝位真士

今日は1コリント10・14~33節を通して聖書を学んで行きましょう。この10・14~33節は偶像に関する警告。14~22聖餐における聖徒の交わりは偶像礼拝を避けるべきことを要求する。23~30再び、偶像にささげた肉を食べる事について、キリスト者自由の制限、31~33飲食における愛の道。

聖書を見て下さい。10・14~33節14節以下は、偶像とそれに供えた肉を食べることについての、再度の警告である(8・4、7)。悪の霊が偶像を用いて人々を迷わせ、真の神を真理から離すのである。偶像礼拝に加わり、(悪霊どもの杯)を飲むことは、聖霊によって主の肉と血を受けるわたしたちのなすべきことではない。(20,21)。昔、供え物を食べる祭司たちが祭壇と関係を持つように(18)、主の肉と血を味わう聖餐にあずかる者は、主と1体となり、その聖徒の交わりに入るので(16,17)、このような者は偶像に遠ざからなければならないのは勿論であるが(14)。偶像そのものは存在するものではないが、偶像礼拝の背後には悪霊の勢力があるからである(19-22、申命32・17)、しかし、キリスト者は偶像信者と交わってはならないというのではない(1こり5・10)。彼らに招かれてもなされることもあり、偶像にささげたあと市場に売る肉を出されることもある時、(いちいち良心に問うこともしないで)食べてもさしつかえないが((25~27)、もしその事を特に注意され、あるいはそれによって私達の信仰が試みられるような場合には、その人の良心のために食べてはならない(28,29)。すべてのことが自分にとって別に悪いわけでもなくても(しかしすべてのことが益になるわけではない)、私達は自分の利益を求めないで他の人の益を求めるべきである。(23,24)。要は(飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである(31)。自分は自由をわきまえていても、そのために人にそしられたり(30)、また人をつまずかせたりしてはならない(32)。かえってどうにかして人を救う為に、自分の益ではなく、人の益を求め、(すべての人に喜ばれるように努め)なければならない(33)。わたしたちの言行は、人の救いのために利益とならなければならない。

パウロの書きぶりからすると、コリント教会のキリスト者の中には、信仰の自由の名のもとに、偶像の宮で偶像にささげられた肉をおおぴらに食べて弱い兄弟たちを躓かせていた者がいたようです。もっぱら主にある兄弟姉妹に対する愛の配慮の為に身を慎むようにという線で勧めを8章でしていました。しかしここに至ってパウロは別の角度かあるこの問題に警告を発しています。キリスト者は、聖餐によってキリストと1体になっているのである。それにもかかわらず、そのキリストにある者が偶像にささげられた物を食べるなら、彼は偶像と1体となる。悪の霊は偶像を用いて人々を惑わし、彼らを真の神と真理から引き離す。サタンは、人間が真の神以外のものを拝むことを喜ぶ。人間が偶像の宮で礼拝することは、悪霊を喜ばせることにはかならないのであります。パウロは自由制限の精神を31節を見て下さい。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしる、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」自分のためではなく、人のためにという配慮は素晴らしい。しかし私達キリスト者は、それ以上に神の栄光のためにという祈りと願いをもたなければならない。そうする時初めてわたしたちは自分より他人のことを真に第1に考えて生きられるようになるのであります。パウロは世界的視野に立って、32,33と行っています。パウロは8章以来長く続いた「偶像にささげた肉」についての考察を閉じる。

結び

もう1度1コリント10・31節を見て下さい。「だから、飲むにも食べるにも、」また何事をするにも、全て神の栄光にためにすべきである。これはキリスト者生活の大原理であります。わたしたちが、この世に生かされている究極の目的は「神の栄光のため」であります。だから、日常生活のすべてにおいて、このことを念頭におおて生活しなければならない。そしてその目的は32節33節です。パウロはここにキリスト者の心がけを述べたが、ここでは自分の覚悟を語っています。「多くに人が救われるために」、「彼らの益を求めて」つねに自分の行動を定めたのであります。一人でも多くの人が救われる為に、喜んで自分の自由を制限しようというのであります。

新約学者ウイリアムバークレーは「わたしたちは、同胞にたいして果たすべき義務を念頭においたとき、はじめて、すべてのことを神の栄光にためにすることができるのである。また、キリスト者の自由は自分のためにではなく、他者のために与えられているのだということを念頭においたとき、初めて、同胞に対して果たすべき義務を考えることができるのである」と記しています。