2020/11/29週報メッセージ

初代教会の信仰を伝える

朝位 真士 

  前々号で主の祈りを学びました。今日は使徒信条を考えてみたいと思います。毎月聖餐式の時に、使徒信条を称えています。

  「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の命を信ず。アーメン。」

  使徒信条は初代教会で140年頃にまとめられた最古の信仰告白文で、当時のものは今より短く、今日の形態は5世紀頃に作られました。信条とは神とその働きについて信じる内容を要約したものです。作られた目的は二つあり、一つは信者がバプテスマを受ける時の信仰告白のため、二つには異端に対して聖書の真理を守るためでした。内容は、三位一体の神、すなわち父・子・聖霊なる神の働きを順に要約し、体系的な聖書理解を助けます。

 主の祈りや使徒信条を礼拝や集会の時にそらんじることがありますが、一つひとつの字句や内容を深く考えないで口ずさみ、何かマンネリ化していることはないかと深く反省させられました。皆様方はいかがでしょうか。初代教会の信仰を伝える主の祈りと使徒信条を、もう一度真剣に考える必要があるのではないでしょうか。私はもう一度、一人で静かに主の祈りと使徒信条を読みながら、一息一息、主の祈りと使徒信条の深い意味を、神様から問われた感じがしました。皆様も、主の祈りと使徒信条を一呼吸一呼吸味わいながら称えてはいかがでしょうか。きっと今までにない新鮮味を感じるのではないでしょうか。

「平和の源である神」 2020/11/22説教要旨

朝位真士

今日はローマ15・22~33節から聖書を学びましょう。この15章はパウロの書簡ですが、一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。22~29ローマ訪問の希望、30~33祈りの要求、祈祷が語られています。今日の題目はローマ15・33節よりつけさせて頂きました。

 ローマ15・22~33節をみてください。ここではパウロは、ローマ訪問を望んでいました。しかし、ローマには、すでに、教会の土台が出来ていました。けれども、ローマを拠点として、スペインは勿論、ローマから西のヨーロッパ全土に目が向けられたかも知れません。パウロはこの手紙の冒頭でローマ訪問の切願について触れましたが、22節以下では再びそのことについて言及すると共に、ローマからスペインまでの遠大な宣教計画を明らかにします。ところが、25節からは一転して、当座の計画であるエルサレム教会訪問について、熱い胸中を明らかにしています。22節から24節をみてください。パウロの心を満たしていたものは福音を「地の果てにまで」という世界宣教のヴィジョンでした。すでにパウロはエルサレムからイルリコまで福音を満たしてきました。東地中海世界において「もはや働く余地がなく」なったと言っています。次の宣教戦略は西地中海世界です。西の果ての国がイスパニヤ、つまり、今日のスペインまでの宣教です。23節で、ローマ行きを「たびたび妨げられた」と打明けていますが、世界宣教に燃えるパウロにサタンがどんなに水をかけても、それは火に油を注ぐものなので、妨げられれば妨げられるほど、世界宣教の情熱は燃え上がったのです。24節を見ると、パウロの遠大なヴィジョンをはっきりと読みとれます。第1のことは、彼の最終ゴールは福音をスペインまでということ。第2のことは、そのことのために、ローマ教会を通過点ではなく、拠点、基地としたいという目標見です。イエス・キリストの再臨を前に、何としても福音を地の果てにまで満たしたいというパウロの世界宣教戦略は、まさに福音の遠心力によるものです。ローマ帝国の西へ西へという福音の遠心力がすさまじい勢いで働いていたことは確かです。やがてローマはその拠点となり、ペテロもパウロもその地で殉教を遂げたと言われています。25~29節を見て下さい。ここに福音の求心力が25節以下に見ることが出来ます。福音は、常に外への伝道の力と内への交わりの力をもたらすのです。26節にマケド二ヤとアカヤの教会で集めた献金をエルサレム教会に手渡すためでありました。エルサレム教会は貧しい聖徒が多くいました。この貧しい人々をかえり見ることはエルサレム教会との約束事項でありました(ガラ2・10)。何よりも福音の霊的祝福はエルサレム教会から全世界に及んだのですから、物質的祝福をもって感謝をあらわすのは当然なことであるとパウロは語っています。ここに教会の真の交わりを見ることが出来ます。26節の「援助する」も27節の「霊の物に「預かった」もコイノ二ヤという言葉が使われています。貧しさを「共有する」という「共生」の理念があります。パウロは、福音の実である愛の献金を渡すことにより、異邦人教会とユダヤ人教会が全く1つのキリストの教会の交わりに生きることを示したかったのです。パウロのエルサレム教会への感謝を表す福音の求心力は、さらに爆発的な遠心力となって世界宣教へと拡大するのです。キリストの満ち溢れる祝福の使徒、それがパウロです。遠心力による宣教、求心力による交わりを通して、行く先々にキリストの祝福が満ち溢れました。強力な遠心力を生かして救霊のみ業に当たりましょう。信仰の祈りと愛の呼びかけを持って、家族、友人、知人に救いを拡大ささせましょう。貧しい人々、国々、諸聖徒、諸教会へ、もつともつと愛の献げ物をもつて交わりを深めましょう。15・30~33節を見て下さい。熱烈な祈りに包まれて小島伊助先生は、ここに聖徒の3大意欲があるといわれました。伝道と献金と祈祷であるというのです。

結び

15・30節をもう1度見て下さい。ここに祈りの戦いの要請が語られています。祈りは戦いです。格闘です。神と相撲を取ることです。ヤコブのように、神に勝つのです。神に勝つつまり神の御手を動かすしかも1人で戦うのではありません。共闘でなければ勝てないのです。こうしてパウロは3つの祈りの課題を出しました。第1の祈りの課題はユダヤにいる不信仰者から救われることです。第2の祈りの課題はエルサレムに対するパウロの奉仕が聖徒たちに受け入れられることです。パウロは献金通して、ますます、ユダヤ人教会と異邦人教会が1つになり、「エルサレムから」世界宣教の使命が果たされるように願っていました。第3の祈りの課題は、ローマ教会において共に慰め、共に憩いを得ることです。第1と第2はセツトとなつて、その結果の最終的な祈りの課題ですから「共に憩う」そしてついに神の御旨により、喜びをもってローマに向かい、主イエスが「休ませてあげよう」と約束されたその憩いのハ-モ二―を共に奏でるのです。教会の交わりの最たるものは「憩い」です。33節は、平和の神の祝祷です。忍耐と慰めの神、希望の神は、ここでは、平和の源なる神です。波乱万丈のパウロの生涯に、常に伴っていた方が、平和の神から来る真の安息でした。ストレスの多いこの時代です。教会が真の慰め家、憩いの場所となり、そこで常に新しい力が与えられることを求めようではありませんか。平和もう1度15・33節を見て下さい。「平和の神」すなわち。神と「わたし」との間にあった不和の状態が、キリストにおいて除かれ、救いを与える神がローマの兄弟たちとともにあるようにとパウロは、祈って、この15章を終わっています。祈りに始まって、祈りに終わっているのであります。

2020/11/22 週報メッセージ

 「日本信徒前進宣教会」例会に出席して

朝位 真士 

  先日お茶の水クリスチャンセンターで開かれた月例会に出席して、その時の証しを聞き感動したので、その報告をいたします。

 90歳の老姉は生まれつき病弱で、医師もさじを投げたが、クリスチャンになって信仰により病気を治療されました。弱い身体が霊肉健康になり、信徒伝道者となりました。病人を訪問し、お祈りをすると病気の方が元気になりました。死を目前に控えている重病の方も、神様の恵みと祝福を祈ると元気になりました。特に、死に対する魂の平安が与えられ、平安の内に天国へ召されたという話や、十人以上の方々がイエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンになられたという生きた証しに、大変感動しました。

 もう一つは牧師の体験メッセージで、イザヤ43・1~2から「感謝」というテーマでした。難病を抱えていながら様々な奇跡を体験し、中高年になって献身されました。以前は事業をされていましたが倒産し、十数億円の負債を抱えました。神様はいろいろな人を通して負債を返納され、献身を決意されました。病身で17年間牧会をされ、現在80歳を超えておられますが、生き生きとした力強いメッセージをされました。

 またある牧師夫妻は90歳を超えておられますが、毎週上野のホームレス伝道に身を挺して、300人以上のホームレスの方へメッセージをしておられます。その後の食事は、私の敬愛しているクリスチャン実業家が用意しています。これらのことが、90歳以上の牧師と高齢の事業者の信仰的善意によって行われています。

 私は伝道者として、兄姉の証しを伺いながら大いに感動させていただきました。主の御名を賛美いたします。

2020/11/15週報メッセージ

主の祈りを考える

朝位真士

朝位 真士    主の祈りは、マタイ6・9~15とルカ11・2~4に記載されている有名な祈りである。主の祈りは、祈りの模範としてキリストが弟子たちに教えたもの、初代教会から礼拝や個人の生活の中でもくり返し唱えられ、教会の宣教と信仰の成長のために役立ってきた。第一に、「天にまします、われらの父よ」である。全知全能の聖なる神を、私たちは父と呼ぶ。神は、私たちを子として訓練してくださるからこそ、天の父なのである。第二に、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」これは、子が父を慕うように、何でも祈りなさいと主は勧めておられるということである。第三に、主の祈りの六つの祈願である。それは二つに大別される。前半の三つは神ご自身と神の国のことであり、後半の三つは地上のことについてである。一つひとつの順序にも意味があり、またそれぞれに深い真理が込められている。前半の三つは、実に壮大なビジョンをもった願いである。偶像に満ちたこの世で、真の神のみが畏れられるように、人種差別や境界線の争いの絶えないこの世界に、神の支配(御国)が広がるように、また悲しみと不幸の世界が、真の愛の世界に変えられますようにと祈る。そして、後半の三つの願いは、この理想世界を実現するために欠かせない三つの要素を示している。日用の糧の願いから始まり、飢えからの解放、神によって罪がゆるされて得られる魂の平安、さらに、悪魔の働きからの解放を願う。第四に、主の祈りの根本には、人類の究極の希望、イエスの再臨によって実現する神の国への待望がある。第五に、この主の祈りには、かならず「われらの」とある。祈りは、ひとりで祈るようだが、実はみんなで祈っているのである。群れの祈りである。だから「われら」には、とりなしの意味がある。主の祈りは、全世界の人々が祈るべき祈りである。(『新キリスト教ガイドブック』より)                        

「キリストを模範としなさい」2020・11・15説教要旨

朝位真士

今日は子供祝福式礼拝ですが、今日はフィリピ2・1~11節からイエス・キリストの模範を学んで行きましょう。この手紙は獄中書簡と言われています。この書簡は獄中の中でフィリピの人々に語った手紙です。この教会はマケド二ヤの東の端にあるその地方第一の町で、当時ローマの植民地であった。(使徒16・12)。この地は、パウロがヨーロッパ大陸に伝道した最初の土地として有名です。彼が第二回伝道旅行の際、トロアスにいた時、夜、幻の中に1マケド二ヤ人が現れて、「マケド二ヤに渡ってきて、私たちを助けてください」と懇願するのを聞き、聖霊の特別な導きによって、そこに行き、伝道したのであります(使徒16・6節以下)。その時、ルデヤを始め熱心な信者が起こった。しかしパウロ達は迫害に会い、投獄されたが、神の力によって救い出され、そこの獄吏一家が救われるに至った。それは紀元53年頃のことであった。その後紀元58年頃に、第3回伝道旅行の際、パウロは再びこの地を訪ねた。

 フィリピ2・1~11節を見て下さい。ここでは信者の生涯の模範であるイエス・キリスト(今も主は卑しい奉仕のうちに御自身を再現される)この2章1~4節は一致と謙遜に関する勧め。5~11節は謙遜の模範であるキリストの姿とその高挙。まず1~5節を見て下さい。ここでは交わりの一致が延べられています。フィリピの教会でパウロは実際的な一面をここで語っています。すべてのキリスト者は、キリストとの関係において同じ体験ももっているのですから、それに根ざして、お互いの間に一致をあらわさなければなりません。1節のキリストによる勧めは、キリストによる慰め、助け、はげまし、愛の励ましは、キリストに基づく力づけの意味であります。キリスト者の交わりは、お互いにキリストの慰めと励ましをもたらし合う交わりである。ともにイエスを主と告白することによって、聖霊によって生まれ変わったお互いのい間に交わりに目覚めさせられ、同情と理解とを相互に深く持つことを、教会において学ぶのであります。もし、教会の中にこうしたものがいくつかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、1つの思いになって、わたしの喜びを満たしてほしいとパウロは願っています。信仰の交わりは、そういう余裕と忍耐とを、愛と謙遜によって持つ、この交わりの具体化こそ、パウロの喜びを完全なものにする。ピリピの教会に人たちも、このことを理解して、そこでは、党派心や虚栄が克服されて、お互いにへりくだった心をもって交わりが成される。愛において、自分のことばかりでなく、他人のことも考えるとき、自己中心的な考えでなく、他人の立場や問題を同情し、また尊敬する心が生じ、互いに人を自分よりすぐれた者として取り扱ってゆくことが出来ます。キリストは、隣人たちを、その道具として、御心を成される。隣人は、愛の働き場であると共に、愛をうける場でもあります。そして、キリスト御自身の比類のない謙遜がつぎの

2章6~11節に語られています。ここではキリストの謙遜と高挙が語られています。

この箇所は、2つの部分に分類されます。5~8節は、イエスの謙遜について、9~11節は、それに対して神がイエスを高く挙げられたことを述べています。

結び

もう1度2・1~11節を見て下さい。ピリピ教会の中には、利己的野心を満足せようとした人々がいました。イエス・キリストが意図されただ1つのものは、たとい奉仕されることになったとしても、人々に奉仕することであった。ピリピ教会の中には、自分が人々から注目されたいと願う人々がいた。しかしイエスが意図されたただ1つのものは、人々の目が神に集中することであります。このように、キリストに従う者は、いつでも自分のことではなく、他の人々のことを考え、自分の栄光ではなく神の栄光を考えなければならない。キリストの模範をもう1度聖書2・6~11節を見て下ださいここにキリストの模範を見ることが出来ます。今日は子供祝福式ここに子供のような素直なキリストを見ることができます。

謙遜と愛を持つて、教会に人々に仕えて参りましょう。

「神のために働く」2020・11・8説教要旨

朝位真士

今日はローマ15・14~21節を通して聖書を学んでいきましょう。このローマ15章は一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。1~13信仰の弱い者に対する愛の態度。14~33節

パウロ自身に関する陳述。14~16ローマ書を記した理由。17~21パウロの使命と働き。22~29ローマ訪問の希望。30~33祈りの要求。祝祷。ローマ人への手紙の学びもいよいよ最終段階となります。15・14節でパウロは1章から語り続けてきたことを静かに振り返っています。そして、改めて、14節に「兄弟たち」と呼びかけて、結びに入ります。ローマ教会の兄弟姉妹は、実に善意に溢れ、救いにおけるあらゆる知恵に満ち、互いに訓戒し合うという「自浄能力」のある者たちでした。その成熟した彼らであればこそ、彼らに救いに関する記憶を鮮明にするため、遠慮せず思い切って書いてきました。それは、とりも直さず、異邦人のために「キリスト・イエスに仕える人」となるためだったのです。その宣教者パウロの姿をこの箇所でしつかり見てまいりましょう。

ローマ15・14~21節をみてください、とくに14~16節のところでは福音宣教の目的が語られています。福音宣教者とは、「キリスト・イエスの仕え人」です。福音の本質は、教説でも倫理、道徳でもありません。福音とはイエス・キリスト御自身です。イエス・キリストというお方を人々に宣べ伝え、紹介し、結び合わせることが伝道です。パウロここで、「神の福音のために祭司の役を勤め」とか、異邦人を神への「ささげ物」、「供え物」にするなど礼拝に関わる用語を用いています。実は、キリスト・イエスに「仕える」という用語も、「礼拝する」と言う言葉の語源となっています。今日、礼拝を司る牧者が何を至高の目的として奉仕しなければないかを明白にここで見ることが出来ます。その至高の目的は、全てのクリスチャンたちが、「聖霊によってきよめられた、御旨にかなうささげ物」となることです。神からの恵みを受け立てられた伝道者や牧師の究極の目標がここにあります。これは牧師・伝道者だけでなく、全てのクリスチャンな目標であります。1人1人が「聖霊によって聖なる者」となる。「御旨にかなう捧げ物」、「神に喜ばれる供え物」となる。ここにこそ福音宣教者の目的があります。当然、私達の教会の到達点もここにあります。パウロがローマ人への手紙を書いた意図もここにあります。実に、ホーリネスこそ、福音宣教の究極の目的です。10軒の家を建てかけるよりも1軒の家を完成する方が大切であるとかってバックストン先生は語られたそうです。聖霊による聖化の恵みがお互いの中に徹底されるように祈りましょう。次に15・17~19節をもう1度見て下さい。ここに福音宣教者の手段が記されています。これを見ると、パウロの福音宣教は徹頭徹尾、神の恵みにより、キリスト・イエスによってなされたことがわかります。パウロの「誇り」は、自慢ではなく、神の栄光をほめたたえる誇りでした。神の恵みはこんなに素晴らしいことをしてくださる。わたしはキリスト・イエスに用いられたに過ぎないということです。コリント1・15・10節に、パウロは使徒たちの中でだれよりも多く働いて来たと言いつつも、「しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」と言っています。小島伊助先生は「万事聖霊、万事祈祷」とよく言われたそうですが、福音宣教の手段は、まさに「わたしの霊によるのである」以外の何ものでもありません。19~21節を見て下さい。福音宣教の熱望をパウロは語っています。

結び

イザヤ52・15p1149「それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、1度も聞かされなかったことを悟ったからだ」ここにパウロの宣教の秘訣がありました。パウロの引用句は、未知の伝道地における先駆者を、大胆にするものは、実に、神のみことばと、みことばを通して活動する聖霊の導きであります。

彼は「言葉とわざ、しるしと不思議との力、聖霊の力によって」と語っています。ローマ15・19節「しるしや、奇跡の力によって働かれました」私達も福音宣教の聖なる野望に燃え、くまなく、地域に福音を宣べ伝え、世界宣教の幻に生きる者となりたいと思います。

2020/11/8 週報メッセージ

家族伝道に期待する

朝位 真士 

  「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」(使徒16章31節)

  フィリピの獄屋でパウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、突然大地震が起こり、牢の土台が揺れ動き、看守が責任を取って自害しようとした時に、パウロが看守に語った言葉が、右記の聖句です。その時、看守が救われて、自分も家族も皆すぐに洗礼を受けたという劇的な場面です。

 1923年、初代板井康裕牧師がアメリカから帰国し、東京都世田谷区桜新町の自宅で東洋宣教会の福音使として伝道を開始しました。その後、同区駒沢に集会所を設けて駒沢ホーリネス教会となり、渋谷駅前の桜ヶ丘に家を借りて渋谷聖教会となりました。1942年、日本基督教団設立と同時に教団に加盟して桜ヶ丘教会となり、1944年、板井先生は杉並区下高井戸一丁目の借地に家を購入して疎開しました。1968年、西海牧師が赴任して、1975年、下高井戸四丁目のマンション、パールハイツ桜上水に移転。1994年に朝位が赴任し、1997年、現在の教会に移転しました。

  ここで私は桜ヶ丘教会に関係の皆様に、主にあってお願い申し上げたいと思います。私たち一人ひとりが家族伝道を徹底していかないと教会の存続は危機を迎えると思います。自分の家族のために毎日5分でも10分でも祈ってください。キリストの証し人、キリストの伝道者として、言葉もしくは生活を通して福音を語り、終末期のこの時代、一人でも多くの方々をキリストの救いに導いてください。もちろんそれは神の働き、聖霊の導きです。そのために毎日祈ってください。祈りは不可能を可能にします。「人にはできないが、神にはできる。」神は何でもできます。今いる方々全員で神の国、天国へ参りましょう。

主は大牧者 2020/11/1

朝位真士

「主は大牧者」2020・11・1説教要旨

今日は詩篇23編1~6節を通して聖書を学んで行きましょう。これは感謝と平安に満ちた詩篇であります。主は羊飼いとして私達を世話し、守り、導いて下さる。信仰者は神の家の客人としてだけでなく、家族の一員として、あつかわれるということであります。この詩篇は言わば、ダビデの生涯を通じての信仰の喜びを要約したものといえます。それでは具体的にはどのような状況が挙げられるだろうか。サムエル記下17・27~29p509という出来事を挙げる事が出来るでしょう。また詩篇27編はこの詩篇を理解する上で参考になります。この小さな詩篇はイエス・キリストにおいて大きく花開いたということができます。イエスは「良い牧者」として、羊に永遠の命を与えて下さった(ヨハネ10章、1ペテロ2・25)。内容区分1~3節主は羊を養い導いて下さる。4~6主は羊を守り喜ばせて下さる。

詩篇23編を1~6節まで見て下さい。ある注解者はわれらの良い牧者。その与える全ての恵み1~4牧者である神の恵みの讃美。5、敵前の饗宴の恵み。6、恵みと憐れみの継続の確信。ダビデは若い頃牧者であったので(サムエル上16・1)、牧羊者としての経験があり、ここに自分と神との関係を牧者と羊との関係たとえてその恵みを讃美(1)しています。旧約聖書では神と民との関係を、新約聖書では主と教会との関係をたびたび牧者と羊との関係をたびたび牧者と羊との関係にたとえています。(詩80・1イザヤ40・11、ヨハネ10・11,14、へブル13・20、1ペテロ2・25)。この牧者たる神こそ恵みの無尽蔵の財源であります。(1終、フィリピ4・19)、みどりの野とは食物は豊にあり、心気をさわやかにする所、憩いの汀とは渇く事を知らず、休息するによい所で、主はそこで我々を養い、休ませたもう(2)。彼はわたしたちを救って新生命を与えたもうのみではなく、その後の信仰生活においてもわたしたちを正しい道を歩ませ(3)、どんな試練困難にも、また実際死の瀕した時にも共にいまして力づけ(4始め)、懲らしめの中にも慰め(4終)、迫害の中でも恩恵を喜びと楽しみを満たしたもう(5、油も酒も聖霊の型(1ヨハネ2・27,エフェソ5・18,詩篇140・14)。こうして私達は現世では終生恩恵と憐れみを受け、天国では永遠に幸福を受けるのであります(6)。この詩篇は何回読んでも、味わえば味わうほど恵みを感じる詩篇であります。3000年の昔牧者であったダビデが感激をもって深い恵みの経験を歌ったこの詩によって、どんなに多くの人が慰められ励まされた事でありましょう。悲しむ者は慰められ、乏しい者は信仰が与えられ、死の岸辺に立った者は勝利の力を得た。これは詩篇中の詩篇であります。主は「良い羊飼い」で(ヨハネ10・11、14)、その羊であるわたしたちにすべての物を供給し(1)、安息と(2)、生命を与え(3)、叉私達が迷うことがないように先に立って導き(3)、試練の暗黒の中にも共にいまして守りたもう。それ故彼に従う者には恐怖がなく(4)、かえつて慰めと(4)喜びと楽しみがあり、幸福な交わりとあふれる恵みを受けます(5)、この世でも天国でも永遠の恵みと神の国の幸福とを受ける(6)。

結び

もう1度詩篇23編を見て下さい。主に信頼する者の人生が常に恵みで満たされ、溢れるほどであるという感謝の表現であります。羊の喜びは、敵からの守りを具体的に示されます。6節は、羊が安全な囲いの中に守られるように、主に従う信仰者は主の家の中に住む事が出来、休息を与えられるということであります。「いつくしみ」とは良いことという意味で、健康や必要が備えられという事と考えることができる。「恵み」とは神の愛と守りの実感であります。それがいつもわたしを追ってくる。「主に家」とは、ダビデにとってはエルサレムの主の家であり、私達にとってはイエスをかしらとする教会であります。主の羊は、繰り返し主の家に帰って来るし、叉主の羊の安息は主の家にこそある、という意味であります。

例話―1人の婦人伝道師105歳で召天されたかた御主人も牧師であられたが3人の子供を残して戦死されたけれども、その婦人伝道師は70年間教会に仕え、いつもこの詩篇23編を口ずさんでおられ、とくにご主人が戦争に行く時にイエス様に祈りなさいと言われていつも主に祈って3人の子供達を育てて、彼女がいつも言っていたことは「「わたしには何も欠けることがない」と言われていたそうであります。その教会の牧師がいっていました。その婦人伝道師の働きで多くの方々が救われ、悩みを解決されたそうです。

2020/11/1 週報メッセージ

ハイデルベルク信仰問答より

朝位 真士 

  第1問 生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは、何ですか。

  答 わたしの唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、わたしの体も魂も、わたしのものではなく、わたしの真実の救い主イエス・キリストの所有であるということです。

   主は尊い血をもって、わたしのすべての罪の代価を完全に支払ってくださり、わたしを悪魔のすべての支配から贖い出してくださいました。主は、今も、天にいますわたしの父のみこころでなければ、わたしの頭から髪の毛1本も落ちることのないように、いな、すべてのことがわたしの救いに役立つように、わたしを護っていてくださいます。それゆえ、主は、ご自身の聖霊によって、わたしに、永遠の生命を保証し、今からのちは、主のために生きることを、心から喜び、進んでそうすることができるようにしてくださるのです。(春名純人訳)

  第2問 この唯一の慰めの中で、あなたが喜んで、生き、また死ぬことができるために、あなたはいくつのことを知らなければなりませんか。

 答 三つのことであります。第一に、わたしの罪と悲惨がどんなに大きなものであるかということ。第二に、わたしは、どのようにして、わたしのすべての罪と悲惨から救い出されるかということ。第三に、わたしは、どのように、この救いを神に感謝すべきかということです。

 私はこの問1、問2の答を見てくると、私たち自身の唯一の慰めは真実の救い主イエス・キリストの所有であるということと、私たちが知るべき三つのことをもう一度確認することができました。キリスト教の信仰問答の模範であるハイデルベルク信仰問答をもう一度この機会に学ぶことは、キリスト者として必要なことであると感謝しています。

2020/10/25週報メッセージ

コロナウイルス感染症のこの時期に

朝位 真士 

  コロナウイルス・パンデミックは中国から始まり、現在全世界に広がっています。人類の歴史は黒死病やペストなど感染症との闘いで、前の世紀においても1918年にアメリカから流行したスペイン風邪がありました。当時の総人口の4分の1ほどにあたる5億人が感染し、4千万人が死亡したとされます。

 私共の国も東日本大震災とそれに伴う原発事故に見舞われました。それから十年足らず、復興の証としてオリンピックを開催する直前にパンデミックに襲われるとは、誰が予想したでしょうか。私は最近、『コロナウイルスとキリスト』(ジョン・パイパー著)という本を読みました。この中に、神はコロナウイルスを通して何をしようとしておられるのかについて記されていました。著者は道徳的な恐怖を目に見える形で示します。

  神は、コロナウイルスの大流行によって、ほかのどのような大災厄の場合とも同じく、神を軽んじる罪が、どれほど道徳的に恐怖すべき、霊的に醜悪なものであるかを、目に見える物理的な形で世界に示しておられる。「神は、私たちが御怒りを受け(ない)・・・・・・ように定めてくださったからです。」(Ⅰテサ5・9)私たちも、ほかの人々と同じように、病や災害によって死ぬ。しかし、キリストにある者らの場合、死の「とげ」は取り除かれている(Ⅰコリ15・55)。「死ぬことは益です。」(ピリ1・

22)を去ることは「キリストとともにいる状態になること」です(ピリ1・23)。神が物理的世界を呪いの下に置かれたのは、この世の病や大災厄に見られる物理的に恐怖すべき現実を、罪のすさまじさが生々しく示された写し絵とするためではないか。物理的な悪は、神への反逆という道徳的な暴力を指し示すたとえ話であり、劇であり、道しるべなのである。その苦難は、訓練であって、滅びではない。「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子にむちを加えられる」(ヘブル12・6)のだから。

1923年6月1日創立