「神の宮である教会」2021・2・28説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント3・10~17節を通して聖書を学んで行きましょう。この3・10~15節は伝道者の働きとその責任。16~17節は神の宮である教会または信徒と言うことが語られています。ここでは10~17節を通して伝道者の責任を記しています。そして信徒を(神の畑)また(神の建物)に、そして伝道者を農夫(6~9)また(建築師)にたとえています(10~17)奉仕をする場合、おのおのに異なった使命があり、その賜物も異なっており、ある人は植え、ある人は水を注ぐ。しかし、同様に主の御用において、(神の同労者)としてただ忠実に働くなら、(それぞれその働きに応じて報酬を得る)また。伝道は建築工事のようなものである。(土台はイエス・キリストで)、その上に教会を建て上げるために働くのである。(金、銀、宝石)を用いて建てるとは、神の言葉、福音の真理をもってそれをなすことであります。しかし、自分の思想や人の説をもってするのは(木、草、または、わら)を用いて建てるようなものであります。彼自身は信仰を持っていればさばきの日に救われることは出来ても、その働きは全く無効に帰する。また、人の前にどんなに大きな、また成功した働きも、その動機が神の御旨に叶わない者であれば、木、草、わらのように、さばきの火に焼かれて何も残らず、彼自身はかろうじて魂だけは救われる。反対に、人の前には認められない小さなわざでも、神と人とを愛する純粋な心からの奉仕であれば、金、銀、宝石を用いたわざのように、かの日に栄光を受け、報酬を受ける。私達の働きはどうでしょうか。永遠に残る尊い働きでしょうか。信徒は(神の建物)また(神の宮)であります。きよくあるべきもので、心の中に肉に属する不潔な思いをいだいてはならない。御霊の内住を受け、それを意識して、きよい行いをするべきです。

1コリント3・10~17節を見て下さい。コリント教会を創設したのはパウロであります。幾多の困難と戦いながら、ここ地に開拓伝道した人であります。かれは9節であなた方は「神の畑、建物である」と言った。建物にとって、一番大切なのは土台である。そして教会という建物を支える土台とは何か。それは金、銀、宝石である。信仰者の信仰が激しく試される日がやってきます。そのとき、各人が築いた建物の良否がいかんなくあらわれます。私達はイエス・キリストを土台とした教会に相応しいものを建てているでしょうか。ある伝道者がこの箇所を説き明かすのに、東京の帝国ホテルを例に引きました。ライトというアメリカの建築家によって建てられたものですが、その時に基礎工事は大変なものだったそうです。地面を岩盤まで掘らせて土台を据えたので、工事関係者の労苦も並大抵のものではなかった。ホテル側の人たちも、基礎工事にもの凄い時間と費用がかかったので、大変だったと思います。しかし、試練の時がやってきた。1923年(大正12年)9月1日、あの関東大震災であります。そのとき東京の建物はほとんど崩壊したそうですが、帝国ホテルだけはびくともしなかったそうです。壁にひび割れ1つも入らなかったそうです。まさに土台がしっかりしていたからです。伝道においても、蜜室の祈りや個人伝道や訪問伝道が大切です。今はコロナウイルス感染症流行でストツプしています。パウロは、誠実で熟練した建築家が家を建てるように何よりもまず土台を築く事に全力を注ぎました。ここで大切な事は、パウロが据えた土台が主イエス・キリストであったと言うことであります。この世の教会やキリスト者はつい人間を土台にしがちであります。パウロが据えた土台の上に伝道して教会を建てようとしたのであります。1コリント3・12~13節をもう1度見て下さい。この土台に建てられる建物に対して、教師は責任を持たなければなりません。その建築に用いられる材料2種類あります。1つは永久に朽ちないものであり、もう1つは1時的でやがて消滅していくものであります。13節をみてください。私達の伝道も試練に会った時その真価が明らかになります。金の働きであるか、銀の働きであるか、またわらの働きであるかは、ハッキリします。

16~17節を見て下さい。パウロはここで、教会は熟練した建築家によって建てられた神の宮である。と言う。6・19節には「個々のキリスト者は聖霊の宮」であるとされていますが、2コリント6・16では、「神の御霊が宿る神殿はキリスト者の共同体、すなわち教会であるといわれています。だからキリスト者としての一致を守るように教えています。教会を分裂させることは、聖なる神殿をだめにすることでありますから、最も罪深い行為であるとされています。

結び

もう1度1コリント3・10~17節を見て下さい。コリント教会も「聖なるもの」である。神のために献げられたものであります。この桜ヶ丘教会も実に神の宮なのであります。どのように足りないところがあっても、この教会は実に神の宮であります。そのことを信じ、厳粛な思いを持って、全ての信徒が自らの行動を慎重にすべきであります。

「成長させて下さる神」2021・2・21説教要旨

朝位真士

今日は1コリ3・1~9節を通して聖書を学んで行きましょう。この処は3章で三種類の人。価値ある奉仕。神の宮。1~2コリント信者の肉に属する者であることを嘆く。3~4肉に属する証拠である妬みや争い。5~9伝道者の使命と神との関係。が述べられています。3章始めに(霊の人)また(肉に属する者)という言葉がありました。ここに三種類の人がいます。先ず(生まれながらの人)、すなわち生まれ変わっていない人である。キリスト教の感化を受けて、思想的に変化し、あるいは洗礼を受けて、教会に連なっていても、新生の体験を持っていない者はこの部類に属します。次に(肉に属する者(1)また(肉の人)(3)で、(キリストにある幼子)とあるように、新生はしましたが、まだキリスト教徒の完全な領域に達していない人であります。パウロはここで、コリント信者が肉に属する者であることを責めています(3,4)。党派心、妬み、争いなど肉の行い(ガラテヤ5・19~20)のある者は、肉に属する者で、まだきよめられていない証拠であります。肉に属する者は、荒野放浪中のイスラエルの民が、神に救われたのちにもエジプトのものを慕い、不信仰や不平に陥ったように、神の恵みを受け、恵みのうちにおりながら、時々世を慕い、神にそむくことがあります。第3の(霊の人)とは、全く清められて(キリストの思いを持)ち、すべての事をわきまえる者である(2・15~16)。で弟子たちもペンテコステ以前は肉に属する者で、彼らのうちに高慢、ねたみ、野心、争いなどがあったが、ペンテコステの霊を受けてきよめられて初めて全き聖の人となった。アブラハムは霊の人、ロトは肉に属する者、ロトの妻は生まれながらの人であります。私達はどの部類に属しているでしょうか、5~9節では伝道者は神の御手の中にある単なる器であります。

1コリ3・1~9節を見て下さい。コリント教会に属する者多くの者は、「肉に属する者」すなわち「キリストにある幼子」で、霊的発育を遂げていない、信仰上の未熟者である。しかし、素直に育てば、円熟のキリスト者になり得るのであります。コリント教会は、組織も完備し、集会も盛んであり、社会事業も活発であった。しかし、教会員の霊的生活は未だ幼稚でありました。4節から5節を見て下さい。人間的な行動であります。彼らはただキリストから与えられた賜物を活かして奉仕しただけであります。いわば、神の手にある器具にほかならない。その知識も弁舌も、その熱心も、またその得る結果も、みな神にある。教役者は、ただこれを適当に活用する、管理人(スチュワード)に過ぎません。3・6~9節を見て下さい。神がパウロを用い、アポロを通して、福音の種をまき、これに水を注いで、成長させて下さる。だから、「大事なのは」パウロでもなく、アポロでもなく、「神のみ」である。めざすところは、神の栄光とキリストのからだなる教会建設であります。「わたしたちは神の同労者」であります。「あなたがたは神の畑であり、神の建物である」。

結び

もう1度1コリント・3・1~9節を見て下さい。

コリント教会には大別して3種類の人がいました。

1・生まれながらの人間(2・14)―生まれ変わってない人

2・肉に属する人(3・1)―キリストにある幼子

3・御霊に属する人(3・1)―霊的に成長している人。

この三種類の人間を旧約聖書のアブラハム物語からあげるとすれば、アブラハムは「御霊に属する人」。アブラハムのおいロトは「肉に属する人」。ロトの妻は「生まれながらの人間」であったといえます。(創19・26~29)p27

次に伝道者の使命と神との関係(3・5~9)。

パウロは第1に人は人を信仰に導く道具にすぎないと語っています。(5)

第2にパウロは信仰を成長させるのは神であると教える。(6)

9節では伝道者が「神の協力者」であるといっています。これは神の御心に従って神と共に働く者、すなわち神に仕える者のことであります。

パウロはまた教会を神の畑、神の建物にたとえていますが、「畑」は6~7節と関連して教会が有機的に成長していく面を描いたものであり、「建物」は10節以下と関連させて教会の各部が相互に関連していくことを語ったものであります。

2021/2/21週報メッセージ

森島泰則教授の文に感動して

朝位 真士 

  先日『いのちのことば』2月号の中で、国際基督教大学の森島教授の「時代を見る眼」という文章が心にとどまったので、皆様にご紹介させていただきます。先生は、認知心理学を専門とされる方です。

 認知科学者のスティーブン・ピンカーが、近著『二一世紀の啓蒙』の中で次のようなエピソードを紹介しています。心は脳の活動パターンで決まるとされています。しかし、脳の活動パターンという物質的活動から非物質的な理性(心)が生じるのかという問いは、現代脳科学の最大の未解決問題と言われます。そして先生は「聖書によれば、理性(心)は神によって与えられました。もちろんこれは科学的な説ではありませんし、脳活動と心の脳科学的な関連性を否定するものでもありません。しかし、一部の科学者が批判するような迷信のような信念でもありません。聖書は、確かな根拠に基づいた信頼に値するものだからです。」コロナ禍を「克服」する鍵は、生きる意味を持っているか、そしてその意味とは何なのかにかかっているのではないでしょうか。キリストにあって生きる意味と希望を見出したパウロの次の証しは、私たちに勇気を与えてくれます。「私は、貧しさの中にあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることも飢えることにも、富むことにも貧しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4・12~13)私も同感です。

2020/2/14 週報メッセージ

オンライン臨時年会に参加して

朝位 真士 

  1月31日(日)14時半から16時20分迄オンラインでホ群の臨時年会が開催された。議案①ホ群委員長選挙、②ホ群副委員長選挙、③ホ群書記選挙、④ホ群臨時年会議事録承認の件、その他としてパートナー教会のグループ等のプログラムで開催された。私共は未だ慣れていないので大変心配したが、ITチームの先生方によって会はスムーズに進んだ。選挙では、ホ群委員長横山基生先生(志木教会)、副委員長大友英樹先生(赤羽教会)、書記澤田武先生(小松川教会)が決定した。

 パートナー教会は15グループに分類され、桜ヶ丘教会は11グループに入り、宮崎清水町教会(山口英希先生、宮崎)、舘坂橋教会(村上義治先生、岩手)、日野原記念上尾教会(長橋和彦先生、埼玉)と同じグループとなった。四教会がホ群の協働牧会教会としてこの一年、祈りとお交わりをしていく。具体的には、週報を交換し、祈りの課題を出し合い、コロナウイルス感染症流行が終息すれば、牧師や教会員の交流ができればよいと考えている。できることから始めればよいと思う。毎年交換する予定だが、ホ群の教会・伝道所を一つでも知っていただき、祈り合い、助け合い、経済と時間的余裕があれば説教交換等ができれば理想的である。

 ズームで久しぶりにホ群の牧師・信徒の方々にお会いできて、大変感謝であった。

「神の奥義」2021・2・14説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント2・6~16節を通して聖書を学んで行きましょう。この2・6~10節はパウロの深い教えである神の奥義。11~16節は神の奥義は神の霊によってのみ知るうること。神の奥義は聖霊の啓示によって初めて知ることが出来ます。(10)。(生まれながらの人)すなわちまだ生まれ変わっていない人は、聖霊を受けることが出来ませんので、神の奥義を理解することが出来ません。(14)。それゆえ、神の奥義である十字架が、彼らには愚かなものと見えるのであります。私達のうけた聖霊は「知恵と啓示との霊」(エペソ1・17)、これが与えられる1つの目的は、(神から賜った恵みを悟るためであります(12,ヨハネ16・13~15)。神の奥義は人の(目がまだ見えず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことで)あるが(9)、その奥義が聖霊によって示される。こうして聖霊に示されてそれを理解した者は、それを説くにもまた、(御霊の教える言葉を持って)説かなければならない。(人間の知恵が教える言葉)で神の深さを説明するわけにはいきません。(13)。これが、福音を説く御霊の言葉である聖書の言葉を用い、また御霊によって与えられるメツセージを語らなければならない理由であります。

1コリ2・6~16節を見て下さい。キリストに現れた神の深い真理は聖霊によって、初めて明らかにされます。人知をどのように絞っても、神の深い真理に達することは出来ません。人間は聖霊を受けずして、イエスを救い主と言うことは出来ません。(1コリ12。・3)p315

この「御霊」は「神からの霊」(3・12)であり、人の内に宿る「神の霊」(ローマ8・9)。であり、すべてのことを、そしてその最も深い神の性質や計画を知りつくして、人を教えることが出来る。だから使徒は、人々がこの知恵をいただくために、御霊を受けるように絶えず祈ったのであります。(12・8,エペ1・17,コロサイ1・9)。神に関することは、神御自身の霊によらなければわからない。だから、わたしたちが聖書の言葉を、どんなに文法的に解釈したり、言語学的に研究しても、それだけではその本来の意味はよく納得されない。聖書は神の言葉である。だから、人知だけで探求しても、到底深い真理は理解されない。福音の真理は、霊的真理である故に、霊的方法によらなければ理解されない。と同じように、この福音を宣べ伝える際にもこの世の知恵が与える言葉によるのではなく、専ら霊の言葉によらなければならないことは当然であります。9節の言葉はイザヤ40・13引用であります。p1126キリストの思いをもって、すべてのことを律していくべきであります。そうすれば、教会の中で、他人を批判して悪く言って罵ったり、党派をつくって争ったりできるはずはありません。

結び

もう1度1コリ2・6~16節を見て下さい。神の奥義は聖霊によって啓示されて初めて知ることが出来る(10)。生まれながらの人間は、神の御霊(11)を受けていないので、神の奥義を知ることが出来ません。ベタニヤのラザロは死んで4日間も墓の中に置かれていました。彼は神に命を与えられて初めて生き返ることが出来ました(ヨハネ11章)p188~189

それと同じように、私達も生まれたままでは霊的に死んでいます。神に聖霊を与えられて初めて霊的に生かされ、神のことが分かるようになります。人間はどんなに知恵や知識があっても、またどんなに努力しても、それだけでは神の真理に達することは出来ません。聖霊を受けなければだれもイエスをキリストと告白することは出来ないのであります(12・3)p315。聖霊は神からの霊であり、召された者の内に宿る神の御霊であります。私達召された者が受けた霊は、「神を知るための知恵と啓示の御霊」(エペ1・17p353)であります。また、御霊が与えられる目的の1つは「恵みによって神から賜ったものを、私たちが知るため」(1コリ2・12)ヨハネ6・13~15p200である。1コリ2・13、2テモ3・16p394

神の奥義は聖霊に導かれないと理解できないことがわかりました。クリスチャンは皆神の聖霊を受けています。しかし神を信じなくなると聖霊はその人の心に宿りません。絶えず聖霊に満たされなくてはなりません。その方法の1つはまず1日の時間を決めて聖書を拝読し、祈り、主の奉仕に励み、献金を献げることです。勿論経済的赦されない人は奉仕祈りや教会の為に奉仕、また諸集会にできるだけ出席する。今はコロナで出席が制約されています。自分の与えられた賜物を主の御用に活かすことです。

「キリストを宣べ伝える」2021・2・7説教要旨

朝位真士

今日は1コリ2・1~5節を通して聖書を学んで行きましょう。この2章は伝道の題目と方法。十字架のキリスト。啓示の霊が語られています。1~2パウロの立てたキリストのあかし。3~5彼の謙遜な態度と、知恵の言葉を用いなかった理由が述べられています。パウロは先に、コリントに来て伝道する前、アテネのアレオパゴスの評議所で説教した(使徒17・22~18・1)。その説教は、思想としては実に立派な、ギリシャの文化人に適した説教であったが、その結果はあまり成功したとは言えなかったので、彼はコリントに来た時、特に(イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは)何事も語るまいと決心したのである(1~2)。彼はすべてのキリストの証人の模範であります。何を伝えるべきか、またいかに伝えるべきか、すなわち、伝道の題目とその方法とをよくわきまえていた。伝えるべきものはキリストとその十字架、伝える方法は(巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである)(4)。彼自身立派な学者であり、また彼に聞いたギリシャの人々も文化の高い知識階級の人々であったが、彼は彼らの信仰が(人の知恵によらないで、神の力によるものとなるために(5)、ただ卒直に、十字架につけられたキリストだけを宣べ伝えた。

 1コリント2・1~5節を見て下さい。パウロは、言葉と知恵を尊ぶギリシャ人の間にきた時、大きな誘惑を感じたにちがいない。パウロは豊かなギリシャ文化の知識を身につけられたことのある人である。「すぐれた言葉や知恵に」にも通じた人である。雄弁術を使って、巧みな修辞で、深淵な哲理を説いたら、もっと聴衆に受けたかも知れない。しかし、パウロはここコリントにおいて、そのことをしなかったのであります。2節をみてください。パウロは、説教において、すぐれた言葉と知恵を用いなかった。福音は、美しい言葉でも思弁的な哲学でもなく、単純な言葉で語られるイエス・キリストとその十字架の事実であることを、よくわきまえていたからである。罪に滅びようとする人を救うことのできるものは、この「十字架につけられたキリスト以外」にない。そして、キリスト教における説教とは、この十字架につけられたキリストをありのまま説くことにほかならない。どんなに大衆に受けるからと言っても、十字架の福音を捨ててはならない。パウロは一意専心、十字架のキリストを説いた。彼の説教の内容は、ここに集中されていたのであります。だからガラテヤ教会の人々に向かっても、「十字架架につけられたイエス・キリストをあなたがたの目の前に描き出された」ではないかーパウロの説教で語っているほどであります(ガラ3・1)p345

3節を見て下さい。アテネにおける伝道は失敗であり(使徒17・32)p249、ユダヤ人からは激しく迫害された。しかし、今淫蕩に満ちた大都市コリントにきた。しかしパウロは神の声を聞いた(使徒18・9)「恐れるな、語りつづけよ、黙っているな」「わたしがあなたと共にいる」と、幻の中で語られる主の御声に励まされて立ちあがったのであります。今年2021年度のみ言葉であります。

そして、「わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのであります」。人間の知恵と力により頼まない者は、神の知恵と力に頼らざるを得ません。単純に卒直に、十字架のキリストだけを説かずにはいられません。それは、知識をてらう人々には愚かと見られるけれども、実はそれが「霊と力との証明」であった。言葉の巧みはそこになくても、人の魂をうって、信じた者の生活を一変させる力があったのであります。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、」神の力によるものとなるためであった。信仰は決して、人為的なものではありません。だれであっても、人が信仰には入るのは、ただ神の力によるほかありません。

結び

もう1度1コリ2・2~5節を見て下さい。このパウロは私達にとってキリストの証人の模範であります。このことから私達はなにを学ぶことが出来るか。私達は何を宣べ伝えるか、またいかに宣べ伝えるかの宣教の目的とその方法を学ぶことが出来ます。私達が宣べ伝えるのはキリストとその十字架であり、伝える方法は説得力のある知恵の言葉ではなく、「御霊と御力」(2・4)によってである。パウロ自身立派な学者であり、彼に聞くギリシャ人も知的な人たちであったが、パウロは彼らの信仰が「人間に知恵にささえられず、神の力にささえられるために」(5)、十字架につけられたキリストのみを単純卒直に宣べ伝えた。十字架の福音を語るところに、人を救う神の力は働くのであります。当時の大家ガマリエルの門下で学んだパウロが、今は人に馬鹿にされようがあざけられようが、ひたすら十字架のキリストを説き明かした理由はここにあります。私達もパウロのように単純にキリストの十字架と復活を宣べ伝えましょう。最後今年の聖句使徒18・9~11節を読んでお祈りさせて頂きます。

2021/2/7 週報メッセージ

 朝位牧師のある一日

朝位 真士 

 コロナウイルス・パンデミックの今日この頃ですが、私のある一日の行動を皆さんにお知らせいたします。

 私は早朝五時頃起床して、30分間位、黙想しています。具体的には『アパルーム』の日課、教団『信徒の友』の日課を読み、黙想と祈祷に時間を費やします。ホ群教会、九州より北海道までの教会・伝道所の牧師のために祈祷します。

 先日は大変多忙でした。まず教会の会計事務(主に銀行に入出金)をして、次週の礼拝の週報を12~3通郵送。そして十数軒を訪問して、次週の週報と伝道用の新聞を配付・ポスティング。私物のパソコンが壊れたので電気店に修理依頼。エアコンの点検・修理で業者の方と面会。13時から15時までズームでホ群教師会に出席。15時過ぎ、会堂の椅子の修理業者が来られて、受け取り。午後も何軒か訪問。特に病者ならびに教会から離れておられる方を訪問。その時、家の前で本人と数分話し、祈りの課題を伺い、一緒に祈りました。仕事で教会に出席できないが、日曜日の礼拝のユーチューブ配信を見て、礼拝を献げているとの嬉しい話を聞きました。彼は仕事で日曜日に手が離せませんが、ユーチューブ配信で礼拝を守っておられ、感謝なことです。

 多忙な一日が終わり、神様に感謝を献げました。教会の皆様方のことを常に思いつつ、祈りつつ、過ごす一日でした。

2021/1/31  神の愛を知る

説教 朝位フミ子 牧師 

聖書箇所 エフェソの信徒への手紙 3章14節~19節

こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられます。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神のみちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

2021/1/31 週報メッセージ

信仰生活の基準

朝位 真士 

  2021年に入り6回目の礼拝を守ることができて感謝しています。コロナウイルス感染症流行がなかなか収まらない今頃です。ここでもう一度、1517年10月31日に宗教改革をしたルターの「宗教改革の信仰」を整理してみましょう。『新キリスト教ガイドブック』によると、宗教改革者が主張した信仰の内容は次の3点に要約できます。

  (1)信仰のみー人間が、神によって罪の赦しを受け、義と認められ救われるのは、ただキリストを信じる信仰によってのみです。これは、信じてなお、現世で善行を積み、罪のつぐないをすることによって救われると考えたカトリック教義とは根本的に違います。

 (2)聖書のみー人間の信仰と生活にとって、最終的規範となるのは、地上の教会の権威ではなく、神の啓示としての聖書です。イエス・キリストがかしらである教会は、つねに悔い改め、改革されていくべき未完成の群です。

  (3)万人祭司ー救いのためには、神と人間の間にキリスト以外にいかなる仲介者も必要でありません。救いは司祭の儀式や秘跡(礼典)によるものではないのです。一切の聖人礼拝が否定されます。むしろすべての聖徒が聖書に定める祭司であり、キリストを通して神との交わりをもつことができるのです。

 私は三つの「宗教改革の信仰」を心にとめつつ、信仰生活を送っていきたいと思います。それと同時に信仰生活には、基本的原則を実践しなくてはなりません。まず、1日の始めに、①聖書を読む。『アパルーム』や『信徒の友』の日課、その他の黙想書を参考にします。②お祈りをする。私は教会の関係者(ホ群の教職、信徒、求道者)、政治、経済、教育、病気の方、救われる家族、友人知人のために祈ります。また、キリスト教の新聞や印刷物を訪問・郵送でお届けして、キリストを伝えます。③奉仕する。教会の内外で、主の証し人として愛の奉仕をします。私達のカバンの中に、愛の心、感謝の心、信仰の心を入れておきましょう。

2021/1/24 週報メッセージ

「この町には、わたしの民が大勢いる」

朝位 真士 

  今年は使徒18章1~11節が与えられました。特に9~10節「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる。・・・・・・この町には、わたしの民が大勢いる」という御言葉が与えられて、今年も昨年に引き続いて、「祈りと宣教」を目標として密室で祈り、公的集会で祈り、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなければならないと示されています。

 1月7日、政府は「緊急事態宣言」を東京、神奈川、埼玉、千葉の首都圏四都県に発出し、主な感染防止対策として4つの点が特記すべき事として知らされました。①外出自粛-午後8時以降の不要不急の外出自粛を住民に徹底。②営業時間の短縮-飲食店、バー、カラオケなどの営業時間は午後8時まで。酒類の提供は午前11時~午後7時とすることを要請。③出勤・通学など-出勤者数の7割削減をめざすことを含め、在宅勤務(テレワーク)や交代勤務などを推進する。小中高校、大学、幼稚園、保育園などは原則開く。④イベントの開催、施設利用の制限-飲食を伴わず、5千人かつ会場の収容率50%以下で開催。午後8時までの営業時間短縮を働きかける。期間は2月7日までの1ヶ月の予定だそうです。教会の諸集会も影響を受けそうであると心配しています。

 私は過日、次週の週報を二十数軒、ポストに入れたり郵送したりしました。その時、教会に出席されていない信者・求道者の方々にお会いして、お祈りして別れました。いつか、このコロナが終息して、自由に諸集会に出席できることを祈ります。ユーチューブ配信も貴重な宣教のツールです。教会に出席できない方々は、桜ヶ丘教会のホームページをクリックして、礼拝を守ってください。そして、通常の礼拝が一日も早くできることを祈る今日この頃であります。

1923年6月1日創立