「挨拶と感謝」2020・12・27 説教要旨

朝位 真士

今日からコリントの信徒への手紙を学びます。この手紙を学ぶに当たって、私の尊敬するホーリネス教団の東京聖書学校院長であられた米田豊先生は注解よりこのところを引用させて頂きます。この手紙使徒パウロが紀元56年か57年の春の頃、エペソから(16・8)書き送ったものである。コリントはアカヤ州の豪華な商業都市で、東西に海を控えて、航海交通の要路にあり、人々は贅沢を窮め、罪悪が横行し、その付近に1000人以上売春婦がいたと言われ、非常に淫蕩な町であった。パウロがこの地から書き送ったローマ人への手紙1章に描写されています。罪悪の背景は、この地だったのである。パウロはさきにこの地に1年半ほど伝道して教会を建設した(使徒18章1~18)。のちアポロもこの地に伝道し、またユダヤ人の教師たちがパウロの使徒権を拒んで、ペテロを賞賛したため、教会内に分裂が起こり(1・12)、教会の秩序が乱れ、信者の中に罪を犯す者が起こった。それゆえパウロは、この教会の分裂を憂え、本書送る前に自らコリントに行き(第2コリント12・14、13・1)、また手紙を送ってそれを戒めた(5・9)。するとそれに対して質疑が生じ、結婚問題、偶像にささげた肉を食べる事の可否問題、霊の賜物の問題、その他について質問して来た(7・1、8・1、12・1)。また「クロエの家の者達」から教会に状態を聞いたので(1・11)、本書を送ってそれに答え、また警告し、教訓を与えたのである。

本書はローマ人への手紙のような系統的な教理を説かず、むしろ実際問題を説くものであるが、結婚問題(7)、霊の賜物の問題(12)、愛(13)、復活(15)などの説明は本書独特の記事である。

コリント1・1~9節を見て下さい。この1~3節は挨拶と祝祷。4~7コリント信徒の霊の賜物に為の感謝8~9彼らの将来に関するパウロの確信。1~3節挨拶が描かれています。現実の地上の教会には、当然清算されなければならない、多くの欠陥があり、不純な点があります。コリント教会はまさにそうでありました。教会の中に派閥の争いがあり、信者の中には不品行の甚だしい者さえいました。それでもパウロはそれを見捨てていません。見捨てないどころか、「神の教会と尊んでいます。彼の心の深さを思うべきであります。教会は神に付ける、信徒の集団である。また信徒の交わりである。だから場所にとらわれない。「至るところにあるわけです」またそれはすべての人々に及ぶ者であって、民族や階級、性別や年齢、貧富や賢愚のいつさいの隔てを超越する。ここにキリスト教会がもっている、その世界的、公同的性質が言い表されています。教会は信徒の交われであるといわれるが、その信徒をもっと具体的にいうならばそれは「イエス・キリストの御名を呼び求める人々」である。教会とは、実に、そうした人々の集団である。イエスは、歴史の中に生まれ、歴史の中で死んでいった1人の歴史的人物であります。しかし、そのイエスが、神より来られたキリスト(救い主)であります。復活昇天されて、今も栄光の中に生きておられる主であります。すべての人が礼拝を受けられる救い主であります。信者はキリストの御名を呼び

求めて、かつ御名によって祈り、御名をかざして働き、御名の下に団結し、御名にのみ栄光を帰する。信徒とは、主イエス・キリストの御名を呼び求める者のことであります。別に表現を借りていえば、キリストによって聖者のことであり、また聖徒として召された者の人たちであります。キリストは、私達の主であり、また彼らの主であられる。地上の全教会は同じキリストを首(かしら)と仰ぐ、キリストの体なのであります。そこに、ユダヤ人も、ギリシャ人も、奴隷も自由人もない。「主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つ」(エペソ4・5)である。まことの一致と協力は、キリストの教会がもつ、著しい特徴の1つでなければならない。ルターは「恵みはわれらを罪より救い、平安は我らの良心を平静ならしめる」といったが、いつも恵みが第1に来て、平安が次に来る。恵みと平安これこそ、パウロが愛するコリントの人々のために祈り求めることの出来た最高の祝福である。「「恵みと平安は」「父なる神と主イエス・キリストから」くるという。すべて善きものは神からである。ここでは感謝が語られています。キリスト者とは、どんな時でも、感謝の出来る人のことと定義した人がいます。誰にするのか、勿論、天地万物を創造された創造主なる父なる神であります。とにかく、感謝は、人を生かす1つの力である。わたしたちが、感謝を持って、いつさいの祝福を受けるならば、神はきつとそれに加えた新しい祝福をそなえられるでありましょう。

結び

もう1度コリント1・1~9節を見て下さい。パウロはコリント人が立派な信仰と行いをしていたから感謝すると言うよりも、神の賜物と真実のゆえに感謝しています。パウロは個々のキリスト者について3つのことを語っています。

1・キリスト者はイエス・キリストにあってきよめられたものである。

2・パウロはキリスト者を聖徒として召された方々と読んでいます。

3・パウロはこの手紙を

イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に召された人たちに宛てて書いています。

次に感謝すべきこと(4~9)

1・実現し合う約束

2・与えられた贈り物(カリスマ)a・救いは神の贈り物―カリスマである。b・人が持っている特殊の才能や技術もまたそうである。

3・究極の目的―主の日それは最後の審判がやって来た時、キリストにある者は恐れことなく、これを迎えることが出来る。

2020/12/27 週報メッセージ

 2020年を振り返って

朝位 真士 

  今年はⅠテモテ2・1~7を通して御言葉が与えられました。特に「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」という聖句が与えられて、「祈りと宣教」という説教題の元旦礼拝からスタートしました。しかし、1月に中国で新型コロナウイルス感染症が発生し、日本では4月7日にコロナウイルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言が発令されました。教会も三密を避け、手指の消毒、換気に留意し、各集会(婦人会、ホープ会、青年会、エリム会、ふれあい会、夕拝、昼食)は中止しました。5月10日からはU姉のご配慮により、礼拝説教をユーチューブで配信し、礼拝に来られない方は自宅で礼拝を守っています。そのためにA兄にご尽力いただき、週報を毎回郵送させていただいています。また今年も「さくらんぼ通信」と2021年カレンダーを、S姉にご尽力いただき発行しました。

 特記すべき出来事としては、4月12日イースター礼拝に11名が出席し、5月31日ペンテコステ礼拝ではO兄姉々が受洗されました。同じく5月31日に、S姉のご尽力により桜ヶ丘教会公式ホームページが公開され、ユーチューブの配信動画や週報記事を掲載いたしました。9月12日に敬老感謝礼拝で75歳以上の方々15名を祝福いたしました。12月20日にはクリスマス・チャペルコンサートで、ベアンテ・ボーマンご夫妻の演奏とメッセージがあり、M姉の受洗式が行われました。

 なお6月7日の創立記念礼拝(岸先生のチャペルコンサート)と10月18日の高田光比古ジャズコンサートは、コロナ禍のために非常に残念ですが中止いたしました。2021年は再開されることを祈っています。

「人となって来られた神」2020/12/20 クリスマス礼拝 

お話と音楽 ベアンテ  ボーマン 先生

ピアノ演奏 ルリ子 ボーマン 先生

本日は、クリスマスの特別礼拝をささげました。会堂に集うことが可能な教会員を中心として、少人数によるファミリー礼拝の形で行いました。

ベアンテ・ボーマン先生とルリ子先生によるチェロとピアノの音楽をお聴きしながら、ベアンテ先生による「人となって来られた神」という題で、「本当のクリスマスの意味」のお話をお聞きしました。

輝き渡る希望がある。それは、「イエスは私たちとともにいる」という輝き渡る希望である。どうぞ、メッセージをお聴きください。

2020/12/20 週報メッセージ

クリスマス・チャペルコンサート                                        

朝位 真士 

  今年もベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えできて、心より感謝申し上げます。先生方は1999年12月よりクリスマス・チャペルコンサートを続けてくださり、今年で22回目になります。

 ベアンテ先生は1951年スウェーデンのファルン市で誕生。12歳からチェロを始められ、1971年ストックホルム王立音楽大学で最優秀賞を受賞して卒業。1971年から72年、ゴテンブルグ市の国立歌劇場の首席チェロ奏者を務められ、最終的にはフィンランド政府給費留学生として1979年シベリウス・アカデミー大学院を首席で修了。1980年から2011年までの31年間、東京交響楽団の首席チェロ奏者を務め、現在チェロ奏者として室内楽等の演奏活動の他に、チャペルコンサートをはじめとする宣教の働きに携わっておられます。またフィンランド、ヘルシンキ市のラマト・プフ聖書学校で聖書を学び、1992年カリフォルニア神学大学院より名誉神学博士号を受けられました。またインターアクトの協力宣教師でもあられます。

 ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツ国立フォルンバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれ、ベアンテ先生と共に各地で良い奉仕を続けておられます。  1999年、最初にベアンテ先生夫妻が来られた時は62名の出席でした。今年は新型コロナウイルス感染症流行のため、いつものように新聞折り込み広告で外部にお知らせしたり、トラクトを配布したりすることを控えました。そして少人数でベアンテ・ボーマン先生のチェロ演奏とメッセージをうかがいたいと思います。2千年前にイエス様が誕生された時も、ヨセフとマリア夫妻は静かにお祝いしたのではないでしょうか。今年も私たちの心の中に主イエス・キリストをお迎えしましょう。ハレルヤ!!

2020/12/13 週報メッセージ

イグナチオ朝祷会に出席して

朝位 真士 

  私は月1回、カトリックとプロテスタントの合同祈祷会であるイグナチオ朝祷会に出席しています。11月13日朝7時半の朝祷会に出席して、カトリックの協力司祭ヘネロソ・フローレス神父のお話を聞き、大変感動しました。先生は11月25日で86歳になられ、日本に来られて60年と言われました。「喜んで生きたい、喜んで死にたい」というテーマで、ローマ8章28節「神を愛する人、すなわち、ご計画に従って神に召された人々のために益となるように、すべてが互いに働き合うことを、わたしたちは知っています」という聖句より語られました。以下に内容を記します。

 やっぱり、万事は益になるように働き合うことを知っています。信じています。どんな恐ろしい状況の中でも、失望したり、あまりにも悩んだりする余事がありません。現在のコロナウイルスの状況も、そしてまた、それがもたらしているたくさんの迷惑さえも、「益になる」ことを信じています。その信仰は、あらゆる失敗、あらゆる苦しみや迷惑をじっと喜んで耐え忍ぶ勇気をもたらします。「益になる」からです。幸せに生きたいだけでなく、幸せに死にたいのです。これは可能でしょうか。普通人間には「死」という言葉さえもタブーに聞こえます。怖い、やばい、・・・・・・。しかし、ある人には「死」という言葉や考えは喜びを起こすことがあります。これも、パウロのフィリピの信徒への手紙1章21~23節ではっきりと表れています。死は人生の終わりではなく、命の新しい状態への移行、すなわち、この地上の生活におけるあらゆる制約や制限のない、キリストとともに生きる命の始まりです。だから、パウロは「死ぬことはまさにもうけものである」という表現をしました。「喜んで生きること」と「喜んで死ぬこと」の可能性の秘訣は、イエス・キリストの福音”Good News”を受け入れることにあります。すなわち、神の無限で無条件の愛を信じることです(ローマ8:39)。アーメン。

イエス・キリストの誕生」2019・12・13説教要旨

朝位真士

 今日は来週のベアンテ・ボーマン先生のクリスマスチャペルコンサート前にマタイ1・18~25節を通してイエス・キリストの誕生について学んで行きましょう。マタイ福音書はユダヤ人のために記されたもので、ユダヤ人人系図を重んじるためにこのキリスト伝の最初にまず系図を載せる。ダビデはユダ王国の初めに神に選ばれた王である。またダビデの子とは特にメシアすなわち救い主を言う言葉で、ダビデ王の子孫から救い主が生まれるという神の約束があった。この系図の中から4人の婦人がでるが、そのうちラハブはもと遊女、ルツは異邦人である。系図を重んじるユダヤ人の、しかも救い主の系図から、このような婦人が入っていることは、この救い主によって、いかなる罪人も、如何なる民族の者も救われるということを暗示している。(イエス)とは(罪から救う者)を示す名、(インマヌエル)とは(神我らと共にいます)の意味である。(21)(23)すなわち、イエスは救い主であるが、これはまた(人間の間に宿られる神の化身であることを表す名前である。このキリストは私達のためにも救い主であり、また日々私と共にいます主であられる。(なお「キリスト」とは,ヘブル語の(メシヤ)と同義語のギリシャ語で「油注がれた者」の意味である。ユダヤでは昔、王や祭司や預言者は、油を注がれてその職に任じられたキリストは、人の心を治める王であり、また、神を代表して人を教える預言者であって、その名は、この3つの職分を持つ救い主であることを示す。

マタイ1・18~25節を見て下さい。これは、主イエスの誕生の次第はこうであった。と紹介するマタイの記録は意義深いものであった。主イエスの降誕の次第が、これほど荘厳に美しく描き出されたのは、神に対するマタイの信仰と誠実名服従と感動によるものである。

マリヤが神の恵みを得て、主イエスの母とされたことは、名もなく、貧しい、ありふれたひとりの乙女を、その恵みの中で選び、主イエスの母とされたのである。マリヤの婚約者ヨセフも、ナザレの村の普通の労働者であったが、神は、額に汗を流しながら勤労に日々を送るひとりの男子を、救い主の父として選び出されたのである。1・18~22節を見て下さい。主イエスは聖霊によって身ごもられたと記しています。主イエスの誕生については処女降誕と言う言葉よりも聖霊降誕という表現が適切であると考えられる。19節を見て下さい。

ヨセフは不義を憎むと共に、マリヤに対してはあたたかい配慮をした。マリヤを傷つけず、密かに縁を切ろうとした。ところが20節をみてください。主の使いの告げることは単純明快である。マリヤもヨセフにも、これを信じることは容易であったとは思われない。ヨセフが主イエスの地上の父として、またマリヤは地上の母として、神にもちいられるためには、試練を通して強くされることが必要であった。

マタイ1・21~25を見て下さい。

結び

「その名をイエスと名づけなさい」イエスとは、ヘブル名のヨシュヤからきたギリシャ名であり「神は助け主」という意味を持っている。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」イスラエルの民族ばかりではなく、ルカに記されているように「すべての民」(ルカ2・10)が、主イエス・キリストの苦難と十字架の死と復活によって、もろもろの罪から救い出される。罪とは、本来、ふむべき道を踏み外すと言う語義をもって、人が自分の欲望のままに生き、神に背を向け、あるべき道筋を踏み外した存在となっていることである。それゆえ、「イエス」という名前がとなえられるごとに、神の愛があらたにおもわなければならない。「主が預言者によって言われたことの成就するためである」マタイはイザヤ7・14を引用している。「インマヌエル」とは「神我らと共にいます」と言う意味である。この名前は、主の使いが名付けたイエス「神は助け主」という名前と、その意味において同じである。25節しばしば主イエスの母マリヤだけが重んじられ、ヨセフがわすれられているが、主イエスの父ヨセフの苦悩と信仰を見落としてはならない。このようにして主イエスは、信仰あるヨセフ、マリヤ夫妻の祝福された家庭に生まれたのである。

2020/12/6 週報メッセージ

2020年度クリスマスを迎えるにあたって

朝位 真士 

  今年も12月20日(日)午前10時半にベアンテ・ボーマン先生をお迎えすることができて、感謝しています。今年は6月の創立97周年記念の集会に岸先生をお迎えすることができず、また10月に高田光比古先生のジャズ・バンドをお迎えすることもできませんでした。本当に期待して祈っていたのに、大変残念でありました。しかし、クリスマスは桜ヶ丘教会のファミリークリスマスとして、普段教会に来られている信者の方々を中心に、チャペルコンサートを開催する予定です。外部には宣伝しませんが、ベアンテ・ボーマン先生ご夫妻が講師をお引き受けくださいました。今年は2月頃から、コロナウイルス感染症拡大のために各集会が休会という事態となって大変残念なことですが、ベアンテ・ボーマン先生は、「たとえ集会に集まる方々が少人数であっても、私共は御用させていただきます」という強い意志と信仰をお持ちであることをうかがい、先生方は音楽家である前にキリストの宣教者でいらっしゃいますことを強く感じました。

  そのような宣教の情熱と信仰をお持ちの先生方の集会ですから、一人でも多くの方にご来会いただきたいところですが、なにぶん三密を避けなければなりません。残念ですが、宣伝は控えることにいたしました。マスク、手指消毒、換気をして、感染が生じないように祈りつつ、注意してこのクリスマス集会を開催したいと願っています。また当日は、特別に神様のプレゼントが用意されています。一人の方が受洗に導かれています。主許し給わば、私が洗礼式の司式をさせていただきたいと思います。教会員の友人で、ずっと皆様方に祈られておられた方です。是非この洗礼式が挙行できますように、皆様方の祈りを切に要請したいと思います。主に栄光を帰しつつ。ハレルヤ!!

「神への讃美」2020・12・6説教要旨

朝位真士

 今日はローマ16・17~27節を通して学んで行きましょう。このローマ16・17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。パウロは16章において、美しい信徒の交わりを思いつつ、1人ひとりの名をあげて挨拶を書き送った後、17節以下において厳しい警告を与えています。17節それは美しい聖徒の交わりが成り立つのは、「主であるイエス・キリスト」(18~20)とのいける交わりによるのであり、この主との関係が切れるならば、それは源をふさがれた井戸、ぶどうの幹から切り離された枝のように、霊的生命を失うのであります。キリスト者が「聖徒」(16・2、15)であるのは、自分の力による「聖人」ではなく、キリスト・イエスに選ばれ清められるからであります。そして、信徒の交わりは1人ひとりが主に従うという狭き門を通して、真の連帯の広場にでることが出来のであります。最後の16・25~27では、パウロこれまで詳細に説きあかしてきた福音をローマの信徒1同に思い起こさせ、「この福音は、世世にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものであります。その計画は今や現わされて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべてに異邦人に知られるようになりました」(16・25~26)とその意義を確認しています。そして「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように」(16・27)と、いえす・キリストにある神の栄光を讃美して結びとしたのであります。わたしたちも「ただ神の栄光にのために」(soli Deo gloria)と主を讃美しつつ生きたいものであります。

ローマ16・17~27節を見て下さい。パウロは、17節以下のこの部分で、信仰の友のことを思い出して、「主にある交わり」のいかに楽しいものであるかを考えていたでありましょう。しかし17節以下では、教会内の分裂の警告が与えられています。交わりをおびやかすものは分裂である。パウロは、悪の力の侵入を強く警戒したのであります。だから、キリストにあって勝つように、平和の神に対してサタンとの戦いに勝利が与えられるように祈っているのであります。16・21~24ではパウロは、この人々と共にいることの喜びを現実に体験しることを思えば、キリストにあける勝利を感謝せずにはおられなかった。ただ祝祷だけが、口からでるのであった。私達の主イエス・キリストの恵みが、あなたがた

1同と共にあるように。キリストの恵みだけが、キリスト者の生活の道しるべだからであります。25~27節では信仰の従順に至らせたえ福音の宣教は、永遠の神の命令の目的は、信仰の従順に至らせるためであります。従順は、神を仰ぎ、神の備えたもうものを、そのまま受けることであります。

結び

わたしたちを力づける神は、すなわち唯一の知恵深き神です。ローマ11・33節を見て下さい。この知恵とは救いを得させる知恵です。その知恵の内容は、「義と聖とあがない」なのです。義認・聖化・栄化、まさにローマ人への手紙のメツセージの要約です。だからこそ、「イエス・キリストにより」頌栄をささげるのです。ローマ人への手紙に現わされた救いの知恵、ただ十字架と復活のキリストを信じるだけで、赦罪、義認、聖化、栄化の恵みを受け、神を心から愛し、信じ、従う者と立たせてくださる神、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるようにアーメン

「主に結ばれた者達」2020・11・29説教要旨

朝位 真士

序  

今日はローマ16・1~16節を通して聖書をみて行きましょう。この16章は模範的信者。忠実な牧者の心。分裂の霊に働きと征服。1~2女執事フェベの推薦。3~16諸聖徒によろしくとの個人的挨拶。17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。となっています。プリスカとアキラの夫婦(3)は、天幕造りを職業とする信徒であるが、御言葉に通じ、恵みの経験に深い人たちであります。(使徒18・2,26)。パウロも天幕を製造しながら、自給伝道をしたことがあるので、彼らと同業であるため一緒にいたことがあります。そして、いつ頃わからないが、2人はかって身命を落としてパウロをかばったことがあります。それ故パウロはここで、(わたしの命を救うために、自分の命を救うために、自分の命を救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである)と言って感謝し、なおこの異邦人への使徒を救ったために(異邦人のすべての教会も感謝している)と言う(4)。2人は実に文字通り「兄弟にためにいのちを捨てる」愛の人であった(第1ヨハネ3・16)。更にこの夫婦は、至る所で家庭を開放して家庭集会を開いたらしく、恵まれた彼らの家庭が中心となって、信者が集められ集会所すなわち教会となった。(彼らの家の教会)とはそれを言う(5)。彼らは御言葉には詳しく、深い経験に進んでいたので、聖書に精通し、雄弁で熱心な伝道者アポロを自分の家に「招き入れ、更に詳しく神の道を解き聞かせ」て、更に深い経験に導いたことがあり(使徒18・24~26)、また命がけで兄弟を愛し、伝道者を守り、伝道心に燃えていた。まことに模範的な信者であります。

ローマ16・1~16節を見て下さい。ここに一人一人への懇切な挨拶には、大いに教えられる。ヨーロッパ大陸をまたにかけての巡回伝道者パウロが。1地方の信者個人個人の名をあげ、勲功や自分に対する親切などを1つ1つ記して、安否を問う。なんという愛の心であろう。パウロでさえ一人一人を覚え、それぞれの奉仕を忘れなかったのであれば、まして主がお忘れになるようなことはないと言うことを教えられる(へブル6・10)。パウロは、信者個人個人をつねにその心に刻んでいたことがわかる。これが忠実な牧者の心である。ここにひとりびとりのいろいろな勲功があげられている。共に働く(同労者)(3)、(自分の首をさえ差し出し)生命をも提供して捨て身になって尽くす援助者(4)伝道者のために(一方ならず労苦した)世話人(6)獄まで伴い(一緒に投獄された)忠実な同族の者(7)、(キリストにあって練達)な者(10)、(主にあって労苦している)女達(12)など私達もこのような奉仕と生涯において、主に推賞されるものになりたいです。ローマ16章は、初代教会における信徒相互の交わりが、いかに深く広いものであったかを、生き生きと示すものであります。パウロは未知のローマ教会宛に、キリスト教信仰の核心を記した長い手紙を書き送りましたが、その終わりに、自分の知人の1人1人の名を挙げて、心からの挨拶を書いたのであります。

結び

このパウロの挨拶から、初代教会の特徴をいくつか示されています第1・当時の教会には、差別と並んで女性や奴隷の名が多くみられることであります。「フェベ」(16・1)、「プリスカ」(16・3)、「マリヤ」(16・6)など、女性名が多く出てくることは、女性を男性と等しく考えるのが、キリスト教の大きな特徴であったことがうかがえます。また「フェベ」(16・1)、「アンプリアト」(16・8)、「ペルシス」(16・12)などは奴隷に多い名前でありました。さらに「アリストプロ家の人々」(16・10)、「ナルキソ家・・・人々」というのは、その家に属する奴隷のことでありました。これらの女性や奴隷は、当時社会においては男性より低い地位に甘んじなければなりませんでした。場合によっては人権も認められませんでした。しかしキリスト者は神の前ですべての人間が同一であることが知らされ、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて1つだからです」(ガラ3・28)と言う確信を持っていました。キリスト教は人間ひとり1人に対する神の愛を知ることによって、差別を廃止、人間を解放したのであります。

第2パウロはこれらの主にある兄弟姉妹たちの名を記すに当たって、「愛する」という言葉を何度も用いており、またその人達が人々のために「非常に苦労した」(16・8)ことを教会全体が特に覚えるように促していることが注目されます。「わたしの愛するエパイネト」(16・5)、「主に結ばれている愛するアンプリアト」(16・8)、「わたしの愛するスタキス」(16・9)「主のために非常に苦労した愛するペルシス」(16・12)、キリスト者は自分の使命を果たす時に、誰もみてくれ図、理解してくれなくても「神知りたもう」、「神は御心に留めて下さる」ことを信じて、自分の道を進みます。1コリ15・58節を見て下さい。p323です。第3に注目されるのは16・13節の「ルフォス、およびその母」であります。マルコ15・21節p95ルフォスはキレネ人のシモンの子であった。シモンは、キリストの十字架を負わされた、それがきっかけとなって、自分の家族がキリスト者となり、

ルフォスの母、すなわちキレネ人のシモンの妻は、使徒パウロから「彼の母は私にとっても母なのです」と感謝されています。このようにパウロはローマ16章において、美しい信徒の交わりを思っています。

1923年6月1日創立