教区教師研修会に出席して
朝位 真士
9月15日(火)午前10時半より、阿佐ヶ谷教会で教区教師研修会が行われた。講師は賀来周一先生(キリスト教カウンセリングセンター相談所長)で、テーマは「今日における死と葬り」、参加者は35名であった。講演内容を項目別に記す。
A.死の看取り現場から―スピリチュアルケアの重要性
①難治性・致死性疾患を持つ人々における危機的実存的問い
②スピリチュアルペインの発生因と回復の手立て
③「成熟した宗教性」に求められる回復の領域
④スピリチュアルケアのありかた
B.葬儀における牧会配慮
①一般社会への対応としての葬儀
②地域社会の慣習とキリスト教信仰の折り合いのつけ方
③心理社会的視点 グリーフワークとしての葬儀、通常の死、特別の死、自死・不慮の死への
配慮、葬儀の前後に見る遺族の心身の状況への配慮、特別な葬儀―散骨・献体・遺体無し
④神学的意味 死の理解、復活信仰(復活の根源的意味)、終末信仰―完成としての終末信
仰、礼拝としての葬儀
⑤牧会的視点 信仰による慰めといやし、自死の場合の説教
私はこの研修会を通して、牧会者としての配慮の無さを神の前に深く反省すると同時に、社会的多様性の中で本当に祈りを要する牧会をさせていただきたいと思った。
秋期特別集会のご案内
10月18日(日)15:00から特別集会を開催いたします。
お話は、シロアムキリスト教会の鈴木啓之牧師です。
鈴木牧師は、映画「親分はイエス様」のモデルになったお方です。(俳優の渡瀬恒彦さんが演じました。映画をご覧になられた方がいらっしゃいましたら、直ぐにお分かりになると思います。)
この度、私達桜ヶ丘教会に、お招きできること、お話をうかがえること とても感謝です。
お知り合いの方々を是非お誘いいただき、鈴木牧師の力強いメッセージから、私達も勇気と力をいただきたいと思います。
鈴木牧師のプロフィールは以下のとおりです。
略歴
1955年 大阪府生野区に生まれる。17歳でヤクザの世界に入り、17年間欲望のままに人生を送る。
1989年 自ら招いた過ちから同じ組織の仲間を含め数千人に命を狙われ、死の恐怖に怯えながら逃亡生活を過ごす。
1990年 劇的な回心の末、東京中央学院にて神学の学びに入る。
1992年 伝道者として新たな人生の一歩として、沖縄から北海道まで6ヶ月かけて自らの十字架を背負い、歩きながら福音を語る。
1993年 韓国に渡り、謝罪と和解のため十字架を背負って、日韓友好のための架け橋となる。同年、東京中央神学院卒業後韓国系長老教会にて、牧師となるためインターンとして2年間活動する。
1995年7月 千葉県船橋市にシロアムキリスト教会を開拓する。
1997年北朝鮮の子供たちのため「愛の救援米支援活動」を開始する。
1998年2月世界中のリーダーが集まるアメリカワシントンD.C.で行われた米国国家朝食祈祷会において、日本人として始めて壇上に上がり、自らの「人生再出発」その体験メッセージを証する。
その活動は、各マスメディアによって大きく取り上げられ、「今日の出来事」(日本テレビ)、「スーパーモーニング(テレビ朝日)」、近年では「アンビリーバブル」(フジテレビ)やイギリスのBBC放送、ニュヨークタイムスでも取り上げられている。
2000年7月 シロアムキリスト教会の新会堂を東船橋の地に立て上げる。
2001年秋 国連経済社会理事会に諮問資格を有するNGO「PFIJ(Prison Fellowship International Japan)の代表となる。
2004年3月 府中刑務所の教誨師として任命を受け、犯罪者の再犯防止と受刑者の再出発のために働く。
2008年9月 シロアムキリスト教会を船橋市から千葉県柏市へと移転。
現在、「NPO法人 人生やりなおし道場」の理事長、ふるさと志絆塾(しはんじゅく)の塾長、シロアムキリスト教会の主任牧師として働き、国内外を問わず青少年育成のための活動に従事し、企業や学校・諸団体での講演活動やメディアでのコメンテート、またチャリティー等の働きを展開している。
連絡先
〒 277-0841
千葉県柏市あけぼの3丁目9-3
TEL/FAX:04-7145-3012
ホームページ: http://siloamchristchurch.jp/
主な著書
「愛されて許されて」、「イレズミ牧師のどん底からの出発法」(講談社)
「誰だって人生をやり直せる」(飛鳥新社)、「刺青クリスチャン親分はイエス様」(早稲田出版、共著)など
実りの秋を迎えるにあたって
桜ヶ丘教会の皆様 暑かった夏もいつの間にか姿を消してしまいそうな今日この頃です。
秋を迎える9月には、暑い夏が 少し懐かしくなるものです。
激しい緑の自然の姿が目に焼きついておりますが、写真は日本の故郷の風景の どこにでもある夏の風景です。
水田は 夏には 緑のじゅうたんのように一面が青々としております。
秋には黄色のじゅうたんに景色が変化します。
9月の黄色のじゅうたんの風景をお届けできたらと思いますが、
まずは、都会のアスファルトとは、かけ離れた8月の緑の風景をご覧ください。
さて、桜ヶ丘教会の子供たちも学校が始まったり、9月から初めて保育園に通う乳児もいらっしゃいます。
お子様をご養育中のご家族の皆様、どうぞ、新型インフルエンザなどの感染が拡大していますので、何卒予防対策を大切にしたいものです。
教会の皆様 手洗いやうがいなどが有効な予防策と言われていますので、実践してまいりましょう。
(インフルエンザ対策とは別の話ですが、朝起きたら、うがいをしてから食事をとることも、健康には良いそうです。)
秋が来ると、12月のクリスマスは 直ぐにやってきます。
今年のボーマンベアンテ先生のクリスマスチャペルコンサートは12月6日(日)予定されています。
秋期特別集会は10月18日(日)午後3時から予定です。詳細は教会からのお知らせのページをご覧ください。
2009/9/13 週報メッセージ
尊敬するO長老の召天に際して
朝位 真士
「人間に頼るのをやめよ。鼻で息をしているだけの者に、どこに彼の値打ちがあるのか。」(イザヤ2・22)
9月6日午前4時24分、母教会のO長老が79歳で召天された。O兄は私の高校生時代から信仰の大先輩で、子供が4人おられる6人家族で教会に連なっていた。上の息子さんは献身されて、現在福音派の中心的指導者として東北の地でご活躍されている。1975年、私が東京聖書学校を卒業して母教会の副牧師をしながら曽根で開拓伝道した時に、O兄家族は一家をあげて協力してくださり、家庭集会、トラクト配布、土地・建物(会堂)取得の時も地元の有力者として全面的に協力をしてくださった。彼は詩人として、地元では有名なN新聞のコラムに20年以上も投稿していた。地元の小学校・中学校の校歌も作詞し、良き証し人として名を馳せた。教会においても積極的に御用され、奉仕も献身的であり、自分のことよりもまず神第一の生活であった。礼拝・祈祷会・諸集会の出席を中心にして職を選ばれた。私共が桜ヶ丘教会赴任の際も、温かく送り出してくださった。何をおいても神を第一とする優先順位であった。多くの信者が兄家族を模範としていたようであった。彼の怒ったことをめったに見たことがなく、いつもニコニコしておられた。試練も多くあったと思うが、本当に主にあっていつも喜んで、親切にされて、神を第一として奉仕される、惜しい人を早く天に送ったことである。
神の使命が終わった今、天国で永遠の安息を神からいただいて、私共のために祈っていただきたいと切に祈るものである。
2009/8/30 週報メッセージ
「日本伝道幻を語る会」に出席して
朝位 真士
主題「いよいよ始まるリバイバルの幻」(プロテスタント宣教150周年を迎えて)、「恐れるな。語りつづけよ。黙っているな。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒18・9~10)
8月24日(月)~26日(水)、市川サンシティホテルで「日本伝道幻を語る会」が開催された。今回の主講師は阿久戸光晴先生(聖学院大学学長、牧師)、横山義孝先生(教団東京新生教会担任牧師)、朝位真士(教団桜ヶ丘教会牧師)、松坂政広先生(上野の森キリスト教会)であった。ほかに開会礼拝が原登先生(キリスト伝道会会長)、早天祈祷会が江上環先生(ナザレン青葉台)、森下貴史先生(一麦)であった。
ファミリーアワー・メッセージの松坂政広先生は家族学博士であり、家族の問題を具体的に熱く語っていただいた。また忘れてはならないのは、2回講演された特別講師の阿久戸先生である。1回目は「2度目の召命‐伝道する日本の教会を展望して‐」、2回目は「キリストの愛とキリストの愛としての伝道‐日本社会の中のひとりを救うために‐」という題であった。学長として、牧師として、大変わかりやすい講演であった。また、宣教大会のメッセージは、牧会59年目の牧師として、大変力強く語ってくださった。私も講師の一人として無事終わったことを、祈りの中で神様、皆様方に心より感謝したいと思う。
参加者は、58教会、103名(教職33名、神学生3名、信徒68名)。献金が2,050,460円(席上献金28,960円、大会献金98,500円、予約献金1,923,000円)与えられた。
来年は8月23日(月)~25日(水)に行われる。是非祈っていただきたい。
2009/9/6 週報メッセージ
神と出会う備えをせよ
朝位 真士
「イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。」(アモス4章12節b)
神を信じる者とは、常に神に会う備えをもって生きる者である。右の聖句が与えられた。これは、①神の審判の前に悔い改めよ、②神の審判の決定的な宣言、である。
さて、最近強く心に残っている出来事が2つある。1つは、衆議院選挙が8月30日に行われて480名の議員が選出され、自民党が野党になり、野党が与党になったことである。日本の政治が、これから大きく変化しようとしている。テモテ第一、2章2節に「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」とあります。一人一人が日本の国のために、なお強く密室で祈りたい。
2つは、私どものホーリネスの群委員長、八束潤一先生(米子教会牧師)が8月31日午後1時46分に召天されたことである。先生は卒業後数年間、淀橋教会の峯野氏のもと副牧師として御用され、愛媛県新居浜教会の牧師を20年近くされ、新会堂を建設され、数年前鳥取県米子教会の牧師となられた。その間、四国教区議長、教団教師検定委員長を歴任され、ホ群委員長2期目の最中に持病の心臓病の手術をされた。退院されて容態が急変し、31日召天された。私もホ群委員の時に3年間委員会に出席したが、彼は大変きめ細かい配慮をもって委員会をリードして、私たち委員を適切に指導してくださった。説教においても、大変素晴らしいメッセンジャーであった。
上の2つの出来事を通して、私どもも神に出会う備えをして、悔いのない日々を送りたいものであると感じた。
「わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピ3章20節)
野の花を見よ
「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。
それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイによる福音書第6章31節~34節
8月23日礼拝でのお話から思うこと
「信徒の友」(8月号)8月16日付「日毎の糧」で、日本キリスト教団にある約1,700の教会の方々から、桜ヶ丘教会のためにお祈りをいただきました。
また、おはがきなどもいただきました。本当に感謝申し上げます。
日本におけるキリスト教人口は少ないと言われていますが、祈りは日本全国、輪になって強固にしていくことができるのだと思わされた次第です。
私達桜ヶ丘教会でも、他の教会の充実発展のために祈っていきましょう。
一人一人の力は小さいですが、わたしたちに今出来る小さな一つを実行していけたらいいなと思います。
全てを一緒にすることはできないので、今日はこの一つからやろうという思いでしています。
例えば、祈りもそうだと思います。
あれもこれもと思いがあふれてしまい、結果一つも祈れないときがあります。
祈りでも何でも「こうでなければならない」と決め付けると、形にこだわってしまいがちではありませんか。
まずは、小さな1歩を 出来るところから、出来る時間で取り組んでみましょう。
2009/8/23 週報メッセージ
桜ヶ丘教会のために祈っている
朝位 真士
「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」(使徒12章5節b)
先日、「信徒の友」8月号の16日付「日毎の糧」で、1700近くある日本キリスト教団の教会・伝道所の中で、特にわが教会のために祈りがささげられた。祈りの課題と内容を少し転記すると、「桜ヶ丘教会、朝位真士、朝位フミ子、東京都杉並区下高井戸3の2の9、創立1923年、現住陪餐51名、礼拝出席37名、聖研祈祷会出席5名、CS出席3名、予算680万。祈祷課題、①地域宣教が拡大されること、②会堂ローンが完済されること、③教会形成ができること、④受洗者が与えられること。」
私は、毎日「信徒の友」と「アパ・ルーム」を黙想し、祈っているが、その日は自分の教会が全国の少なくとも1700の教会・伝道所の方に祈られていることを、本当に力強く感じた。現実の礼拝、祈祷会、CS礼拝、献金状況を見ると、決して予断は許されない状態である。しかし「信仰は、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ11章1節にある。現実を無視するわけではないが、現実に影響されると信仰が働かなくなる。常識を逸脱するわけではないが、常識が信仰より優先すると、手も足も出しにくくなり、消極的になり、信仰者としての生きる喜びや感謝が希薄になり、祈る力も減少してくる。私は今こそ、全国の主にある方々が祈ってくださっている、この信仰の力を信じて前進したい。まもなく伝道の秋(10月18日、鈴木啓之先生の特伝)があり、クリスマスにベアンテ・ボーマン先生ご夫妻が来られる。私たちはなお一層祈りの武装をしようではないか。そして勝利を得よう、主と共に!!
2009/8/16 週報メッセージ
キリスト者の霊的義務
朝位 真士
キリスト者の霊的義務は何であろうか。それは喜び・祈り・感謝である。テサロニケの信徒への
手紙5章16節から18節には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝
しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と
ある。ある注解には次のように説明されている。
「喜び」を考えるときには、その人がどのような状態なり環境なりにあるかを考えることによって、
その意味がより明らかになる。1・6、2・14にあるように、この教会が患難と迫害を経験している
教会であることを思う。ふつうならば、苦しみのときは喜びのときではありえない。しかしキリストに
あるならば、外的環境がどのようなものであっても、いつも喜び続けることができる。
「絶えず祈りなさい。」キリストも公生涯中、おりあるごとに祈られたみ姿が福音書の中にくり返し
しるされている。信仰の偉人といわれる人はすべて祈りの人であった。「祈りなさい」は進行形であっ
て、「絶えず」と相まって、クリスチャン生活が、つねに祈りの生活でなければならぬことを教える。
「すべての事について、感謝しなさい。」よいことも、わるいこともすべてである。なぜなら、神は
悪を変えて良きに用いられるかたであるからだ。「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神は
それを善に変え、……。」(創50・20)又、すべてのことが働いて益となるのだから。「神を愛す
る者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということ
を、わたしたちは知っています。」(ローマ8・28)わたしどもは、すべてのことに感謝すべきなの
である。感謝こそ、クリスチャンたる者が、1日も忘れてはならないことである。喜び、祈り、感謝で
ある。