「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2020/8/22 週報メッセージ

朝位 真士

 油井英子牧師の説教より

  親類牧師のメッセージ集を読んで教えられました。

 信仰とは、漢字で、信じ仰ぐと書きます。そこには、信じる対象者、仰ぐ対象者がいなくてはなりません。日本人の多くは、神社仏閣や石地蔵などがあると、別に何が祭ってあるのか、対象者など確認することなく、手を合わせています。なにさまがおわしますかは知らねども、ただありがたさに涙こぼるる。これが、ほとんどの日本人の宗教心なのではないでしょうか。しかし、お稲荷さんは、きつねを神の使いとして祭ってあるものです。ですから、京都の伏見稲荷大社を中心として、全国津々浦々にある稲荷神社を拝んでいる人達は、キツネを拝んでいるのです。中には、自分の家の庭やビルの屋上などにまで、小さな祠(ほこら)を作ってキツネを拝んでいる場合を少なくありません。それでは、金比羅さんの正体はなんでしょう。ワニです。金比羅とは、梵語でワニを意味します。それは、インドのガンジス河に住むワニが仏法の守護神として仏教に取り入れられたものが日本に伝わったのです。むかし、歌にされている金比羅船に乗って大阪などから、続々と四国の金比羅参りに行ったわけです。ワニのことを英語でアリゲーターと言いますが、人々は、ありがたや、ありがたやと言ってアリゲーターを拝むために金比羅参りをするのが、一つのブームにまでなっていたのです。

 キツネやワニやイワシの頭など、すべて被造物ですから、いくら拝んでも、答えは返ってきません。手で作った偶像を拝んでいるのとまったく同じです。それならば、キリスト様にも、手を合わせるかというと、そうはいきません。キリスト教は外国の宗教だと思っているのです。仏教だって、インドから始まった外国の宗教であることなど考えません。日本古来の宗教だと思っているのです。私たちの信仰の対象者は、天地万物の創造主なる神です。この神は、ご自分の言葉によって万物を造られた、無から有を生じさせる全能者です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブル11:1)

2021/8/15 週報メッセージ

エリック・リデルの偉業                                                  朝位 真士 

 東京オリンピック用の小冊子「大会の歴史と物語」を福音伝道の目的で配布している。この小冊子のテーマは、オリンピックの歴史を含めた、アカデミー賞(作品賞)受賞映画「炎のランナー」の主人公エリック・リデルの生涯の証である。

 エリック・リデルは1921年から1925年まで137回のレースに出場して93回優勝した。1924年のオリンピックはパリで行われることになり、本人もイギリス国民も100メートルでの金メダルを期待した。エリックは大きな信仰の試練に遭遇する。オリンピック100メートルの予選が日曜日に行われることになった。幼い頃からキリストを信じていたエリックは、神を礼拝する日曜日にスポーツ競技に出ることをためらい、不参加を決意。しかし、エリックは別の曜日に行われた400メートルに出場し、47.6秒という世界記録で優勝した。すべて「神を第一」とする彼の信仰によるものである。

 彼はその後、当時、戦争、洪水、飢饉にあえぐ中国への福音宣教に召された。1925年、エリックは23歳の若さで中国へ向かった。天津を中心に20年近く福音を伝えていたが、戦火が激しくなり捕虜として収容され、1945年に病死。獄中においても福音を伝え続けたエリックは、与えられた人生のすべての行程を走り尽くしチャンピオンとして天国にゴールインした。罪によって破壊されたこの世に、私たちの安住の地はない。私たちの本当の国籍は天にある(フィリ3:20)。

 皆さん、この際に是非この冊子を読んでください。弁護士の佐々木満男先生は、上の内容を熱く語ってくださった。オリンピックのことについて賛否両論があると思う。このコロナウイルス・パンデミックの状況で実行したことは、本当に意見が分かれることと思う。しかしこの時期に、クリスチャンでありオリンピック勝利者であるエリック・リデルの偉業について、小冊子を通して学ぶことができたことは、私にとって大変有意義なことであった。ローマ8:28、「万事を益とする」神に栄光を帰したい。

2021/8/8 週報メッセージ

新約聖書の執筆次第

朝位 真士 

  日本基督教団発行の聖書事典によると、新約聖書には27の文書が含まれている。ヘブル2・3~4には「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます」とあり、ルカ1・1~2には「わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって御言に仕えた人々が伝えた」とある。これらの「はじめに聞いた人々」「最初から親しく見た人々」は、それらの見聞や経験を直ちに書きあらわそうとはしなかったようである。それにはいくつかの理由が考えられる。当時においては、第一にイエスの霊が彼らの間に生きて導いてくださっているとの信仰があり、第二に彼らはイエスの目撃者であり、イエスの記憶が新たであったし、第三には、この世は間もなく「過ぎ行く」であろうし、キリストの再臨は迫っているとの信仰があったからであり、第四に、すでに当時存在しており、また読み慣れていた旧約聖書が初代信徒にとって神の言であって、その中にイエスの預言と事実を発見していたのであるから、それ以外に別な文書を書きあらわす必要を感じなかったわけである。もっぱら口伝えに「証し」をし、福音を「宣べ」つたえていた。

 この点については、ドッド(C・H・Dodd)が、使徒行伝のはじめに記してあるペテロたちの説教やⅠコリ15章のはじめなどから総合して、当初の「証し」はイスラエルに対する神の約束が今や成就した、ダビデのすえから待望のメシヤ、ナザレのイエスが到来したのだと語る。彼はよき業をなし、力ある奇跡を行ったが、神のみむねにより十字架につけられた。しかし、死人の中からよみがえらされ、神の右に座するに至り、やがて栄光のうちにあらわれて世を審きたもう。ゆえに人々は悔い改めて、罪のゆるしのために洗礼を受けるべきである。これがケリグマの内容であった。

2021/8/1 週報メッセージ

クリスチャン生活の使命

朝位 真士 

  『新キリスト教ガイドブック』に標題の項目がありましたので、皆様方にお知らせいたします。

 クリスチャンにとって、この地上の生涯の目的は、ただ神の栄光を現すために生きることです。そして、人生はもはや自分のものではなく、その目的を果たすために、ある一定の期間、神から託されたものであると考えています。また、その究極のクリスチャン生活の使命は、福音を全世界に伝えるためにキリストの証人となることです。

 ①神の栄光を現すために生きる――クリスチャンの体は、聖霊の宮です。キリストの霊が内に住んでいるのです。これをキリストの内住ともいいます。この体は主のためにあるのです。人間的ないかなるものにも、体を支配させず、その体の働きをもって神の栄光を現すのです。

 ②恵みのよき管理人として生きる――人間の生命も、賜物も、金銭も、物質もすべて神から委託されているものです。この管理者である生き方は、人生の価値基準が、名誉や地位や物質にあるのではなく、神のご意志にこそあることを示しています。「人はパンのみで生きるのではなく、神の御意志によって生きるのだ」という真理がここに実践されるのです。

 ③キリストの証人として生きる――(Ⅱテモテ4・2、ローマ1・16)福音は、神の力です。この力は、ギリシャ語でデュナミスといい、ダイナマイトという言葉がここから来ました。クリスチャンは、この福音の力の証人として神に立てられた者です。神の栄光のためによき恵みの管理人として生きること。最大の事業、最大の遺産――クリスチャンにとって、福音宣教は人生の最大の事業です。あらゆる地上の職業、事業はすべてこの究極の目的に仕えるときに真に意義あるものとなるのです。み名によって生きよ(使徒3・4~6)。

2021/7/25 週報メッセージ

コリント第一の手紙について

朝位 真士 

  パウロはコリントにおける約2年の伝道の後、エフェソに行き、そこで約3年の間伝道に従事した(行18・18~23)。パウロはコリントから来たクロエの家の者たちから、教会の中に争いがあり、「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「私はケパに」「わたしはキリストに」と党派的分争に教会が陥っていることを聞いた(Ⅰコリ1・11~12)。それに加えて、教会内の異教的不品行を知り、重大な事態に当たり、手紙を送るに至ったのである。その執筆はエフェソ在住の最後の年であったAD54年の春頃といわれている。

 内容・特質は(Ⅰ)コリント教会内部の重大な事件とその解決策(1~6章)。(1)アポロ党をはじめ四分派の論争。パウロは福音の中心がキリストの十字架にあり、巧みな知恵や賢さにはないことを力説し、パウロもアポロも皆神の同労者であり、すべてはキリストのもの、神のものであるとして、分派闘争を排除せんとしている。(2)淫蕩な異教の開港場としてのコリントにあるので、教会にも不倫な出来事が起こるが、それを取り除けと厳命している。(3)教会内の信者間の争いを普通の法廷の訴訟事件としたことを否とし、訓戒する。(4)性的自由主義を主張する者を訓戒し、からだは神の宮であり、自分のからだをもって神の栄光をあらわせと命じている。

 (Ⅱ)コリント教会からの質問に対する答え(7~15章)。(1)結婚問題についての回答。(2)偶像の供え物についての回答。(3)教会の集会における婦人のかしらのおおいに関して、晩餐に対してはキリストの十字架と死の証しとして厳粛に守るべきことを命じている。(4)霊の賜物について。13章は有名な愛の賛歌を送っている。(5)復活について。死者の復活は福音の中心である。(6)エルサレム教会の援助。愛をもって行うように勧める。

 Ⅰコリント書は、具体的で重要な問題が信仰により解決されており、パウロの愛と寛容がその牧会的配慮を貫いている。

2021/7/18 週報メッセージ

主の祈りに学ぶ                                                          朝位 真士 

  主の祈りはマタイ6・9~13、ルカ11・2~4に記載されている。

 主の祈りの意味――第一に、主の祈りの最初のことば「天にまします、われらの父よ」である。全知全能の聖なる神を私たちは父と呼ぶ。神は私たちを子として訓練していてくださるからこそ、天の父なのである(ヘブル12・6)。

 第二に、主の祈りをよく読むと、そこには願いしか記されていないことに気づく。これは、子が父を慕うように、何でも祈りなさいと主は勧めておられるということである。祈りの形式とか言葉とかを考える前に、主はただ求めなさいと言う。主は父として、私たちのありのままの姿を求めておられる。

 第三に、主の祈りの六つの祈願である。それらは二つに大別される。前半の三つは神ご自身と神の国のことであり、後半の三つは地上のことであり、一つ一つの順序にも意味があり、またそれぞれに深い真理が込められている。前半の三つは、実に壮大なビジョンをもった願いである。そして、後半の三つの願いは、この理想世界を実現するために欠かせない三つの要素を示している。日用の糧の願いから始まり、飢えからの解放、神によって罪が赦されて得られる魂の平安、さらに、悪魔の働きからの解放を願う。

 第四に、主の祈りの根本には、人類の究極の希望、イエスの再臨によって実現する神の国への待望がある。

 第五に、この主の祈りには、必ず「われらの」とある。祈りは、一人で祈っているようで、実はみんなで祈っているのである。群れの祈りである。だから「われら」には、とりなしの意味がある。主の祈りは、とりなしの愛、兄弟愛の告白である。だから、全世界の人々が祈るべき祈りであり、主イエス・キリスト様が弟子たちに、また私共に教えてくださった最高の祈りの模範である。毎回主の祈りを祈る時にこのことを心にとめると、今まで経験することのなかった恵みを経験することになると思う。

2021/7/11 週報メッセージ

目的のある人生

朝位 真士 

  「あなたがたが食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリ10:31)

  人間の人間らしい生き方とは、確かな人生の目的をもって生きることです。自分の人生が生産的な方向に向かっているか、滅亡に向かって歩いているか分かります。私たちは本当の人生の目的を持たなければなりません。

 まず、人生の目的の条件の第一は、魂を満足させる人格的なもの――人間は欲望の存在です。食欲、性欲、名誉欲などさまざまな欲望の満足を求めて生きています。しかし、これらの欲望を充足させるだけでは、人間は決して満足できません。何故なら、人間は魂をもつ人格的存在だからです。

 第二は、無限の欲求を満たす永遠的なもの――人間の魂の欲求は無限です。人間の魂は、永遠なるものを求めています。愛においても、善においても、自由においても永遠なるものを求めています。しかし、人間は無限を求めながら、有限を自覚しています。ここに神に背いた罪の結果である死の問題があります。真の人生の目的はこの死の壁を打ち破る力をもった永遠的なものでなければなりません。

 第三は、心と心を結ぶ共感を得るもの――人生の目的は、人と人とを結びつける普遍的なものであるべきです。人間は、自我の満足だけでは幸福になれません。心と心の結びつき、すべての人たちの心に通じる共有の真理があってはじめて、人間は満足します。三重苦の試練の中で生き抜いたヘレン・ケラー女史は「人間にとってもっとも悲惨なのは心の世界がないことだ」と記し、最大の苦痛は「わからない」ことではなく、「わからせることができない」ことだと、自伝で語っています。真の愛、この愛の支配こそ、人間が求めている目的です。神の栄光こそが、神の愛こそが、私たちのあらゆる欲求に本当の満足を与えてくれるものだということです。キリストご自身こそ神の栄光です。キリストを信じ、愛して生きることが、神の栄光を目的とする人生です。

2021/7/4 週報メッセージ

信仰の友の死に臨んで

朝位 真士 

  「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(詩116・15)

 「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル11・4b)

 先日、我が母教会の信仰の友の死の報告を受けました。彼は遠洋航海の船員として海外に行っていました。彼の証しを紹介します。

 20代の頃、大阪でキリスト教のチラシを受け取り、九州に帰ったら復興教会に出席するように言われて、1年間遠洋航海に出たのち九州の教会に出席するようになりました。聖書を熱心に読み続けるうちに神の存在をはっきりと知り、またイエス・キリストというお方が罪深い私のために身代わりとなって十字架にかかってくださった事実に出会いました。私を悩ましていたのは死の問題でした。聖書に出会うまでは、命がなくなると自分という存在が永久に失われるという概念を持っており、強い虚無感に囚われておりました。主イエスの救いに与る者たちには、永遠の世界が用意されているという福音に出会った時に大きな喜びを得ました。こうして、私は船の中で主イエスを自分の救い主として受け入れました。1年間の遠洋航海を終えようとした頃に一大決心をしました。教会生活を送るために船員を辞めるという気持ちが大きくなっていたのです。日本に帰って、会社に退職を申し出ました。復興教会での教会生活を始めてからしばらくして、1973年10月3日に洗礼を受け、幸いな今日があるのは、主イエスの不思議な導きのお陰です。

  私が教会にいた頃は、教会活動に積極的に参加し、クリスチャンの姉妹と結婚して二人のお子様に恵まれ、教会では絶えず信者の模範となっていました。教会役員となり、家族あげて教会のために全力を注いで励んでおられました。寡黙な兄弟でしたが、彼の存在は今でも教会にとって大きなものです。一人の信仰の友を天国に送りました。天国は賑やかなことでしょう。

2021/6/27 週報メッセージ

協働牧会伝道によるホ群教会形成

朝位 真士 

  「成長させてくださる神」(Ⅰコリント3・6)の御言葉を与えられて、協働牧会伝道によるホ群教会形成を祈りの中で実践しています。

 私共桜ヶ丘教会の協働牧会教会は、宮崎清水町教会(山口英希師)、舘坂橋教会(村上義治師)、日野原記念上尾栄光教会(長橋和彦師)です。2020年ホ群セミナーの頃より、4つの教会がパートナー教会として協働牧会形成をさせていただいています。ホ群教会として相互に祈りと週報交換、また特別の祈りの課題を出し合って祈っています。昨年よりコロナ禍の中で各教会が大変試練の中にあり、私共の教会も今まで経験しなかった教勢減少、財政的な困難の中にありますが、祈りによって不思議と力づけられ励まされています。とかく教会は孤立しがちでありますが、少なくともホ群教会は、祈りによって、小さな群れではありますが、守られ、助けられています。複数教会がパートナー教会として与えられていることは大変心強く感じています。パートナー教会の先生方や教会員の方々に祈っていただき、また教会の内情もお互いに情報交換し合って、何か4つのパートナー教会が近くにあるような感じがしています。私共の教会は、先程も申し上げましたように、人数は減少し、財政も逼迫している中で、昨年は3人の受洗者が与えられ、パートナー教会の方々の祈り、またホ群全群の祈りと支援によって、財政も赤字を出さずにすみました。予想だにしなかった方からの献金もありました。

 コロナ禍で礼拝人数も制限され、ユーチューブ配信したり、週報も礼拝1週間前に郵送したり、訪問したりして、少し多忙になりましたが、神様は私共に宣教のビジョンと知恵を与えてくださっています。主イエス・キリストの御名を崇めます。ハレルヤ!!

2021/6/13 週報メッセージ

『日々のキリスト』霊想書を読んで

朝位 真士 

  本田弘慈先生は大変バイタリティーある福音宣教者でした。私は若い頃、本田クルセードで全国を巡回しておられた先生と出会いました。私の父は、北九州のクルセードで信仰の決心をして、山中日出刃先生より洗礼を受けました。また先生は桜ヶ丘教会の献堂式のために色紙を送ってくださいました。「霊に燃え、主に仕えよ。」(ローマ12:1)私は本田先生の力強くわかりやすい福音メッセージをいつも心に留めつつも、なかなか単純明快に福音を説き明かすことができずに申し訳なく思います。

 先生の著書『日々のキリスト』の1月11日付に「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」と、ローマ10:17が引用されています。また、次のように述べられています。「信仰生活というと、一般の人々は感情的なものだと考えています。また、教会に出席することは教会の雰囲気を楽しむことだと考えています。しかし、信仰生活とは感情ではなく、実は聖書――神のことばである――を信じることです。また、教会に出席する目的は、『みことばを聞く』ところにあります。ですから、私たちの信仰生活は聖書を中心として生活することをいうのです。私たちは毎日からだを養うために食物をとりますが、私たちの精神生活、霊的生活にも霊の食物が必要です。聖書はそれを与えてくれるものです。聖書はまた私たちにとって人生の最良の案内書であり、正確な地図です。私たちはどこに行くのか、何が危険であるのか、どうすれば一番無駄のない人生を送ることができるのか、平和で安全な道は何か等を教えてくれるのです。」

 信じる者は救われる。義とされる。神の子とされる。永遠のいのちが与えられる。審判をのがれる。心がきよめられる。キリストの内住を得る。主のみわざを行う。主が働きたもう。世に勝つことができる。十の恵みがクリスチャンに与えられている幸いを神に感謝しましょう。