「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2024/10/6週報メッセージ

永遠の住み家(Ⅱコリント5:1〜10)

川﨑 理子 

 パウロは、地上の住み家は「幕屋」(一時的に住むための住居)だと語ります。彼は天幕造りの仕事をしながら伝道を続けました。伝道とは「神のひとり子であるイエス・キリストの十字架の贖いと、復活の命」を語ることです。

 天幕造りの仕事はこの世で生きるために日々の生活の糧を得るために必要なことです。同時にこの世とは全く違う永遠の世界を語っているのです。

 天の希望は「今ここに在る」。希望はあるが「地上の幕屋にあって苦しみもだえている」のが現実です。この世では「重荷を負っている」からこそ「天から与えられる住み家を着たい」(2.4)と切望するのです。この世で苦しむ体の上に永遠を着ることを心から望むのです。それは私たちの身近にもあります。

 かつて、私が神学校へ行くことをとても喜んで下さった姉妹(当時短大の教授)から手紙が届きました。末期癌で東京の病院で入院治療中と書かれていました。御見舞に伺うとだいぶ痩せておられました。彼女は、家族を導けなかったこと、自らが本当に救われているのか、天国はあるのか、私自身そこに行けるのだろうか、と苦悩していることなどを話してくれました。まさに切実な言葉でした。

 パウロは「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるから、ひたすら主に喜ばれる者になりたい」(7.9)と語ります。

 死を目前にした時に姉妹は自身の体(地上の住み家)を抱えながら苦しんでいましたが、そこから目に見えない永遠の住み家へと心を移していったのです。信仰とは、イエス様の語られる言葉を信じ平安を保つことです。

 イエス様は「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」(ヨハネ14.3)と言われました。それは「全ての人のため」に用意してくださる場所です。「わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住み家」(5.1)が確実に備えられていることを。

しかもその住み家は「わたしのため」であり、「全ての人のため」に既に整えられています。この、人の考えの及ばない驚くべき主の救いに、主の御業の広さ深さに、心から感謝するものです。

2024/9/29週報メッセージ

年長者の霊性

川﨑 信二 

 更生教会の山口紀子牧師が同教会の月刊誌『ぶどうの樹』で岡本知之著『老いと信仰』(教団出版局/信仰生活入門シリーズ)という書籍を紹介されていました。

その書では、「高齢者」という呼称には人を二分する価値観が潜んでいる。「高齢期」とは「人を養う立場から養ってもらう立場に変わる時」という発想が背後にあり、生産性の有無で人を分ける、という考え方だというのです。

岡本先生は、人間の生産性の本質は、霊性・魂・体の健全さにこそある。聖書は人が「霊・心・体」から構成されると教えているのだ(Ⅰテサロニケ5:23)と指摘しています。

「霊性は人生が順風満帆、向かうところ敵なしといった時に実はもっとも低くなるのです。神など必要ないと高慢になりやすいからです。しかしこの時こそ本当の意味での『牧会』が必要になる時であり、そこに、人生の霊的成熟期を迎えた人々、つまり高齢者の果たす、大切な役割がある。」(『老いと信仰』14頁)というのです。

山口先生は「今まで出来たことが出来なくなる自分を受け入れること、人のお世話になること。それは謙遜でなければできません。謙遜にさせられるのです。切なさや痛みが伴います。」と述べ、「霊的成熟期に霊的生産性、霊的創造性が研ぎ澄まされる。」と記しています。

 私はこれらのことから、人は小さくさせられる時こそ最も神に近づく時だと思わされました。与えられた健康や能力はやがて「神にお返しする」時が来ます。

かつてハンセン病で長島愛生園におられたある女性がこういう句を詠みました。

「目をささげ 手足をささげ クリスマス」

「返す」のも信仰ですが、さらに「ささげる」という捉え方は霊性がなければできません。主の御前に低くなり、感謝のうちに十字架の主を見上げて歩ませて頂きたいものです。

2024/9/22週報メッセージ

内なる人(Ⅱコリント4:16〜18)

川﨑 理子 

パウロは「外なる人」は衰えていくとしても、「落胆しません」と語ります。「外なる人」とは見える部分、姿、衰え、老い等のことです。長生きをすればその分衰え続ける時間も長くなります。パウロの伝道者の生涯は波瀾万丈でした。どこへ行っても「ユダヤ人を迫害していた」「あのパウロ」でした。命も何度も狙われました。そんな生き方をすれば体もボロボロ、精神的にも追い込まれていくでしょう。また、「わたしにはひとつのとげがあり、そのとげを取り除くことはできなかった」と、彼自身、肉体的な弱さを持っていると告白しています。更にこの頃50歳を過ぎ、年齢的にも体力の変化を感じていたのではないでしょうか。

パウロは、この箇所で衰え続けることを悲嘆しているのではありません。むしろ「内なる人」の充実を語ります。それは、「外なる人」つまり「見える体」のことではなく、心の内、信仰的な目に見えない内面のことを指します。「内なる人は日々新たにされています。」との聖句は「信仰は毎日更新されていきます。」と受けとめることができます。日々衰えるのでなく日々更新です。

私は結婚する前の約2ヶ月間、当時伝道師をしていた教会がリフォーム工事のため、教会員の高齢の姉妹のお宅で共に過ごさせていただきました。88歳で1人暮らしをされていた姉妹に短い期間でしたがお世話になりました。

朝の祈祷、朝晩の食事9時半の晩祷他、規則正しい生活をしました。同じプロ野球チームが好きで熱い応援合戦をしたことを思い出します。姉妹の「外なる人は衰えて、私のようにシワシワおばあさんになっても内側は成長させて下さるのは神様だから安心ですよ。朝起きてまだ天国ではないと分かると一瞬がっかりするけどね」と穏やかに語る姿に「内なる人」は日々新たにされる信仰を見ました。

主を信じる者は年を重ねて尚更新続ける。成長して主の為に用いられる。なんと幸いなことでしょう。それは見えないものに目を注ぐ生き方です。私達は外なる人の終りを見つめつつ今を生きるのです。

2024/9/14 週報メッセージ

あっぱれ!「玉鷲」!!

川﨑 信二 

 大相撲秋場所で通算連続出場1631回を果たし、角界1位に躍り出た鉄人「玉鷲(たまわし)」を皆さんご存じでしょうか。11月に40歳になる超ベテランの関取で幕内力士です。過去に幕内最高優勝を2回成し遂げたモンゴル出身の現役力士です(最高位関脇)。なんとなく地味で、人々からの印象が薄い力士でしたが、コツコツ努力し激しい突き押しと素早い動きで上位陣を苦しめ、勝っても負けても真っ向勝負、気持ちの良いお相撲さんであることが少しずつ認知されるようになりました。

インタビュールームでは、いつもニコニコして人当たりがよい。かといって勝負への執着が弱いのではなく、土俵にあがれば闘志むき出し、小細工はせず正々堂々、迷うことのない相撲を取り続けている、それが持ち味で、応援したくなる魅力的な人なのです。

美空ひばりが歌った「柔」という曲に「勝つと思うな 思えば負けよ 負けてもともと・・・」 という歌詞があります。常にチャレンジャー。謙虚さを失わず、若手に対しても胸を借りるつもりで、全力でぶつかる、その精神が清々しく映ります。

人間はもともと罪人です。聖書にこう書かれています。「正しい人はいない。一人もいない」(ローマ3:10)。「自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(同12:3)。

私たちも思い上がることなくコツコツと歩ませて頂きたい。同時にモンゴルの鷲のごとく、優雅に「翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31)、生き生きとした信仰を常に持たせて頂きたいものです。

この世で長らえる限り主に向って歩みましょう。

―敬老の日に寄せて

2024/9/8 週報メッセージ

イエス・キリストによる贖い(あがな  )

川﨑 理子 

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ヨハネによる福音書8章11節

 姦淫の女とイエス様との出会いは、同じヨハネによる福音書4章でイエス様が井戸の前でサマリアの女に出会う場面を思い起こさせます。「姦淫した」「五人の夫がいた」…二人の女性には「罪を犯した」という共通点があります。

さらに二人とも「罪を犯した自覚」がありました。姦淫の女は現行犯でしたから当然でしょう。サマリアの女が朝夕の水汲みの仕事を昼間していたのは人目を避けていたからです。その点で彼女にも「罪の自覚」があります。

 悪いことをしたら裁かれるのは当然です。規則を破れば罰金などを支払う義務が生じます。しかし、この二人はイエス様に出会ったのです。イエス様は冒頭のみ言葉によって姦淫の女の罪を赦し、罪から解放されたのです。

イエス様のほうから二人に近づき、言葉をかけられたのです。ここに神様の愛を感じます。

 「ラストマイル」という映画を観ました。大手ショッピングサイトの配送段ボールが爆発する事件。物流を扱った映画で、台風10号や米不足による流通問題と重なり、引き込まれました。お客様に荷物が到達するまでの物流の最後の接点「ラストマイル」では「贖罪(しょくざい)」という言葉が出てきて、「(つぐな)い」の意味で使われていました。ネタバレにな

るので詳しい事は書けませんが、一人一人がその人生で負うものとは何か、を考えさせられました。 

私たちは主イエスの十字架の贖いにより、償いきれない大きな罪を赦していただきました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。」

主のお言葉に感謝します。

2024/9/1 週報メッセージ

主の山にむかう

川﨑信二 

目をあげて、わたしは山々を仰ぐ…わたしの助けは来る

天地を造られた主のもとから    詩編121:13

富士山の北西、南アルプスには3000m級の山々が肩を並べています。それらを展望できる場所に立つとこれだけ高い山々があるのに「高さ」を感じないのです。有名な富士山は外国人も絶賛するほど美しいのに何故でしょうか。それは富士山の周囲には高い山がなく独立峰として突出していて、ひと際目立つから美しいのでしょう。しかし見方を変えると、一人が突出するのは危険で独裁に繋がります。判事も裁判長も止めることができないような、誰も止めることが出来ない権力は不健全なものです。

 日本アルプスの山々は、峰が尾根で連なっている「岳」なので容姿はそれほど美しくない。皆が皆高いからです。全体的にレベルが高いのです。平均点が95点のような、ずば抜けた人がいない。それは全体として素晴らしく、富士山を凌駕する評価をしてもよいほどです。単に標高で言えば、聖書に出てくるタボル山やヘルモン山より高い山々です。見た目にはそびえ立つ険しさは感じなくても実際に高いのです。人の側からみれば、高い連峰に囲まれた環境の中、ハイレベルの競争でしのぎを削って勝利した者が評価されます。けれど、神からみればそれらは五十歩百歩、どんぐりの背比べに過ぎません。

 標記の御言葉はいわゆる山々のことではなく「主の山」、 つまり礼拝を捧げる場所、神の山に上る巡礼の歌です。「山」は自分自身ではなく、神のもとに行く道です。

人は、ダントツで1番になれば高慢になります。むしろ、罪において突出している方が、神の目から見て「救い甲斐」があるのかもしれません。要するに打ちひしがれて、へこんでいる人の方が目立っていて「迷える子羊」のごとく救いに導かれやすいような気がするのです。凸凹だらけの人は神を求め、己の足りなさを聖霊で満たしてほしいと祈るようになるからです。

懐かしい子ども讃美歌にこんな歌があります♪♪

「山には険しい道があるよ。足もと踏みしめ、さあのぼろう。進め、友よ、進め。真理をもとめて進め!」(1966/小鳥律三原作詞)。 神の示される山、誰でも登れる山に向って進んでゆきたいものです。

2024/8/25 週報メッセージ

神との信頼関係

川﨑 信二 

以前、高齢者施設で宿直のアルバイトをしていた。夜勤だったが、ただ居るだけの仕事内容で、私としては有難い仕事だった。入居者の方に対して、看護士や介護士のように直接ケアすることはなく、「私はあまり役に立っていないのかな。不甲斐ないな」と思うこともあった。

ある方が事務所に来て「すみません、これ開けてください」とジャムの瓶をもって来られた。固く閉まっている蓋を「よいしょ、はい開きました。どうぞ。」と渡すと嬉しそうに部屋に戻って行かれた。私にしか出来ないことでもないが、時間帯もあり事務所にずっと居る私に頼みやすかったのだと思う。それでもそれが単純に嬉しい。相手を喜ばせることができて「こんな者でもお役に立てたかな」と充足感を覚えた。

心理学者アルフレッド・アドラーを日本に紹介した精神科医野田俊作は、自己受容、信頼、所属、貢献の感覚に分けることを提案している。ありのままの自分でいられる「自己受容」、周りの人に任せることができる「信頼」、自分の居場所がある「所属」、周りの人の役に立つことができる「貢献」。これらの4つの感覚が充足されることによって、「自分はここにいて、役に立つことができる」という所属の課題を果たすことができる。ことに信頼は、自己受容ができてから徐々に周囲の人たちに対し信頼できるようになるという。信頼とは、「周りの人に安心して任せることができる」という感覚。自分だけで背負い込むのではなくて安心して相談できることが大事で、人に任すこと、人から任されること、そこに信頼がある。

主イエスは私たちの重荷をすべて十字架上で担って下さった。だから私たちも主に全面的に委ねればよい。その主が今度は私たちに宣教の業を委ねて下さる。奉仕を与えて下さる。私たちも、「主の用なり」(ルカ19:34)との召しに応える子ロバのように、どんなに小さくても、イエスを乗せる尊い務めを受ける者でありたい。こんな者を信頼し任せてくださる。その信頼に喜んで応えてゆきたいものである。

主に自らをゆだねよ。

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩編37:4)

2024/8/18 週報メッセージ

いま でかけよう!

川﨑 理子 

 パリ・オリンピックも終わり、次はパラリンピック。私はメダル云々よりも平和の祭典としてウクライナ、イスラエル、ロシア等の選手達が気になりました。

 オリンピック期間中に広島、長崎で79年前に原爆投下された記念祭があり、長崎の記念祭では合唱が小学生と、中高生とでありました。小学生の合唱は人数が少なかったのですが、胸に迫るものがありました。記念祭での合唱は鎮魂歌の意味合いがあるとのことです。

 教会では鎮魂ではなく神様への祈りです。既に魂を満たして下さっている神への祈りです。祈りと同様に賛美もたくさんします。その内容は神様への感謝、そして喜びそのものです。

 8月に2つのキャンプへでかけました。一つは西東京教区の中高生夏キャンプ。もう一つはホーリネスの群首都圏バイブルキャンプでした。どちらのキャンプも朝から大きな歌声で主を賛美して、目を覚まします。(笑)

はじめは大画面の歌詞を追って、慣れてくると体でリズムをとって喜びを全身で表すようになります。その中高生達の姿を見て私は嬉しくなり、やっぱりキャンプは良いな、来て良かったなと思いました。キャンプで神様に出会った私はキャンプに参加する度に心は一気に10代へ戻ります。

教区のキャンプで歌った曲の一つで、

 ♪君は愛されるために生まれた♫ は、イ・ミンソプさん作詞作曲の歌です。久しぶりにこの曲を歌い、主を賛美しました。手話を通してスーっと心に入ってきました。

「君は愛されるため生まれた。今もその愛うけている。うけている。」

 さあ、今日も愛を受けている私達は、神様が遣わす処へでかけてゆきましょう。

2024/8/11 週報メッセージ

主イエスの霊と共に

川﨑 信二 

この時期、日本ではいわゆるお盆の時期となる。「先祖の精霊をお迎えして供養をする期間」として「年に一度浄土から地上に戻ってくる空腹の先祖を家に迎え、共にひと時を過ごして冥福を祈りその霊を供養」する慣習だ。

キリスト教では、死者の霊は既に主の御許にあり幸福を得ているので、供養することも冥福を祈る必要もないという考えに立っている。それでも供養したいという遺族の慰めのために寄り添い、地上を去られた家族が今天にあり、全き至福(成仏)を得ていると信じることができるよう、また遺された私たちもやがて主の懐に帰る希望を持ち続けることができるようにと祈らせて頂くのだ。

 聖書では、霊といえば人の霊ではなく「聖霊」であり、復活の主イエス・キリストの霊を意味する。聖霊は目に見えないが今も生きて働く神ご自身であり、死霊ではない。

 けれども、聖書の時代にも「お化け」や「悪霊」の存在が恐れられていた。主の弟子でさえそういう迷信に陥っていたのだ。ガリラヤ湖の湖面を歩く主イエスを幽霊と見間違えている(マタイ14:22-33)。まことに失礼な話だが、当時そういう考え方があったことを示している。臆病な弟子たちに主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と優しく招いて下さっている。

 幽霊…痩せ衰えた死霊が帰って来る…本当だろうか。柳田國男の『遠野物語』に出てくる座敷童子のような存在が家に幸福をもたらし、守護霊として家の盛衰を司る、そんな霊が実在するのかどうか、霊感のない私には正直よく分からない。良い霊、悪い霊があるにせよ、主の霊に勝るものはないはずだ。死から復活された主の霊は私たちに完全な勝利を与え、悪霊の軍団レギオンでさえもひれ伏すほどに権威のあるお方なのだ。

 秋田にある、101回涙を流す奇跡の聖母像を見に行った人が写真に収めようとしたが、シャッターが動かなかったという。後日、霊感の強い?友人と共に行ってみると、今度はシャッターが作動して安堵したが、後で写真を見ると卍がたくさん写っていて驚いたという。この世では奇妙なことが起きて怖いと感じることもあるだろう。しかし主の霊にこそ畏れ、聴き従うべきである。なぜなら、聖霊に勝さる霊はないからだ。

 この世の霊を恐れる弱い私自身だが、常に復活の主の臨在を感じつつ平安を得て歩みたいものだ。

2024/8/4 週報メッセージ

教会の暦について    『信徒の友』より

平和聖日とは?

日本基督教団は8月第1主日を平和聖日と定めています。

 1962年10月の第12回教団総会に、西中国教区より「『平和聖日』制定に関する建議」が提出されました。その内容は「毎年八月六日、またはその直前の日曜日を『平和聖日』と定め、特に世界平和のため、核兵器禁止のために祈ること」でした。

 建議の理由として次の2点が挙げられています。

  1. 八月六日は史上はじめて核爆弾が使用され、最大の惨劇がくり拡げられた日である。核戦争の危機が叫ばれている今日、わたしたちは全国の主にある兄弟姉妹が同時に平和の福音に耳をかたむけ、世界平和と核兵器禁止のために祈りを捧げることの重要さを思うものである。
  2. これはさらに全世界の兄弟に訴えられ、その祈りを共にすべきであるが、それには国際的に認められたこの日をもってあてるのが最適であると思われる。

 これを受けて、1962年12月の第12総会期第2回(臨時)常議員会で「毎年八月第一日曜日を平和聖日とすること」が可決され、1963年8月より実施されてきました。

平和を祈るリタニー

8月第1日曜日は、広島の被爆者からの建議により制定された「平和聖日」です。私たちは過去の戦争の悲惨を心に刻み、過ちを深く懺悔します。同時に今この時も、世界中で戦争や紛争、内戦などにより、武器と爆弾にさらされている人々がいることを覚えます。

リタニー(連祷)は、司式者と会衆が交互に捧げる祈りです。キリストの平和を創り出す為に、共に祈りを合わせましょう。

隣人として

武器を作る者の手を止めてください

主よ 憐れんでください

武器を売る者の手を止めてください

主よ 憐れんでください

武器を使う者の手を止めてください

主よ 憐れんでください

その手をじっと見つめ

省みることができますように

誰も殺さない、誰も殺させない

神さまから与えられた命

神さまから愛された命

互いに私たちは隣人です