「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2022/11/27 週報メッセージ

アドヴェント(待降節)
                      朝位 フミ子 

今日からアドヴェント、待降節が始まります。アドヴェントの礼拝に初めて出席された求道者の皆さんは、こう思っておられるかもしれません。なぜ教会にはアドヴェントがあるんですかと、疑問に思うかもしれません。待降節は文字通り、クリスマスを待つこと、キリストの御誕生を待つ期間です。つまり、救い主を待ち望み、そのために主イエスとの新しい出会いに向けて,心を準備する期間なのです。
 しかし、この待降節は、単に毎年、新しくクリスマスを迎えるためにあるわけではありません。待降節には、実は二重の意味があって、待降節でクリスマスに主イエスを迎えることは、この世の終わりの時に、再びこの世に来られる主イエスの再臨を待つことと一つに重なるのです。待降節は,単にクリスマスを待つのが嬉しいから、心を備えて待つわけではありません。やがて、この世の救いの歴史の終わりの日に、再び来られる主イエスとお会いすることを待つということが、本当の待降節の期間の過ごし方であり、それが私たちの人生を変えるとても大切な時になるのです。つまり今日、この日、この時、私たちがどういう姿勢でクリスマスを迎え、救い主を迎える心の準備をするのか? それがとても大切になってくるのです。
主イエスは、私たち全ての人間の救いのために、クリスマスの時にこの世に生まれてきてくださいました。同じイエス様が、この世の救いの歴史の終わりの日に、再び来られるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りです。私たち全ての人の救いのために、主が再び来られるのです。それは、私たちが再臨の主イエスにお会いする時です。愛するイエス様が来られる時に向かって、私たちは喜びと希望をもって、主をお迎えする日を楽しみに待ち、信仰の旅路を歩む者でありたいと思います。

 

2022/11/20 週報メッセージ

小さな子どものささげもの                                                朝位 フミ子 

  聖書には、イエス様が小さな男の子のお手伝いを心から喜んでくださり、5つのパンと2匹のお魚をたくさん増やしてくれたお話があります。しかし、主のお弟子さんは「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と思いました。大人たちから見たら、何の役にも立たないと思うお弁当は、この男の子にとっては自分の持っている全部だったのです。今自分ができる精一杯の大きなささげものを、イエス様にささげたのです。

 それに対してイエス様は、この小さな男の子が神さまのためにしたお手伝いを、とても喜んでくれました。この男の子の働きを皆で心から喜ぶことができるように、神様にお祈りをしてパンと魚を増やして、皆で一緒に分かち合うことができるようにしてくださいました。この男の子が神様にささげてくれたお手伝いを、パンと魚を増やして祝福してくださいました。

 私たちも、時々こう思うことがあります。こんなに小さい子どもだから駄目なんだ、自分は小さなことしかできないから何の役にも立たないと、私たちは思うことがあるかもしれません。でも神様は、小さい子どもたちが神様のためにしてくれたお手伝い、奉仕を特に喜んでくださり、いっぱい祝福してくださるのです。そのことを忘れないようにしたいと思います。そして何よりも、私たち大人も神様から見たら小さい子どもです。だから、自分には何もできない、役に立たないと思っている人も、自分は弱い者で何もできないと思っている人、自分は全然駄目だと思っている人も、神様の呼びかけに応えて、少しの勇気を出して、自分の持っているものを神様にささげる時、神様のためにささげる奉仕に、神様はその人の働きをとても喜んで豊かに用いてくださり、たくさんの祝福を与えてくださるのです。

2022/11/13 週報メッセージ

召天者記念礼拝を終えて

朝位 フミ子 

  「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)

 今年も召天者記念礼拝を無事に迎え、終えることができ感謝しております。ご奉仕をしていただきました方々に心から厚くお礼申し上げます。「召天者名簿」にありますように、今年は3名の方が加わり76名になりました。私は、名簿とお写真を確かめながら、あらためてその生涯を偲び、またその終わりの時、その葬りの時、さらにご家族のその後の歩みを思い浮かべながら過ごしました。ここにご出席しておられる、おられないに関わらず、召天者を覚えていらっしゃる方々の上に神様の慰めと励ましが与えられますよう願っています。私自身、時の経過を実感し、自分の生涯の終わりのことを考えさせられました。今年も、いろいろな事が起こりました。教会にとっても、教会員の姉妹が、長老役員が、そして主任牧師が天に召されました。愛する方々の死を覚えながら、必ず訪れてくる死について思い巡らすことは、意義あることと思います。

 ルカ16:19~31から、山本牧師のメッセージをいただきました。金持ちとラザロのたとえから、第1~第3のお話です。死後のことは変更できないこと、そして生前が問われる信仰生活の問題、平凡な1日を大切に生活してゆくことが大切ですとお話を伺いました。しっかり心に留めていきたいと思います。「終わりを意識して」思慮深く生きていくお互いでありたいと思います。ますます残されている時は短くなりつつありますが、与えられている賜物に感謝しながら、私たちのなすべき事に励んでいきましょう。

 「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(ヘブライ人への手紙13:7)

2022/11/6 週報メッセージ

 神の国のしるし

朝位 フミ子  

  主イエスの公生涯には、神の国のしるしを表す宣教活動を行いました。主イエスは、この地上で活動された時に、神の国に何らかの希望を見ていたと思います。主イエスが弟子たちに話した種蒔きの譬えでは、今は不毛の地に見えるこの地は、やがて神の国が完成した時には百倍もの収穫が確実に得られると言われ、またルカでは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」と言われました。つまり、主イエスはサタンの力が確実に滅びるという神の国の勝利を、既に先取りして見ていたということです。主イエスの見ていた神の国の勝利とは、それは人の支配ではなく、神の支配が行われること。聖書で神の国と呼ばれているものは、神の支配と言い換えてもよい言葉です。この神の支配が、イエスである私が来たことによって、もう既に我々の足元にまで来ているのだと宣言して、活動を始めたのでした。

  主イエスの働きの中で、病の人を癒したのは歴史的な事実で間違いのないことだと、伝えられています。主イエスはよく奇跡行者、奇跡を行う者と呼ばれていました。主イエスはなぜ地上での働きの時に、病の人と出会い、病を癒していたのでしょうか?

 それは、神の国のしるしを表すためでした。主イエスの存在自体が神の国であり、良い知らせでした。だから、主イエスはこの地上にいながらも、神の国に生きていた訳です。神の国は、もはや病も苦しみも、痛みも悩みもない、全ての人間の心と体の苦しみや痛みが取り除かれた、素晴らしい世界だと言われています。主イエスは、神の国のしるしを表し、今苦難の中にある人々に良い知らせを伝えるために、病の人に出会い、病を癒したのです。主イエスの働きの全ては、神の国のしるしを表すためでした。

2022/10/30 週報メッセージ

目を覚ましていなさい

朝位 フミ子 

  この「目を覚ましていなさい」という言葉の意味を、私たちは誤解してはならないと思います。イエス様は、私たちに、寝てはいけない、寝坊してはいけない、居眠りをしてはいけない、休んではいけない、働き続けなければならない、しっかりやらないといけない、もっと頑張らないと駄目だと言っておられるのではありません。イエス様が「目を覚ましていなさい」と言うのは、今がどういう時なのかわきまえて生きなさいと言っておられるのです。今、神様が私たち一人ひとりに任せられている務め、委ねられた私たちの務めを、最後まで責任を持って忠実に果たしていきなさいと言っておられるのです。

 しかし、私たちは、現実の生活の中で色々と大変なことが起きたり、気持ちが辛くなって落ち込んだり、不安になったりすると、せっかく神様から務めが与えられているんだから、失敗してはいけない、頑張って成功しなければならないと思い、その務めに責任を持って果たすことがプレッシャーになり、重荷になって、もう駄目だ、もうできないと諦めてしまいたくなるのです。イエス様が、ここで私たちに期待していることは、失敗しないで成功しなければならないということではない訳です。

 いつ帰って来られるか分からない主人であるイエス様を、僕である私たちがガチガチに緊張して待っているんじゃなくて、また反対に、イエス様が来られることなんて自分にとって全く関係ないことだし、何の期待も希望も持てないという冷めた気持ちでもなくて、今生きているこの日、この時が、たとえ私たちにとって試練の時、色々と心を騒がせるような時だとしても、明日のことを何も心配しないで、慌てないで、落ち着いて安心して、イエス様が来られる時に期待して、希望を持って生きていくことに尽きるのだろうと思います。

2022/10/23  週報メッセージ

   深く息をつき

                   朝位 フミ子 

  主イエスが、耳も言葉も不自由な一人の人に、「エッファタ(開けよ)」とおっしゃいました。彼の耳と口を開いてくださいました(マルコ7章34~35節)。そこで主イエスは「深く息をつ」かれました。これは、元の言葉では、「ため息をおつきになった」あるいは「呻く」と訳すことができます。一般的には、人間がため息をつくのは、あまりよいしるしではありません。しかし、ここで主イエスが「深く息をつき」、ため息をつかれたのは、一人の、ただ一人の人の救いのためでした。この人の口が開かれる、賛美が歌われるために、そういう人生をこの人が生涯歩めるようにするために、主はご自分の全てをささげて、深く息をつき、ため息をついてくださいました。

 その「ため息」という言葉には、他にも「呻く」「悶え苦しむ」という意味があります。これは一体何を意味しているのでしょうか。それは、私たちのために担われた主の十字架の苦しみ、そのものを表しています。そのようにして、御自分の肉を裂き、血を流し給うて、主は私たちの心を、私たちの耳を、私たちの口を開き、御自身の十字架の恵みをも開いてくださいました。これ以上に確かな救いの出来事は他のどこにあるのでしょうか。私たちもこの主の十字架の苦しみによって、教会に確かに結ばれるように、罪赦されて救われていくように、神の国の民とされていくように、キリスト者とならせていただいています。

 主が私たちの確かな救いのために、十字架の上で悶え苦しんでまで、私たちに向かって「エッファタ、開け」と言われたのです。そして、神の力によって、私たちの閉ざされた耳が開かれ、主イエスの声が聞こえるようになるように、また、もつれた舌が解けて、隣人に救いの言葉を大胆に語り告げ、主を賛美することができるようにしてくださいました。その重みに、この確かな救いに、私たちはただただ感謝しかありません。十字架の主の満ち溢れる恵みに、礼拝をささげ、賛美していきましょう。

2022/10/16 週報メッセージ

 聖霊に満たされる                                                     

朝位 フミ子 

  私たちクリスチャンでも、この「聖霊に満たされて」という言葉や意味について、また聖霊に満たされるという出来事について、よく分からない所があるわけですが、使徒言行録の御言葉にはそのヒントが書かれています。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(使徒4章20節)つまり、私たちが聖霊に満たされるという出来事は「見たことや聞いたことを話さないではいられなくなる出来事」なのです。また、私たちが大胆に御言葉を語るようになるという出来事も、「見たことや聞いたことを話さないではいられなくなる出来事」なのです。そう考えると、聖霊に満たされるという経験と、大胆に御言葉を語るように変えられるという経験は、自分が「見たことや聞いたこと以外の経験は話すことができない」ということになるのですから、とても身近に感じることができるのではないでしょうか。

 私たちの教会の使命である伝道、福音を地域の人に伝えるということは、私たちが見たこと、聞いたこと、経験したことを、黙っていられなくなるという心の働きによって起こるのです。私たちが、神様のこと、イエス様のこと、見たこと聞いたこと、とんでもない大きな恵みをいただいていることが分かれば、もう嬉しくなって、人に話さずにはいられなくなるのです。イエス様が、私たちのために命をささげてくれて、復活して、そして今、私たちを教会に導いておられる。本当に私たちと共におられて、見たこと聞いたことを話さないではいられない気持ちに私たちの心を動かしている。そういう気持ちにさせて、私たちを教会の働きへと、今、神様が私たちを導き動かしているのでしょう。私たちも、見たこと聞いたことを使徒のように大胆に話すことができるようにしてくださいと、神に祈り、隣人に伝えましょう。見たこと聞いたこと、イエス様の救いを経験したことを、大胆に語りましょう

2022/10/9 週報メッセージ

神の愛と赦しの眼差し

朝位 フミ子 

  福音書には、主イエスが徴税人のレビを弟子として選んだ召命物語があります。同時代のユダヤの人々から嫌われる仕事をしていた徴税人のレビを、主イエスが彼の過去や現在の姿を見たのではなく、レビの未来の姿を見て、将来弟子として頑張っている姿を期待して、弟子に選んでくださったのです。主イエスの「わたしに従いなさい」(マタイ9章9節)と言われた言葉に、レビは心の底から嬉しくなって、感動して、すぐに立ち上がってイエスに従っていくことができたのでした。

 10節には、その後のことが描かれています。ここには、罪人と一緒に食事をする主の姿が描かれています。「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(10節)実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのです。驚くことに、他の徴税人や罪人たちも大勢、イエス様の所に集まってきたのです。ある説教者は、主イエスには権威があり、雰囲気がよかったから、人々が大勢ついてきたのだと言います。イエス様はいい人だったから、皆がついてきたのだという人もいます。しかし、イエス様の雰囲気がよかったから、いい人だったから、徴税人や罪人がついてきたわけではありません。

  主イエスは、神様と同じ眼差しをしっかりと受け継がれています。神の眼差しは、人間の人を見る眼差しとは違います。神の眼差しは、その人の過去を見ないで、未来だけを見てくれるから、罪人や蔑まれている人も皆、喜んでイエス様についていきたいと思ったということです。主イエスの所に行くと、過去を見ない、ダメ出しをしない、人を裁かない、罪を咎めない。イエス様の所には、優しさがあり、愛があり、そこに罪を赦す神がいたからこそ、皆喜んで主イエスについていくことができたのです。私たちも礼拝の中で、神の愛と赦しに触れたいと思います。

2022/10/2 週報メッセージ

御言葉を聞くと、心が明るくなる

朝位 フミ子 

  出エジプト記6章で、神様はモーセとイスラエルの人々に、私は必ずイスラエルの人たちをエジプトの奴隷の中から救い出し助けると、力強く約束をしてくださいました。モーセはここで、神の言葉を聞くことができました。モーセは暗い心から、明るい心になりました。

 しかしモーセとは違って、イスラエルの人々の心の中は暗いままでした。彼らはエジプトの奴隷の苦しい生活の中で、生きる元気を失い、心の中が暗かったのです。だから、どんなに力強い神の御言葉が語りかけられても、それを聞くことをしませんでした。神様の御言葉を聞くことができなかったので、イスラエルの人たちに神様の力が与えられることはありませんでした。たしかに辛い生活の中にいたのだけれども、神様が一緒にいてくださるから大丈夫だ。神様がきっと助けてくださるから私は生きる希望を失ったりはしない。どんな大変な時も、神様に助けていただいて、神様についていく、とはならなかったということです。

 このことは、私たちにも本当によくわかることなのではないかと思います。上手くいかなくなると、私たちは元気を失い、今私たちを励まし、救いへと導くために語りかけてくださるのに、神の御言葉を聞くことができなくなってしまうことがあります。ところがです。今日の物語で、イスラエルの人々は神様の御言葉、神様のお話を聞くことができなかったのに、それにも関わらず神様は、「イスラエルの人々をエジプトの国から導き出せ」(13節)と言われました。どんなに今、お前たちが私の話を聞くことができなくても、私は必ずお前たちを苦しみの中から助けるよ。神様がそう約束してくださったのです。私は必ずやるよ。お前たちを苦しみの中から助けて救うと、はっきりと約束して語りかけてくださったのです。

2022/9/25 週報メッセージ

荒れ野を旅する神の民である教会

朝位 フミ子 

  モーセの時代に、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から神の導きによって救い出されます。イスラエルの民は、葦の海を渡り、エジプトから完全に逃げ切ることができました。しかし、神によって無事に海を渡り、救い出されたイスラエルの民がすぐに導かれた場所は、約束の地ではなく「荒れ野」でした。救われたイスラエルの民が奴隷の家から導き出された後、ただちに向かったのは40年間の荒れ野の旅でした。

 聖書の中では荒れ野には二重の意味があって、一つは死と滅びの世界の象徴です。荒れ野とは死の世界であり、苦しみの多い場所です。そこには乗り越えなければならない試練と誘惑のある世界です。特に、主イエスが試練に遭われるのは荒れ野です。それはサタンの世界だからです。荒れ野は、今私たちが現実に生活している場所です。相変わらず苦難があり、試練があり、サタンの誘惑の多い荒れ野です。今私たちは洗礼を受けて救われた神の民として、約束の地、神の国を目指している荒れ野を旅する神の民なのです。

 そして、荒れ野の二つ目の意味は、神の民が神様の救いを経験した場所だということです。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、この荒れ野の40年の旅をして、約束の地カナン、乳と蜜の流れる地に入ります。荒れ野の40年こそ、死と滅びの世界でしたけれども、神様が共におられて、神様にしがみついて旅をして、神様との交わりを深めて、神との結びつきを強くすることができました。だから、荒れ野で信仰を飛躍させて、成長させることができました。荒れ野が、神様から離れたら生きてはいけない所だったからこそ、神様に必死にしがみついて、イスラエルの民は荒れ野で神と共に生きる経験をすることができたのでした。私たちも、この世の荒れ野を旅する神の民です。祈りと礼拝を大切にして、神との交わりを深めていきましょう。