「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2025/1/19 週報メッセージ

初めに言があった

川﨑 信二 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネ1:1)

 ヨハネによる福音書は「言」という言葉で始まります。

言はギリシャ語でロゴスと言われ、当時の人からは誰もがよく知っている哲学用語でした。翻訳しにくい言葉ですが、崇高で権威ある根源的な意味が込められています。

この福音書には謎めいた言葉が多く難解ですがその謎が解き明かされた時の喜びは大きい。数学的な未知数をXで表しますがそれが解けた時の喜び。キリストもⅩで表します(Χριστός)。Ⅹが解るとXmasの意味も解ります。「言」がイエスであることが解れば、イエスが神であることも解ります。ヨハネは、イエスが天地創造の前から存在された神であることを伝えるためにこの書を記しました。

 「初めに言があった」。「初めに」とは単なる「時の始め」ではなく、神の決意を表します。神は並々ならぬ決意をもって世を創られた。黙示録にて主イエスが「わたしは初めであり終りである」と告げておられます。主が愛をもって世を創造され、責任をもって万事を締めくくってくださる。実に頼もしい言葉です。この方こそ「言・命・光」なのです。

 

 暗闇は私たちのことです。暗闇が光を理解せず、主イエスを十字架で殺してしまうことを指しています。分からないから殺しちゃった。ギリシャ人はロゴス(言)の意味を知っていてもそれが主イエスだとは分からなかった。ユダヤ人も理解不能でした。

 世は主イエスを理解できない。ヨハネも主イエスの一番近くにいたのに理解できていなかった。放蕩息子の兄もそうです。私も教会の中に住んでいるものの神の愛を理解しきれていません。でも、感謝なことに理解しない民の中にこそ光は輝く。理解しない民を救うために、十字架の光が厳然と輝いています。主は裁き主ではなく、私たちの罪を赦し、救って下さる方です。

私たちは本当の意味で主の愛を理解しているでしょうか。理解できない私のために主は十字架にかけられた。そのことを感謝したいと思います。

2025/1/12 週報メッセージ

新しいぶどう酒

川﨑 理子 

 桜ケ丘教会は以前、毎週礼拝後に愛餐会があったと聞いています。昨年のイースター礼拝後(歓送迎会)に、先月のチャペルコンサート後に、またクリスマス祝会、イヴの茶話会と、4回も皆さんと交わりができたことがとても嬉しく、感謝のひと時を過ごすことができました。

 コロナが5類になってからようやく少しずつ各教会で愛餐会が持たれているようです。もちろん、まだまだのところもあるかとは思います。

教会の愛餐会を暫くお休みして分かったことがありました。誰かが「マルタ」になって下さっていたこと。そして、その業は喜んでなされていたこと。恵みが沢山であったこと。その業はイエス様の愛無しではあり得ないものだということを私自身が気づかされたのです。

 聖書では、イエス様から「わたしに従いなさい」と声をかけられた徴税人レビ(マタイ)がその御礼にもうけた宴会の場面が記されています。集まっていたのは徴税人の仲間と共に律法学者たちもいました。徴税人はローマ帝国に高額な税を納めるためにユダヤ人からお金を徴収する仕事をしていて、ユダヤ人からは罪人と呼ばれ、嫌われていました。主はその罪人と一緒に食事をしたのです。

「わたしたちとファリサイ派の人々は断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」とヨハネの弟子達が問いました。「花婿=イエス様」が一緒にいる間は「喜びの時」だから断食する必要がない。「新しい服=新しい布切れ」を古い服に継ぎ当てても、洗えば新しい布は縮んでしまい古い服が破れてしまう。古い革袋は伸縮性も失われているから、注ぎ込んだ新しいぶどう酒の発酵に耐えきれない。つまり古い考えは新しい生き生きとした命を受けとめきれないのです。主が「罪人を招くために」来られたこと自体が新しいことなのです。すなわち、罪人を審く古い律法と、罪人を救う新しい福音とは相容れないと教えています。神ご自身が救い主としてわたしたちのもとに来られたことは古い約束から全く新しい約束へと転換したことを意味しています。

主は罪人の私を救うために宴を設け、食事を用意しておられます。食事の席にイエス様もおられます。ハレルヤ! (マタイ9;14-17)

2025/1/5 週報メッセージ

主よ、あなたこそぶどうの木です

(ヨハネによる福音書 第15章 4~5節A)

川﨑 信二 

 主の年2025年を迎えました。年頭に与えられた聖句は「わたしはぶどうの木,あなたがたはその枝である」⑸です。

主イエスがぶどうの木です。私たちは主に繋がる小枝です。太い幹である主から栄養をいっぱい受けて歩む民がわたしたちであり、教会の本来の姿です。

週報の表紙にある教会の標語に「実を結ぶ生活」とあり、聖句が記載されています。今年の聖句と同じ節の後半。

「もし私に繋がっており、また私がその人と繋がっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。」(口語訳)

これは私たちの信仰生活を表しています。けれど、ぶどうの木である主イエスがおられなければ、信仰すらあり得ないことです。「実を結ぶ」という結果だけを意識し過ぎて肝心な「主を求める心」を見失っては栄養が末端まで届かず痩せた信仰(喜びのない生活)になってしまいます。

「私たち」の歩みが先にあるではなく「主」が先です。「主よ、あなたこそぶどうの木。私たちは繋がる枝に過ぎません」との告白をもって歩み出したいものです。

 ぶどうは赤色のワインとなります。つまり、ぶどうの木は十字架です。十字架で流された主イエスの血潮を意味します。私たちの罪の身代わりに犠牲となられた主の愛がドクドクと枝に向って注がれている。この愛を素直に受けることが先決です。その実は喜び(ガラテヤ5:22)であり、心の満たしです。

 イスラエルは乾燥地帯。水が少ないので地下深くまで、下へ下へと根を下ろします。少ない水分・養分を吸い上げる力が必要です。地下の見えない所でチュウチュウと吸引していて、それゆえに美味しい葡萄が成るのです。

 赤ちゃんがおっぱいを吸うように、私たちが生きるのには信仰が必要です。

しかし私たちは自力で吸う力がありません。代りに幹である主が全部やってくれる。上から注いで下さる。私たちは祈り求めるだけでよいのです。

今年も、主を求め、主に繋がってゆく私たちとさせて頂きたいものです。

2024/12/29 週報メッセージ

神の創造のみわざ

川﨑信二 

 今日は光がつくられた日よ、やみの中にも「光かがやけ」(こどもさんびか2番)

 

年末にあたり、「光あれ!」と万物を造られ、「わたしは始めであり終わりである」と言われた主が今年も守ってくださったことを感謝すると共に、世界の紛争や飢餓、祈りの課題を覚えて主の聖名をあがめ、祈るものです。

 以前「福島被災地ツアー」に行った際、福島第一聖書バプテスト教会で行われた創造論セミナーを受講したことを思い出します。創造論による地質学者イ・ジェマン教授が全地球規模の大激変であった「ノアの洪水」を地質学的に確かな証拠をグランドキャニオンの地層を通して示してくださり、単に大自然の奇跡ではなく、神が「地」に関わり続けておられることを学んだことです。

また、日本を代表する創造論メッセンジャーの宇佐神実先生が言われました。

 「妻が腕によりをかけて作った手料理を、夫が子どもに“この料理は偶然できたものだ!さあ、偶然の力に感謝しよう”と言ったなら、妻は激怒するでしょう…」と。

 この世界は偶然の産物ではなく、造り主がおられ、その方に先ず感謝することが大切であると改めて教えられました。

 

今年のクリスマスチャペルコンサートにてボーマン宣教師から、5000ⅿ級の山の上で貝の化石を発見したご友人の話を聴きました。ノアの時代に高い山を覆うほどの洪水があった根拠、山が海の中に沈んだ事実を示され、改めて聖書の天地創造の業は本当の事だと知らされたことです。

万物を造り、私たちをも造ってくださった主が「これで良し!」(創世記1章)と言われています。「甚だ良い」、「極めて良い」と断言されています。この年を顧みると、新しく教会に受け入れて頂いた感謝と共に、「ああすればよかったかな」と心残りの多い年でもありました。

しかし「これで良し」と言われる主の御手にこの年をゆだね、新しいことを成してくださる主に期待して、歩みゆきたいと思います。

2024/12/22 週報メッセージ

クリスマスあれこれ

☆クリスマスプレゼント

よくよく考えてみると、他人の誕生日にプレゼントをもらうというのも変な話で。なぜクリスマスになると人々はプレゼントを贈り合うことになっているのでしょうか。

バレンタインチョコ同様「商業主義が生んだ在庫一掃キャンペーン」と思っている方が多いですが、実はわりと歴史のある風習で、古代ローマのサトゥルナリア祭の期間、親しい人同士でプレゼントを交換した、また、長い冬が折り返し地点を回る冬至のお祝いに、今までチビチビ食べつないでいた食糧をパーッと使って、各家庭の自慢料理を隣近所でごちそうし合ったのが発祥とも言われています。

子どもにプレゼントを贈る習慣はもう少し時代が下って、子どもの守護聖人・聖ニコラウスへの崇敬が広まった頃に生まれたものです。この風習はヨーロッパの親たちのしつけの一環として利用されており、お菓子などまともな贈り物をもらえるのは良い子だけで、逆に悪い子にはタマネギや消し炭や木の枝を束ねたムチなど、もらっても全然嬉しくない物品が用意されました。普段の行いにもかかわらず、良い子も悪い子も平等にプレゼントをもらえるようになったのは、アメリカで近代的なサンタクロースが生まれた19世紀以降のことです。

子どもへのプレゼントは、暖炉かベッドにぶら下げた靴下に入れるのがならわし。そのため中身は靴下に入る小さなものと相場が決まっていました。一方、クリスマスツリーのわきにプレゼントを置くという習慣も、宗教改革期のドイツから徐々に広まり、おかげで大型のオモチャもプレゼントできるようになりました。

☆クランツ(アドヴェントクランツ)

19、20世紀ごろドイツで始まったと言われる、これもわりと新しいクリスマスの習慣です。

リースの一種ですが、輪を机の上に置いて(もしくはリボンで天井から水平に吊るし)ロウソクを4本立てます。ロウソクには待降節第一主日から一本ずつ点灯していきます。第4主日(クリスマス礼拝の日)には丁度4本のロウソクが全部点灯していることになります。吊るす時はロウソクの火がリボンに燃え移らないように注意しましょう。

『クリスマスおもしろ事典』参照 (教団出版局p.74、83)

2024/12/15 週報メッセージ

永遠の安らぎ

川﨑 信二 

この時季、全国にクリスマスソングが響き渡り、幻想的な何とも言えない雰囲気が街中を覆います。中でも賛美歌はクリスマスに流れる曲ではロングヒットで、どこの国でも歌われています。

長いと言えば音楽バンド「THE ALFEE」(ジ・アルフィー)。1973年に結成。翌年のレコードデビューから50周年。メンバーも古希を迎えた。しかし実に若々しい。

フォークなのかロックなのか分からない曲想なのですが長続きをしているバンドです。三人のメンバーはそれぞれ個性的で、三人三様の声質によるパート分けと、それによる重厚なコーラスが特徴です。フォークメロディー、POPS系、ハードロックと、バラバラなのに非常に三人とも仲がいい。ソロでなくバンドで長続き・・・ 秘訣はメンバーが「平和」で居られること。他に「こだわりがない」、「方向性がない」、「しきる人がいない」。だから一緒にやれる。三人とも次男で、前に出る人がいないため、ヴォーカルを誰がするか話し合っても誰も手を挙げない。「お前やれよ」と互いに譲り合う。結局、三人が均等にリードヴォーカルをとり、曲毎にスイッチしているのです。

楽曲の方向性の違いが原因で直ぐに解散するグループサウンズが多い中で、目標も方向性もないからこそ上手く続けられる。彼らは結成当時から熱くもなく冷たくもない、「ぬるま湯」だと話しています。「ぜったいヤルゾ!」という熱がない。熱いと冷める不安と戦うし、冷めると焦りから無理して熱くなろうと力んで、疲れてしまう。

しいて言えば曲想はファンが決める。ニーズに合わせて臨機応変に変えてゆく柔軟さがある。私達も「信仰」という拘りは大切ですが、不自然になっていませんか。

賛美歌「きよしこの夜」。1818年のオーストリアの聖ニコラウス教会で初演された曲です。イヴの前日、オルガンが壊れたためヨゼフが書いた詞にギターで伴奏できる曲に変更し、この曲が出来ました。「教会でギターを?」という時代に作られた曲がロングヒットに!! 

ともすると、こだわりが、教会から若者を遠ざけているのかもしれません。こだわるとすれば、神からの「救い」の出来事、これだけです。

♪ 救いのみ子は 馬ぶねの中に 眠りたもう いと安く ♪

このこだわりにこそ、永遠の安らぎが秘められています。

2024/12/8 週報メッセージ

チャペルコンサート

川﨑 信二 

角笛を吹いて神を賛美せよ。琴と竪琴を奏でて神を賛美せよ。

太鼓に合わせて踊りながら神を賛美せよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて神を賛美せよ。(詩編150;3、4)

今年もベアンテ・ボーマン先生、ルリ子先生をお迎えできまして、心より感謝申し上げます。先生方は、1999年12月よりクリスマス・チャベルコンサートを続けてくださり、今年で26回目になります。桜ケ丘教会前牧師の時代から毎年途切れることなく開催されています。

先生方の紹介を朝位牧師が次のように記しています。

ベアンテ先生は1951年スウェーデンのファルン市で誕生。12歳からチェロを始められ、1971年ストックホルム王立音楽大学で最優秀賞を受賞して卒業。1971年から72年、ゴテンブルグ市の国立歌劇場の首席チェロ奏者を務められ、最終的にはフィンランド政府給費留学生として1979年シベリウス・アカデミー大学院を首席で修了。

1980年から2011年までの31年間、東京交響発団の首席チェロ奏者を務め、現在チェロ奏者として室内楽等の演奏活動の他にチャペルコンサートをはじめとする宣教の働きに携わっておられます。また、インターアクトの協力宣教師でもあられます。

ルリ子先生は武蔵野音楽大学ピアノ科卒業後、西ドイツ国立フォルンバンク大学、シベリウス・アカデミーの各マスタークラスで学ばれ、ベアンテ先生と共に各地で良い奉仕を続けておられます。(2021年クリスマス掲載)

 私は先生方の演奏を初めて聴きます。楽しんで聴き入りたいと思いますし、先生方がチェロとピアノを通して主に賛美をささげるお姿に心を合わせ、私自身も主を仰ぎたいと願っています。主に賛美を捧げることは、讃美歌を歌う、つまり言葉で賛美するだけでなく、楽器を用いて主をほめたたえることも主への賛美なのです。

馬小屋の出来事を見た羊飼が喜び歌い、賛美しながら帰って行ったように、私たちも礼拝堂だけでなく、野原でも、歩きながらでも、いつでもどこでも、どんな物を用いてでも、救い主イエス様を心から喜ぶ私たちとさせて頂きたいものです。(ルカ2;20)

2024/12/1 週報メッセージ

救い主を待ち望む

川﨑 理子 

「アドヴェント」とはラテン語で「来臨」、「来る」という意味です。「救い主の到来」、「神が人となられた」という神の出来事です。

日本語では「待降節」と訳され、日本キリスト教団の教会暦となっていて、降誕日の前の4週間に当たります。この期間は救い主イエスを心に迎える準備と悔い改め、そして主が再び来てくださること(再臨)を待ち望む時として備えられています。

つまり「待降節」は信仰の用語です。私達がこの時期をいかに歩むのか。信じて待ちつつ(待降節)過ごすのです。喜びの前に緊張感があります。神の出来事を信仰によって心から待つという緊張感です。

一般化した今は「クリスマス」を知らない人達はいないでしょう。しかし、本当には何の日か分からず、教会でお祝いをするのはなぜかと思っている方も多いでしょう。

救い主を切に祈り求めるからこそ得られる喜びは大きいのです。主イエスのお誕生がどのようなものであったかを、まずこの「私」が体感できるように、心を砕きながら、救い主を喜び、楽しく過ごせたらとねがいます。

先週礼拝堂、ホール、外とクリスマスの飾り付けをしました。若い姉妹がリードしてくださいました。お喋りしながら、2つの言葉を思い浮かべておりました。

天使が語った神の言葉。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

その言葉を受け入れたマリアの信仰の言葉。「お言葉どおり、この身に成りますように」。

今年もわくわくドキドキのアドヴェントになりますように!

2024/11/24 週報メッセージ

収穫を神に感謝すること

川﨑 信二 

収穫感謝の日は勤労感謝の日に近い聖日に行われている教会があります(日本キリスト教団)。

米国とカナダでは感謝祭(サンクスギヴィングデイThanks giving Day)として、米国では11月の第4木曜日、カナダでは10月の第2月曜日に行われます。ドイツも10月です。

米国での感謝祭の始まりには諸説ありますが、そのひとつとして開拓期の出来事があげられます。1620年9月6日、メイフラワー号に乗った清教徒たちがマサチューセッツの海岸にたどり着きました。しかし厳しい冬に直面し、生活に困難を極めましたが先住民に助けられ、半数が生き延びることができました。逆に言えば半数が命を落としたわけです。

翌年には無事収穫を上げることができ、先住民を招待し、神の守りに心よりの感謝を捧げたのが始まりとも言われています。苛酷な開拓で、餓死や病で亡くなられた方々を忘れずに偲びつつ、主の御名をたたえたことを、現代の私たちも心に留めましょう。

教会によっては野菜やくだものを持ち寄り、主を賛美しています。礼拝後に愛餐会を行って神に感謝し、また農家の方々や働く方々にも感謝し、作ってくださる方の健康が守られるよう、神に祈ります。食事を共にして恵みを分かち合うひとときを持つことが愛餐会の主旨です。

なお、日本キリスト教団では謝恩日として隠退教職者に感謝するため、献金をささげる日ともなっております。先輩たちが困難な時代に、食べることを後回しにして、霊の食べ物を配ってくださり、走り尽くしてくださったことを覚えたいものです。