「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

主を信じる者」2020・8・9説教要旨

朝位真士

 今日はローマ10・1~13節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をイスラエルの失敗と、信仰による救いとして、1は同胞のためのパウロの願いと祈り2~3イスラエルの誤り4~8律法による義と、信仰による義9~11救いを受ける道12~13主の名を呼び求めるすべての人を救う福音とあります。

ローマ10・1~13節を見て下さい。この箇所では、信仰による救いを拒絶したことが、ユダヤ人が捨てられた原因であること、(3~4)、信仰による救いは神の企画と自由の賜物であって、旧約に預言されていること(5~11)、信仰による救いの範囲は限られておらず、一般的であること(12~21)。をしるすユダヤ人は神のために熱心であったが、それは知識による熱心ではなかった。(2)。すなわち神の御旨をわきまえての熱心ではなかった。ユダヤ人が神の義を知らなかったのは(3)、神がお知らせにならなかったからではない。神の義は律法と預言者(すなわち旧約)のあかしするところで(3・21)、神はこれをあまねく示しておられるのに(18-21)、彼らは心をかたくなにし、神の義を無視したので、知る事が出来なかったのであります。

5~13節は、律法による義に対して、信仰による義をあかしする為に、旧約から申命記(6-8、申命記30・12~14)、イザヤ書(11,イザヤ28・16)、ヨエル書(13,ヨエル2・32)など律法と預言者から適当に引用して、信じる者は(すべて)救われ(11,12)神に祈る(全ての人)は豊かに恵まれる(12)事を述べ、信仰とはただ心と口を働かせてする単純な事であると説く(8-10)救いのみ業はキリストにおいて成就しており、人の助けを必要としない。救いを得る道はただ信じるだけで、信仰による救いを得るのは実に容易で、ただ信じ、心でそれを口で告白して祈りの求め、またあかしすればよい(8~10)。ただしその救われるための信仰とは、キリストの復活を信じるのであります。(9)(口で、イエスは主であると告白)するとは、イエスを救い主として承認するだけでなく、口に言い表し、主の名を呼んで祈ることであり、叉イエスを救い主として信じることを証し、あかしすることは救いの完成に関係があります。信仰を告白し、受けて恵みを証することは、信仰生活において最も大切な事であります。(マタイ10・32~33)。p18引用しています。岸千年先生は10・1~4的をはずれた熱心(1~4)としてユダヤ人は、ユダヤ人は、確かに神に対して熱心であろうとしました。しかし、その熱心は、ゆがめられた熱心でありました。深い知識によらない熱心でありました。神の視野にたたない熱心は、馬車馬的な狭い熱狂を産み出す。神との交わりの内に、神によって導かれ。教えを受けることによって、生じる神の視野に立つ知識を、ユダヤ人たちは持ち合わせていませんでした。だから、神が預言者を通して、与えたうた、神のみまえに立つ道を見ることが出来なかった。しかし信仰によって、神の備えたもうものを心からよろこんで、受ける態度は、律法の与えられる前から、神が求めておられることであります。それを実証したものはアブラハムであった。律法には行為つきまとい、キリストには信仰がつきます。ユダヤ人の過失は、信仰によって神の御前に立つ道に、入らなかったことであります。10・5~13節では書かれた言葉と語られる言葉が記されています。

律法は書かれた言葉であります。モーセは、石の板に書き付けられた律法を神から受けた。しかし信仰による義という表現は、信仰のよって与えられる、神のみまえにたちうる資格であいます。さらにパウロは、話の筋を1歩勧めて、この信仰による義が、言葉に関係していることを告げています。主を呼び求める者には、例外なく救いが与えられるというパウロの言葉の中に神における徹底した一貫性をみるのであります。

結び

もう1度10・1~13節を見て下さい。カールバルトは、「神の言葉に」ついて、三つの形があると説明しています。第1は受肉の言葉としてのイエス・キリストであり、第2は書かれた神の言葉としての聖書。第3は語られた神の言葉としての説教だと語っています。第1のことは神御自身が人間の世界に入って来られ、神が人間になるという、イエス・キリストの「受肉」の出来事であります。第2は神の言葉である聖書は、このイエス・キリストを頂点とする「神の救いの歴史」を書き記したものであり、イエス・キリストひいては神へと人間を導くものであり、第2の神の言葉であります。そして第3に説教は、聖書を今ここで神がわたしたちに語るものとしての第3の神の言葉であります。信仰の言葉は、イエスを主と告白し、死者の中からいイエスの復活を信じるように導くものでありますから、人を救う力を持っています。「イエスは主です」との告白は、キリスト信仰の核心であり、聖霊の力のみが、この告白を可能にします(1コリ12・3)。

「神の恵みに感謝」2020・8・2説教要旨

朝位真士

 

私たちキリスト者は神のあわれみや恵みを盛られる器で、それによって神の「栄光の富」また「神の恵みの絶大な富が示されるのであります。(エフェソ2・7)怒りの器は神の裁きのため、あわれみの器は神の恵みのための器で、1つは神の義を表すもん、1つは神の愛を表すものとして用いられる。私たち異邦人信者は、なんの功績もなく、またなんの価値もなく、(義を追い求めなかった)ばかりか、かえってただ罪を追い求め、神に背を向けてわがまま勝手な生活を送っていたものであるが、救われた今は(義、すなわち信仰による義を得た)のである。(30,3・22―24)。けれども選民たるイスラエル人は、正しい律法を熱心に守っていたが、その目的の義を得ることが出来なかった。それは、行いによって得ようと努力したからである。彼らは自分の力に頼ったため、せつかくの救い主につまづいていたのである。(31,32)。彼らが力を尽くして追い求めてもなお得られなかった義を、神は価なしに私たちに与えて下さった。このお恵みを深く感謝し、「あわれみの器」としての本文を全うしたいものでる。

 ローマ9・30~33節を見てください。ここでは信仰か行為かということが記されています。パウロは、いわゆる救いにおける神の知恵の輪に直面して、その輪の跡切れを解決するものは何かという問いを出しているのであります。信仰か行為か。どちらに軍配があげられるのでしょう。この問いに対してパウロは、自分の体験から解答を出しています。「つまづきの石、さまたげの岩」こそ、救いの知恵の輪の「かなめ」である。しかも、その「かなめ」が、隠されています。それを見つけるのは、信仰か、行為か、パウロはもちろん、「信仰のみ」というのであります。神のみ前に立つ資格を得ることこそ、人類の最大の目標であります。イスラエルも、その他の民族を、それを望んでいました。ちようど、ウサギと亀とのかけくらべのように、イスラエルに伍して、他民族も走った。しかし、イスラエルの方が優位であつた。イスラエルには他民族のもたない乗り物があったからであります。それが律法であります。イスラエルは、神のみ前に出るための乗り物を持ちながら、運転を誤ったのであります。神の方向に進路をむけないで、自分の方向に向けてしまった。神に逆行したのであります。ウサギの油断に等しい決課になりました。それは、自分の行為によって神への道をうち開く行為でありました。他の民族は,律法を持たなかったので、律法を彼らのために代わって完全に履行してくださった神の子を乗り物としました。それが信仰であります。

神の子イエス・キリストは、取るに足りないように見えながら、実は、かけがえのない神の知恵であり、無力に見えながら、無限の力をお持ちでありました。これが躓きの石といわれる理由であります。詩編118編のこの言葉はキリストを象徴しています。したがってキリストは愛の人であり、また憐れみに富んだお方であります。ですから「石」は、愛またあわれみをあらわしています。このローマ9章の内容から推察して、パウロは、神の真意こそ、愛しようとし、あわれみもうとする意志であることを告げています。しかも人間の罪のゆえに、其の憐れみが、「つまづく石」として与えられていますのであります。信仰によって、それが得られるためであります。わたしたちには不可解であります。しかし、神様の側には不正はありません。不徹底はありません。あまりにも徹底されていますので、私たちは理解できません。だから信仰がひつようなのであります。へブル11・1~3p414「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人達は、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって、創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあります。ここに、信仰によって生きた人々のことが証されています。特徴的な言葉は「信仰」ということばです。これはピステスというギリシャ語ですがこれは信頼。誠実、真実という意味があります。私たちは神様に対してピステスをしていますでしょうか。これは私自身に神様が問われている質問です。皆様は如何でしょうか。

結び

もう1度ローマ9・30~33節を見てください。ここでは異邦人の救いと、ユダヤ人が見捨てられたことと、この2つの立場が生じた理由を述べています。

33節はイザヤ8・14,28・16p1073、とp1103の引用です。(1ペテロ2・6,8)p430を見てください。人が信仰による義の道を追い求める事をためらうのは、そこに十字架というつまづきが置かれているからである。しかし私たちは「失望させられることがない」。この約束は、終わりの日に罪に定められることはないということであります。

来るべき終末の審判に耐え得るためには、キリスト信じる信仰によって神の義をいただく以外に道はありません。その救いの道にそびえるキリストの十字架につまづかない人は幸いであります。

「憐れみの器」2020・7・26説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・19~29節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの箇所を9・19~23信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。24~29このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語りつています。ローマ9章においてパウロは、神の選民であるユダヤ人が、なぜ神の子キリストの福音を受け入れず、選民の資格を失ったように見えるのかという問題を取り上げてきました。これに対するパウロの第一の答えは、ユダヤ人を選民したのは、彼らの能力や素質ではなく、ただ神の憐れみであったという事でした。ですから、人間を神の民とするのもしないのも、神の自由であり、「9・18」。このように、神の恵みが自由な恵みであることを強調したのであります。これに対して人々が強く反論するであろうと予想して、その反論に対する答えを書きしるしたのが、今日の箇所であります。

本 ローマ9・19~29節を見て下さい。ここに神の真意が語れています。神は、人間を悪魔の手から解放するために、悪魔的力に御子をゆだね、そのことによって、悪魔を克服したもう。神の御計画には、一種の循環運動のようなものがある。しかし、知恵輪のように、この循環運動の中には、私達にわからない部分が含まれています。神が悪の力にふりまわされているのである。その「分からない部分」だけを見ていると、それが神に対する疑問となってくるのである。19節を見て下さい。愛と憐れみの神の手になるものが、神から不正な扱いを受けるはずがない。造られた者は、神に反逆しているのだから、当然、全被造物は、神の怒りに値するものである。それにもかかわらず、20~23節を見て下さい。そのことは神の憐れみの証拠ではないでしょうか。そのうえ、それらの「あわれみの器」のみならず、他の、怒りの器さえ、救いの恩恵を被る事が出来れば、神の憐れみは、一層あきらかになるでしょう。怒りの器に対し、「憐れみの器」が神によって前もつて用意されているという、御計画に従って、選びによる召しが、「ユダヤ人」の中だけでなく、他民族の中でも、着々と実行されたのである。パウロは、神のなされる悪の力克服の事実を聖書によって、裏づけた。ホセヤとイザヤからの引用句が、肩をならべるのである。ホセア2・25,2・1、イザヤ10・22―23、1・9の70人訳からの引用(ローマ9・25―29)。異邦人が神の民にくわえられることは、旧約の時代からすでに神の救いの計画と展望の中にあったとパウロは語っています。」ホセアの言葉とイザヤの言葉とだけでも、神は、どれほど、手際よく、悪のちからを克服し、悪の力の奴隷であった人間の身分を変えて、神の子とされるかということを的確に表現したホセアの言葉に注意することを忘れないようにしたい者です。キリストの救いのよきおとずれが、ここにきかれる。救いとは、神のみまえにおける身分の変化である。神への反逆者が、神の子となることである。奴隷と神の子とでは、身分の上に天と地との相違がある。神は、人類を滅亡にみちびくことを考えておいでにならないことをハッキリ知ることが出来る。

結び

イスラエルの歴史は、神の選びが実現されていく歴史である。また、それは滅びに定められた者の実現の歴史である。しかしそれ以上に、滅びに定められた者に対する神の深く大きな忍耐と寛容の歴史でもあり、やがて異邦人が憐れみの器として登場することを促す歴史でもあった。そして神が憐れみの器として「私達」、すなわち教会をユダヤ人と異邦人が混じり合ったものとしてお召しになるとき、神は約束を実現する。神は、ユダヤ民族だけでなく、広く世界の民の中から御自身の民を集めてくださる。教会は、新しいイスラエルであり、真のイスラエルとなるのである。人間おかれている条件の根本が、神に造られた存在ということであります。この点では人間も陶器も変わらないのであります。創世記2章には神が土で人間を造り、それに命の息を吹き入れられると生きた人間になったと言われています。人間あり陶器と同じように土のもろさをもっており、土より出でて土に帰ります。ただその土の器に神が命と恵みを注いでくださるゆえに、万物の霊長として立っているのであります。従って我々は、被造物としての謙虚さを持って、神によって造られ、置かれている条件を受け入れて、神に仕え、神に応えて生きる事が大事であります。

「神の憐れみ(あわれみ)」2020・7・19説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・1~18節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をローマ人への手紙は8章までで一段落を告げ、8章の高い経験からすぐ12章の実行の部分に続くべきであるが、教理の終わりの部分に9、10,11章の3章を挿入して、ユダヤ人の選びと福音の関係についてしるしています。信仰による救いとユダヤ人の選びとの調和は、かなり大問題であるが、パウロは「この3章において、信仰による救の道を信じない選民が捨てられたことについて、神のために弁明している。9章では神の絶対主権からこれを弁明し、10章では彼らの捨てられたのは彼ら自身の不信仰のためであることを述べて弁明し、11章では神の知恵ある計画から弁明している。パウロはまず同胞に対する大きな愛を言い表してから(1-3)、彼らの特権を数えあげ(4―5)、神の彼らに対する約束が無効になったのではないことを述べる。信仰による救いと彼らが捨てられた事の関係は、約束に矛盾しない(6-13)。選びは神の大権によることで、信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。(14-18)。信仰による救い神の選びの秘密は聖書にかなっている(19-23)。このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語り(24-29)。かえって、異邦人が救われるのは信仰により、選民が救われないのは不信仰に為であることを説く(30-33)。

 ローマ9・1~18節を見て下さい。ここではイスラエル人に対する神の目的が全体で語られています。1-3パウロの同胞民族に対する切なる感情、4-5ユダヤ民族の7種の特権、6-13彼らに対する約束が無効になったのではないこと、14-18選びに関する神の大能と分解することが出来ます。岸千年先生はこの9章全体をイスラエルの救いを9章全体で語っています。1-5パウロの悩みパウロが、一瞬も忘れなかつた事は、同胞ユダヤ人の救いについてであった。

パウロ自身ユダヤ人であり、キリスト者を迫害した経験の持ち主でありながら、今は、キリストの証人である。彼はキリストの教えの宣教されるたびに、妨害し、時には宣教者の生命を危うくするような挙動にでたことさえもあった、にもかかわらず、パウロの心は、同胞のために燃えたのである。1-5節にパウロの人間としての暖かさを感じます。同胞が、キリストの救いに預かることと、パウロが、悪魔の手に渡されることが、交換条件になっています。6-13節を見て下さい。ここに神の選びー約束の子ここに、パウロは、神の光にてらされた選民イスラエルの実情をここに具体的例としてあげながら、神の御計画の実行にあたっては、人間にとっては、いつも疑問を含んでいるということをあきらかにしています。まず第1にパウロが問題にしたのは、神の言葉の有効性ということである。

何故なら、神の言葉の有効性が、確認されるなら、その言葉は、いつかは、必ず、成就するということも確認されるからである。次にパウロは、冷静にイスラエルの現実をながめる。その観察の結果は、次のようである。このことを追求すると二つの線が出てくる。

神の選びの計画―召しーアブラハムーイサクーヤコブー約束の子、エサウー肉の子。約束の子こそイスラエルであり、アブラハムの子孫にふさわしい内容を備えた者である。これに反して、同じアブラハムから出た者でも、その名にふさわしい備えない者たちは、肉の子である。9・14~18を見て下さい。神の真意が語られています。神は、御自身が、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を、慈しみたもうのであります。ローマ9・15~16節を見て下さい。神の自由な意志の働きから、憐れみの行為が出てくる。出エジプト7・13、8・15、9・12を見て下さい。この言葉をパウロは引用したのであります。神の愛と憐れみに対し、憎しみと、心をかたくなにすることとは、人間の側の事態に応じ、神の御計画に従ってからみあって、具体化するのである。しかし神は、どこまでも愛であり、憐れみたもうおかたであることに変化をきたすことはない。エジプトの暴君パロに対して神がなさったことでさえ、憐れみの枠からはずれてはいなかった。同時に、神のイスラエル解放の御計画からも逸脱していなかった。この二つの交わる点こそ、エジプトの暴君の立たされた場所であり、その場所で、彼は1つの役割を演じたのである。それは、神の名が全世界に言いひろめられるためであった。

結び

 今日のポイント9・15~16節をもう1度見て下さい。この箇所はわたしが箱根のケジックコンベーションという聖会でスコットランドのジョジ・ダンカン博士のメツセージを聞き献身を決意した箇所でもあります。1970年頃のことであります。そこで決心して1年間祈って毎週土曜日に淀橋教会に行って、日曜日朝5時30分の早天祈祷会に出て、教会学校から礼拝、夕拝に出て千葉の市川の会社の寮に戻り、東京まで出て仕事をして、1年後退社して聖書学校に入学して、1975年に卒業して北九州復興教会、曽根集会所に19年間奉仕して1994年4月桜ヶ丘教会に赴任にて26年目を迎えております。このローマ9・15~16節のみ言葉にお祈りの中で導かれました。先生のメツセージは出3~4章のモーセの召命の記事でしたがその夜徹夜でお祈りして献身の召命が与えられました。出エジプト33・19p150ここで神の絶対主権が確認される。神の憐れみと慈しみは、一方的に神の選びであります。救いも全く神の恵みであり、憐れみであります。前日銀総裁であり、教団阿佐ヶ谷教会の役員でいらした速水優兄弟は人生の目標は神の召しに答えることだと言われました。まさしくその通りダと思います。私達の人生の根底に、我々の誕生の前から我々を知り、神の民とすることを定め、我々を選んで導かれる、神の御手が働いているのであります。このことを心に刻み、この神の召し、招きの御声を新しく聞き、神の民の一員として、神の国の建設のために励んで参りましょう。

「神の愛の勝利」2020・7・12説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・31~39節を通して聖書を見ていきましょう。今日でローマ8章が終わります。米田豊先生はこの全体を通して律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌として、1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉的な人と霊的な人。14~17神の子たる者の特権。18~22今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び31~34神の保護、選び。キリストのとりなし35~39愛、神の愛による勝利。永遠の安全。と分解しています。

本 今日のローマ8・31~39節を見て下さい。ローマ8・31~39節には、主イエス・キリストの溢れる御恵みと、このキリストを信じて生きる者に与えられている勝利の人生が、声高らかに歌い上げています。ここはローマ書のキリスト教信仰の基本の結論であります。「神がわたしたちの味方である」(8・31)は、この結論の要約言ってもよいでしょう。「味方」と訳された言葉(ギリシャ語の(ヒュペル)は、英語ではforであり、「ために」とも「代わって」とも訳されています。神はわれわれのために身代わりになってくださったと言うのであります。32節は「その御子さえ惜しまず」とい言葉は創世記22章12節の言葉そのままであります。族長アブラハムがイサクを献げる場面です。

創世記22章を見て下さいp31です。この時の「自分の独り子を・・・惜しまない」という言葉が、その通りにローマ8・32節に使われています。神御自身は御子イエス・キリストを惜しまないで十字架につけて人間のために犠牲とされたのであります。人間の救いをめぐる神の愛の活動は、それは、現在的であって、過去的ではない。といことである。神によって、御計画のままに行われる救いに実施すなわち、神の救いのみわざは、不思議な面をもっているのである。これによって神の愛の生きた力にふれるのである。愛は理論ではない。悪魔との戦いのなかに、具体的にあらわれるのである。キリストを信じる者は、自分が、その愛の中あることを信仰を持って知らされるのである。

神の愛が、「わたし」に与えられていることを信仰によって知る時、神は「わたし」の味方であるという確信を与えられるのである。神は「わたし」の味方と考えるなら、その線に立って、大別にして2つになる。神の側の事柄と、キリスト者側の事柄とである。神の側の場合は1・神はキリストを死に渡したもう。2・万物をも賜う。3・キリストは、父なる神のみこころに一致して死に、そしてよみがえりたもうた。4・キリストは、神の右に座して、わたしたちのためにとりなしたもう。その支配はおわることがない。キリスト者の側の事柄は、神の側の出来事を原因として、あらわれるのであるが、つぎの3つのことがいえます。1・キリストにある者は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣をうける。2・わたしたちを愛して下さったかたによって、あらゆる苦難に対して勝利をえる。3・勝利を得る毎に、神の愛の強さを知り、この愛からわたしたちを引き離すものは何1つないという確信が与えられる。38節をもう1度見て下さい。キリストのうちにある神の愛と「わたし」とを絶縁させるものは1つもない。これがキリスト者が神の愛に押し出されて、わたしのものとするのであります。キリスト者は、神の良き兵卒であります。兵卒は、将軍に対して忠誠をもつ。最悪の事態が身に降りかかっても、たじろがないのが、勝利をねがう兵卒である。キリスト者の信仰の戦いこそ、これである。テモテヘの手紙2・2・1~7節p392見て下さい。キリスト・イエスの兵士としてパウロが書いています。キリスト教の歴史は、キリスト者のキリストへの忠誠の歴史といってもよいでありましょう。

結び

もう1度8・31~39節を見て下さい。特に31節にあった問いに対する回答であります。キリストを通して働く神の愛の力から私達を引き離すものは何もないのであります。神との出会いの故に、永遠なる者と向き合った存在として歴史と人生の最後の瞬間にも、8・39のですから、わたしたちは「御国に生きる」者となるのであります。フイリピ3・20~4・1p365を見て下さい。パウロはローマ書の8・38~39節にもこのことを語っています。どんな被造物もキリストにある神の愛から私達を引き離す事は出来ないと言う確信の告白であります。

悪しき霊の働きは、現代においても種種の占いや迷信の虜になっている。キイスと者はその現実をみて、自らを正すと共に、完全に自由と勝利を得ているかどうかを自問して身を引き締めなければならない。最後に8・31節を歌います。

「万事が益となる」2020.7.5説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ8・18~30節を通して聖書を学んで行きましょう。最近地球の温暖化で太平洋上の島国が海面下に沈んで行くという現象も起こっています。人間が自分達だけの快適な生活を求め、また産業を発展させ、環境破壊が地峡の生活を危機に陥れています。生態系の危機であります。これまでの経済を考える人間中心の考え方から、自然環境に関心を広げ、「自然」にやさしい、人間以外の動植物や地球全体と共存する生き方が求められています。パウロはローマ8・19節から22節において、人間と世界が運命共同体として生きており、人間が罪と滅びから解放される日まで、自然や生命もまた、呻きながら、完成の日を待っていると教えています。

 聖書を見て下さい。8・18~25節ここでは栄光の道が語っています。キリストにあって、悪の力に対する苦闘を続ける事は、楽なことではない。しかし、神は、キリスト者が、そのような行き方を続ける事によって、ついには、神との交わりの深さ高さ広さに達することを約束されたのであります。今のこの時に苦しみとやがてわたしたちに現わされようとする栄光との間には、比較にならないほどの大差がある。パウロはここで、被造物全体の秘密をつげるのである。被造物全体は、人間をめぐって、相互に関連している。人間が神との関係の破れの中にいる限り、造られたものはみなその破れの中にいる。

しかし、パウロは、現実から目を離してはいない。被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共にうめき共に産みの苦しみを続けているというのである。神の勝利の歌は、「うめきのシンフォニー」のつづきである。苦難なくして栄冠はない。キリストの中にある呻きこそ、栄光へ通じている。キリストにある呻きは、絶望の呻きではある。確かな根拠にたっている呻きである。その根拠は御霊の最初の実をもっているということである。聖霊の与えられる約束をイエスが与えられたことはヨハネ福音書によって、明らかであるが、パウロにとって聖霊が与えられ、それによって、驚くべきことが、つぎつぎと、あらわれてきたことが重大である。聖霊は、御父と、御子とより出で、御父と御子とともに、創造し、いのちを与えたもうたのである。従って、聖霊の働きのあるところ、そこに、具体的な現象があるのである。全人類、全被造物に、個別的にそれぞれの身分の変化を実現させるおかたこそ聖霊なる神である。このような三一の神のみわざこそ、わたしたちが、忍耐して待望する心のよりどころである。

8・26~27節を見て下さい。ここでは聖霊のとりなしが語られています。キリスト者の弱さは、現実の問題に直面して、正しい方向をとらええないという点である。この弱さを助けてくださるのが、聖霊である。キリストは、聖霊のことを助け手と呼ばれた。それは弁護者という意味である。キリスト者の弱さをしりつくしたうえに適切な支えを与える御方であるというのである。しかも、聖霊は、言葉にあえあわせない切なる呻きをもって、キリスト者に代わって、祈って下さるのである。8・28~30節を見て下さい。ここに選びの奥義が語られています。

結び

ここに神の恵みの選びが語れています。パウロはローマ8・17節において、キリストの救いを与えられたものが、神の子であり、神の国の相続人であることを語りました。そして、18~27節にかけて、最初の人類の堕罪によって、死と滅びの呻きの中にある人間と世界に神が聖霊を送って共に苦しむことによって救いの道が開けたことを教えました。

今日のところは、その結果で、人間を救う為に神恩寵の選びが語られています。8・28をもう1度見て下さい。「神を愛する」のは、神の愛を受けてそれに応える姿であります。パウロは、イエス・キリストの十字架と復活によって、人間を救う神の愛が溢れるばかり注がれたとき、人間はその愛を神に返し、「神を愛する者たち」とされたのであります。パウロはこれを「ご計画に従って召された者たち」と言い換えています。ここに「神の予定」という考えが表されています。神が以前から「ご計画」なさり、その救いを人間一人一人の人生において、実現してくださるのであります。「召される」というのは、神が予定された救いを与える為に、歴史的な働きかけ、呼びかけをされることであります。「万事が益となるように共に働く」という場合の「万事」は、18節に出てくる「現在の苦しみ」のすべてのことだと思われます。それは、具体的には後の35節から39節に列挙されているような苦難や滅びであります。被造物と人間はそれによってうめきくるしんでいうのですが、神はそれら全てを摂理の御手を動かして、究極の救いと光栄へと導かれてゆかれるのであります。8・29~30ここに神の救いのご計画が「救いの秩序」として示されています。

人間の救いは、「予知」、「予定」「召し出し」「義認」「栄光」という順序を踏んで実現するのであります。私達は「現在の苦しみ」の歴史の中で、神の救いのご計画を読み取り、希望が与えられ、それゆえ忍耐をもって前進するものであります。最後に私の証をさせて下さい。5~10分以内です。時間がなければ割愛します。お祈りします。

「神の相続人」2020.6.28説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・12~17節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの8章を律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉に従わず霊のよって起きる生活。14~17神の子たる者の特権。と分解しています。そして8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみに関する望みと慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26、27)。私達の境遇に関する勝利の霊(28、29)となる。31節以下は8章の結論である。そして8章は勝利の凱歌をもって終わる。この大変化は、きよめられて聖霊に満たされた結果である。

今日の8・12~17節を見て下さい。ここでは1口で表現するならば神の子たちといえます。神によって創造された最初の人、アダム、とエバ最初の父また母は、創造主である神によってゆるされた範囲の自由をもっていたにちがいない。しかし、悪の力の誘いによる正常な神関係の喪失によって、神によって許された自由をも失ったのである。その代わりに、人間は、悪の力との関係において、悪に走る自由をえた。

つまり、罪に落ちた人間は、ただ1つの自由だけを持っている。それは悪ヘの自由である。これは奴隷的意志に結び付くものである。もし、人間が、悪の力の奴隷状態から脱出することが出来れば、そのとき、神との正常な関係が回復されるのである。パウロは、「肉」と「霊」という2つの言葉によって悪の力の下の状態と神の力の下の状態とを描き出すのである。

 肉に従っていきるとは、反神的な力の奴隷となっていたことに義理を感じて、「反神的な力に調子を合わせて生涯をささげつづけるなら」ということで、「生きる」は、「歩む」よりも強い調子を出しているのである。このような生き方の結果は自動的に「死」より外はないということになる。いま1つは、霊によってからだの働きを殺すという生き方である。「霊によって」とは、「肉」によっての」正反対である。聖霊の働きのもとにあって、これに調子を合わせるように導かれる事によって、反神的な肉の同盟者であるからだの働きを積極的に窒息させていくのである。

「からだのはたらきを殺すこと」は、人間のもっている自然の力の努力ではなくて、むしろ、神によってさずけられた働きだからである。聖霊が、キリストの死とよみがえりとを証するところ、そこに積極的に、悪の力に抵抗する力が与えられるのである。聖霊のみ業が活動最中に起こる出来事こそ、「わたし」にとっての奇跡的現実なのである。

合理的に筋を立てて述べられない領分がある。しかも、「わたし」は現実に、「からだの働きを殺す」というはなばなしいことをやってのけているのである。これをキリストにおける実存とか終末的出来事とかいってもよいでしょう。このような生き方が、身についてくれば、神の御霊に導かれている者という光栄ある名が与えられるのである。このような者は、また、神の子であるともいわれる。神の子は神を父と呼ぶことを許されています。神の子は、キリストと有機的に、また生命的につながりを持っているからである。そのキリストは「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで従順であられた」。神関係において、これほど典型的な態度はないのである。

神の子のあり方はここに、その全貌が示されているのである。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」とイエスはいわれた。神の子は、神の相続人、キリストと共同の相続人としての資格は、キリストのなかで与えられる。その資格の第一は、キリストと共に死ぬことにほかならない。死ぬには、従順を必要とする。死ぬことは、反神的不従順と絶縁することであるからである。悪魔との絶縁は、神との結縁を意味し、死から脱出して、永遠のいのちの相続人とされることである。

結び

もう1度ローマ8・12~17節を見て下さい。ここに神の子供とされるキリスト者が描かれています。特に8・16節に注意してください。神の子供としての身分を与えられることは、当然法的な権利が伴う。それは「相続人」(8・17)ということばで表される。相続するものは神の国で、相続人とは神の支配にあずかる者のことである。キリストは現在すでに神の国の支配者として御父の右にあって支配しておられる。

しかがって私達は、キリストの統治に共にあずかる者となるのである。「キリストとの共同相続人」とはこのことであります。ただしその際に、キリストが相続人として栄光の座に着座するために、まず十字架の苦難を通られたことを思い起こさなければならない。「私達がキリストと、栄光をともに受ける」ためには、キリストと苦難を共にしなければならない。キリストの御霊を受け、御霊の導きをうけることは決して熱狂的な事柄ではない。私達はキリストによって神の子として導かれ、霊の賜物を注がれて、神の国の相続人として立てられていることを思い、「神の国と神の義を求め」(マタイ6・33)のために「キリストと共に苦しんで」(8・17)愛の業に励み、キリストと共にその栄光をも受ける希望をもって歩みたいものであります。

「聖霊による命」2020.6.21 説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・1~11節を学んで行きましょう。この8章は律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。米田豊先生は

1~2キリストにある自由。1罪に定められることのない生涯。2いのちの御霊の法則による罪と死の法則からの解放。3~4律法の要求を満たすキリストの贖い。5~13肉的な人と霊的な人。5~7肉の思いと霊の思い、8~9肉におる者と霊におる者。10~11

聖霊の内住と、その霊魂と肉体に及ぼす影響。12~13肉に従わず霊によって生きる生活。14~17神の子たる者の特権。18~22

今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30

摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び。31~34神の保護、選び。キリストのとりなし。

35~39愛、神の愛による勝利、永遠の完全。8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると、私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみ関する望みト慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26^27)、28節は、神はどのような苦痛や患難も、摂理の内に(万事を益となるようにして下さり)(28)、かえってそれによって(御子のかたちに似たものとしようとして)(29)いる。31節以下は8章の結論である。

8・1~11節を見て下さい。この8章は別の注解者によると、全体を貫いているのはキリスト者の自由の宣言であり、それはさらに4つの部分に分かれている。1~11節は聖霊にあるキリスト者の生、12~17子たる身分、18~30終末的自由への希望、31~39勝利の喜びの歌、と区分することができる。

今日の1~11節は聖霊にあるキリスト者の命である。この箇所は「キリストによる新生」について語っています。ローマ7章は律法下にある人間の困難な状況が語られていますが、8章は聖霊に生かされる新しい生活が示されています。律法からの解放は、キリストが人間をさまざまな掟に縛られた生活から解き放ち、立ち上がらせ、前進させていく力を伴うものでありました。人間を外側から縛る律法ではなく、内側から導く霊による生活を論じたのがこの8章です。8・1節を見て下さい。2節はその理由です。イエス・キリストに結びつくときに、霊的生命の原理が力強く働いて、人間を、破滅させる罪と死の原理から人間を解放すると言うのであります。この8・1節はパウロが特に愛して使用した信仰用語です。人間がキリストの人格的な力に覆われ、キリストの愛と命に包まれた状態を示しています。

私達がキリストの手の中にある、キリストの中にいる、in Christであります。詩139・7~9にあるように私達がどこへ行こうと、キリストの愛の中、キリストの命の中にあります。これが「キリストにある」ことであり、これを認め、受けることが信仰であります。3節を見て下さい。

 このキリストによって、罪と死の法則(律法)が打ち破られ、神の命の霊が働く過程が語られています。この点を理解するために1つの例を挙げたいと思います。種痘するとき、天然痘の病原菌が直接私達の肉体を侵すと、私達の肉体はそれに抵抗することが出来なくて、顔かたちが崩れたり、死ぬ場合もあります。しかし、人間より体力のある牛に感染させると、病気にはなりますが、やがて体の抵抗力によって、病原体を打ち負かして健康に戻ります。そのときに牛の体内に出来る「抗体」を人間の体内に移す「種痘」によって、人間も天然痘に対する抵抗力を得ることができます。イエス・キリストの人生と十字架の死は、人間の内に宿るあらゆる罪の力をキリストが引き受けられた状態であります。特に、十字架の死は、人間が神を離れ罪に死ぬ、その死の力にキリストも吞み込まれたことを示しています。しかし、我々にとっては絶望である死も、キリストにとってはおわりではありませんでした。主は3日目に甦られました。このキリストを死人の中から甦えらせた力、「神の力」「聖霊の力」であります。罪による死の力に打ち勝ったキリストの霊的抗体である聖霊を受ける時、私達はこの力によって、罪と死の力に勝ち、新しく生きる者であります。このようにパウロは、イエス・キリストによって、罪と死に至る「肉に従って歩む道」から永遠の命に至る「例に従って歩む道」への転換を説いてきましたが、キリストの十字架と復活による救いの完成は、キリスト者の実生活においては、終末の完成に向かって進行中だと考えています。キリスト者は、原理的には霊的人間として生きていますが、現実的には「霊に支配と肉の支配」の葛藤の中で、ルターが言う「義人にして同時に罪人」としてしかし霊的人間としての成長の希望を持って生きています。8・11節を見て下さい。

キリスト者の希望を未来形で書いたのであります。

結び

もう1度ローマ8・1~11節を見て下さい。

この素晴らしい神様の大きな恵みの中にあるということを、わたしたちは確信したいと思います。それが、わたしたちのすべての悔い改めや献身の根拠であります。パウロ今日のところでは、この事実、わたしたちが御霊を確かに宿している。そうであるならば、わたしたちは御霊の世界の中に入れられているのであります。この御霊の法則的な確かさによって死の体から必ず救われるのであります。このことを信じ、また感謝したいのであります。祈ります。

「感謝すべき福音」2020・6・14説教要旨

朝位真士

今日はローマ7・13~25節を通して「感謝すべき福音」と題して聖書を見て参りましょう。この箇所全体を通して聞こえてくるのは、キリストにあって義とされた人間の雄々しい戦いの声ではなく、実に惨めな罪の奴隷のうめき声である。

1・18-3・20において、パウロは神の怒りの下におる人間の罪について述べている。しかしそこに描かれてるのは罪の支配下でうめき嘆く人間ではなく、罪の中にありながらなお自ら高ぶる人間の姿であり、更にその状態をよしとする倒錯した心であった。

そのような人間の姿は、福音の光に照らされて初めて明らかにされる。7・7―13では、罪は神の律法や戒めを通してそのいとわしい

姿を現わすほど邪悪であることが示されたが、それに続く箇所でパウロは、生きながら地獄を経験した人間のことを語っています。

 今日のローマ7・13~25節を見て下さい。この13~23節まで二律背反を語っています。パウロは、律法は、聖なるもの、正しいもの、また善なるものと言い、さらに、この段では、霊的ものであると言った。このことを記憶しておくことは、ここにあるパウロの自己分析についていくのに役だつのである。次に、ここに見る事柄は、キリストと出会って、罪のゆるしを与えられた後のパウロの自己分析であることである。なぜなら、このような思い切った自己分析は、キリストの光なかである。そのことは、24節と25節からわかるのである。

キリストを信じる者は、その信仰によって罪がゆるされる。しかし、罪がゆるされ、神との関係が、正常にされるのは、あくまでもキリストの中においてである。しかし、キリストを信じる者は、キリストに免じて神との正常な関係に立たされるにしても、キリスト者の中身は、やはら、まだ「古いわたし」なのである。キリスト者は、義とされた者であると同時に罪人であると言うことがキリストの中にある者に対して言いえられるのは、ここに述べた理由である。

キリストの中にある「わたし」は、霊的な律法、すなわち、神をみなもととしている律法をよろこび受けるはずなのだが、現実のわたしは、肉につける者であるからそうはしないとパウロは告白する。キリストを知っても体質の改善は、全面的に完成したわけではない。まだ「肉のもつ特有の傾向をもっている」ので、「罪の下に売られた者」として存在する。

しかし24~25節を見て下さい。勝利は約束されている。人間失格の叫びである。自分で自分を救うことができないのに、自分で救おうとすれば、死ぬよりほかはない、それは、死に勝ちをえさせることである。ところがここで、人間理性では説明のつかない救いがキリストからきたのである。だから、パウロの言葉は、簡単である。

しかし、その言葉は、勝利者の凱歌である。万歳の叫びである。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」といっただけである。ギリシャ語では、「感謝、神に対して、イエス・キリスト、わたしたちの主によって」の順序である。

キリストの御業を証する御方は、聖霊である。感謝は、聖霊の証に対し反射的におしだされる。父なる神が、その感謝をおうけになる。そして、イエス・キリスト、私達の主こそ、救いのみわざの実行者である。だからキリストを通路として、「わたし」の感謝と讃美とは、父なる神の御前にささげられる。ここに三位一体の神のそれぞれの役割をのぞきみると共に、「わたし」は、このような生ける神の御手のうちにあって、この方に応答しているのだという確信をもたらされるのである。

この神にしてはじめて、罪の支配に対する勝利を得ることが出来るのである。罪と死と悪魔と三つが上げられ、人間をほろびに導く恐るべき力として知られているが、父と子と聖霊なる神は、この力の上に立って悪の力を克服したもうのである。「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とイエスは弟子達を勇気づけられた。パウロが彼の問題に悩み抜いて、主から与えられた導きもこれであった。すなわち、この世にある限り、キリスト者は二律背反を体験する。しかし、罪の律法は、キリストによって、骨抜きにされている。牙のない毒蛇である。大胆に自分の罪を認め、これを告白し、また、それ以上に大胆にキリストを信じ、神の御心に従う事こそ、」キリスト者の行くべき道である。これは、ルターが、メランヒトンに宛てた手紙の一節の内容であるが、パウロの線に立っているものであることは、だれにでも、解るところである。

結び

 もう1度ローマ7・24~25節を見て下さい。この14~25節は神の律法と罪の法則が語られています。

パウロのこの議論によって、「律法」がそれ自体「罪ではない」と言うことは確かに明らかにされ、「律法は良いものであること」が明らかにされました。しかし「律法」は、私たちをこの内部の渇藤から「救う」ことについては無力であることも、明らかになりました。律法は罪を目覚めることに有効であります。その罪がひとつの法則性さえ持っていることに目覚めさせることに有効であります。しかし、その手強い、法則性さえ持っている「罪」からわたしたちを解放する「救い」の力は、掟にはありません。

パウロは24節で、「私は何という惨めな人間なのだろう」と叫んだのではありますが、これは決して、自分の中に内部分裂があるから「みじめ」だという叫びではありません。私の中に善い事をしたいと言う思いもあれば、しかし実際には悪い事ばかりすると言うことを、彼は「みじめ」だと言っているのではありません。そんなことであれば、ギリシャの文化人でもローマの文化人でも皆言ってきたのであります。

パウロがここで本当に自分のみじめさを告白しておりますのは、救ってくれるはずの「律法」に「救い」の力がない、と言うことを知ったからです。「いのちに導く律法」が、「罪」を目覚めさせるには力がある、「罪の法則性」を知らせることにも有効なのに、その力からわたしを解き放ってくれない、「律法」だけでは救われないという事実にパウロはぶち当たっているのです。神様が人間に与えて下さった宗教、「これを行え、さらば生くべし」と言って下さったその「律法」が救うことについては無力だとしたならば、人間はどこに希望を託せますか。「私はなんと惨めな人間なのだろう」しかし、「感謝すべき」ことに、「私達の主 イエス・キリストによって、神は」その無力な「律法」とは違う“恵みによって私達を罪の力から救う、救いを与えてくださったのであります。これが「感謝すべき福音」なのであります。もう1度7・24~25節を見て下さい。

「初代教会のキリスト者生活」2020.6.7  説教要旨

朝位真士

 今日は本来であれば、桜ヶ丘教会創立97周年記念チャペルコンサートで、毎年岸義紘先生をおよびして、特別集会を開催するところですが、ご存知のようにコロナウイルス感染症流行のため4月12日イースター礼拝より自主礼拝を勧めている関係上、三密を防ぐ為岸先生には申し訳ありませんでしたが、今回に記念特別礼拝を中止させて頂きました。皆さんも残念だと思いますが、現状は仕方のないことです。そこで、今日は初代教会のキリスト者の生活を聖書使徒2・40~47節を通して、2000年前の信者の生活に思いを馳せてみたいと思います。

 聖書使徒2・40~47節を見て下さい。ペテロは多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲がった時代から救われよ」と言って勧めた。とあります。この世は、神の創造の正しい目的から外れて、罪のために不信仰、不従順となった時代であるとは、パウロ、ヨハネの思想にも見られる(フィリピ2・15)2・41その日1日で、3000人が受洗し、彼等は専心、42節使徒達の教えを守り福音の奥義と信仰の訓練を与えられた。ここに2・41~42節の中で4つのことが語られています。1・使徒たちの教えを守り。2・信徒の交わりをなし(コイノ二ヤ)。3・共のパンをさきユダヤ教の風習によって、家の教会では、食物を持ちよって共同の会食をした。はじめに感謝の祈りをささげて後、パンをさいてわけ、イエスと共にした食事のことを追想した。後、これが記念として行われ、会食と別に聖餐の礼典となった。4・祈りはかれらの共同生活を支配する、大切な要素であった。以上4つは、初代教会の礼拝と、組織の内容を明らかにしている。こうして教会は、新しい共同体として発展した。次に2・43~47節を見て下さい。最初の信徒の教会生活が語られています。43節に恐れが生じたとありますが、これは神に対して畏敬の念を持つことは、信仰を一層強固にする。そして使徒達によって多くの不思議な業としるしが行われていたのであります。特に癒やしの奇跡を行った(5・12~16)ことは、著しい特色のある業であった。そして彼らの所有物はみな、神の恩恵の賜物と考えていたから、44節「すべてのものを共有し特に貧しい信者の窮乏を支えるためには45節「財産や持ち物を売り、そのお金を使徒達を通して、公平に分配した。こうした相互扶助の共産生活は、彼らが愛の精神をもつて自発的に行ったのであり、聖霊の賜物を受けた彼らの信仰の発意であった。使徒達は、かつてガリラヤにおいても、イエスと共に、このような生活を送ったことがある(ルカ8・3)。しかし、この共産生活は、エルサレム教会以外には行われていなかったようであります。このような生活の中に、彼等は、聖霊による「喜び」と真心をもって46節日々心を1つにして信者の家々である教会に分かれ集まって、使徒たちの教えをうけ、共に祈り神を讃美し、パンをさき記念の聖餐と、食事を共にし、共同の愛餐を行った。また、彼らは敬虔なユダヤ人と同じく律法を守り、エルサレムの宮の日々の礼拝に、出席することも忘れなかった。彼らの信仰と、愛の実践生活は、一般に人々からは好意をもたれ、救われる者が、日々彼等の仲間に加えられていった。

結び もう1度2・40~47節を見て下さい。ここでウイリアムバークレーによるとここに初代教会の特徴を見ることが出来ます。

1・学ぶ教会

2・交わる教会

3・祈る教会

4・敬虔な教会

5・何かが起こった教会

6共有の教会(44-45)

7・礼拝する教会(46)

8・喜びの教会(46)

9・好意を持たれる教会

初代の教会では、神の民に魅力が備わっていたのである。

私達は教会成長のためにどうするかあれこれ考えるよりも、まず教会としてどうあるべきかを検討することが大切である。桜ヶ丘教会創立100周年に向かってお互いに神様から知恵を頂くためにお祈りをしていくましょう。