「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「平和な生活を送りなさい」2021・5・2説教要旨

 朝位 真士

今日は1コリント7・1~16節を学んで行きましょう。この7章全体は結婚者と独身者。神の前に生活の必要。分解1~9結婚および夫婦生活に関するパウロの勧め。10~11既婚者に対して、離婚してはならないとの主の御命令。12~17未信者の配偶を持つ者の離婚問題。18~24召された時の身分にとどまること。25~28未婚者の結婚に関するパウロの意見。29~35このような意見の生じるパウロの見解。社会の変換と結婚生活の煩雑さ。36~38処女である娘を持つ父に対する注意。39~40寡婦の再婚について。この7章は結婚問題について聖書の中で最も明白にしるされた聖書の箇所であります。神がエデンの園で制定されたことであり、キリストもカナにおいて結婚の宴に臨席してこれを祝福された。結婚は厳粛な礼典であり、夫婦生活は神聖な関係である。パウロはこれをキリストと教会の関係になぞらえて(エペソ5・21~33)、ヘブル人への手紙の記者も、『すべての人は、結婚を重んずべきである』(へブル13・4)。ところが7章ではむしろ独身を推奨するかのように見えるのは、主の再臨が近づいていることを信ずるゆえに、この世のことにとらわれず(29~31)、結婚生活の煩雑さを避けて(余念なく主に奉仕させたい)からであり、(32~35)、更にまた、更にまた、再臨の前に患難時代のあることを知る故に、そのとき家庭の係累のあるものはさらにその患難が増すことを思って(26~28)、パウロの意見を述べたのであります。パウロ自身は独身生活で主のために精進しており、出来れば彼らも主のためにそのような生涯を送るようにと願い(35)、むしろ独身を推奨したのであります。

1コリント7章1~16節を見て下さい。コリント教会は、形成後の日も浅く、未だ教会の固定した慣習もなかった。それで何かの事件にぶつかると、問題をどう処理したらよいかわからないということがかなりありました。パウロは、そうした具体的な問題に対して、またきわめて具体的な解答を与えています。この7章は結婚問題を語っています。ここでは結婚の原理のことよりも、いろんな事態に直面して、実際にどう対処したらいいか、と言う問題であった。例えば、独身の状態はどうであるか。離婚は絶体にいけないのか。夫婦の片方が未信者の場合はどうすればよいか。処女や寡婦の結婚についてはどうか。そうしたことについて、コリント教会はパウロの意見を求めた。パウロは、これに対して、コリントという特殊の土地を考慮にいれながら、答えています。1~7節をもう1度見て下さい。キリストの再臨は近い。できれば、独身でいたほうが身軽であります。パウロの結婚の意義に関する教えはきわめて厳かであり、コロサイ3・18~25,エペソ5・22~23などに見られます。人にはそれぞれの異なった賜物がある。要はそうした場所で、そうした時代に、どうすることが、主の道を守るのに最もよいかということであり、各人がそれぞれ決定しなければならないことであります。8~16節を見て下さい。15節を見て下さい。やむを得ず、離婚が認められる。その理由として、第1には、神が信者を召されたのは心の平和を得させるためであったからである。離れ去った相手と、無理に結ばれていかねばならないとすれば、平和はいつも失われる。第2の理由は、とうてい相手を信仰に導く可能性がないからであります。未信者と生活している信者は、相手を信仰に導き、救いに入れることが義務とされた。しかし、そうして相手に対して、その確信がもてるか。なかなか困難である。その確信が持てないならば、安価な感傷にふけって、いつまでも自分を苦しめる必要はありませんとパウロは語っています。

結び

この1~7節は男性と女性、夫と妻、独身であれ結婚するのであれ、いずれにしても主に従っていくことを進めています。マタイ19・11~12節見て下さい。p367。8~9未婚者と寡婦、7・10~11節結婚した人々に。7・12~16節を見て下さい。配偶者が未信者の場合の離婚。この論法の問題点は、1・結婚してから導くというが、その相手が救われる保証はない。救いは主のみ業であります。御言葉に従わないでいて、主に期待するのは虫がよすぎる。2・結婚してから信者でない相手が救われたという例は確かにあるし、それは素晴らしいことであるが、保証がありません。バークレーこのコリント教会がパウロに相談してきた問題を整理してみると、1~2クリスチャンは結婚すべきではないと考える人々への勧告。3~7すでに結婚している者もおたがい性関係を一切断つべきだと主張する人々への勧告。8~9未婚者および未亡人への勧告。10~11既婚者は離婚すべきだと考える人々への勧告。12~17夫婦の一方がクリスチャンであり、他方が未信者である場合、その結婚は解消されるべきだと考える人々への勧告。

「神の栄光をあらわしなさい」2021・4・25説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント6章12~20節を学んでいきましょう。この6章12~20節は3つに分類されます。12節肝要な原理。13~18節きよくあるべき勧め。19~20節私達の身分と肉体の神聖。6章の後半および7章は、肉欲について特に警戒しなければならない彼らに、肉体と結婚の神聖さをといたものであります。肉体はきよめられ義とされたものであるからきよく(9~12)、主のものであるからきよく(13~18)、聖霊の宮たるものであるからきよい(19~20)と説く、食欲も性欲も、それ自身は罪ではなく、神がお与えになった本能であるが、それに支配されてはならない(12)。この体は義の器として主に奉仕するため(13)、また聖霊の宮として主を宿し、からだをもって主の栄光を現わすためである(19~20)。

(主はからだのためである)(13)。キリストは私達の魂を救うだけでなく、からだをもいやし、また再臨の時にはこのからだをあがなって栄化をさせて下さる。キリスト者のからだはこのように尊いものであり、現在においても(キリストの肢体)であるゆえに(15)、淫行によりこの特権を失って遊女と一体となることなく、主と結合して(主と1つの霊になる)べきであります。(16~17)。私達は金や銀でなく、キリストの尊い血によって買い取られた奴隷であるから、身をもって神に奉仕し、ただ神の栄光を現わすために生活すべきであります(19~20。このからだをどのように用いるかによって、きよい生活を送るか不潔に陥るかがきまる。わたしたちはこの体を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」神にささげ、(ローマ12・1)、こうして聖霊の宮とされ、聖霊の内住を体験し、この体をもって神の栄光をあらわすべきであります。

1コリント6・12~20節を見て下さい。福音は人に自由を得させる。すなわち、罪から解放する。しかし、ギリシャ人の中には、この自由をはきちがえをしている者もいた。そして、何でも」自由である、といっていろいろの不義をあえて犯していた。その中でも、不品行は、大きな問題であった。だから、ここではそれを取りあげて、福音の自由がいかに道徳的に制限のあるものであるかを明らかにする。パウロは、キリスト者は何物にも拘束されない、いわゆる、キリスト者の自由を与えられているからであります。しかし、この自由は放縦ではない。それは喜んで自らを、他のために拘束する自由である。高い道徳的原理のためには、その「全て赦されている」ことが、条件づけられ、制限されるのであります。自由はよいことである、しかし、それは勝手であってはならない。それが、他人の「益になる」かどうか、常に反省されなければならない。何でも許されている。だが、それを正しく「支配」しているかどうか。それに捕らえられ、その奴隷となるならば、そこに災いは始まる。食欲でも、性欲でも、それ自体は許されている。悪いものではありません。しかしそれらを濫用し、その奴隷となるならば、醜い生活とならざるをえません。それは実に「主のために存在」そしてまたするものであります。そしてまた「主はからだのため」にあるという。主は実に、この身をも、あがなわれる。そして、わたしたちが生きるのは、ただ主のためである。わたしたちはこの身をもって、主の栄光を現わさなければなりません。ここに、私達が、不品行を戒めなければならない第一の理由があります。主への奉仕のためにこそ、このからだを、用いるべきであります。ここに、不品行をしてはならない第二の理由があります。15節をもう1度見て下さい。キリストは教会の首であり、信徒はそのからだの肢体である。人は、キリストと結合して聖化され、遊女と結合して、滅びる。ここに不品行を慎まなければならない第三の理由があります。引用された聖句は創世2・24からであります。キリストも、結婚のことを説くにあたり、マタイ19章、マルコ10章が用いられた。19~20節をもう1度みてください。人の体は、聖霊の宿る、宮であるという。教会が神の宮であるだけでなく、ひとり、1人が神の宮である。この体は聖霊の宮である。これをけがす不品行を、あえてしてはならない理由があります。私達は、罪と滅びから、キリストの血という価をもって買い取られたものであります。わたしたちは、積極的に、この体を、神の栄光のために献げなければならない。

結び

もう1度1コリント6章12~20節を見て下さい。わたしたちは不品行の誘惑に弱いものであります。あの怪力サムソンにしても(士師16章)p409、あの信仰深いダビデにしても(サムエル記下11章)p495、不品行の前にもろくも敗北した。わたしたちも他の罪に対しては戦うことが出来ても、不品行からは逃走するのが1番賢明であります。エジプトの総理大臣にまでなったヨセフは、かって奴隷の身分であった時にも、その女主人の誘惑から見事に逃れ、姦淫の罪を犯さなかったのであります。キリスト者はキリストによって罪を贖われた者であります。だからパウロが「あなた方は、代価を払って買い取られたのです」(20)。

むしろ「自分のからだをもって、神の栄光を現わす」ことであります(20、ローマ12・1,

フィリピ1・20)

わたしたちは毎日主の祈りを唱えていますがこの祈りを惰性で祈るのではなく、真剣にいのりたいものであります。

「恵みによって救われた」2021・4・18説教要旨

朝位 真士

この6章は聖徒と訴訟。肉体の神聖。聖霊の宮。1~8聖徒間の訴訟を嘆く。9~10神の国を継ぐことの出来ない不義に対する非難。11恵みによって救われた身分。12寛容な原理13~18きよくあるべき勧め。19~20私達の身分と肉体の神聖。6章の前半は訴訟に関する譴責(悪い行いや過失などをいましめて責める事)(1~8)、後半は淫行に関する譴責(9~20)。聖徒たる者はやがてきたるべき時代において世を裁く(支配する)者であり、(2)マタイ19・28)、更にまた天使もさばくべきものである(3)。このような権利を持つ者同志が訴訟事件を引き起こして未信者の裁判を受けるとは、非常な心得違いである。キリスト者たる者は法律の前に争う問うことは、世の人々にキリスト教を嘲笑させることである。異教徒の裁判官の前にこの世のつまらない事柄を持ち出すのは、キリスト者としての真の威厳を忘れさせることである。教会内で解決することが出来ずに、不信者の前に持ち出すこと自体よくない。互いに訴え合うのは間違っている。むしろ、かえって不義を受け、だまされるほうがよい(7)。十字架の主に従う者は、忍んで不義を受けるべきで、権利放棄、無抵抗、忍従こそ、聖徒らしい麗しい態度である。キリスト者の美徳である(へブ10・34、マタイ5・39~41)。

1コリント6章1~11節を見て下さい。彼はローマ13章に、世の中を統治する権威に、服従すべきであることを教えています。社会の公正(絶体的なものではないが)を保つ為に裁判も必要であろう。だからパウロは、全ての訴訟を否認していない。ただ彼が極力拒むのは、信者同志の訴訟である。この係争は兄弟愛によって解決し、それが出来ない時は、教会の指導者たちのあっせんで解決されるべきであります。より高い,より正しい道徳を教会は、持っているはずである、それに信者同志のごたごたを、この世のものにさばいてもらわなければならないとすれば、それは恥以外の何物でもない。教会員間の不和、不義、不実を天下に公表する結果となる。こうして、「訴え合うこと」自体が、教会員一同の「敗北」なのである。6・7~11節をもう1度見て下さい。ここでは10個の不義が数えられています。偶像礼拝と性的不道徳と経済上の不法である。その中でも、性の乱れに関するものが多いのは、特にコリントにそうした危険が多くあったからであろう。この十個の不法は、全てコリント教会の中に、あったとは考えられない。しかし。あるものはすでに教会の中に入り、他のものも侵入する恐れがあった。「神の国を継ぐ」のは、神の子とされた信者の最大の特権である。教会の道徳的郭清がいかに必要であるか。キリスト教が、真に成功するか失敗するかの分かれ目は、ここにあるとパウロは考えていたようであります。コリント人は知識を誇り、福音を理論として理解し、これを知的に表現することによって、一種の自己陶酔にかかっていた。これで神の国を継ぐことが出来ると思いこんでいた。それは間違いであります。福音はもつと具体的な事実であります。生活に具現する真理である。今日もコリント流の信者が多いことでしょう。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなた方は、主イエス・キリストの名によつて、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義となれたのである」ルターの小教理問答書には、「洗礼は罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し」といい、また「わたしどものうちにある古いアダムが、日ごとの悔いとざんげによって、あらゆる罪と邪悪と共に溺れ死に、そして新しい人が日毎に現れ、またよみがえる、神の御前に永遠に義と純潔を持って生きるようになること」といっています。すなわち、洗礼は信者の生涯に一線をかくすることであります。この線に立って、過去の罪の生涯を清算し、将来を望んでは、神のよみされる新しい生涯に踏み出すことであります。コリントの人々も、このような洗礼をうけたのであります。そうだとすれば,旧態以前とした生活に、甘んじてはならないはずであります。(ローマ6・4、ガラ3・27,2・20)

結び

もう1度6・7~11節を見て下さい。2テモテ4・2節を見て下さい。キリスト者は寛容を尽くして、過ちを犯している者を責めると言う大切な使命を負っている。さらに8~9節更に彼は神の国を相続できなくなる罪を列挙して、警鐘をならしています。最後にパウロは、主イエス・キリストの御名と神の御霊に洗われ、聖なる者とされ、義と認められた兄弟達がいることを感謝している。

「主イエスの力をもって」2021年4月11日説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント5章1~13節から聖書を学んで行きましょう。米田豊先生は5章全体を教会の腐敗。過越の子羊の救い。パン種を除くことと語っています。1~5節姦淫者とそれに対する使徒の位置。6~8節パン種を除くこと。9~13節教会郭清の命令。と分解しています。当時の道徳がいかに腐敗していたかを知るべきであります。教会の中に姦淫その他信者として成すべきでない事をして罪を犯す者があるなら、その人を破門にし、絶交すべきである。(11,13)。この点に寛大であることは、教会腐敗の原因であります。キリスト者の自由を機会として肉欲(ガラ5・13)、神の恵みを放縦な生活に変える者達は、恐るべきパン種である。周囲に悪い感化を及ぼし、(少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませる(6)、教会の神聖を保つために、異性間の交際に罪や汚れが入らないように、特に注意しなければならない。教会は選ばれた者の集会で、キリストの花嫁たるべき者であります。十字架の血によってきよめられ、きよく保たれるべきであります。(エペソ5・25~26)。縁民イスラエルが堕落したのも、異邦人とおn姦淫のためであつた(民25・1)。初代教会においても、悪魔のねらったのはこの点であった。

1コリント5章1~13節を見て下さい。p304パウロはここで、昔の過越祭のことを例に引き、信者がきよくあるべきことを説き勧める。パン種は少しでもあれば直ちに膨れる者である。(マタイ13・35)。罪もそのように、少しの罪でも伝染し蔓延して、全体を腐敗させる。教会には罪と腐敗があってはならない。過越の祭の間は種入れぬパンを食べたが、過越の子羊が予表するキリストの血によって、救われた私達は、私達の心、生涯、家庭、また教会に、少しのパン種が残らないように、全く清められなくてはならない。7節をみてください。すなわち信者は皆、資格としては「キリストにあって清められた」者であるから、(1,2)肉の力すなわち罪の性質を全くきよめられて(古いパン種を取り除いて)教会が新しい群れ(かたまり)とならなければならない。(7)。昔、過越の子羊の血によって民が救われたように、私達は屠られたキリストの血によって救われた者であるから、罪からきよめられてきよい生涯を送らなければならない。それは主イエスの力をもって、させて頂きます。つまり聖霊の力であります。この5章ではコリント教会では不信者の間にもないような不道徳が行われていたのであります。この5章1~13節は不品行の問題が語られています。1~5節事件とその処置が述べられています。そして6~8節で教会に対する勧めがパン種のたとえを用いて語っています。そして9~13節では教会の内と外でパウロが語りたかったのは11節ということであります。教会外の人は神が裁かれるのであります。

結び

ここに3種類の罪が挙げられています。第1は不品行で、性的な罪である。第2は、貪欲や略奪で、経済上の罪である。生き馬の目を抜くような、コリントのような商業都市では、こうした経済上の犯罪も多かったと思われます。第3は偶像礼拝で、宗教上の罪である。第1は肉欲からくるものであります。第2は所有欲から来るものであります。第3は、迷妄から来るものであります。信仰に入っても、こうした民族的習性はすぐに抜けず、時には信者同志の間に、問題が起こるものでありました。そのような時に、どういう態度を取るべきか、それを明らかにするのがこの5章であります。以上3つの根本的罪は、人間が犯す3つの方向をしめしています。第1は不品行の罪は自分自身に対する罪であります。第2は貪欲的、略奪的罪は、私達隣人及び同胞に対する罪であります。それは人間を、助け合う兄弟とみないで、あくまでも利用すべき相手と見る。それは、私達が神を愛している唯一の証拠は、自分を愛するように隣人を愛することであります。そのことを忘れています。

第3は、偶像崇拝の罪は神に対する罪であります。それは事物として神の地位を略奪する罪であります。そしてパウロは13節で申命紀17・7節及び24章7節から引用しています。生まれたばかりの教会を、これをおびやかすこの世の汚染から守りたいという牧者パウロの願いであります。

「イースター(復活節)の喜び」2021・4・4説教要旨

朝位真士

2021度のイースター(復活節)礼拝を迎えることが出来て感謝です。キリストの復活は、奇跡と呼ばれる『不思議な御業』とちがい、キリストの神性と人性に関する秘儀である。それゆえ、それは、人間の理性が討議をする問題ではなく、人がそれを信仰する事柄である。復活についてはただ1つの説教がある。それは、『信ぜよ』ということである。復活について、パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」第1コリ15・17)と語っている。それゆえ、ルターが語るように、「キリストの復活を否定する者は、同時に福音の全体と、キリストについて語られる全体を否定する」ということになる。キリストの復活は、キリスト者の信仰の中に、巨大な文字で書き込まれていなければならない。キリスト教義学は、復活を単独の出来事としてではなく、キリスト教の全体にかかわる事柄として重視している。アルトハウスは、これについて、「復活の証言は、単に復活としてのみではなく、他の事柄とのかかわりにおいて力をもっている」と語っている。これは終末という者が、単に、終わりの事柄として孤立して考えられるのではなく、あらゆる(現在)にかかわるものとしてうけとめられるのと同様である。

今日のマタイ28・1~10節を見て下さい。平行記事マコ16・1~8、ルカ24・1~12、ヨハネ20・1~10に記されています。ここでは復活された主イエス様が記されています。復活への信仰と歓喜が内村鑑三の詩「天地を揺らぐラッパの声に更生るらむ春の曙」中に溢れでている。復活は大きな驚きをともなう喜びへの爆発である。復活は決して『終わり』の事柄ではない。ここから、新しい希望の芽が生まれるのである。ヴェルナー・エラートは、「キリストの復活は新しいエオン(神によってつくり与えられる人間の情況とその時代)の開始である」と述べているが復活をまことによく表現した言葉である。今日のところでは安息日が終わってマグダラのマリヤとほかのマリヤが最初に復活の福音を耳にし、最初に復活の福音の主を拝することの出来た者は、主の十字架を目撃し、主の墓に向かって絶望してすわっていた女たちである。2~3節を見て下さい。この有様をみた見張りのローマ兵たちは恐怖の余り震えあがった。5節『恐れることはない』この言葉は4節、5節、8節、10節に語られています。この言葉はなんと慈愛に満ちた深い言葉であろうか。この言葉は、主の使いは、主の御誕生日に野辺の羊飼いたちにも語っている。(ルカ2・8~10節)もう1度マタイ28・5~7節を見て下さい。この単純な言葉は、全世界の人間の情況を変えることが出来るほどの巨大な出来事を意味している。イエス様の3日目の黄泉がえりについては、ペテロのキリスト告白以来(マタイ16・21)、何回も弟子たちに語られている。もう1度8節を見て下さい。主イエスの墓の前に座った時の心の暗さと、今の喜びは何と違うことであろう。マリヤたちは、主の使いの言葉を、いわば「見ないで信じた」のである。9節~10節を見て下さい。イエスは彼女たちに出会って、この信仰ある婦人たちは、主イエスの復活を初めて聞いたばかりか、目を持って復活の主イエスを拝する最初の人となった。み足を抱いて拝したことの中には、当時のラビに対する尊敬の心を持つ以上の愛の感動があった。

結び

 もう1度マタイ28・1~10節を見て下さい。聖書ほど「驚き」について語っている書物は、他にありません。その「驚き」には、いつも「喜び」が伴っていました。聖書の語る「驚き」の中で「最大の驚き」は何でしょうか。それはイースターの出来事です。わたしたちの人生において『恐れる要素』は多くありますが、今日の復活の記事を通して『恐れることはない』といわれた。これは2021年度最初のメツセージにふさわしい説教ではないでしょうか。この年教会においても個々人においても社会においても恐れる出来事を経験されると思いますが『恐れることはない』と主イエスはいつも共にいてくださり語つてくださいます。ハレルヤ!

       

「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

 今日は1コリント4・14~21節を通して聖書学んでいきましょう。この4章は主に忠実であるべきこと。真のさばき。言葉よりも力が語られています。1~2神の奥義である管理者であるパウロ。3~5主からだけ裁かれる身分。6御言葉を超えて人を評価すべきではない。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して使徒の謙遜と忍耐の模範。14~17彼らの父としての訓戒。18~21彼らの使徒としての予告。が語られています。

1コリント4・14~21節を見て下さい。ここでの結論は20節に語られています。神の国の特徴は(言葉ではなく、力である)口で偉そうな事を言って人をけなしても、その生活と奉仕にどれ程の力があるかが問題であります。真に力ある生活を送り、パウロのようにいかなる苦難屈辱をも主イエス・キリストのために喜んで受ける人こそ、真に勇者であります。

コリント人の不遜な態度に対して、憤慨したパウロは、鋭い言葉でコリント人を責めた。しかし、パウロの真の目的は、彼らを責めて辱める為ではありませんでした。むしろ、コリント教会の生みの親であるパウロは、父として、愛する子供らを諭したのであります。第1テサロ二ケ2・11~12p375「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた1人1人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」といっていますが、同じ気持ちでありましょう。ここでパウロは、急にやさしい口調になっています。15節に「養育係」とありますが、子供の学習を助けたり、学校への往復を守ったりするガラテヤ3・24~25に出て来ます。年配の信頼できる奴隷で、行儀を教えたり、する役目をもっています。1人の子供に多くの養育係がいても父親は1人だけであります。パウロはコリント人にとってたった1人の父親なのであります。福音を説き聞かせ、イエス・キリストにおいて彼らを産んだのはパウロであった。これは養育係では代行出来ない者でありました。ここでパウロは実に驚くべきことを言っています。16節をみてください。キリストに倣って忠実に生きているパウロを見習うのが最も手っ取り早く妥当な方法だったわけです。パウロは自分がキリストに倣っているという自信を持っていました。大変素晴らしい事です。私達は如何でしょうか。フィリップ2・19節以下p363第一テサ3・2p376を見て下さい。テモテは、パウロの信任の最も厚かった弟子であり、職務に忠実な青年伝道者でありました。彼は「キリストにおけるわたしの生活の仕方」つまりパウロが実践しているありのままの生活を思い起こさせてくれるであろうという。パウロの生活は、キリストの福音からにじみ出たものでありました。パウロが、テモテを通して、思いださせようとした生活は、キリストにある者すべてに実践されなければならない生活であります。

結び

もう1度1コリント4・14-21節を見て下さい。ここで大事な事は4・17節「すべての教会がわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」と4・20節「神の国は言葉ではなく、力にあるのですから」最後の「神の国は言葉ではなく、力である」これは偉大な金言であります。神の国は、それがどんなに巧みであり、美しいものであっても、単なる言葉ではできません。ただ福音が持っている聖霊の力によってのみ建てられます。この力のみが、人の心に信仰を起こし、人を慰め、人を励ますことが出来ます。この力を抜きにした言葉は空しい言葉であります。そしてコリント人が語っていた言葉はまさにそれに類するものでしたそしてこのパウロは、彼らに「むち」を持って行くか、「愛と優しい心」でいくか彼ら自身に選択させています。(21)このことばの奥には、彼らの反省を促すパウロの深い愛が込められています。

「キリストの福音を語る」2021・3・21説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント4・6~13節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの4章全体を主の忠実であるべき事。真の裁き、言葉よりも力と語っています。そして、今日の6節は聖言を超えて人を評価すべきでないこと。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して述べた使徒の謙遜と忍耐の模範を語っています。

 1コリント4・6~13節を見て下さい。この4章の1~21節までは神の管理人としてパウロは、自分のことをさきに建築士として、コリント教会の関係を説明しました。ここで、さらに、自分を神の管理人としてコリントの人々に語っています。コリントの人たちは、自らの知恵や知識を誇って、傲慢不遜であります。人の才能も能力も、全て神から与えられたものにほかならないのであります。もし誇るならば、神こそ誇るべきであります。私達は、そうした賜物にゆえに、いよいよ謙遜となって、感謝するべきであります。彼らは自分で、自分たちは、富み栄えていると思って、誇りの座に安住している。そして、伝道者を見下してかれこれと詮議だてています。10節から13節を見て下さい。伝道者もまた衆人環視の中で、悪戦苦闘しています。そしてまさに死に瀕しています。それなのに、信徒はいっこうにこれを助け、これを救い出そうとはしない。コリント教会の現状はそうであったのであります。パウロは、元々博学多識の人でありました(使徒6・24)。しかし、愚かに見える福音のために(12・23)、あえて愚かになった。単純卒直にキリストの十字架の福音を語るためであった。しかしコリント人は、福音を哲学と雄弁によらせようとした。彼らは、キリストにあっても、なお賢い者であった。この「賢い者」という字には、利口者、ぬかりのない知恵者(この世とうまく手を握る)という意味であります。彼らは自信家で、自負心に強く、この世に対しても自己心が強く自分の地位を誇示していた。パウロは、この世にあって何らの名誉もなかった。いや、かえって侮られ、罵られることが常であった。11節をもう1度見て下さい。第2コリント11章には詳細に記されています。ここに第1に生活の苦しさである。衣に窮し、食に困り、しかも定まった住居もなかった。第2に、自分の手でもってする働きの苦労であった。彼はテントをつくる職を身につけていた。第3に種々の迫害である。しかも、その迫害の中で、彼は迫害する者を祝福した。すなわち、はずかしめられても祝福し、迫害されても耐え忍び、ののしられても優しい言葉をかけた。こうして忍従の生活は、排斥を受ける1つの原因となった、この世においてはちりのように、人間のくずのようにあしらわれてきたというのである。こうした鋭くまた哀調を帯びたパウロの文字に接すると、私達は、自分の胸をえぐられる思がします。誠に教会における問題は深刻であります。

結び

もう1度1コリント4・6~13節を見て下さい。

元来信仰は人を謙虚にするはずであります。しかし現実はなかなか厳しく、特に信仰に燃えている時ほど高慢になる危険があります。信仰が自分の自信と化し、自己確信になり、やがて自尊心となって高ぶりに変わるのであります。それは多くの場合他人への裁きとなって現れます。特に多いのは牧師や役員に対する非難であります。牧師や役員は理想的な人物であるべきだというだという期待も手伝って、牧師、役員の1挙1動および一言一句が教会員の裁きに対象にされてしまします。

今日のテーマは「キリストの福音を語る」です。福音のメッセージを語るには2つの方法があると思います。1つは聖書を通してイエス・キリストの十字架と復活、この聖書のメツセージは教会に来られた方は誰でも語れると思います。もう1つはその方の生き様を通して福音を語る。これがある意味で難しい事だと思います。俗にいう教会の顔と、教会を出てからの顔。これが一番難しい事です。何故クリスチャンが少ないかは、勿論いろいろな原因があると思いますが、教会顔と世間顔の極端な区別です。わたしは信仰生活60年になりますがいろいろなクリスチャンの方々や牧師・信徒の方々を見てきました。私は決して模範的牧師、クリスチャンではありません。欠けのあるものですが、もし感謝出来ることがあればそれは毎日聖書を読み、祈り、黙想し、誰かにキリストの福音をなるべくかたるようにしています。この2021年使徒181~11節が与えられて特に「この町には私の民が大勢いる」という御言葉を信じて家族友人知己の方々にイエス・キリストの福音を証しようではありませんか。特にコロナウイルス流行のこの時多くの人々が不安、恐れに悩んでいる方にはチャンスだと思います。

「主は裁かれる」2021・3・14説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント4・1~5節を通して聖書を見ていきましょう。この4章1~12節は教会の在り方そして副題として使徒の使命について述べています。この4章では。先ず使徒とそのあり方を述べ、次の使徒教会について語り、この教会に対する使徒の思いをパウロは述べています。

 1コリ4・1~5節を見て下さい。1節の使徒について語っています。使徒とは1・キリストに仕える者。2・神の秘められた計画の管理者であること。仕える者(ヒュペレータイ)はこの言葉は三段漕ぎ船の最下層の漕ぎ手で「奉仕者」よりも低い僕、そこから広く他者の手下として仕える者を意味しました。彼らはキリストの使命を果たす為の下働き人である。しかし同時に神の奥義の管理者であります。すなわち神の家としての教会を建てる為の監督であり、キリストによって現わされた神の奥義、福音を管理する家令であります。」ゆえに管理人に要求されていることは、何よりも(忠実)であることであります。人のうわさや批判に耳を傾けることなく、ただ神に対して忠実であることこそ神の奥義を管理する教師に要求されている中心的事柄であります。3節彼自身の経験と態度とを語っています。パウロは自分が忠実であることを示しているだけでなく、あらゆる批判に束縛されないことを示しています。つまり彼は教会から批判されようと、法廷で裁かれようと「わたしには最も小さいことです」(少しも問題ありません)」と言う。そしてパウロは自分で自分を裁くこともしないと言う。これは他者の批判や自己批判を一切無視しているというのではありません。4節むしろそれよりももっと決定的・究極的な者にパウロ自身は支配されています。つまり彼を裁くのは主なのです。自分の内なる法廷においていくらやましいことはあったと自覚していても、それで直ちに神の法廷において義とされることはありませんと言っています。5節ですから、主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけませんとパウロは語っています。主の来臨の時まで、主の来臨を目指して生きることがキリスト者の生きかたです。そこに何ものにも支配されないキリスト者の自由があります。主の裁きは1・闇の中に隠されていた秘密を明らみに出す。2・人の計画を明らかにする。3・そのとき各自は神からの称讃が与えられる。神からの刑罰ではなく、称讃を与えられることこそキリスト者の究極の目標であります。

 もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、自分のことを建築士として、

コリント教会との関係を説明しました。ここではさらに、自分を神の管理人として訴えてています。

伝道者は、神の奥義を管理する役目を負わされています。つまり、御言葉に仕えて、福音を宣べ伝え、教会建設に当たらなければならない。この場合管理人に要求されているのは、忠実であることである。これを委託された神の御意志にのみ添うてひたすら委託された事柄を処理しなければならない。それ以上、人気や世間の風評に左右されて、人間的工作をする必要はない。パウロは人の裁きや、人の批評は、気にかける必要はない。そんなことは神の裁きに比べればとるに足りないと言っています。人を本当に裁き得る方は、ただ1人なる神であります。人が自分であれ、他人であれ、裁く裁きは、みな不完全で不徹底である。消して最後的な者ではない。だから、人の裁きに、余り神経質になって、すぐびくつく必要はありません。いずれ、最後の審判に日がきます。だから、お互いは、その日先走って、つまらない裁きをしてはならない。コリント教会の中には、教師をいたずらに批評して裁こうとする傾向があったようです。ややもすると現代の教会においても、自分の尽くすべき責任をはたさず、他を裁いて快しとする者がないとは言えない。悲しいことです。 

結び

もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、全ての人が直面しなければならない3つの裁きについて語っています。1つは他人による裁き。2つは自分に裁き

3つは神による裁き正しい裁きをなさるのは神であります。真に人を裁き得るのは神のみであります。ですから私達は誰も裁いてはならない。正しい裁きをなさるのは神であります。

「人間を誇ってはならない」2021・3・7説教要旨

朝位 真士

 今日は1コリント3・18~23節を通して聖書を学んで行きましょう。この3章は1~2節はコリント信者が肉に属する者であることを嘆く。3~4肉に属する証拠である妬みや争い。5~9伝道者の使命と神との関係。10~15伝道者の働きとその責任。16~17神の宮である信者。18~20この世の知恵は神の前では愚かであること。21~23信者の特権と身分。が語られています。

 1コリント3・18~23節を見て下さい。この3・18~23節は1言で申し上げるならば、人間を誇ってはならないという言葉につきます。21節から23節をもう1度見て下さい。

パウロはあなた方は神の神殿である16節に言っています。パウロは「あなたがたは神の神殿である」と言ってキリスト者の自覚を呼び起こしてから、自分の知識を誇らないようにと戒めています。さらに「だれも人間を誇ってはいけません」21節と言っています。これは党派についての戒めであります。ここで言っています「人間」には私達も含まれています。信仰者は、自分の信仰を誇りがちであります。私もそうです。私は18歳でキリスト者になって今年で60年になろうとしています。しかし信仰は神から賜るものであります。人には何1つ

誇るものはないはずです。もし誇りたいとすれば、わたしたちの救い主であるイエス・キリストを誇るべきであります。イエス・キリストは、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって死に3日目に復活された活ける主イエス・キリスト様です。私達の誇るべき方は主イエス・キリスト様だけです。牧師も信徒も役員も皆イエス・キリストの僕です。箴言16・18節を見て下さい。p1012「痛手に先立つは驕り。つまづきに先立つは、高慢な霊」

口語訳箴言16・18節p899「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ」

次に私達は、自分以外の人間も誇ってはならない。他の人を誇るところに派閥が生じる原因があります。そこでパウロは21節をみてください。「だれも人間を誇ってはなりません」と言っています。神様の言葉を語る伝道者は神の僕であるのみならず、私達の僕であります。パウロはさらに22節を見て下さい。キリスト者はキリストに救われて神の子、神の国の相続人とされた。ローマ8・16~17節をみてください。p286キリストが万物の主である以上、キリスト者は世の終わりが来たら、主と共に万物を支配する。それは現在すでに保証されています。その意味ではすべてがキリスト者のものであります。それは信仰者自身の功績ではなく、キリストからの賜物であります。23節を見て下さい。

結び

もう1度1コリント3・18~23節を見て下さい。これまで述べたコリント教会の「ロゴスの危機」に対する批判的論証のしめくくりであります。先ず、パウロは(だれも自分を欺いてはなりません)と命じています。(欺くーエグサパト)は1般的に「欺く」を意味するアパタオーよりも強い意味で「完全に騙す」ことを示しています(ローマ7・11,16・18、2コリ11・3、2テサ2・3)。ここでは他者は勿論自分に対しても欺くことを禁じています。自らの知識を誇り、無知を認めないことは自己欺瞞であり、自らの無知を認めることこそ真の知識への道であります。19節にこの世の知恵は神の前で愚かであることを再び述べています。(神の前で)は審判を意味します(ローマ2・13,14・10)指導者を崇拝し、彼を選んだ自分の知恵誇ることは神の前に(愚かな者として)審判されます。ヨブ5・12、13の一部と、20節では詩篇94・11節を自由に引用して、この段階の聖書証明としています。p932この2つの聖書の言葉によって、パウロは(知恵ある者)が、神の前にいかに愚かであり、空しい者であるかを明らかにしています。21~23節をもう1度みてください。これまで述べてことの結論。

(だれも人間を誇ってはなりません)この命令法の根拠は、(すべては、あなたがたのもの(だから)です。このすべての説明として(パウロもアポロも・・世界も・・将来起こることも)と、キリスト者はあらゆる人間、世界、運命、時間・・・・のすべてに対して主であり、自由であります。(しかしあなたがたはキリストのもの、キリスは神のもの)ここにキリストの自由があります。だから人間を誇ってはならないという結論ではだれを誇るのでしょうか。それは天地万物を創造され人間を創られた父なる神と私達の罪のため十字架にかかって身代わりとなって死に3日目に復活された主イエス・キリスト様と聖霊なる神様の三位一体の活ける真の神様を誇るべきです。

世の中には素晴らしい方は多くおられます。勿論そういう方々に対して尊敬することは大切だと思います。年長者やお世話になった両親や目上の方対しては失礼があってはならないと思います。皆キリストのアガペーの愛をもって愛し合い、仕え合わなければならないと思います。

「神の宮である教会」2021・2・28説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント3・10~17節を通して聖書を学んで行きましょう。この3・10~15節は伝道者の働きとその責任。16~17節は神の宮である教会または信徒と言うことが語られています。ここでは10~17節を通して伝道者の責任を記しています。そして信徒を(神の畑)また(神の建物)に、そして伝道者を農夫(6~9)また(建築師)にたとえています(10~17)奉仕をする場合、おのおのに異なった使命があり、その賜物も異なっており、ある人は植え、ある人は水を注ぐ。しかし、同様に主の御用において、(神の同労者)としてただ忠実に働くなら、(それぞれその働きに応じて報酬を得る)また。伝道は建築工事のようなものである。(土台はイエス・キリストで)、その上に教会を建て上げるために働くのである。(金、銀、宝石)を用いて建てるとは、神の言葉、福音の真理をもってそれをなすことであります。しかし、自分の思想や人の説をもってするのは(木、草、または、わら)を用いて建てるようなものであります。彼自身は信仰を持っていればさばきの日に救われることは出来ても、その働きは全く無効に帰する。また、人の前にどんなに大きな、また成功した働きも、その動機が神の御旨に叶わない者であれば、木、草、わらのように、さばきの火に焼かれて何も残らず、彼自身はかろうじて魂だけは救われる。反対に、人の前には認められない小さなわざでも、神と人とを愛する純粋な心からの奉仕であれば、金、銀、宝石を用いたわざのように、かの日に栄光を受け、報酬を受ける。私達の働きはどうでしょうか。永遠に残る尊い働きでしょうか。信徒は(神の建物)また(神の宮)であります。きよくあるべきもので、心の中に肉に属する不潔な思いをいだいてはならない。御霊の内住を受け、それを意識して、きよい行いをするべきです。

1コリント3・10~17節を見て下さい。コリント教会を創設したのはパウロであります。幾多の困難と戦いながら、ここ地に開拓伝道した人であります。かれは9節であなた方は「神の畑、建物である」と言った。建物にとって、一番大切なのは土台である。そして教会という建物を支える土台とは何か。それは金、銀、宝石である。信仰者の信仰が激しく試される日がやってきます。そのとき、各人が築いた建物の良否がいかんなくあらわれます。私達はイエス・キリストを土台とした教会に相応しいものを建てているでしょうか。ある伝道者がこの箇所を説き明かすのに、東京の帝国ホテルを例に引きました。ライトというアメリカの建築家によって建てられたものですが、その時に基礎工事は大変なものだったそうです。地面を岩盤まで掘らせて土台を据えたので、工事関係者の労苦も並大抵のものではなかった。ホテル側の人たちも、基礎工事にもの凄い時間と費用がかかったので、大変だったと思います。しかし、試練の時がやってきた。1923年(大正12年)9月1日、あの関東大震災であります。そのとき東京の建物はほとんど崩壊したそうですが、帝国ホテルだけはびくともしなかったそうです。壁にひび割れ1つも入らなかったそうです。まさに土台がしっかりしていたからです。伝道においても、蜜室の祈りや個人伝道や訪問伝道が大切です。今はコロナウイルス感染症流行でストツプしています。パウロは、誠実で熟練した建築家が家を建てるように何よりもまず土台を築く事に全力を注ぎました。ここで大切な事は、パウロが据えた土台が主イエス・キリストであったと言うことであります。この世の教会やキリスト者はつい人間を土台にしがちであります。パウロが据えた土台の上に伝道して教会を建てようとしたのであります。1コリント3・12~13節をもう1度見て下さい。この土台に建てられる建物に対して、教師は責任を持たなければなりません。その建築に用いられる材料2種類あります。1つは永久に朽ちないものであり、もう1つは1時的でやがて消滅していくものであります。13節をみてください。私達の伝道も試練に会った時その真価が明らかになります。金の働きであるか、銀の働きであるか、またわらの働きであるかは、ハッキリします。

16~17節を見て下さい。パウロはここで、教会は熟練した建築家によって建てられた神の宮である。と言う。6・19節には「個々のキリスト者は聖霊の宮」であるとされていますが、2コリント6・16では、「神の御霊が宿る神殿はキリスト者の共同体、すなわち教会であるといわれています。だからキリスト者としての一致を守るように教えています。教会を分裂させることは、聖なる神殿をだめにすることでありますから、最も罪深い行為であるとされています。

結び

もう1度1コリント3・10~17節を見て下さい。コリント教会も「聖なるもの」である。神のために献げられたものであります。この桜ヶ丘教会も実に神の宮なのであります。どのように足りないところがあっても、この教会は実に神の宮であります。そのことを信じ、厳粛な思いを持って、全ての信徒が自らの行動を慎重にすべきであります。