「主は裁かれる」2021・3・14説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント4・1~5節を通して聖書を見ていきましょう。この4章1~12節は教会の在り方そして副題として使徒の使命について述べています。この4章では。先ず使徒とそのあり方を述べ、次の使徒教会について語り、この教会に対する使徒の思いをパウロは述べています。

 1コリ4・1~5節を見て下さい。1節の使徒について語っています。使徒とは1・キリストに仕える者。2・神の秘められた計画の管理者であること。仕える者(ヒュペレータイ)はこの言葉は三段漕ぎ船の最下層の漕ぎ手で「奉仕者」よりも低い僕、そこから広く他者の手下として仕える者を意味しました。彼らはキリストの使命を果たす為の下働き人である。しかし同時に神の奥義の管理者であります。すなわち神の家としての教会を建てる為の監督であり、キリストによって現わされた神の奥義、福音を管理する家令であります。」ゆえに管理人に要求されていることは、何よりも(忠実)であることであります。人のうわさや批判に耳を傾けることなく、ただ神に対して忠実であることこそ神の奥義を管理する教師に要求されている中心的事柄であります。3節彼自身の経験と態度とを語っています。パウロは自分が忠実であることを示しているだけでなく、あらゆる批判に束縛されないことを示しています。つまり彼は教会から批判されようと、法廷で裁かれようと「わたしには最も小さいことです」(少しも問題ありません)」と言う。そしてパウロは自分で自分を裁くこともしないと言う。これは他者の批判や自己批判を一切無視しているというのではありません。4節むしろそれよりももっと決定的・究極的な者にパウロ自身は支配されています。つまり彼を裁くのは主なのです。自分の内なる法廷においていくらやましいことはあったと自覚していても、それで直ちに神の法廷において義とされることはありませんと言っています。5節ですから、主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけませんとパウロは語っています。主の来臨の時まで、主の来臨を目指して生きることがキリスト者の生きかたです。そこに何ものにも支配されないキリスト者の自由があります。主の裁きは1・闇の中に隠されていた秘密を明らみに出す。2・人の計画を明らかにする。3・そのとき各自は神からの称讃が与えられる。神からの刑罰ではなく、称讃を与えられることこそキリスト者の究極の目標であります。

 もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、自分のことを建築士として、

コリント教会との関係を説明しました。ここではさらに、自分を神の管理人として訴えてています。

伝道者は、神の奥義を管理する役目を負わされています。つまり、御言葉に仕えて、福音を宣べ伝え、教会建設に当たらなければならない。この場合管理人に要求されているのは、忠実であることである。これを委託された神の御意志にのみ添うてひたすら委託された事柄を処理しなければならない。それ以上、人気や世間の風評に左右されて、人間的工作をする必要はない。パウロは人の裁きや、人の批評は、気にかける必要はない。そんなことは神の裁きに比べればとるに足りないと言っています。人を本当に裁き得る方は、ただ1人なる神であります。人が自分であれ、他人であれ、裁く裁きは、みな不完全で不徹底である。消して最後的な者ではない。だから、人の裁きに、余り神経質になって、すぐびくつく必要はありません。いずれ、最後の審判に日がきます。だから、お互いは、その日先走って、つまらない裁きをしてはならない。コリント教会の中には、教師をいたずらに批評して裁こうとする傾向があったようです。ややもすると現代の教会においても、自分の尽くすべき責任をはたさず、他を裁いて快しとする者がないとは言えない。悲しいことです。 

結び

もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、全ての人が直面しなければならない3つの裁きについて語っています。1つは他人による裁き。2つは自分に裁き

3つは神による裁き正しい裁きをなさるのは神であります。真に人を裁き得るのは神のみであります。ですから私達は誰も裁いてはならない。正しい裁きをなさるのは神であります。