「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「キリストと共に生きる」2020・5・3説教要旨

朝位 真士

今日はローマ6・1~14節を学んで行きましょう。まず神学者の米田豊先生はこの6章を大きく3つに分類しています。6章全体を犯罪の問題。バプテスマの意義。肉体の用い方
分解1)1~11罪からの救い。1~2問題の堤出とその答え(罪にとどまるべきでないこと)
3~5バプテスマによって表された死と復活におけるキリストとの一致。6~11その一致によって私たちに及ぶ十字架の力と、信仰の鑑定。2)12~22聖潔に関する実際上の勧告。
12~14よみがえらされた身分であるゆえ義の武器となるべきこと。15~22義の僕であるゆえ、聖潔に至るべきこと。23罪の支払う報酬である死と、神の賜物である永遠の命



ローマ6・1~14節を見て下さい。米田先生は6章を1~11節と12~23節との二段に分類いています。前半は新生と聖潔の原理を教理的な面からしるし、(新生は聖潔の発端、聖潔は新生の完成である)、後半は聖潔の生涯に至るべき実際上の勧告として、肉体の用い方を説く。1,2節の緒論のあと、バプテスマと十字架の及ぼす効力に生まれ変わった私たちの身分を説明し、生まれ変わった身分なのだから、義の僕として神に献身し、きよい生涯を送るべきであると勧め、20節以下の結論を付け加える。別の面から言えば、前半は5章の終わり「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(5・20)とある言葉を受けて6・1節に対する教理的解答であり、後半は6・15節との問いを中心としての実際的勧告である。更にある人は、「罪にとどまるべきか」との問題に対して、犯すことが出来ない(意志の問題、2~14)、犯してはならない(良心の問題6・15~23)、犯したくない(願望の問題、7章)と分解刷る(ウィルクス)。いずれにしても、聖潔の実際問題として大いに学ぶべきである。ある注解者はこの6章全体をキリストにおける新しい生活(6・1~23)そしてその分解は1)1~5バプテスマの意味2)6~11十字架とわたし。3)12~14聖化(聖潔)へのすすめ。4)15~23罪の僕から従順の僕へと分解しています。


結び


 もう1度6・1~15節まで見て下さい。今日の中心聖句は6・8~11節です。特に8節が中心聖句です。説教題もこの箇所から導かれました。論点が「神と共に(キリスト)生きる」というテーマに移される。ここで基礎となっているのは「キリストと共に死んだ」ということの確かさである。「キリストと共に生きる」とは究極的には私たちの体が復活するに至るまでの一連の過程である。また死ぬということは一瞬のことであるが、生きるということは私たちの内に徐々に現れてくるものである。従ってその課程を望み見た上で、「信じます」という告白がなされているのである。私たちの生活がキリストとの結合を離れてはあり得ないということは、信仰によってのみ確認できることである。だからバプテスマ(洗礼)は、そのことを私たちに目に見えるしるしとして示し、保証するものであるが、同時にしつかりした信仰を私たちに要求するものである。9節でパウロは、キリストの死者からの復活が、キリスト者の新しいいのちの基礎であることを確認する。10節を見て下さい。「キリストがただ1度だけ死なれた」ということは新約聖書がしばしば語っているところである(ヘブ7・27,9・12,28,10・10,1ペテロ3・18)。「神に対して生きておられる」神の御子であるキリストも、私たちの罪を負って贖いのみわざを果たすために、地上の生涯を送られる間はへりくだりの状態であった。しかし贖いの死が完了して
復活されてからは、罪とは全く無関係の存在となられた。それ故に、キリストの現在の命は、栄光の内に神に対して生きておられると言われるのである。内容は2つある1つは罪に対して死んでいるということ、もう1つは神に対して生きていると言うことである。「キリストにあって」とは、このことがキリスト者にとって当然のこととして求められることを示している。ところが私たちは不信仰と不従順によってその霊的な判断を曇らされ、このことを忘れがちである。大いに反省し肝に銘じなければならない。

「神の恵みの賜物」2020・4・26説教要旨

朝位 真士

今日はローマ5・12~21節を通して聖書を見ていきましょう。

 この5章12~21節は神と人との関係におけるイエスとアダムについて語られています。5・12~17節は罪の侵入と、神の恵み、5・18~21節は万人に及ぶ罪と恵みが語られています。聖書5・12~21節を見て下さい。米田豊先生注解によると12~19アダムとキリストとの対照。12~14アダムによってもたらされた罪と死。15~17キリストによってもたらされた義といのち。18~19ひとりの罪過の影響と、ひとりの義なる行為の影響。20~21律法にまさる恵み。

 12節以下は、一面では義認と命の関係を示し、一面では6節から説かれるきよめの問題の伏線として、罪の性質についてしるしたもので、アダムとキリストとを対照させ、罪と死とを、義といのちとに対照させる。アダムは生来のままの人類全体を代表する者、キリストは生まれ変わった新人類を代表する者である。アダムは「最初のひとアダム」、キリストは「最後のアダム」と呼ばれている(第一コリント15・45)。このアダムは(きたるべき者の型)(14)すなわち救い主の型であるが、前者は罪に関し、後者は恵みに関して、凸凹のように相反対の類型である。今この一段に、(ひとりの罪過)の影響と、(一人(キリスト)の義なる行為)の影響との対照がしるされる。人類の始祖アダムが罪を犯した為に、(罪がこの世にはいり)、その罪が子孫に遺伝し、(すべての人が罪を犯したので)、全人類は死の下に運命づけられていまい、神のさばきにあうべきものとなった(12,14)。しかしキリストが来られて、死に至るまで従い、十字架の死をさえ受けて罪のさばきを一身に引き受け、

あがないを成し遂げて下さったので、(イエス・キリストの恵みによる賜物)(15)は、(多くの咎よりして義とするのである(16)文語訳。ここに(なおさら)という言葉2度くりかえされています。(15,17)恵みの力は罪の力にまさる。死は多くの人に及ぶが、恵みは多くの人にあふれる。ひとりのひとアダムの罪のために死が多くの人に及んだのなら、まして神の恵みとイエス・キリストの恵みによる賜物とが多くの人に豊にあふれないわけがない(15)。次に、アダム一人のために死がすべての人の上に王となり支配し、全ての人が死の下に置かれたが、キリストを信じる者は、(恵みと義の賜物)を豊に受け、いのちを受けてキリストと共に王となるのである。18節を見て下さい。ひとりの正しい行為によってとは、キリストの十字架の犠牲のことで、その結果わたしたちは義とされ、命を得る。アダムの義のために裁きが全ての人に及んだように、キリストのあがないの故に、この恵みも全ての人に及ぶ。キリストが死にいたるまで従順であられた)ために(フィリピ2・8)(多くの人が義人とされ)救われるのである(19)律法は光を与えるので罪を自覚させるが、罪の自覚の大きいところには恵みもいつそう溢れる(20)。私たちはのちに永遠のいのちを得る為に、今恵みに支配されている幸福な者で、もはや罪の下にいる者ではない(21)。

結び

パウロは、信仰の場におけるキリスト者の生活の頂点を「神を喜ぶ」こととした。ただし、この頂点こそ、正常な神と人間の関係であって、これこそ信仰者の生活の中で、継続的に保たれていくべきものである。世界の人類は、2つの頂点のもとにある。1つは、イエス・キリストであり、いま1つは、アダムである。5章12節以下には、イエスとアダムが対比されています。これが、神と人間にたいしてどのように影響しているかが、取り扱われています。この5・12~17節は罪の侵入と、神の恵みが語られていました。5・18~21節は全ての人類におよぶ罪と恵みが語られていました。特に恵みの背後には三位一体の父・御子・御霊の神がおられる。だから、罪の場合にもまして、「恵み」は積極的であり、ダイナミックなものである。罪に対しては、手かげんをしないで、容赦なく、これを克服する。罪の力がませばますほど、いよいよ恵みは、それに上まわった力を出す。パウロは、罪が死によって支配するといい、恵みも義によって支配するという。死は、1つの領域の王であり、義も1つの領域の王である。死は破滅の暴君、義はイエス・キリストなる勝利の君である。人間の救いは、この2つの君主の勝敗にかかつている。イエス・キリストこそ勝利者また、贖罪者である。神と人間との関係は、キリストによって、完全に解決され、この方によってのみ、永遠の命を得る道が、私たちに開かれている。これはパウロにとって最大の福音である。 どうぞ私たちが、自分で肩を張って生きるのではなくて、ひたすら神の愛と主イエス・キリストの恵みに服して、恵みに支配される人生を喜びを持つて感謝しつつ生きることが出来ますように祈りましょう。

「神との平和」2020・4・19説教要旨

朝位 真士

序 

今日はローマ5・1~11節を通して聖書を見ていきましょう。この5章は義認と平和。

3つの喜び。神の愛。罪と恵みの対照が語られている。米田豊先生の注解書によれば、1~11節は義認の結果。1神との和らぎー平和、2現在と未来の祝福―今立っている恵みと望みの喜び、3~5患難の中の喜びとその理由、6~8キリストの死にとよって示された神の愛、9~10確実な救い、11神を喜ぶ喜び。と分解しています。

ローマ5・1~11節を見て下さい。キリスト教は空想や理想の上に立つものではなく、事実の上に信仰の根拠を置く。キリストの死と復活の事実こそ、福音の基本的要素で、これに信仰の根拠を置いてこそ、救いが体験されるのである。その救いの第一歩は、過去のすべての罪がゆるされて義とされることで、その結果である平和も(1)、その恵みの持続である現在の恵みも、将来に対する望みも(2)、神の側からはキリストによって与えられ、人の側では信仰によって受けることが出来る恵みである。キリストがおられても信仰がなければ救われず、信仰があってもキリストなしには恵まれない。さて、ここに3つの喜びがある。第1に、信者は未来において神の栄光にあずかるから喜ぶ(2下、コロサイ3・4、第1ペテロ1・6)。第2に現在には患難があるが、その中にあっても喜ぶ(3上)。患難は喜ばしいものではないが、信仰の上からはむしろ有益なものである(ヤコブ1・2~4、第1ペテロ1・6)苦難は品性と信仰を訓練する。まず忍耐、次に練達を生じる(3~4)。練達の定義は試みて忠実なこと、忍耐は消極的であるが、練達は積局的である。こうした患難によって、訓練された者には希望が生じ、その(希望は失望に終わることはない(5)。なぜこうした患難の中にあって喜ぶことがきるのか。(なぜなら)私たちに賜っている聖霊は、神の愛を感じさせ、また神の愛を私たちの心に注ぎ込まれるからである(そして、神の愛とは何かが示される)。第3に、このような人は、未来における神の栄光を望んで喜ぶだけでなく、現在神御自身喜ぶのである(11)。恵みよりも恵み主御自身を喜び、主との愛の交わりにはいった者は、どんな患難に遭遇しても、「いつも喜んで」いることが出来る(第1テサ二ケ5・16)。「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネへミヤ8・10)。6~8節では神の愛が十字架に表されたことを示す。神の恵みは、自然界にもその一端は表れているが、敵をも愛する神の愛は、御子の十字架において、初めて十分に現れたのである。「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。7節8節を見て下さい。これは義務や恩返しのためではなく、ただ愛の犠牲であり、私達を救うために罪の身代わりになられたのである。私たちは、この十字架によって、罪許され、(義)とされ、(神の怒りから救われる)(9)ばからではなく、(神との和解を受け9,更に進んで、主が復活して今生きておられることにより、(彼の命によって(罪の力から全く)救われることが出来る(10)(ヘブル7・25)。「主は敵を愛しなさい」と教えられただけでなく、自ら敵をも愛して、そのために命を捨て、身をもって模範を示された(第1ヨハネ3・16,4・9~10)。神の愛を示す者はキリストであり、(8)、神の愛を私たちの心の中に与えるものは聖霊である(5)。十字架を見上げて神の愛を知り、聖霊を受ければ、神の愛を受けることが出来る。

結び

もう一度ローマ5・1~11節を見て下さい。

1~5動的信仰が語られている。信仰は、悪魔の支配のもとにあったわたしたちを、神の支配のもとにおきかえる。以前には、神との間に平和はなかったが、信仰の中にある私たちは、主イエス・キリストによって、神との間に平和を与えられている。キリストによって与えられる「平和」は、信仰によって「義」とされることと表裏1体である。キリストが神のみ前で、我々のために「義」を獲得するためには、悪の力に対して勝利を得なければならなかった。しかし、その勝利は、罪の代価である死を、御自身に引き受けることによって、獲得されるものであつた。死によって死に勝った勝利であることこそ、神と人間との交わりの道を開く者であると共に人間の心にダイナミックな信仰を与えるものである。神との間の平和というのも、ダイナミックな平和であって、神のみ懐に生きている実感をもち続けることこそダイナミックな平和である。これを別の言い方で表現するならば、キリストにおいて神と出会う出会いの生活といえます。そしてキリスト者の生活は、神の愛に支えられた希望のうちに生き続けるのである。これがキリストにおける人生の現実であり、時の流れのなかにある天的な生き方、すなわち、終末論的な生き方である。

5・6~11節は神の愛の内容が語られています。パウロは、愛の生産過程を他の言葉で説明しています。9節は、キリストの血、義とされる、神の怒りからの解放という順序を示しているが、10節と11節では、和解いのちによる救い、神を喜ぶことという順序を示すのである。

「イエス・キリストの復活」2020・4・12説教要旨

朝位 真士

2020年のイースターおめでとうございます。今日はマタイ28・1~10を通して聖書を見ていきましょう。キリストの復活は、奇跡とよばれる「不思議なみわざ」とちがい、キリストの神性と人性に関する秘儀である。それゆえ、それは、人間の理性が討議する問題ではなく、人がそれを信仰する事柄である。復活についてはただ1つの説教がある。それは、「信ぜよ」ということである。復活について、パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」(第1コリント15・17)と語っている。それ故、マルチン・ルターが語るように、「キリストの復活を否定する者は、同時に福音の全体と、キリストについて語られる全体を否定する」ということになる。キリストの復活は、キリスト者の信仰の中に、巨大な文字で書き込まれていなければならない。キリスト教教義学は、復活を単独の出来事としてではなく、キリスト教の全体にかかわる事柄として重視している。アルトハウスは、これについて、「復活の証言は、単に復活としてのみではなく、他の事柄とのかかわりにおいて力を持っている」と語っている。これは終末という者が、単に、おわりの事柄として考えられるのではなく、あらゆる「現在」にかかわるものとして受け取られるのと同様である。

マタイ28・1~10節を見て下さい。復活の並行記事はマルコ1~8、ルカ24・1~12,ヨハネ20・1~10に並行記事として記載されています。

復活への信仰と歓喜が、内村鑑三の詩の中に「天地も揺らぐラッパの一声に更生るらむ春の曙」この詩の中に溢れ出ている。復活は大きな驚きをともなう喜びへの爆発である。復活は決して「おわりの事柄ではない。ここから、新しい希望の芽が生まれ出るのである。べルナーエラートは、キリストの復活は新しいエオン(神によってつくり与えられる人間の状況とその時代の開始である)(キリスト教信仰)と述べているが復活を誠に良く表現した言葉である。

結び

もう一度マタイ28・1~10節を見て下さい。

ここでイエス・キリストの復活の重要性について3つのことを考えて見たいと思います。

1・イエスの復活は、イエスが神であったことを示しています。

  イエスは何度も、自分がよみがえることを予告していた。そして、その予告は事実となった。聖書は「聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大胆によって公に神の御子として示された方、わたしたちの主イエス・キリストです」(ローマ1・4)と述べています。

世の中の人々は、世界の4大聖人として、釈迦、孔子、ソクラテス、そしてイエスの名

をあげています。しかし、釈迦も、孔子もソクラテスも死んだが、復活しなかった。彼らは聖人と仰がれる偉大ナ人物であったかもしれないが、神ではなかった。唯イエスだけが、死人の中から復活し、神の子であることを公に宣言したのである。

2・イエスの復活は、私たちの救いが確実なものであることを保証している。イエスは復活によって、罪に対する刑罰であり、最後の敵である死にも打ち勝った(1コリ15・54,56)イエスは十字架において救いの約束を成就したが、復活によってその約束の成就が確実な者であることを保証した。復活によるイエスの圧倒的な勝利によって、罪も死も力を失ってしまったのである。それ故、私たちは、イエスを信じる時、義とされることが確実であるだけでなく(ローマ4・25)、罪の支配から解放されて、命のある新しい歩みを始めることが出来るようにされる(ローマ6・4-9)。そして、キリストが罪に対して勝利を得たように私たちも罪に対して勝利を得ることできるようにされたのである(1こり15・57)。

3・イエスの復活はわたし達に希望を与えてくれる。イエスは死者の初穂としてよみがえったのであり、イエスを信じる者は、死んでもよみがえらされる(1コリ15・20-22)。私たちはやがて死ななければならない。しかし、イエスを信じる者にとっては、死が最後ではない。やがてイエスが再臨する時によみがえらされ、イエスと共に永遠に生きることができる(1テサロ4・13~17)。多くのキリスト者は、この復活の希望が合ったからこそ、大胆に信仰をあかしし、殉教の死をとげることができたのである。 今日、多くの人々は、死を恐れている。しかし、キリストの復活を信じる者は死を恐れない。何故なら、キリストが死に打ち勝って復活したからである。キリスト者にとって、死は復活の栄光に到達するための、通るべき道にすぎない。復活こそ、私たちの真の希望なのである(1ペテロ1・3)皆さんはこの素晴らしいイエス・キリストの復活を信じてください。

「信仰によって実現される」2020・4・5説教要旨

朝位 真士

今日はローマ4・13~25節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ4章は信仰による義認。割礼と義認。アブラハムの信仰を学んでいます。今日は4・13~17節は約束は律法によらないで信仰による。4・18~22アブラハムの模範的信仰。4・23~25私たちも信仰によって義とされる。(世界を相続させるとの約束が、アブラハムとその子孫に対してなされた)(13)とは、アブラハムおよびその信仰にならう霊的子孫によって、世界の諸民族が祝福を受けることである(創12・2~3)。この約束が与えられたのは律法の制定以前のことであって、律法を守った為に与えられたのではなく、単純に信じて従う者に与えられる約束である。もしこの特権が律法の行いの報いとして与えられるものであるなら、信仰も必要でなくなり、約束も無効になる(14)。律法は人に罪を犯したことを自覚させ、罪を定め、神の怒りを招くが、祝福を下すものではない(15)。恵みにあずかる唯一の道は信仰で、これによって、アブラハムの血統上の子孫(ユダヤ人)にも、信仰上の子孫(キリスト者)のも、約束が保証されるのである。(16)。祝福が律法によるのであれば、それを受けるのは行いによるが、約束によるのであるゆえ、ただ信仰によって与えられるものである。

約束を信じて恵みを受けた最も適切な例として、また信仰の良き模範として、ここにアブラハムの信仰が引用される。彼の妻は不妊であったが、子を与えられるとの約束を受けてから、十数年間も忍耐をもって信じ通した。100歳の老齢に達し、妻サラも妊娠期を過ぎて、普通から言えば全く絶望の時にも、神の約束の上に堅く立って、(望み得ないのに、なおも望みつつ信じ(18)、現在の状態から不可能であることを(認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった(19)。(神の約束を不信仰のゆえに疑うことはしないで、かえって信仰によって強められて)て、神をあがめ(20)(神はその約束されたことを、(必ず)また成就することが出来ると確信した)(21)。この信仰の根拠は神の言葉であり、信仰の対象は複活と創造の力ある全能の神である(17)。私たちが義と認められるのも、(主イエスを死人の中からよみがえらされたかた)すなわちこの神を信ずるからである(24)。(主はわたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである(25)。

ローマ4・13~25節を見て下さい。パウロは4章の後半に、宣教の基本原理をといています。この関連事項はローマ10章に関連記事がでています。もう一度アブラハムに戻りますが4・17節を見て下さい。口語訳4・17後半「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」。とあります。この一句は重要である。「アブラハムは神を信じた」というだけでなく、アブラハムが信じた神に、いくつかのただし書きがついている。「死人を生かし」「無から有を呼び出される」神というのである。まず我々の神は三位一体の神であられること、そして、この神が、アブラハムに約束を与えたことを思い起こさなければならない。この神は、約束に対して忠実であられ、人間の目から見た悪条件をも

乗り越えてその約束を履行なさるのである。このことは、キリストにおいて完全に実証されたのである。パウロは、キリストの光に照らして、確信を持って、このことを述べているのである。ヨハネ11・1以下のラザロの物語死人を生かす御方「死人を生かし」「無から有を呼び出される」神である。これがアブラハムが示した信仰の持ち方の原型である。このようなことが、起こるのは、アブラハムだけに限ったことではない。全人類に平等に機会が与えられている。4・24~25節をもう一度見て下さい。ヨハネ5・21節を見て下さい。「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」といってイエスが、保証しておいでになる。

結び

もう一度4・13~25節を見てください。特に4・16~25節は神に喜ばれる信仰でアブラハムの信仰を語っています。4・18~18望みのない時に望む信仰創世記22章のあのイサクを献げる信仰。ヘブル11・19を見て下さい。それこそ生きた信仰です。4・19見えるところによって歩まない信仰4・20神の約束に立つ信仰。4・20後半~25節は神に栄光帰す信仰 わたしたちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活された主イエスキリストを信じましょう。望みの無い時に望む信仰、見える現実に左右されない信仰、神の約束されたことに立つ信仰、そして全ての栄光を神に帰える信仰。これらの信仰は神にどれほどに喜ばれることでしょうか、私たちも神に受け入れられ、神に喜ばれる信仰者とさせて頂きましょう。