「皆様へのメッセージ」カテゴリーアーカイブ

爽やかな日曜日

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5月中旬の爽やかさと目に染みる緑の輝きを感じながら、教会に向かいました。
桜ヶ丘教会の鐘の音が響きわたり、イエス様のおられる教会は、今日も静かに私たちを待っていてくださいました。
「二人の弟子」というテーマの話でした。フィリポとナタナエルという2人を通し、イエス様をどなたかにお伝えするという私たちの役割を認識しました。
フィリポは単純率直な人柄で、一方ナタネルは慎重な知識人であるということ。
二人がイエス様に出会ったとき、反応は異なっていたといことです。
ナタナエルは、ナザレからどのような善人が出るのかといぶかって考え、偏見を持って、イエス様に出会ったということでした。
しかし、イエスに自分のことを見抜かれて、自分の知識の無力さを感じ、イエスを神の子であると気づかされたというお話でした。
イエス様に接し、イエス様の力に触れることができた二人はいずれにしてもとても素晴らしい弟子となったのです。フィリポはイエス様をナタナエルに紹介し、二人は弟子となったのです。
ナタナエルに「来て見なさい」と言って、疑う心に示されたということです。
わたしたちも、真にイエス様を知っている者して、イエス様のもとにどなたかをお連れできるようになりたいですね。
6月5日(日曜日)の特別礼拝は、岸義紘先生のチャペルコンサートです。
是非、一人でも多くの方が、イエス様に出会えるように祈りつつ教会にお連れできるようにしましょう。

ペンテコステ礼拝に思う

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写真:K/Kさん提供
5月15日のペンテコステ礼拝の後で
本日は、教会の歴史というテーマでのお話でした。
教会の信者の共同体としての歴史は、復活したキリストと聖霊に対する信仰から始まったということです。
お話から、教会は共同体であるということを改めて認識します。
教会に、変化はどのようにしたらおきるのか。聖霊が働かなければ、真の変化はもたらされない。
聖霊の助けをどこで得ることができるのか。聖霊は、どのような者に力を貸してくださるのか。
初代の教会は、聖霊降臨により宣教へのビジョンが弟子たちに使命として与えられたというお話でした。
聖霊が天から下ってきた。
イエスは、天に帰られ、私たちに聖霊の助けをお約束になり、聖霊が私たちのもとに下ってきてくださった。
キリストの働きをするために、私たちは、聖霊の力を要求することができる。
聖霊が働くときに、感動と興奮と成長が表れるということです。
教会に今必要なのは、私たちが、聖霊によって変えられるということと感じました。
失敗しても、折れてしまっても、再度聖霊の助けを求めて、キリストに生きるときに、私たちは、聖霊の力を感じ、主と共に歩く人生を行くことができると確信します。
どうぞ、この1週間、疲れても、弱っても、聖霊のうちにあって、成長していきたいと思います。
主に栄光あれ。ハレルヤ。
<ペンテコステの恵み>
本日の夕拝にSさんという姉妹が、初めて桜ヶ丘教会に来てくださいました。
主に感謝します。どうぞ、Sさんの上に、主の導きと祝福が豊かにありますように。

5月ゴールデンウィークの中の礼拝

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5月に入りました。若葉の緑も日々濃くなって、風もさわやかに私たちの前を通り過ぎていきます。
先週4月25日の礼拝では、「洗礼者ヨハネの証し」というお話でした。
イエス・キリストは「ことば」であり、「ロゴス」であるということ。洗礼者ヨハネは「声」であること。「ことばを伝える声」であるということを伺いました。
わたしたちも、イエス・キリストを伝える声として、生きていくことの使命があると伺いました。
今日5月1日の礼拝では、「神の小羊」というテーマでのお話でした。
神の小羊とはどのような方を指すのかということを教えていただきました。
それは、罪のためのいけにえの小羊、過ぎ越しの祭りの小羊、多くの者の罪を背負って屠り場にひかれていく小羊。
イエスは人類の罪を背負う犠牲の小羊として十字架上で屠られました。
洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエスが来られるのをみて言った。と聖書に記されれています。
洗礼者bヨハネが「わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。・・・・霊が降って、その人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と言われた。とあります。
わたしたちに聖霊が降ってくださるときに、救いは確かなものとして私たちのもとにあります。
今日は、声としての洗礼者ヨハネの存在と足跡の中に、私たちは神の証人である教会とキリスト者の原点を見出すということを教えていただきました。
わたしたちが声になることによって、この世は初めてキリスト・イエスに出会うことができるのだということです。
教会全体が一つの声をなる。教会が一つの声となって、人々の耳にイエス・キリストの言葉を届けているだろうか。そして、その声は確実にイエス・キリストを指しているだろうか。
メッセージを通し、声としての存在を、今一度深く考えさせられました。
清さとは、愛であるということについてもお話がありました。
この1週間、これらのことを踏まえて、誠実に過ごしていきましょう。

4月10日特別礼拝

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求めよさらば与えられん
説教者は、志木教会の牧師、横山基生先生でした。桜ヶ丘教会にホーリネスの群れからの問案ということで、おいでいただき、お話をしていただきました。
「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」マタイによる福音書7章7節
求め続けること、探し続けること、門をたたきつ続けること、この継続し続けることが必要であるというメッセージでした。
「与えられない、遅れる、与えられる」という3つの結果が予測されますが、神が時にかなう形で、私たちに必要なもの、良いものを、ご用意くださるということです。
継続して求め続け、探し続け、門をたたき続ける中で、若者は幻を見、老人は夢を見る。
求めるものは、成長する。健康になる。愛の人になる。この時代の真理がわかってくるということです。
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
マタイによる福音書7章12節
お互いに求め続ける中で、成長できる、愛の人になる鍵は、このような行為をしていけることなのだと思わされました。

イースター

イメージ 1イースター
イエス様の復活の喜びを心から嬉しく思います。
イエス様の復活は、死に勝利したイエス様が、私たちの中に生きてくださる恵みでもあります。
イエス様の十字架の死によって、すべてを失ってしまったような喪失感で使徒たち、婦人たちは、悲しみのどん底にあったことと思います。
しかし、復活という人間の思いや知恵を超えて、私たちの前にイエス様は現れました。
喪失感から、希望をもって歩むむことができる道をご用意くださいました。
イエス様と共にあることによって、私たちは新しく生まれ変わることができるのです。
イエス様は、昨日も、今日も、そしていつまでも変わることがなく、いてくださいます。
復活されたからです。
死に勝利されたのです。

3月の陽射しを浴びて

イメージ 13月の陽光が、こころにも柔らかく感じるこの頃です。
イースター、イエス様の復活の喜びを思いながら道々を歩きました。
十字架につけられたイエス様のこと思います時に、私たちの罪のいっさいを引き受けてくださったということについて、深く深く考え、復活の勝利の意味をも、しっかりと心で味わいたいと思います。
わたしたちは、それぞれ、皆改革を自分の内に求め、改革できるところはしていく必要があると先日某研修会でお聞きしました。
多様性を踏まえ、教会を見ていくことも大切であるとのこと。
角度を違えてみれば、違って見えることがあるとのこと。
違いを尊重し、調和していくことができるということを、教えていただきました。
ルターの宗教改革から500年を迎える前に、いま、私たちは、改革を自分の内に求めていくことが必要であることを感じます。改革は継続して行われて行かなければならない。
日常の生活に埋没することなく、霊に燃えて、主が語られる御言葉に耳を傾け、与えていただいている生命を大切に燃焼させたいと思います。

3月13日の礼拝

イメージ 1写真:3月13日礼拝の花
説教題
「死刑の判決を受ける」
マルコによる福音書第15章
6節~15節
過ぎ越しの祭りの時期には、囚人を赦すという特赦があったということです。
その時期に、総督ピラトは、イエスを特赦で赦すという選択もできたが、祭司長たちの扇動によって群衆が囚人バラバを赦すように求めたため、ピラトは群衆を満足させようと思い、
バラバを釈放したという話でした。
イエスは死刑の判決を受け、大悪人が許されたという出来事は、イエスが十字架にかかることによって、罪人がゆるされるという十字架の福音のひな型であるということです。
日々、私たちの心は、神の義、愛に反するような思い持つことがあります。
神を敬い愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいという主の御言葉を思い出すときに、何と遠いところに身を置いているのかと反省させられます。
主が、十字架の刑をどのように受け止められ、恐怖の時を過ごされたのか。
この痛みを、我がことのように思い過ごすことは、とても緊張を覚え、持続できません。逃げたくなります。
しかし、十字架の現実をしっかり見つめ、お赦しいただき、前に向かって進みたいと思います。
桜ヶ丘教会を主が用いてくださり、どうぞ、一人でも多くの方が、当教会でイエス様にお会いになることができますように。
祈りつつ、お待ち申し上げます。

2016年3月6日桜ヶ丘教会の礼拝

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写真:K/Kさん提供

2016年のイースター礼拝は3月27日ということで、この素晴らしい日を前にして、様々なことを思います。
昨日3月6日(日曜日)の礼拝説教は、「ピラトからの尋問」というテーマによるお話でした。
祭司長たちは、イエスを、ローマの総督ピラトのもとに連れていき、イエスを政治的騒乱罪のかどで訴えたということです。しかし、イエスは沈黙されたということです。
<マルコによる福音書第15章1節~5節>
『夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いていき、ピラトに渡した。
ピラトはイエスに、「あなたはユダヤ人の王であるか」と尋問しました。
イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
そこで、祭司長たちは、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。』
ウイリアム・バークレーは、この沈黙について、「沈黙が言葉よりも雄弁なときがある。なぜなら沈黙は言葉が決して言えないことを語り得るからである。」と言って、5つの沈黙があることを語っているというお話でした。
1 驚きと賛美の沈黙
2 軽蔑の沈黙
3 恐怖の沈黙
4 傷ついた心の沈黙
5 悲劇の沈黙
イエスの沈黙は、神の意志に従って、人類のためにしなければならないことを知っている方の沈黙である。
祭司、律法学者をはじめとするユダヤ人たちの心には憎しみの鉄のカーテンが張り巡らされ、ピラトの心は臆病の壁に覆われ、イエスの言葉をとおすことはない状況であった。このため、語るべきことがない悲劇の沈黙であったということでした。
憎しみ、臆病の心から、イエスを締め出して、十字架につけてしまうような人間。
そのような人間である私たちを、神が救ってくださるという復活の恵み。
日々、私たちの心は自分の思いでいっぱいになり、主の御心を思う気持ちが失せてしまいがちです。イエス様の想像を絶するような御苦しみを覚えるとともに、主の平安がこころを満たしてくださり、私たちを罪から救ってくださるように祈って過ごしたいと思います。

2月第4週目の礼拝に思うこと

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昨日の礼拝説教は
「ゲッセマネの祈り」というテーマでのお話でした。(マルコによる福音書第14章32節~42節)
イエス様が、ゲッセマネで祈られたところの箇所です。
「イエスはひどく恐れてもだえはじめ、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚まして祈っていなさい』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた『アッバ父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことがおこなわれますように』
それから、戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペテロに言われた『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」
こうして、弟子たちは、三度イエス様に同様のことを言われ、三度とも眠ってしまう。
この後に、イエス様は、ユダの裏切りによって律法学者などにとらわれてしまい、十字架への道を行かれるのです。
ゲッセマネの祈りの場へは、ペテロ(教会の基礎となった弟子)、ヤコブ(最初に殉教する弟子)、ヨハネ(信仰の遺産を残したと言われる弟子)の3人の弟子たちが一緒に同行しました。
神様の御子であるイエス様が、人間社会の罪人となるという杯を受けることになるという驚きの神の御心。
祈りは、聖霊に導かれるように祈ることが大切との話でした。わたしの思いではなく、御心のままにというところへ行く祈りである。この時のゲッセマネの園を思い浮かべると、とても想像がつかないほどに、重いイエス様の御苦しみを覚えます。
わたしたち人間の救いの道のために、神様が御子イエス様にお伝えになられた御心。
そして、主の憐みと愛を知っていても、なお、弱いわたしたち。
わたしたちの信仰生活は、弱い私たちを支えてくださる神様の愛とイエス様の憐みによるものであることを確信し、過ごしてまいりたいと思います。

家庭的なホッとするところでありたいと思いながら

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春がそこまで来ているのを感じます。梅の花が白く咲いて、新たな命の芽吹きの季節を、静かに教えてくれますね。
教会の礼拝堂に座っていると、イエス・キリストの十字架を見上げながら座っていると、自分の気ぜわしい思いが何故かスーっと落ち着くのを感じます。
「安かれ」とお声をかけてくださっているように思います。
昨日の礼拝の説教では、詩編139編からのお話でした。
主よ あなたは私を究め
私を知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
主はすべてをご存じであり、いつもそこにいてくださり、全能の力をもって、導いて下さるというお話でした。
どのような状況であっても、主はともにいてくださり、私たちの道をまっすぐにしてくださるということを、信じ、しっかりを歩みたいと思います。
桜ヶ丘教会は、家庭的なホッとする居心地で故郷に帰ってきたみたいと初めて来られる方々が言われます。
そのようなことを言っていただけると、嬉しくなります。
私たち信徒は、主にあって活かされることによって、教会のご奉仕もすることができます。主のために何かするということは、主とともに時間を共有できる恵みがあります。
年を取ってくると、私の人生の時間は、私だけのものではなく、神様からの贈り物と感じます。
この時間を、どのように使っていこうと考えます。お金は使ってしまえば無くなってしまいますが、みえない時間はどうでしょうか。時間も過ぎてしまえば消えてしまいますが、生きている限りは、今日も明日もいただけるのです。
小さな私達のひとりひとりを主はご存じでいてくださいます。感謝なことですね。
教会には、集まった人数分の個性が生きています。そして、それを見守り導いてくださるトップは神様です。
みんな正直に気負うこともなく集い、今日、明日と生きていく力を主からいただけるところです。
桜ヶ丘教会は今年の6月で、誕生から93年目になります。
2月28日には、2016年度にむけての計画等について話をする総会があります。
信徒みんなで、愛のあふれる教会となるように祈って歩みたいと考えています。
そして、主の栄光が現れますよう一丸となって進んでいきたいと思います。