「旧週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2017/5/21 週報メッセージ

   ペンテコステ礼拝を前にして                                                                 
                                                                                               朝位 真士
  神様は弟子たちに聖霊降臨の約束をなさった。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒一・八)今年のペンテコステ礼拝は六月四日(日)、ちょうど岸先生をお迎えしての特別集会の時である。そのために、私共はもっともっと祈りを献げなければならない。
 旧約聖書創世記一一章にバベルの塔の記事が出てくる。世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。しかし人類はバベルの塔を建設しようとした。塔が崩壊して、神は彼らを全地に散らされたので、彼らは町の建設をやめた。「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」(創世記一一・九)それ以来、人間関係の難しさが出てきた。特に、お互いの言葉が通じ合わないようになった。人が一番苦しんでいるのは、人間関係だと言われる。私たちは人間関係がうまくいかない時には「話し合いが十分できていなかった……」と後悔してしまう。しかし、話し合えばうまくいくのだろうか。「自分の思い、考えだけでことを運ぼうとし、相手を巻き込もうとしていなかったか」と自ら問いかけなければならない。キリスト者として、聖霊が働く空間を作っておいただろうか。私たちと隣人の間に聖霊の働く場を置くことが大切だと思う。親子の間、夫婦の間、嫁姑の間、友人の間、複雑な人間関係の中で、疲れてしまうことのないように、思い通りにいかない時、予期しない出来事に出会った時「間を取り」、聖霊なる神様の働きに身を委ねつつ前進していきたいものである。                       

2017/5/7 週報メッセージ

   教会が強くなるために                                                                                                                                                                                                                                             朝位 真士
 
 辻宣道師の『教会が強くなるために』という本に出会って、私は信仰の原点を感じた。イースター礼拝が終わり、ペンテコステに向かって教会の業が進んでいる。使徒時代に一二〇名の信徒達がエルサレムの二階座敷で祈っていると、聖霊が一人ひとりの上に降ったとある。
 私共の教会はホーリネス系の教会である。特色は四重の福音、新生、聖化、神癒、再臨であるが、最も強い特色は聖化(きよめ)である。その根本は祈祷と宣教である。最近、祈祷会も少しずつ祝福され、夕拝も祝福されている。私の母教会の北九州復興教会は、山中日出刃先生の時代に開拓伝道された教会である。先生は祈祷と宣教のビジョンに燃えていた人であった。私はその教会で救われた。辻先生の本に、「わたしは祈祷会は教会の柱だと考える。素朴な祈りを心の中でかみしめ、終わりに一緒にアーメンという時、ここで教会が支えられていると思う。弟子たちが祈っているところに聖霊はくだった(使徒一、二章)。聖霊の働きは教会をつくった。我々の教会もつくられている。たしかに。」とある。「我々の中には誰一人としてえらい人はいない。上から命令したり支配したりする者はなく、みんなキリストの体なる教会の一肢である自覚を持って、教会に仕えていくのである。」とも書かれていた。
 二〇一七年度、神の家族の一員として教会関係者一同、教会のために、個々人のために、他者のために祈り、神の業のためにお祈りしていこう。それによって教会が強化され、日本宣教・世界宣教の業が進展していくのではないだろうか。

2017/4/16 週報メッセージ

   イースター(復活節)を迎えて
                                   朝位 真士
 今日はイースター(復活節)礼拝である。原始教会において、イエス
の復活の出来事は終末論的出来事として、また信仰者の将来における復
活を保証する救済論的出来事として捉えられている。最古の復活のケリ
ュグマは、早期に信仰告白伝承(Ⅰコリ15・3b~5)と伝道説教型
(使2、3、4、5章)に組み込まれ、両者は原始教会において内と外
に方向づけられて併存した。Ⅰコリ15・3b~5と四福音書の復活顕現
伝承は、一部同一の復活顕現に淵源すると想定されるが、直接の接点を
もたない。両者の関係は従属的ではなく、相互補足的に捉えられねばな
らない。四福音書には「空の墓」の記事が記されている。この伝承の古
層は、もともと受難史のコンテキストにおいて復活のケリュグマとして
の機能を担ったのであり、おそらくはエルサレム教会にまで遡る。ヨハ
ネ20・3~10には「空の墓」の使徒的証明という弁明的動機が観察され
る。四福音書には「空の墓」の記事に続いて、復活者の「顕現伝承」が
記されている(マル16・9~18、マタ28・9~10、16~20、ルカ24・13
~35、36~48、ヨハ20・11~18、19~23、24~29、21・1~14、15~
25)。これらの諸伝承の伝承史的相互関係には、明らかでない点が多い
が、少なくともマル16・9以下は昇天記事(19、20節)も含め、他の福
音書の顕現を形成している。(『聖書辞典』より引用)

2017/3/26 週報メッセージ

神の家族
朝位 真士
 リック・ウォレン先生の『神の家族へようこそ』より学びましょう。
 私は何のために生きているのか。()神が私を造られたのは、私を愛するためである。()神が私を造られたのは、私が神との個人的な関係を楽しみ、すべての造られたものを治めるという役割を果たすためである。
 ()神を知り、神を愛し、神が私を造られたその目的に従って生きるとき、私の人生にすばらしい祝福がもたらされる。しかし、多くの人はそのような幸いな人生を送っていない。どこに問題があるのか。人間が、神が定められた人生の原則を無視して、勝手気ままに生きようとする生まれながらの欲望を持っている。聖書はこのような態度を「罪」と呼んでいる。ウォレン博士は、「解決はどこにあるのか」と語っている。キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14・6)と言っている。イエスはすでにあなたの罪の問題を引き受け、その代価を支払ってくださった。「罪から来る報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6・23
 天国は完全な世界である。しかし私たちは不完全である。私たちはどんなに努力しても神の基準に到達することはできない。しかし、キリストは、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださった。そして私たち一人ひとりを招いておられる。「もしあなたがわたしを受け入れるなら、あなたを天国へ迎え入れよう。しかし、それだけではない。この地上の生涯においても本物の人生を体験するようになるだろう。」と語っている。
 次回からは、神は私に何を願っておられるのかについて、学んでいきましょう。

2017/3/19 週報メッセージ

   神の家族                                                                 
                                                                                                                       朝位 真士
  リック・ウォレン先生の『神の家族へようこそ』より学びましょう。
 Ⅰ 私は何のために生きているのか
 (1)神が私を造られたのは、私を愛するためである。
 (2)神が私を造られたのは、私が神との個人的な関係を楽しみ、すべての造られたものを治めるという役割を果たすためである。神を知り、神に知られること、そして神を愛し、神に愛されること、これが私たちが創造された目的です。
 (3)神を知り、神を愛し、神が私を造られたその目的に従って生きるとき、私の人生にすばらしい祝福がもたらされる。それは、きよい良心(ローマ8・1)、いのちと平安(ローマ8・6)、人生の目的(ローマ8・28)、確信(ローマ8・31)、生きる力と強さ(ピリピ4・13)、必要の満たし(ピリピ4・19)などです。弱さを覚えている人には助けが与えられ(ローマ8・26)、災いが降りかかってきたときには守りが与えられ(ローマ8・39)、何かに捕らわれている人には自由が与えられます(ヨハネ8・32、36)。これらはみな、キリストとの個人的な関係によって与えられる祝福です。キリスト教は、イエス・キリストとの個人的な交わりです。神は私たちがいのちと平安に満たされ、目的と確信をもって生きることを願っておられます。しかし、多くの人は幸いな人生を送っていません。次に何が問題なのか。一言でいえば、勝手気ままに生きようとする生まれながらの欲望を持っています。しかし、聖書はこのような態度を「罪」と呼んでいます。罪は、神との親しい関係を破壊します。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言16・25)しかし、私たちの魂が本当に必要としているものは、神との交わりです。
 次回は、「解決はどこにあるのか」を学びましょう。                                                 

2017/3/12 週報メッセージ

   神の家族
                                                                                                          朝位 真士
  リック・ウォレン先生の『神の家族へようこそ』より学びましょう。
 私は何のために生きているのか
 1、神が私を造られたのは、私を愛するためである。神は言われました。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」(エレ31・3)また、エフェソ1・4~5、「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」みなさん一人ひとりは、神に愛されるために造られたのです。
 2、神が私を造られたのは、私が神との個人的な関係を楽しみ、すべての造られたものを治めるという役割を果たすためである。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創1・27~28)聖書はまた次のように教えています。「むしろ、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモ6・17)神は、私たち人間を全被造物の冠とされました。アダムとエバ以来、世界を治めるという仕事は、私たち人間の手にゆだねられているのです。神の代理人として誠実にその責任を全うしていくとき、私たちは真の充実感を味わうことができるのです。主イエスは言われました。「わたしが来たのは羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10・
10)イエスが来られた目的が、私たちにいのちを与えるためであったとすれば、私たちはイエスを知ることなしに本当のいのちを体験することができません。つづく。

2017/3/5 週報メッセージ

   神の家族
                                                                                                           朝位 真士
  リック・ウォレン先生の『神の家族へようこそ』より引き続いて学びましょう。
 「一つの家族」として結び合わせているものは四つあります。一、私たちの救い―神が私たちのためにしてくださったこと。二、私たちの声明―わたしたちの教会の存在意義と目的。三、私たちの戦略―その目的をどう実現していくのか。四、私たちの構造―いつどこでその目的を実現していくのか。
 一、私たちの救い―救いの象徴として行われてきた大切な二つの礼典―バプテスマと聖餐―「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3・26~28)
この箇所で、私たちが神の子どもとされたのは、教会やバプテスマや良い行いによってではなく、「キリスト・イエスに対する信仰によって」と言われている点が重要です。私たちがクリスチャンになって神の家族の一員とされたときから、神の教会に人種差別や性差別、民族主義といったものの入り込む余地はありません。
 次に、だれもが幸せになりたいと考えている主なる三つのこと。一、物を所有すること。二、快楽を経験すること。三、名声と権力を得ること。人はこれらのことによって幸せになろうとします。しかし本当の幸せは、自分の人生の目的を理解することによって得られます。自分の生きる目的を知り、理解することです。
 次回からは、私は何のために生きているのか、何が問題なのか、解決はどこにあるのか、神は私に何を願っておられるのかについて学んでいきましょう。

2017/2/26 週報メッセージ

   神の家族
                             朝位 真士

 リック・ウォレン先生の『神の家族へようこそ』より引き続いて学びましょう。
 キリストに自分をゆだね、また神の家族である他のクリスチャンたちに自分をゆだねていくことは、クリスチャンとして成長していく上で必要不可欠な要素です。毎週、私たちの教会にはさまざまな人たちが集まって来ます。性格、家族構成、教育、仕事、出身など、みな異なった背景を持っています。このようにさまざまな人たちが集まっている私たちの教会を「一つの家族」として結び合わせているものは何か、四つの項目を学びます。
 一、私たちの救い―神が私たちのためにしてくださったこと。二、私たちの声明―私たちの教会の存在意義と目的。三、私たちの戦略―その目的をどう実現していくのか。四、私たちの構造―いつどこでその目的を実現していくのか。
 一、私たちの救い
 最初に、クリスチャンになるとは正確には何を意味するのか。そして救いの象徴として行われてきた大切な二つの礼典―バプテスマ(洗礼)と聖餐―について見ていきましょう。(つづく)

2017/2/12 週報メッセージ

   神の家族
                                                              朝位 真士
 先週に引き続き、リック・ウォレン博士の書物より「神の家族」につ
いて学んでいきましょう。「あなたがたは、まさに神の家族の一員であ
り、他のすべてのクリスチャンとともに神の家に属しているのです。」
(エペ二・一九)
 二、神はあなたが神の家族の一員(メンバー)になることを望んでお
られる。「神の家族の一員である」と教えられています。これが神の望
んでおられることです。すべてのクリスチャンは、神の家族の一員にな
るべきだということです。クリスチャンになった時から「普遍的教会」
の一員になりました。それと同時に、自分を養い育ててくれる特定の家
族(地域教会)につながる必要があります。
 三、クリスチャンが教会の交わりに加わらなければ、家族のいない孤
児のようになってしまう。クリスチャンの中には「浮草クリスチャン」
と呼ばれる人たちがいます。毎週いろいろな教会を行ったり来たりする
クリスチャンです。教会めぐりを延々と繰り返すのです。地域教会につ
ながっていなければ、やがて霊的な命が息絶えてしまいます。教会の一
員になるとは、次のように言うことができるでしょう。「これが私の教
会です。この神の家族の交わりの中で、私は与え、受け取り、仕え、仕
えられ、愛し、愛されることを学んでいきます。」
  私たちは自分の教会、桜ヶ丘教会を大事にしていきましょう。キリス
トの体の一部とされた私たちですから。

2017/2/19 週報メッセージ

   神の家族
                             朝位 真士
 前号に引き続き、「神の家族」について、リック・ウォーレン先生の書物より引用します。
 一、教会は神の家族である。
 二、神はあなたが神の家族の一員(メンバー)になることを望んでおられる。すべてのクリスチャンは、神の家族の一員になるべきだということです。聖書においては、「教会」という言葉は二つの異なった意味で使われています。一つは歴史上のすべてのクリスチャンを指して使われている場合で、これを「普遍的教会」と呼んでいます。イエス・キリストを唯一の救い主と信じているクリスチャンはすべて、この「普遍的教会」の一員です。一方「教会」という言葉が、ある特定の地域の限定されたグループを指して使われていることもあります。これを「地域教会」(各個教会)と呼んでいます。クリスチャンになったその瞬間に神の家族の一員とされた私たちは、自分を養い育ててくれる特定の家族(地域教会)につながる必要があります。
 三、クリスチャンが教会の交わりに加わらなければ、家族のいない孤児のようになってしまう。あなたはキリストの体の一部とされたのだと教えています。あなたは、キリストの手であり、耳であり、目であり、鼻であり、内臓なのです。私たちはキリストに人生をささげる(ゆだねる)ことによってクリスチャンになります。そして、他のクリスチャンに自分自身をささげる(ゆだねる)ことによって教会の一員となるのです。