2015/11/22 週報メッセージ

   ホーリネスへの招き
                                                                                                         朝位 真士
  11月9日から11日までホ群のセミナーが開催され、主講師の錦織寛師の『ホーリネスへの招きーわかりやすい聖化の話』という本を中心としたユーモアに満ちた講義がありました。前号に引き続き記載します。
 Ⅱ、神の恵みとしての「聖化(きよめ)」 本当に私たちはきよくなれるのでしょうか。聖書は私たちががんばってきよくなるようにとは教えていません。がんばって自力できよくなったと思っている人はきっと他の人たちを見下すようになります。これは神さまの約束してくださっている「恵み」であり、求める人に与えられるものなのです。序、神の選びと召し(申7・6、イザヤ43・1、エフェソ1・4)①主イエス・キリストの十字架、その血によって(Ⅰヨハネ1・7、ローマ6・6)②注がれた聖霊によって(Ⅱテサ2・13、エフェソ5・18~19)③いのちの御言によて(ヨハネ一17・15~17、エフェソ5・26~27)
 Ⅲ、聖化の道 ①救い ②罪理解の深化 ③聖化への渇き ④第二の転機としての聖化 ⑤実際生活の中で聖化に生きる……聖化の深まりと拡がり ⑥主の再臨の時における聖化の完成(栄化)
 Ⅳ、聖化の経験をするためにーきよめの恵みを経験するために、私には何が必要でしょうか。①罪の悔い改め(Ⅰヨハネ1・9、Ⅰテモテ1・15、イザヤ6・5、イザヤ57・15、イザヤ66・2)②全き献身(ローマ12・1)③信仰(使徒15・9)
 Ⅴ、聖化の継続的側面と聖化の完成 ①成長していく完全(Ⅱコリ3・18)②聖化に成長を与えるもの、個人として、教会の歩みの中で、兄弟姉妹たちと共に ③聖化の完成としての栄化(Ⅰテサ5・23~24)「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」

2015/11/15 週報メッセージ

   ホ群信徒・教師共同セミナーに出席して                                                                                                                             朝位 真士
  11月9日から11日までホ群のセミナーが開催された。今回は「わかりやすい聖化ー結成70周年を前に」というテーマで、主題講演講師の日本ホーリネス教団東京聖書学院院長・東京中央教会牧師である錦織寛先生を中心に行われた。聖会Ⅰ、司会宗盛興師、説教伊奈聡師、「信仰者の土台」(Ⅰテサ1・2~5)。聖会Ⅱ、司会高橋容子師、説教西海満希子師、「上にあるものを求めよ」(コロサイ3・1~17)。閉会礼拝、司会坪内時雄師、説教村上義治師、「神の民の試練」。パネルディスカッション「ホ群における聖化」、司会井上博子師、パネリスト島隆三師、都築英夫師、澤田武師、山本博之師。最後には、村上委員長より、ドイツ・ボン教会への教団派遣師佐々木良子師(小松川教会)の牧師任命式が行われた。 
   主講師の錦織寛師は「ホーリネスへの招きーわかりやすい聖化の話」という小冊子を通して「わかりやすい聖化」について語られた。序、なぜホーリネスが分からないのか。1、整理して学んだことがないー整理されていない?。2、踏むべきステップを踏んでいない。3、きよめが恵みでなくなってしまっている。4、きよめについて誤解。①きよめられたら罪を犯さなくなる。②きよめられても罪を犯すのは仕方がない。③きよめは救いの完成(または一つ上のステージ)である。④きよめに到達できるのはごく少数の者たちである。⑤きよめを得るためには私たちの努力が大切である。5、自称きよめられた人につまずいた。6、必要性を感じていない。
 Ⅰ、「聖」ということ。1、神は聖なるお方だから。2、私たちは神のもの(聖なる者)だからー神のためにとりわけられたもの……「聖」の本質。3、神のものにふさわしいものとしての「聖」の実質。①罪から離れる。②自我の死。③キリストが主として内住される。④キリスト者の完全。⑤動機が愛。⑥喜びのうちに僕として仕える(礼拝する)、自由に生きる。⑦御霊の実を結んでいく。⑧勝利の生活。⑨神の栄光を表すー宣教。                                               
 
次号へ続く。

召天者記念礼拝も過ぎて

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写真:K/Kさん提供
2015年11月1日、「召天者記念礼拝」を終えて、12月のクリスマスシーズン到来を感じる日々となりました。
11月8日には第2週の聖日礼拝を守り、いつもの日常的な日曜日を過ごし、月日の過行く様を考えるところです。
戸外では、秋も深くなり、木々の葉っぱが日増しに色付いて、道行くときには、落ち葉を気にするような時節となりました。
過日、日本聖書神学校講演会会報を読んでいましたら、小石川白山教会竹島敏牧師の「献身者の喜び」という記事が心にとまりました。
竹島牧師を存じ上げていないのですが、何か、桜ヶ丘教会の皆様においても、心に少し留めてめていただけると嬉しいなと思い、一部を掲載させていただきます。
「絆とは、無理に結び合おうとすることではなくて、互いの弱さをさらけ出していくなかで、イエスが、時間をかけて結びつけてくださるものなのではないでしょうか。だとすれば、教会においても、互いの弱さをもっと素直に出せるような交わりが生み出せるように、と私は願っています。そのためには、牧師がもっと素直に自らの弱さを出せるようになった方がいいのではないか、と思っています。・・・・私達は、互いに理解しあっているから教会に一緒にいるわけではないと思います。逆に理解できていないから、教会に集まっているのではないかと思います。そして、お互いのことを少しずつでもわかりあいたいと。そのためには、普段の強がりから少し解放されて、少しずつでも本当に弱いままの自分をさらけ出してみよう、と、そういう気持ちになって、教会に集まってきているのではないでしょうか。きっと私達一人一人の弱さを祝福し、互いの絆にしてくださるイエス様の御導きを信じて、私も教会で養われながら、歩ませていただきたいと、それが、私の、一献身者の喜びなのだと思っています。・・・・」
桜ヶ丘教会の朝位牧師、フミ子牧師、両先生は、いつも、「私たちも、失敗してきたの、そして、人間だから失敗もあるのよ」と言われ、私たちの力を抜いてくれます。
教会には、様々な方が来られます。一般組織の理屈や理論ではなく、神様の家族としての理論に基づいて絆を結びつけていただくことが、教会にとって大切なことであると、改めて思う次第です。

2015/11/8 週報メッセージ

   生命ある説教の秘訣
                                                                                                       朝位 真士
  キリスト教逸話例話集に次のような文章が記載されていた。
 
  ヘルムート・ティーリケ(一九〇八~八六)はドイツの有名な神学者であり優れた説教者でもあった。彼は
 ハイデルベルク大学の教授をしていたが、一九四〇年ナチスにより追放され、さらに一切の旅行や講演を禁
 止された。彼はこれに屈せず説教や講演を続けた。
  一九四二年から数年間、戦時下のシュトットガルトで毎週説教をしたが、軍人を含むあらゆる階層の人々が
 三〇〇〇人も集まって、彼の話に熱心に耳を傾けたと言われている。さらに驚くべきことは、説教が終わると
 二〇〇人ばかりの女事務員が残り、集めてきた古紙にティーリケが口述する要旨を書き写し、それが次々に
 人手に渡り前線にまで届いたと伝えられている。当時、空襲下において印刷することが不可能だったからであ
 る。
  なぜ彼の説教がそれほどの力と命を持っていたのか、その秘訣を彼に尋ねたところ、彼は「単に頭で考えた
 ことではなく実践によって確かめられ、また、しばしば十分な苦難とともに学んだ真理のみをのべ伝えようと
 激しい努力を傾けるようになりました」と答えた。
 
 以上のように記載されていた。特に印をつけている所に注目していただきたい。聖書の中に記されているパウ
ロ書簡を見ると、最初は教理的な部分(キリスト教教理または教義)を書き、後半に実践的な部分を書いている。
 私は町内の清掃ボランティアをしている時、いつも自分の語った説教をイヤホーンで聴きながら、楽しく奉仕しているが、もっともっと聖書に精通し、祈りを熱心にしていかねばと思う。また会衆の皆様方が、礼拝の御用に当たる牧師、信徒、奉仕者の方々のため、毎日数分でも祈って助けて欲しい。何よりも礼拝出席を厳守して欲しい。万物の終わりが近づいている。また礼拝出席も限られているので、悔いのない日々を送りたいものである。

2015/11/1 週報メッセージ

   召天者記念礼拝を迎えて
                                                                                                        朝位 真士
  日本キリスト教団では、11月の第1聖日が「聖徒の日」となっています。この日は、信仰の先輩たちのことを想起しながら、お互いが担っている使命を自覚することが必要です。この「召天者記念礼拝」に特別な基準はありませんが、キリスト教の歴史と伝統の中では、死後3日目、9日目、40日目など、主の復活の告知を表す3またはそれをさらに3倍した9、それに聖書的に象徴的な40に基づいた日数、年数などによる考え方があったようです。教会の暦に関連して死者を記念することがキリストにあって意味づけられ、関係者が集まってもつ記念会に「主にあって共に生き、共に主をあかしする」性格が明らかにされるからです。教団の教会としての公同の記念礼拝は、聖徒の日、復活節、あるいは地方によっては日本のお盆の頃に関係者を集めて行われます。
 仏教の僧侶から牧師になられた松岡先生が、ある文章で次のように書いていました。
 
  神様に対する信頼ー聖書は、神様が天地万物を創造し、私たち人間を造られたという記述で始まっていま
 す。すべてのことが神様によって動かされ、導かれているということが、聖書を貫くテーマであり、キリスト教の
 信仰の根本です。したがって、いつも主役は神様です。葬儀でも、主役は神様なのです。神様がその人を救
 い、天国に迎え入れてくださるのです。亡くなった人がこれから修行をして、仏になるために葬儀を行う仏式の
 葬儀は、亡くなった人に重点が置かれます。キリスト教の葬儀では、何か神様ばかりが注目され、亡くなった
 人はあまり重要視されていないような感じがするかもしれません。このことも、キリスト教の信仰における、神
 様に対する絶対的な信頼の表れといえるでしょう。
 
 信じる人がこの世の命を終えることは、最後まで信仰を保ち続けたということであり、間違いなく天国に迎え入れられるのだと信じるのです。

2015/10/25 週報メッセージ

   宗教改革記念を間近に控えて
                                                                                                        朝位 真士
  10月31日に近い聖日は、プロテスタント教会では「宗教改革記念日」として礼拝を用います。マルティン・ルター(1483~1546)はドイツ中部の農村に生まれ、1505年にエルフルト大学文学部を終え、法学部入学直後、雷雨の中で死の恐怖を経験して修道士になる決意をし、同年アウグスチヌス派修道院に入り、神学博士となり、ヴィッテンベルク大学神学部教授に就任。1517年に同大学の門扉に「95ヶ条の提題」を提示したのが
10月31日頃です。
 プロテスタントの三大原理は、①聖書のみ、②万人祭司、③信仰のみです。カトリックは聖書の他に伝統や神の召命を受けた聖職者を重んじています。プロテスタント教会では、聖職者だけでなくすべての信徒が神にとりなしの祈りをすることができ、直接的に神と交わることができるのです。そして端的にイエス・キリストを救い主として信仰する時に、すべての人が救われます。
 ローマ1章17節「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」「正しい者は信仰によって生きる」という言葉はハバクク書2章4節の引用ですが、義人は生き残ります。「生きる」とは「救われて生きる」という意味であり、「信仰によって」は、「信じるすべての人」に相対しています。「正しい人」「義人」は、神の義を与えられた人のことです。救いを受けるうえで、キリストにおいて与えられる神の義にのみより頼む信仰は、主にのみより頼む旧約の信仰と本質的に同一のものです。
 ルターの宗教改革を前にして、私たちの信仰をもう一度振り返る必要があるのではないでしょうか。

10月25日チャペルコンサート

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写真:K/Kさん提供
暖かい秋日和が続き、心も晴れやかに過ごすことができ、紅葉の時がそこまで来ていることを忘れてしまいそうです。
さて、桜ヶ丘教会では、2年前から10月のこの時期にチャペルコンサートを開催しています。
2015年度は、以下の日時です。
10月25日(日曜日)
午後1時から
ヴァイオリン:吉岡篤志氏
ピアノ:村岡紗由子氏
メッセージ:朝位真士牧師
どうぞ、どなた様もご自由においでいただき、芸術の秋にふさわしいひと時を教会でお過ごしいただければと思います。
 なお、10月18日の聖日礼拝の後に、M兄弟とT姉妹の召天を覚え、お二人をしのぶ会を開催することができました。
 婦人会とホープ会を合同で開催し、昼食を取りながら、思い出話などをさせていただき、お二人がまるで同席しているような気分になりました。
私たちは、桜ヶ丘教会が、今後とも主に用いられるように、忠実な主の僕として歩んでいきたいと思います。
桜ヶ丘教会が、十二分に教会としての働きができますように、主に一人ひとりを導いでいただきましょう。背伸びをしようとしても、主がすべてをご存知です。
日々、主に育てていただき、各自、目標を持たせていただき、進んでいきたいと思います。

2015/10/18 週報メッセージ

   JHA30周年記念大会に出席して 
                                                                                                          朝位 真士
 
  10月12日から13日迄、日本聖化協力会(JHA)の30周年記念大会に出席した。講師はジョン・N・オズワルト博士である。オハイオ州出身で、テイラー大学、アズベリー神学校を卒業後、プランダイス大学で哲学博士号を取得。学びの分野は旧約学、特に古代中東の宗教との対比におけるヘブル宗教の成立である。アズベリー神学校、トリニティ神学校、ウェスレー・ビブリカル神学校で旧約学を教え、一時アズベリー大学の学長も務められた。現在はアズベリー神学校の客員教授を務めておられる。
 聖会Ⅰでは、ローマ12章1~2節「変貌される生涯」と題して、明け渡すということについて4つの点を語られた。①自分の意志を明け渡す。②自分の達成感を明け渡す。③自分を引き上げようとすることを明け渡す。④自己満足を明け渡す。結論は、この世と調子を合わせず、自分の体を神に献げることである。
 聖会Ⅱは、Ⅰヨハネ4章7~21節「全き愛」。クリスチャンの信仰を証明するものは、①従順②愛③信仰である。愛は一般的に、①ストルゲー(幼な子に対する母親の愛)、②フィレオ(友達の親愛の情)、③エロス(一般的に性的愛と言われるが、自分が満たされるために必要な愛)の3つと言われる。しかし聖書の語る愛はアガパオー、アガペー、神の愛であり、自分を否定し誰かのために与えていく犠牲的愛である。旧約ではヘセドといい、慈愛ともいう。無償の恵み、ホセア書に出てくる不変不滅の愛である。
 聖化とは、「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。」(Ⅰテサ4章3節)にある。私たちが聖く生きることは主の御心にかなったことであり、その生涯は喜びと幸いに満ちている。この聖会は私の人生にとっても新たな決意の時となり、誕生月に2つの誕生を迎えた。                                     

2015/10/11週報メッセージ

   誕生日を迎えて
                                                                                                          朝位 真士
 
  10月6日、私は誕生日を迎えました。詩編139編13~14節「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった。わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものかわたしの魂はよく知っている。」
 18歳で教会に導かれ、受洗し、会社に勤務し、献身し、神学校を卒業して、40年経過。その間、2つの教会を牧会させていただき、東京へ転任して21年目。新会堂建設の恵みにもあずかりました。しかし、現住陪餐の半数以上を天国へ送りました。私は最近、開拓伝道と教会形成のため、密室の祈りを欠かせません。教会の諸集会は勿論ですが、他の奉仕として、キリスト伝道会のエヴァンジェリスト、教誨師、篤志面接委員として、小さな奉仕をさせていただいています。近所では、ボランティアと町内の清掃隊のメンバーとして奉仕させていただいています。最近嬉しいことは、携帯用の聖餐式セットを教会で購入していただいたので、ホームに入っておられる方や、御自宅におられる方で高齢のために教会に来られなくなった方の所へ、信者の有志の方々と訪問させていただくことです。また礼拝に来られなくなった方々を訪問したり、印刷物を送付させていただいたり、メールで連絡を取り安否確認をさせていただき、毎日教会員をはじめ、教会に関係しておられる方々のお祈りをさせていただきます。
 祈るときには自分も恵まれ、信仰が生き生きとしてくるものです。クリスチャンの実業家の方々のためにも、キリスト教関係の事業のため、キリスト教団体のため、世界の平和、政治・経済、教育のためにもお祈りしています。祈りは時間が足りません。本当に祈りは楽しいものです。皆様方も、毎日少しずつでも祈りの世界に御一緒できればと祈っています。教会の将来のために、特にお祈りください。

10月を迎えて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
10月の朝は、秋が深まって来ていることを私たちに知らせてくれています。
さて、10月第一聖日の桜ヶ丘教会では、この夏に2人の信徒の方が天に召されて寂しさを隠せませんが、新たに桜ヶ丘教会の礼拝に御出席になる方も与えられて、少し嬉しく思っております。
また、10月1日の昼の祈祷会にも、新たな方がおいでくださいました。
日曜日礼拝では、高価なナルドの香油をイエスさまの頭に注がれた女の話を通して、最も大切なものを献げることの意味を教えていただきました。
女の注いだ香油は、お金に換えれば貧しい多くの人に施すことも出来ました。
そのことでそこにいた何人かは、女に憤慨して厳しくとがめたとあります。
しかし、イエスは、女のイエスに対する信頼を理解され、女が一生を通じて1回しかないイエスに対する配慮の機会をとらえ、女が十分な愛をしめしたことに、重要な意味があることを諭されたのです。神に対する信頼の行為は、たとい人の目に愚かに見えなんの意味もない無駄なものと思われても、キリストによって意味が与えられるというのです。永遠性を持った行為となると教えていただきました。
ウイリアムバークレーが、この語全体を愛の行為として4つ上げているとのことでした。
1つは、女のしたことは美しい事であった。
2つは、もし愛が真の愛であれば、常にそこにはある種の浪費があるに違いない。
3つは、愛はそれを行う機会がただ1回限りしかないことがあるということを知っている。
4つは、もう一度我々はイエスに破りがたい確信をみるのである。
神様に献げるときに、余っているものを献げるというような事ではなく、大切なものを献げることが重要であるということを、この女の香油注ぎの話から理解できます。
どうぞ、与えていただいている命や時間、財的なものなど・・・・恵みを感謝し、主にささげることを考えたいものです。

1923年6月1日創立