2016年3月6日桜ヶ丘教会の礼拝

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写真:K/Kさん提供

2016年のイースター礼拝は3月27日ということで、この素晴らしい日を前にして、様々なことを思います。
昨日3月6日(日曜日)の礼拝説教は、「ピラトからの尋問」というテーマによるお話でした。
祭司長たちは、イエスを、ローマの総督ピラトのもとに連れていき、イエスを政治的騒乱罪のかどで訴えたということです。しかし、イエスは沈黙されたということです。
<マルコによる福音書第15章1節~5節>
『夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いていき、ピラトに渡した。
ピラトはイエスに、「あなたはユダヤ人の王であるか」と尋問しました。
イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
そこで、祭司長たちは、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。』
ウイリアム・バークレーは、この沈黙について、「沈黙が言葉よりも雄弁なときがある。なぜなら沈黙は言葉が決して言えないことを語り得るからである。」と言って、5つの沈黙があることを語っているというお話でした。
1 驚きと賛美の沈黙
2 軽蔑の沈黙
3 恐怖の沈黙
4 傷ついた心の沈黙
5 悲劇の沈黙
イエスの沈黙は、神の意志に従って、人類のためにしなければならないことを知っている方の沈黙である。
祭司、律法学者をはじめとするユダヤ人たちの心には憎しみの鉄のカーテンが張り巡らされ、ピラトの心は臆病の壁に覆われ、イエスの言葉をとおすことはない状況であった。このため、語るべきことがない悲劇の沈黙であったということでした。
憎しみ、臆病の心から、イエスを締め出して、十字架につけてしまうような人間。
そのような人間である私たちを、神が救ってくださるという復活の恵み。
日々、私たちの心は自分の思いでいっぱいになり、主の御心を思う気持ちが失せてしまいがちです。イエス様の想像を絶するような御苦しみを覚えるとともに、主の平安がこころを満たしてくださり、私たちを罪から救ってくださるように祈って過ごしたいと思います。

2016/3/6 週報メッセージ

   からし種の信仰
                                                                                                           朝位 真士
  「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13章31~32節)
 からし種は聖書で神の国の早い成長と信仰の偉大な力にたとえられている。これは学名クロカラシという植物の種である。パレスチナに野生する1年草で4~6月ごろ黄色の十字花が咲き、やがて黒色の種子をつける。
 その種はケシ粒ほどの「どんな種よりも小さな」(マタイ13・32)ものであるが、一旦蒔くと芽生えて1年もたたないうちに、野生のものは馬の上に乗った人ぐらいの高さになり、栽培種は4メートルぐらいの高さに達し、太さはいずれも人の腕ぐらいになる。実にめざましい成長である。実がなると、鳥がその種をついばむためと休息に、よく集まってくる。種はしぼって油をとり、茎や殻は家畜の飼料となる。(『キリスト教逸話例話集』より引用)
 私は、神学生時代の1971年に故小原順子先生よりこのからし種をいただいた。今も大事に持っている。御父君の小原十三司師は淀橋教会の主任牧師で、当時の校長先生であった方だが、淀橋教会の講壇の左右に「からし種1粒ほどの信仰があるなら」「神には、なんでも出来ない事はない」という御言葉を掲げておられた。
 先日の桜ヶ丘教会の総会は人数が少なかったが、たとえ目に見えるかたちはからし種のように小さくても、そこに主イエス・キリストを救い主と純粋に信じる群れがあるとしたら、「小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という御言葉の通りである。桜ヶ丘教会の将来は決っして悲観すべきではなく、希望と信仰をもって前進したいものである。種に栄光あれ!!

2016年イースター礼拝について

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写真:K/Kさん提供
2016年のイースター礼拝は
3月27日(日曜日)10時半からです。
説教「イエスの復活」というテーマで、朝位真士牧師よりお話をいただきます。
イースターエッグも用意しております。
どうぞ、イエスキリストの復活をお祝いする礼拝に、ご出席ください。
教会が初めてという方も、是非いらしてくださいませ。
イエス様の誕生、十字架の死、そして復活へと続くこの大きな神様の憐み、お恵みを、桜ヶ丘教会で皆様とともに分かち合い喜び賛美できることは、本当に嬉しいことです。

2月第4週目の礼拝に思うこと

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昨日の礼拝説教は
「ゲッセマネの祈り」というテーマでのお話でした。(マルコによる福音書第14章32節~42節)
イエス様が、ゲッセマネで祈られたところの箇所です。
「イエスはひどく恐れてもだえはじめ、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚まして祈っていなさい』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた『アッバ父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことがおこなわれますように』
それから、戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペテロに言われた『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」
こうして、弟子たちは、三度イエス様に同様のことを言われ、三度とも眠ってしまう。
この後に、イエス様は、ユダの裏切りによって律法学者などにとらわれてしまい、十字架への道を行かれるのです。
ゲッセマネの祈りの場へは、ペテロ(教会の基礎となった弟子)、ヤコブ(最初に殉教する弟子)、ヨハネ(信仰の遺産を残したと言われる弟子)の3人の弟子たちが一緒に同行しました。
神様の御子であるイエス様が、人間社会の罪人となるという杯を受けることになるという驚きの神の御心。
祈りは、聖霊に導かれるように祈ることが大切との話でした。わたしの思いではなく、御心のままにというところへ行く祈りである。この時のゲッセマネの園を思い浮かべると、とても想像がつかないほどに、重いイエス様の御苦しみを覚えます。
わたしたち人間の救いの道のために、神様が御子イエス様にお伝えになられた御心。
そして、主の憐みと愛を知っていても、なお、弱いわたしたち。
わたしたちの信仰生活は、弱い私たちを支えてくださる神様の愛とイエス様の憐みによるものであることを確信し、過ごしてまいりたいと思います。

2016/2/28 週報メッセージ

   『かみさまのゆめ』を読んで
                                                            朝位 真士
  私は月1回少年院で講話をしています。その時読んだ『かみさまのゆ
め』という本に感動したので、皆様に紹介します。作者はデズモンド・
ツツ大主教とダクラス・カールトン・アブラムスで、村松泰隆訳、ファ
ム・レ=ウィエン絵で、大変わかりやすい絵本です。
  かみさまのゆめはね たがいに よろこびをわかちあうこと。かみ
 さまのゆめは たがいに おもいやること。……みんなが たがいを
 たいせつに しあうとき かみさまの こころの かけらは あつま
 って、ひとつのものに なるんだ。かみさまの ゆめは わたしたち
 が みんな きょうだいしまいなんだって きづくこと。……かみさ
 まの ゆめは どうすれば かなうかしっているかい?  それは と
 っても  かんたんなこと。わけあったり たいせつにしたり おもい
 やったりするなら。……さあ かみさまの ゆめが かなうように
 てつだってくれないかい? きみに ひみつを おしえてあげよう。
 ……そう きみが てつだってくれるとね かみさまは あの にじ
 のような えがおに なるんだって。
 少し長い文を引用しましたが、私をこの本を子供達に読み聞かせなが
ら、少女達の目の輝きを感じました。教会の中でも、このようなことを
実行できたら、互いに仲良く楽しい仲間になると信じたいと思います。
主イエス・キリストの愛の交わりのある所に実現されると祈るものであ
ります。 

家庭的なホッとするところでありたいと思いながら

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春がそこまで来ているのを感じます。梅の花が白く咲いて、新たな命の芽吹きの季節を、静かに教えてくれますね。
教会の礼拝堂に座っていると、イエス・キリストの十字架を見上げながら座っていると、自分の気ぜわしい思いが何故かスーっと落ち着くのを感じます。
「安かれ」とお声をかけてくださっているように思います。
昨日の礼拝の説教では、詩編139編からのお話でした。
主よ あなたは私を究め
私を知っておられる。
座るのも立つのも知り
遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け
わたしの道にことごとく通じておられる。
主はすべてをご存じであり、いつもそこにいてくださり、全能の力をもって、導いて下さるというお話でした。
どのような状況であっても、主はともにいてくださり、私たちの道をまっすぐにしてくださるということを、信じ、しっかりを歩みたいと思います。
桜ヶ丘教会は、家庭的なホッとする居心地で故郷に帰ってきたみたいと初めて来られる方々が言われます。
そのようなことを言っていただけると、嬉しくなります。
私たち信徒は、主にあって活かされることによって、教会のご奉仕もすることができます。主のために何かするということは、主とともに時間を共有できる恵みがあります。
年を取ってくると、私の人生の時間は、私だけのものではなく、神様からの贈り物と感じます。
この時間を、どのように使っていこうと考えます。お金は使ってしまえば無くなってしまいますが、みえない時間はどうでしょうか。時間も過ぎてしまえば消えてしまいますが、生きている限りは、今日も明日もいただけるのです。
小さな私達のひとりひとりを主はご存じでいてくださいます。感謝なことですね。
教会には、集まった人数分の個性が生きています。そして、それを見守り導いてくださるトップは神様です。
みんな正直に気負うこともなく集い、今日、明日と生きていく力を主からいただけるところです。
桜ヶ丘教会は今年の6月で、誕生から93年目になります。
2月28日には、2016年度にむけての計画等について話をする総会があります。
信徒みんなで、愛のあふれる教会となるように祈って歩みたいと考えています。
そして、主の栄光が現れますよう一丸となって進んでいきたいと思います。

2016/2/21 週報メッセージ

   教会が強くなるために
                                                                      朝位 真士
 「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」
                         詩一二六編五節
  わたしは、祈祷会は教会の柱だと考える。素朴は祈りを心の中でかみ
しめ、終わりに一緒にアーメンと言うとき、教会で支えられていると思
う。弟子たちが祈っているところに聖霊はくだった(使徒1,2章)。
聖霊の働きをつくった。我々の教会もつくられていっている。
 長い間教会生活をしていても、み言葉を学ぶ本当の喜びや、共に祈る
ことの歓喜を知らないで過ごしていってしまう人がある。先日の役員会
(2月14日)の中で将来の桜ヶ丘教会の危機的な状況を感じた。役員
会では全員が具体的な課題について心を合わせて祈った。わたしはすが
すがしい気分であった。かつて会堂建設の計画が具体的に持ち上がった
とき、専門家の説明では無理であった。金銭的・人数的には実行が不可
能と見えた。常識的には真に無理であった。しかし当時の役員を始め、
会員の方々が心を合わせて祈った。機会あるごとに祈った。各家庭にお
いても密室の中で祈った。わたしも微力ながら真剣に祈った。また超教
派の集まりの際にも祈っていただいた。会堂建設は完了し、ローンも数
年間短縮して完済できた。
 今度は教会の将来のため、人的・金銭的・霊的に強くなるために祈る
時である。今こそ必要なのは、初心に帰り主の前に心を注いで祈ること
である。皆様も1日1回、教会の強化のためにお祈りしてください。神
の栄光を目指して!!

2016/2/14 週報メッセージ

   受難節(レント)を迎えて
                                                              朝位 真士
  聖灰水曜日という名の起こりは、中世の教会において信心深い人々の
額に灰で十字架の印をつけた習慣にある。この儀式用に焼かれて保存さ
れた灰で、司祭は信徒一人ひとりの額に印をつけた。その時「あなたは
ちりであるから、ちりに帰ることをおぼえよ」という言葉を添えた。灰
は地にあるもののはかなさを象徴するものである。この世の美しさも誇
りもしばしの栄華にすぎず、やがてそれらは夢のように消えていく。ど
んな人であっても、死んだときに残るのはただ一握りの灰だけである。
それはまことに厳粛な死の事実にわたしたちの思いを誘う。人とはつま
るところ「死への存在」である。死は万人にとって必然の運命である。
そしてわたしたちの全生涯は、どのように死ぬかを学ぶことによって、
真実に生かされねばならない。
 受難節はもっと深い意味をもっている。それはキリスト信者がイエス
の苦難と死の意義について深く考えるために、特別に設けられた期間で
ある。灰は死の象徴であると同時に、罪に対する悔い改めを表すもので
ある。主をあれほど苦しめたのは何のわざか。みなわたしたち人間の罪
のせいではなかったか。わたしたちは十字架を見上げて、己が罪の深さ
を悲しむとともに、それをも赦して救われる神の恵みの高さを、主のご
受難の中に味得せねばならない。ただ、このことをなすことによっての
み、この季節を正しくすごすことができるのである。

2月第一日曜日の礼拝

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2月第一の礼拝では、「主を賛美せよ」というテーマで、朝位真士牧師のお話でした。
ハレルヤ
賛美せよ、 主の御名を
賛美せよ、 主の僕らよ
詩編135編1節
詩編135編は、ハレルヤに始まりハレルヤで閉じられており、主への賛美が促されているというお話でした。
主をたたえる、褒めたたえる、どのような境遇にあっても、主にあって生きる喜びを私たちは知っています。
私たちの生涯を、主を賛美しながら閉じることができるように、日々過ごしていきましょう。

2016/2/7 週報メッセージ

   「西東京教区研修会」に出席して
                                                                         朝位 真士
  2月1日~2日まで小金井聖霊修道院マリア館にて、旧約学会会長の
並木浩一先生を迎えて1泊教師研修会があった。テーマは未信者の心に
届く福音ー旧約聖書と現代ーであった。旧約聖書が「人間の尊厳」につ
いてどう語りかけるのかというテーマで、並木先生の講義に期待をもっ
て参加した。
 Ⅰ「未信者の心に届く福音」を見据えて現代の課題を考える。(1)現代人
の関心はどこに向けられているか。(2)現代日本はどこへ行く。(3)認識を
適切に導くために神学的な考察を。(4)思想・信条・信教の自由が危機に
晒されている。(5)戦争責任は回避してよいか。(6)国体の護持と国家と宗
教の二元論の排除……
 Ⅱ日本的な心性との対比で読む創造物語。(1)神は世界を創造する。
(2)創造行為は日々に区切りを与える。(3)神の似像としての人間の尊厳。
(4)創造は歴史を外ら見通す。
 Ⅲ終末から現在を見据えた預言者の言葉。(1)終局から現在を見据えた
預言者の言葉。(2)審判の確信の下で変貌する世界。(3)神は人々の意表
を突く。(4)神は諸国民の悪にも真剣に向き合う。(5)イスラエルの罪は人間
感覚の喪失にある。
 最後に先生は「現代にもアモスの時代と同様の非人間的状況が見られる。
日本の経済優先主義は資本主義的な仕方で社会の格差を広げており弱者
に過酷な労働を強要する。支配機構は個々人の良心と尊厳を軽視し儀式に
おいて国家権力の象徴への服従を国民に求めている。……内村鑑三の2つ
のJに向かう課題はますます重くなっている。その覚醒が自ずからなされる
ように福音を語る。それを探索し続ける必要をともに確認したい」と結んだ。

1923年6月1日創立