2016/3/27 週報メッセージ

   最近の恵まれた出来事
                                                                                                         朝位 真士
 最近90歳を過ぎた一人の姉妹が召天された。その姉が私に1冊の本をプレゼントしてくださった。『世界最大のもの』(ヘンリー・ドラモンド著、新屋徳治・順子共訳)である。
 
  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシ
 ンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動か
 すほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽く
 そうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求め
 ず、いらだたず、不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
                                                  (コリントⅠ 13章、口語訳)
 
 宗教の世界で最大のものは「信仰」であると言われてきたが、コリントの信徒への手紙1の13章はキリスト教の根源について述べている。そこに「その中で最も大いなるものは、愛である」と結論付けられている。90歳を超えた姉は、教会でも家庭でもいつもニコニコして笑顔で若い者たちに接して、前向きな生き方、愛を実践された。
 もう一人、桜ヶ丘教会の会堂建築の時、献金をしてくださった元歯科医の女性がいる。彼女は90歳を超えておられるが、横浜のホームから毎週タクシーで礼拝に出席されている。お金を神様第一に使用されている。
 私はこの二人の婦人たちの熱心な信仰とキリストに対する愛の行為に大変恵まれ、まず神を第一とした晩年を送り、天国へ帰りたいと祈りながら、二人の姉妹たちと別れた。

3月の陽射しを浴びて

イメージ 13月の陽光が、こころにも柔らかく感じるこの頃です。
イースター、イエス様の復活の喜びを思いながら道々を歩きました。
十字架につけられたイエス様のこと思います時に、私たちの罪のいっさいを引き受けてくださったということについて、深く深く考え、復活の勝利の意味をも、しっかりと心で味わいたいと思います。
わたしたちは、それぞれ、皆改革を自分の内に求め、改革できるところはしていく必要があると先日某研修会でお聞きしました。
多様性を踏まえ、教会を見ていくことも大切であるとのこと。
角度を違えてみれば、違って見えることがあるとのこと。
違いを尊重し、調和していくことができるということを、教えていただきました。
ルターの宗教改革から500年を迎える前に、いま、私たちは、改革を自分の内に求めていくことが必要であることを感じます。改革は継続して行われて行かなければならない。
日常の生活に埋没することなく、霊に燃えて、主が語られる御言葉に耳を傾け、与えていただいている生命を大切に燃焼させたいと思います。

2016/3/20 週報メッセージ

   十字架上の7つのおことば                                                              
                                                                                                        朝位 真士
  十字架上の6時間にイエスがお語りになった「7つのおことば」を四福音書から見よう。まず十字架上でヘブル時刻第3時(午前9時)からヘブル時刻第6時(正午)までの3時間に語られた3つのおことば。
 (1)「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」(ルカ23・34、口語訳)
 (2)「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に『女の方。そこに、あなたの息子がいます』と言われた。それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』と言われた。」(ヨハネ19・26~27、口語訳)                                                               
  (3)「イエスは、彼に言われた。『まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』」(ルカ23・43、口語訳)
 次に、十字架上でヘブル時刻第6時(正午)からヘブル時刻第9時(午後3時)までの3時間は暗黒と沈黙の時間。主の御苦しみがクライマックスを迎えた最後の瞬間、午後3時に語られた最も重要な4つのおことば。
 (4)「三時に、イエスは大声で『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マルコ15・34、口語訳)
 (5)「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた。」(ヨハネ19・28、口語訳)
 (6)「イエスは酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。」(ヨハネ19・30、口語訳)
 (7)「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」(ルカ23・46、口語訳)
 3時間の暗黒の締めくくりには、エルサレムの神殿の幕を上から2つに裂く、偉大な最期の祈りがあった。ヨハネには「完了した」と言われた直後に「頭をたれて、霊をお渡しになった」(19・30)とある。
           

3月13日の礼拝

イメージ 1写真:3月13日礼拝の花
説教題
「死刑の判決を受ける」
マルコによる福音書第15章
6節~15節
過ぎ越しの祭りの時期には、囚人を赦すという特赦があったということです。
その時期に、総督ピラトは、イエスを特赦で赦すという選択もできたが、祭司長たちの扇動によって群衆が囚人バラバを赦すように求めたため、ピラトは群衆を満足させようと思い、
バラバを釈放したという話でした。
イエスは死刑の判決を受け、大悪人が許されたという出来事は、イエスが十字架にかかることによって、罪人がゆるされるという十字架の福音のひな型であるということです。
日々、私たちの心は、神の義、愛に反するような思い持つことがあります。
神を敬い愛し、自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさいという主の御言葉を思い出すときに、何と遠いところに身を置いているのかと反省させられます。
主が、十字架の刑をどのように受け止められ、恐怖の時を過ごされたのか。
この痛みを、我がことのように思い過ごすことは、とても緊張を覚え、持続できません。逃げたくなります。
しかし、十字架の現実をしっかり見つめ、お赦しいただき、前に向かって進みたいと思います。
桜ヶ丘教会を主が用いてくださり、どうぞ、一人でも多くの方が、当教会でイエス様にお会いになることができますように。
祈りつつ、お待ち申し上げます。

3月13日週報メッセージ

ある老牧師の手紙を受け取って
                                                                                                       朝位 真士

  「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4・2)
 最近、私は退任をされる高齢の先生の手紙に大変感動いたしました。先生はいくつかの御言葉を記しておられました。
 「福音を恥としない。……福音は……信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ1・16)
  「この方以外に救いはない。」(使徒4・12)
 「十字架の言葉は滅びる者には愚かなれど、救われる我らには神の力なり。」(Ⅰコリ1・18)
  「わたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。……キリストがわたしを通して働かれたこと……わたしの言葉と行いを通して、また……神の霊の力によって働かれました。」(ローマ15・17)
 先生は御年85歳になられます。「伝道を最優先する教会」を願って伝道してこられました、教団能代教会で
16歳の時に洗礼を受けられ、19歳で献身され、昭和25年(1950年)4月、日本ホーリネス教団東京聖書学院第一期生として入学され、65年間伝道者として生きてこられたことを感謝しておられる先生です。私も九州時代に先生にお会いして、いつも前向きで積極的な姿勢に頭が下がっています。隠退前には母教会の能代教会で大変良い牧会をされて、後任に委ねることになったと文面から読み取ることができました。4月から千葉県習志野市の超教派「祈りの家」の牧師として御用されることになったと、手紙に記しておられた。最後まで伝道者、牧師としての生涯を全うされる御覚悟であることを感じました。先生は一言で表現するならば祈りの人であり、世界宣教にヴィジョンに燃えておられ、海外宣教も実践され、教会の牧者として模範的な先生だと思います。
私もそういう終わり方をしたいと願っています。

2016年3月6日桜ヶ丘教会の礼拝

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写真:K/Kさん提供

2016年のイースター礼拝は3月27日ということで、この素晴らしい日を前にして、様々なことを思います。
昨日3月6日(日曜日)の礼拝説教は、「ピラトからの尋問」というテーマによるお話でした。
祭司長たちは、イエスを、ローマの総督ピラトのもとに連れていき、イエスを政治的騒乱罪のかどで訴えたということです。しかし、イエスは沈黙されたということです。
<マルコによる福音書第15章1節~5節>
『夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いていき、ピラトに渡した。
ピラトはイエスに、「あなたはユダヤ人の王であるか」と尋問しました。
イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
そこで、祭司長たちは、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。』
ウイリアム・バークレーは、この沈黙について、「沈黙が言葉よりも雄弁なときがある。なぜなら沈黙は言葉が決して言えないことを語り得るからである。」と言って、5つの沈黙があることを語っているというお話でした。
1 驚きと賛美の沈黙
2 軽蔑の沈黙
3 恐怖の沈黙
4 傷ついた心の沈黙
5 悲劇の沈黙
イエスの沈黙は、神の意志に従って、人類のためにしなければならないことを知っている方の沈黙である。
祭司、律法学者をはじめとするユダヤ人たちの心には憎しみの鉄のカーテンが張り巡らされ、ピラトの心は臆病の壁に覆われ、イエスの言葉をとおすことはない状況であった。このため、語るべきことがない悲劇の沈黙であったということでした。
憎しみ、臆病の心から、イエスを締め出して、十字架につけてしまうような人間。
そのような人間である私たちを、神が救ってくださるという復活の恵み。
日々、私たちの心は自分の思いでいっぱいになり、主の御心を思う気持ちが失せてしまいがちです。イエス様の想像を絶するような御苦しみを覚えるとともに、主の平安がこころを満たしてくださり、私たちを罪から救ってくださるように祈って過ごしたいと思います。

2016/3/6 週報メッセージ

   からし種の信仰
                                                                                                           朝位 真士
  「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜より大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13章31~32節)
 からし種は聖書で神の国の早い成長と信仰の偉大な力にたとえられている。これは学名クロカラシという植物の種である。パレスチナに野生する1年草で4~6月ごろ黄色の十字花が咲き、やがて黒色の種子をつける。
 その種はケシ粒ほどの「どんな種よりも小さな」(マタイ13・32)ものであるが、一旦蒔くと芽生えて1年もたたないうちに、野生のものは馬の上に乗った人ぐらいの高さになり、栽培種は4メートルぐらいの高さに達し、太さはいずれも人の腕ぐらいになる。実にめざましい成長である。実がなると、鳥がその種をついばむためと休息に、よく集まってくる。種はしぼって油をとり、茎や殻は家畜の飼料となる。(『キリスト教逸話例話集』より引用)
 私は、神学生時代の1971年に故小原順子先生よりこのからし種をいただいた。今も大事に持っている。御父君の小原十三司師は淀橋教会の主任牧師で、当時の校長先生であった方だが、淀橋教会の講壇の左右に「からし種1粒ほどの信仰があるなら」「神には、なんでも出来ない事はない」という御言葉を掲げておられた。
 先日の桜ヶ丘教会の総会は人数が少なかったが、たとえ目に見えるかたちはからし種のように小さくても、そこに主イエス・キリストを救い主と純粋に信じる群れがあるとしたら、「小さな群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という御言葉の通りである。桜ヶ丘教会の将来は決っして悲観すべきではなく、希望と信仰をもって前進したいものである。種に栄光あれ!!

2016年イースター礼拝について

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写真:K/Kさん提供
2016年のイースター礼拝は
3月27日(日曜日)10時半からです。
説教「イエスの復活」というテーマで、朝位真士牧師よりお話をいただきます。
イースターエッグも用意しております。
どうぞ、イエスキリストの復活をお祝いする礼拝に、ご出席ください。
教会が初めてという方も、是非いらしてくださいませ。
イエス様の誕生、十字架の死、そして復活へと続くこの大きな神様の憐み、お恵みを、桜ヶ丘教会で皆様とともに分かち合い喜び賛美できることは、本当に嬉しいことです。

2月第4週目の礼拝に思うこと

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昨日の礼拝説教は
「ゲッセマネの祈り」というテーマでのお話でした。(マルコによる福音書第14章32節~42節)
イエス様が、ゲッセマネで祈られたところの箇所です。
「イエスはひどく恐れてもだえはじめ、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚まして祈っていなさい』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた『アッバ父よ、あなたはなんでもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心にかなうことがおこなわれますように』
それから、戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペテロに言われた『シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い。」
こうして、弟子たちは、三度イエス様に同様のことを言われ、三度とも眠ってしまう。
この後に、イエス様は、ユダの裏切りによって律法学者などにとらわれてしまい、十字架への道を行かれるのです。
ゲッセマネの祈りの場へは、ペテロ(教会の基礎となった弟子)、ヤコブ(最初に殉教する弟子)、ヨハネ(信仰の遺産を残したと言われる弟子)の3人の弟子たちが一緒に同行しました。
神様の御子であるイエス様が、人間社会の罪人となるという杯を受けることになるという驚きの神の御心。
祈りは、聖霊に導かれるように祈ることが大切との話でした。わたしの思いではなく、御心のままにというところへ行く祈りである。この時のゲッセマネの園を思い浮かべると、とても想像がつかないほどに、重いイエス様の御苦しみを覚えます。
わたしたち人間の救いの道のために、神様が御子イエス様にお伝えになられた御心。
そして、主の憐みと愛を知っていても、なお、弱いわたしたち。
わたしたちの信仰生活は、弱い私たちを支えてくださる神様の愛とイエス様の憐みによるものであることを確信し、過ごしてまいりたいと思います。

2016/2/28 週報メッセージ

   『かみさまのゆめ』を読んで
                                                            朝位 真士
  私は月1回少年院で講話をしています。その時読んだ『かみさまのゆ
め』という本に感動したので、皆様に紹介します。作者はデズモンド・
ツツ大主教とダクラス・カールトン・アブラムスで、村松泰隆訳、ファ
ム・レ=ウィエン絵で、大変わかりやすい絵本です。
  かみさまのゆめはね たがいに よろこびをわかちあうこと。かみ
 さまのゆめは たがいに おもいやること。……みんなが たがいを
 たいせつに しあうとき かみさまの こころの かけらは あつま
 って、ひとつのものに なるんだ。かみさまの ゆめは わたしたち
 が みんな きょうだいしまいなんだって きづくこと。……かみさ
 まの ゆめは どうすれば かなうかしっているかい?  それは と
 っても  かんたんなこと。わけあったり たいせつにしたり おもい
 やったりするなら。……さあ かみさまの ゆめが かなうように
 てつだってくれないかい? きみに ひみつを おしえてあげよう。
 ……そう きみが てつだってくれるとね かみさまは あの にじ
 のような えがおに なるんだって。
 少し長い文を引用しましたが、私をこの本を子供達に読み聞かせなが
ら、少女達の目の輝きを感じました。教会の中でも、このようなことを
実行できたら、互いに仲良く楽しい仲間になると信じたいと思います。
主イエス・キリストの愛の交わりのある所に実現されると祈るものであ
ります。 

1923年6月1日創立