2月を迎えて

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写真:1月31日(日)礼拝お花
1月は第5の日曜日がありましたが、あっという間に過ぎてしまいました。新年という言葉を意識した日々でもありました。
さて、2月は、29日ありますので、2016年が特別な年であること、オリンピックのある年であること等を思いながら、過ごしていきましょう。
昨日1月31日(日)は、「本当の幸福とは」というテーマで、朝位フミ子牧師による説教でした。
<聖書個所>
心の貧しい人々は幸いである
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである
その人たちは慰められる。
柔和な人々は幸いである
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は幸いである
その人たちは満たされる。
憐み深い人々は幸いである
その人たちは憐みを受ける。
心の清い人々は幸いである
その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は幸いである
天の国はその人たちのものである。
幸せでありたいと、誰もが思います。そして、本当の幸せということになると、どうなるのでしょう。それは様々な幸福があると思います。
お金があるところにも、お金がないところにも、幸福は探せばあるということを教えていただきました。自分は何をやっても駄目だ、失敗ばかりの人生だと、心が貧しくなっている者に、神様は、そういう人の隣にいてくださり、幸せが見出せることを教えてくださっている。
悲しむところにも、主が側にいて慰めてくださるという幸せがあるということ。
柔和であるとはどういうことか考えさせられました。しっかりとした信仰をもっていて、揺らぐことがなく、そして寛大でいられる心の持ち主であること。イエス様の柔和さを想像しましょう。愛のあるところに、憐みと清さがあると思わされました。
神とともに歩むことによって、憐みを教えていただき、心に清さを保っていくことができるのだと感じました。
山上で説教であるイエス様のこの教えを心に留めて、2月を過ごしていきましょう。

2016/1/31 週報メッセージ

   喜びによる前進
                                                                                                          朝位 真士
  「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126編5節)
 二〇一六年の標語です。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(ネヘミア8章10節)
 山北先生の『それゆけ伝道ー元気の出るエッセイ100』に出ている「喜びによる前進」という項目に、私は非常に感動したので、著者の許可を得て転記したいと思います。
 
  人間の罪にも拘わらず与えられる神の赦し、破壊にも拘わらず創造、絶望にも拘わらず希望、このことが告
 げられる時、深い感謝とともに喜びが力となってあらわれるのでしょう。
  この喜び、つまり主を喜ぶことなくして、難しい状況に立ち向かう力は出てきませんし、前進はありません。
 伝道にしても人間が頑張ることではなく、主を喜ぶことによってこそ私が新しくされ、力を与えられて前進で
 きるのです。「喜びは祈り、喜びは力、喜びは愛」と言ったマザー・テレサはさらにこうも言葉を続けました。
 「どんなことがあっても、復活されたキリストの喜びを忘れてしまうことの決してないように。喜びの喪失、
 とりわけキリストの十字架と復活の恵みによって私たちが今日あるを得ているとの感謝と喜びに満たされてい
 ない時、私たちの暗さは救いようもなくなること請け合いです。」暗い雰囲気の教会、額にたてジワを刻んだ
 ままのクリスチャン、これが常態ならば、伝道以前の問題でしょう。
 
 私は何か額をハンマーでガーンと打たれた感じがしました。伝道(キリストを伝えること)は、キリストを信じた私たちが、存在を通してキリストを証ししていくのだということです。私たちは身近な人をキリストに導くように祈っていかなくてはならない。今年一人の魂の救いのため「喜びの前進」をしようではありませんか。

教会の交わりについて思う事

イメージ 1写真:藤城清治美術館
チャペルステンドグラス
本日の礼拝説教は、「キリスト者の交わり」というテーマでした。
「詩編133編」(聖書個所)
都に上る歌。ダビデの歌。
見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように
シオンの山に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された
祝福と、とこしえの命を。
教会に集い、話し、一緒に過ごすことは、とても素晴らしい神様からのお恵みです。
油は、聖霊を指していて、聖霊が露が落ちるように静かに私達に注がれるという恵みをえることができる神の家族について、お話を聞きました。
共に座るということのお恵みは、桜ヶ丘教会において、私達信徒一人一人が感じています。
私たちは、皆個性をもって、生活環境も違う中で、教会に集います。それぞれが皆違っていますが、神の家族として、イエス・キリストを頭として主の教えに歩むという一致した家族です。
人が集まるところですから、何らかのルールが必要ですが、主を愛し、自分を愛するように隣人を愛するというルールを忘れて、他のルールを先にすることはできません。
このことは、ただ普通に過ごしていて達成できることではないと思います。
私たちが、優しさと麗しさを持たせていただくためには、愛の実践を通して、兄弟姉妹とともに座るということを形成するという目的に立ち返ることが必要と思います。
どなたかと共に座るという恵み、喜びは、誰にでも与えられています。人は一人では生きていけない。
そのような中に、露のように静かに降る主の恵み、主の祝福、そして永遠の命への約束。
主にあって、兄弟姉妹とともに座ることが許されていることに、ただ側にいることができることに、心から感謝します。

2016/1/24 週報メッセージ

   「断食祈祷聖会二〇一六」に出席してⅡ
                                                             朝位 真士
 
 先週に引き続き、深谷春男師が「ヒュぺル・ニコメン(輝かしい勝利)」と題し、ローマ八・三四~三九を通して語られたことを記します。
 
  この題の言葉は、新共同訳で「輝かしい勝利」と訳されています。「ニコメン」が「勝利する」で、「ヒュペル」は
 「超」というような意味で使用される接頭辞です。「超勝利者となる」「輝かしい勝利」「勝利者以上」「ゆうゆうと
 勝つ」というような「圧倒的勝利者」になるのは「わたしたちを愛してくださる方による」とパウロは言います。これ
 はまさに、わたしたちの罪のために十字架にかかって罪を滅ぼし、復活して死を打ち砕かれた主イエスと父な
 る神の愛によるのであります。パウロの念頭には「個人の救い」の項目の内容を閉じるに当たり、三章二一節
 以降この八章まで語り続けた救いの内容が駆け巡っているように思います。すなわち「十字架の贖罪」(ロー
 マ八・二)を中心とした「永遠の命」「肉体の復活」「万物の復興」「神の最善の摂理の御手」「神の予定」「再臨
 のキリストと共なる栄光」等々の神の恩寵が語られてきたのです。二〇一七年に「宗教改革五〇〇周年記念
 の年」を迎えます。わたしたちプロテスタント教会にとって実に意義深い年になることと思います。神の臨在と
 神の御言葉にサンドイッチされた圧倒的に勝利的な人生、神の愛へと変容された信仰の高嶺を共に歩みたい
 ものです。ハレルヤ!!
 
  他に、「伝道者・牧師の人材育成」(西岡義行師)、「日本宣教の特殊性と活用法」(清野勝男師)、「アジアとイスラム圏宣教」(奥山実師)、「キッズ・ミニストリー」(西村希望師)、「高齢者宣教」(中島真樹師)が語られました。私はこの断食聖会に部分的参加が許され、人数は少数でしたが日本宣教のため、リバイバルのために真剣に断食して祈られている教職・信徒の方々の姿に強いインパクトを感じ、二〇一六年も開拓精神をもって宣教・牧会に励んでいきたいと神の前に祈らされ、感謝でした。

2016/1/17 週報メッセージ

   「断食祈祷聖会2016」に出席して                                                                                                                                                                    朝位 真士
  1月11日~12日迄、東京中央教会で行われた断食祈祷聖会に、部分的ですが参加することができて感謝でした。多くのことを学ばされましたが、「21世紀宣教の課題」として天野弘昌先生が語られたことを記します。
 
  プロテスタント宣教が日本で始められて百五十数年が経過しましたが、同時期に宣教が開始された韓国で
 は30~40%のクリスチャン人口になり、また中国のキリスト教化は2030年には5~6億に至ると予想する
 人もいます。日本宣教の深刻な惨憺たる現状は、何が要因にあるのでしょうか。様々な研究、検証が宣教研
 究の学者やエキスパートによって課題や提言が発表されています。しかし厳しい現実が横たわり、未だ大きな
 変化はありません。
  それは、神の時カイロスでした。米国やカナダに今や中華系の人々が溢れ、考えられないほどの主や聖書
 への飢え渇き、家族単位の救いに圧倒されました。自らの人生、生涯を、涙を流して主に献げる聖い姿で、想
 像を絶する違いに驚愕し、畏敬の念を持ち、おそらく彼らの心の土壌に違いがあるのでしょうか。まるで四つの
 種の譬えにある、良い土地に蒔かれた種のように感じました。またその働きの中、出エジプト3・7~9が響きま
 した。「民の悩みを確かに見、……彼らの叫びを聞いた。……しいたげを見た。」さらにマルコ1・15の「時が満
 ち、神の国は近くなった。……」主は今も生きて働き、その御国をもってあまねく全地を見渡しておられる方で
 す。今こそ、祖国の霊的に深刻な実情を憂い、祈り叫び、真摯に執り成していくことが問われているのではな
 いでしょうか。
  黙示3・15~21にある、ラオデキヤにある教会のようならば、私たちは「実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲
 目で、裸な者であることを知らない。……」まさに霊的覚醒がなされるため、主からの目薬が必要なのでしょう
 か。                                                               

2016年の充実に向けて

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藤代清治美術館チャペル
2016年は2週間が過ぎていきます。
皆様は、風邪などをひいていないですか。このところ、朝の冷え込みも厳しくなっております。
桜ヶ丘教会では、10日日曜日の礼拝後に、昼食のひと時を持ち、日常が戻った感じがしています。
新年という緊張感は、少し和らいできたのではと思います。
主が関わらない私たちの人生はいかに空しいものかということについて、お話を伺いました。
私たちの人生の主役は誰なのでしょう。
主がいかに私たちに関わってくださっているか。
日々出会う方々の中にイエス様を見つけ出すときに、私たちは、この1日にいかにイエス様に関わることができるでしょう。
聖書の御言葉に生きることの恵みを感謝します。
桜ヶ丘教会が、主の栄光を顕すことができますように、信徒の一人一人が、イエス様と関わり、主の建てた家に住まうことができますようにと祈ります。
「神よ、変えられないものを受け入れる冷静さと、変えることができるものを変える勇気とこれらを見分ける賢さを与えてください。」(ラインホルト・ニーバーの祈り)
小さな一歩からでも、変えられることがあれば、変えていくことを選び、充実していきたいと思います。
 

2016/1/10 週報メッセージ

   2016年の標語について
                                                                                                           朝位 真士
  今年は詩126編全体の御言葉が与えられましたが、特に「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」(5~6節)に注目し、「涙と共に種を蒔く人は、刈り入れる」を標語とします。私共も主にある希望を抱き、福音の「種蒔く人」にならねばなりません。涙をもって祈って蒔いた種は決して無駄にはなりません。必ず収穫(救われる人)を喜ぶ時が来るのを信じ、時を得るも得ざるも励んで証しすべきです。(コヘレト11・1~6、Ⅱテモテ4・2)
 話は変わりますが、最近ハイデルベルク信仰問答を読んでいて「感謝について」の項目が目につき、教えられました。「問86、わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われているならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。答、なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって讃美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによって、わたしたちの隣人をもキリストに導くためです」とあります。とくに「全生活にわたって神に感謝を表し」という所で、ローマ6・13、12・1~2、Ⅰペトロ2・5~10が引用されています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」とあります。感謝の生活は、全生活を神に献げることによってなすことができます。今年1年、感謝の思いをもって、まだ救われていない人々に福音の種を蒔き、神の収穫にあずかりたいと祈るものです。

明けましておめでとうございます

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藤代清治美術館チャペル&ステンドグラス
皆様 
新年の朝をどのように迎えられましたでしょうか。
今年は例年になく暖かいお正月でした。
本年も、各自がそれぞれの道で主に出会い、主とともに歩むことができることを求めていきたいと思います。
1月4日(月曜日)から仕事はじめのところが多いようですが、皆様の日常は、いつものように開始したでしょうか。
桜ヶ丘教会の今年1年が、私たち信徒の1年でもありますが、それぞれが、主にあって成長させていただき、主の家族として祝福いただけるように歩ませていただきましょう。
主に栄光、地には平和がありますようにと祈りながら、日本の教会の成長、発展のために、小さなが教会ですが、光を灯しながら、イエスキリストの愛を伝えられるように進んでいきたいと思います。
あなた方の最も小さき者にしたことはイエスキリストにしたことと同様なのですと主は言われます。
人間が人間として、与えられているこの地上で生きていくことの意味を考えるときに、本当に平和の尊さを思います。主イエスは、思いを尽くし、心を尽くし、精神をつくし主なるあなたの神を愛しなさい。そして、また、汝の隣人を自分を愛するように愛しなさいとも言われました。
実態としての愛の実が、豊かに実るように歩んでいきたいと心から願います。

2016/1/3 週報メッセージ

   喜びの歌と共に刈り入れる
                                                                                                        朝位 真士
  新年あけましておめでとうございます。今年は詩編126編全体が与えられました。1~3節には、バビロン捕囚からの帰還と驚きと喜びが語られています。4~6節には、喜びの歌を歌いながら連れ帰ると語っています。特に5~6節「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた種を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」「涙と共に種を蒔く人」たちはウガリツト(エジプトの古い宗教的神話において、種を蒔く時は肥沃の神の死と結び付けられ、収穫はその神の再生と結び付けられた)と言われる。ウガリツトは、地中海東岸、現在のシリア・アラブ共和国西部の都市ラス・シャムラにあった古代都市国家です。
 今日の農作業と違って、当時の種蒔きは容易なことではなかったでしょう。「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人」と言われる「出て行った」とは、「行く」という動詞が重ねられて強調されています。重い足を引きずりながら、やっとの思いで出かけて行ったという足取りを想像することができます。しかしその重荷を背負った者だけが、豊かな収穫の「喜び」にあずかるのです。5~6節には「喜びの歌」も繰り返されています。民族の歴史と同じように、個人の生活の断片が深刻な危機(涙をもって種蒔くこと)の中から開始します。ですがその際、終点でその人の持っているものは、素晴らしい人生の大逆転であると言われるとおりです。
 捕囚からの帰還の背景には、どれだけの人々の涙と労苦があったことでしょうか。神は私たちの労苦を覚え、その涙を革袋に蓄えてくださるお方(詩65・9)なのです。私たちも主にある希望を抱いて、福音の「種蒔く人」にならねばなりません。いかに熱心に伝道しても、さらに効果が見えなくても、失望すべきではありません。涙をもって祈って蒔いた福音の種は決して無駄にはなりません。必ず収穫を喜ぶ時が来るのを信じ、時を得るも得ざるも励んで証しすべきです。(コヘレト11・1~6、Ⅱテモテ4・2)

2016/1/1 週報メッセージ

      2016年を迎えて
                                                                                                          朝位 真士
 
  2016年を迎えて二つの聖句が与えられました。一つは昨年に引き続きⅠコリント3章7節「大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」二つは、詩編126編ですが、特に「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた種を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(5~6節)です。
 2016年は桜ヶ丘教会が開拓されて93年目に入ります。1923年6月1日、初代牧師である故板井康裕先生が開拓されて、今日まで多くの牧師、伝道師、信徒、求道者たちによって苦難の歴史を乗り越えてきた教会ですが、1975年故西海静雄先生、満希子先生(現越生教会牧師、東京聖書学校教授)によって杉並区にあるパールハイツ桜上水というマンションに独自の会堂が与えられ、その後宗教法人格を取得しました。1997年12月17日、現在地である下高井戸3ー2ー9に59坪の土地と新会堂が与えられ今日に至ります。現住陪餐会員の半数以上の方々が天国に行かれ、2015年も二人の方々を天国に送りました。一人の方が受洗されて新しいメンバーが加えられ、いよいよ百周年に向かって桜ヶ丘教会丸も航海しています。
 そのような昨年より祈り求めていましたら、右の如く詩編126編が与えられました。一つで申しますならば、「初心忘るべからず」、つまり開拓伝道の精神と教会形成(信者の養成)を二本立で、皆様方と共に主の僕として前進していきたいと思います。それには祈祷目標、①個人信仰の確立、②全家族の救い、③個人伝道による教勢倍加にそって祈っていくことです。また、桜ヶ丘教会の伝統的意志を持ち、この時代に適応した伝道・宣教・教会形成を実践できる後任の牧師が与えられるように、皆様お祈りとご協力をお願い申しあげます。

1923年6月1日創立