2017/7/23 週報メッセージ

      ホ群首都圏夏期聖会
                                                                                                    朝位 真士
  七月一七日(月)~一八日(火)、赤羽教会で聖会が開催された。主題「万物の終わりが迫っている」(Ⅰペトロ四・七)―祈りとホーリネス。主講師は工藤弘雄師(日本イエス・キリスト教団、元関西聖書神学校校長)で、二回の説教をしてくださった。聖会Ⅰ、司会西海満希子師、メッセージ山口紀子師、「教会の戦い」(エフェソ六・一〇~二〇)。聖会Ⅱ、聖会交流会、司会澤田直子師、メッセージ佐藤泉師、「再臨・待望・そして祈り」(ミカ七・七~二〇、黙示録二二・二〇)、立証伊藤一夫兄(近畿聖会、如鷲教会)、賛美ユース。聖会Ⅲ、司会深谷春男師、メッセージ工藤弘雄師、「終末の祷告者」(創世記一八・一六~三三)、立証中山信之神学生、賛美東京聖書学校。第二日、聖化講演、司会澤田石秀晴師、講演横山基生師、「命に満ちあふれて生きる恵み」、分団及び祷告会。聖会Ⅳ、司会朝位真士、メッセージ工藤弘雄師、「変貌山からカルバリーへ」(ルカ九・二八~三六、五一)。以上の内容であった。
 昨年は熱海のハートピアで開催した。今年、都内の教会を会場とした理由はいろいろあるが、とにかく一人でも多くの方の参加を得たいということと、近場であれば講師の工藤先生をお迎えしやすいと考えたからである。聖会委員会、教師会で話し合い、祈って準備してきた。神様は祈りに答えてくださり、参加者一三六名、予約献金約九〇万円、席上献金二九万円が与えられた。昨年は参加者六九名、予約献金五四万円、席上献金三〇万円であったと思う。数字的な事柄だけでなく、全体的に大変霊的格調の高い内容であったと思う。首都圏の若手の先生方のメッセージも、大変内容の濃い霊的なものであった。聖会委員の一人として皆様方のお祈りとご協力に心より感謝申し上げると同時に、主イエス様の大きな祝福と恵みに心から感謝する。

2017/7/16 週報メッセージ

   永遠への道                                                                    
                                                                                                               朝位 真士
  前号からの続きです。                                                               
  (二)不可知論(懐疑論)―これは「すべての知識は相対的であるから不確実であって、真の知識と言うべきものは全くない」という説です。理性の力は現象の世界から一歩も外に出ることができないので、超越的な存在である神を肯定できるはずがないと考えます。反面、自然科学者の説く無神論も信頼しません。こういう問題は、人間の力ではしょせん解決できない問題(不可知)であるとあきらめてしまいます。科学の面では「実証主義」の基本的な考え方となっています。それは「実際に観察した事実以外には、何ものも真理として受け入れない」という立場です(オーギュスト・コント)。しかし、アインシュタインの相対性原理は物質的世界の研究においても、時間とか空間という見えないものを考慮に入れなければならないことを示して、実証主義に致命傷を与えました。
 (三)唯物論―「心は物質からはなれては真に存在しない物質の随伴現象にすぎないものであり、宇宙に存在するものは、その中にある固有の永遠の法則にしたがって動いている物質のみである」という説です。しかし、物質は永遠ではありません。宇宙には始まりがあって、いわばゼンマイの巻きほぐれつつあるようなものです(崩壊の法則(熱力学第二法則))。次に、物質はそれ自身で物質の起源を説明できません。それは自然の外にある力、すなわち「超自然」的な考察力によって説明されなければなりません。
 (四)汎神論―日本における汎神論「存在する全てのものは神であり、神は存在する一切の総計であり、神は人間を含む宇宙の諸事物から離れては存在しない」という説です。神と宇宙とを一体的なものとし、すべての物は神の部分と考えます。(次へ)                                                               

2017/7/9 週報メッセージ

      永遠への道
                                                                                                                                     朝位 真士
  前号からの続きです。
  三、代表的な世界観―人間は人生の目的や意義なしに生きがいを感じることができません。人生に失望して
 自殺するのはそのためです。人間が他の動物と根本的に違うのは、人間が思想を持っているという点です。
 「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書三・一)人生の目的や生きがいは、その人
 の持つ世界観によって左右されます。人類の文化は世界に対する根本的な見方、考え方によって彩られていま
 す。その代表的な世界観について学んでみましょう。すべての人はその世界観のどれかにあてはまるのです。
    (一)無神論―これは「神は存在しない」という思想です。
    1.無神論の最大の論拠、それは宇宙があまりにも残酷かつ不公正であるように思われるということです。
  ―では、その公正、不公正という観念はどこから来たのでしょう。①直線を知らないで曲がっていると判断できま
  せん。②人が水に落ちて体が濡れるのを感じるのは、人間が水棲動物でないからです。③宇宙に光がなかった
  ら、暗いという言葉は全く意味のない言葉です。④宇宙が無意味に存在するというなら、それが無意味であるこ
  とを、私達は絶対に知り得なかったはずです。
   2.すべては偶然の産物―無神論によれば、すべて存在するものは偶然に存在してきたというのです。偶然に
  物質が生じ、偶然に簡単な生物が生じ、それらは偶然に変異と自然選択をくり返しながら現在の高等な生命へ
  と発達したという理論です。ここでは、統計学による反論を紹介するにとどめます。無から有を生じることはあり
  ません。また無生物から生命が生じ、単細胞から複雑な生物が生じることは、統計学的に不可能です。しかし、
  人間が頭を使って並べればすぐに出来ます。人間の脳細胞が一四〇億あると云われています。その一つ一つ
  が偶然に出来る可能性は考えただけでも気が遠くなりそうです。(つづく)

2017/7/2 週報メッセージ

      人生と宗教
                                                                                                                朝位 真士
  最近、日本同盟基督教団、西大寺キリスト教会の「永遠への道」という求道者用テキストに、大変示唆に富んだ文章を発見したので、ここに転記いたします。
    一、人生の意味
    人間は考え、記憶します。人は自分自身を自覚します。人は自分自身の心をのぞき込むことができます。私
  は、どこから来たの?、どこへ行くの?、何のために生きるの? 大学の教授や学生、哲学者だけが考えるのではありません。人生の厳粛さを特に感じる時、人はだれでも考えるのです。たとえば、
   (一)自分の子供が生まれる―自然的でしかも神秘的な事実―赤ん坊の潜在能力、その生涯に起こるべきあらゆる可能性、その出生と成長と生涯の前途について自分の直接もつ責任を強く感じます。
   (二)予期しない不幸な出来事に出会うとき、病気、貧困、失業、死別、家庭の不幸など、自分の思うままにならない人生の現実にぶつかって精神的・道徳的な弱さと悩みを経験して人生の厳しさを知り、人生の意味を考え始めます。
   二、人生のよりどころ―何かしっかりした立場がほしい、何かしっかりしたよりどころがほしいということは、だれでも感じるところです。
   (一)自力主義―本当に自分の力になってくれる者は自分だけ―自己信頼、自我独尊、自分の中には無限の力があって、自分の理性と判断と行動によって、自分を支持していくことができるという考え方です。―すぐに実践上の障害に行き当ります。
    (二)文明主義―人類の問題は人類自身の努力によって解決できるという考え方です。人類の文明の進歩によって人生の問題を解いていこうとする考え方です。人生の多くの問題は改善されますが、究極的な問題の解決はできません。たとえば罪とか死の問題です。(次号へ続く)

2017/6/25 週報メッセージ

   宣教と聖礼典
                                                                                                               朝位 真士
  教会の真実さはどのように判断されるのでしょうか。それは「福音の正しい宣教」および「聖礼典の適切な執行」という二つの要素によります。聖礼典の正当性は、礼典の行われる場において神の約束のことばが明確に語られ、それが信仰をもって受け取られているかどうかが重要です。教会の一致の基礎となり、その前進をうながすのは、キリストご自身の臨在であって、特定の組織形態や運営制度への一致によるのではありません。
 キリスト教会において「恵みの手段」と呼ばれる聖礼典は、バプテスマ(洗礼)と聖餐の二つのみです。これら二つについてのみ、キリストは明確にその執行をお命じになりました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28・19~20)。聖礼典においては、神が主権を行使し、受ける者に祝福を与えるよう働かれます。バプテスマ(洗礼)は、キリストご自身とともに葬られ、罪に対して死に、彼とともに新しい生命によみがえることを示します。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6・4)
 聖餐は主の晩餐とも呼ばれます。神との結びつきを表出し、経験する契約式であり、キリストのからだと血とにあずかる礼典とも呼ばれています(Ⅰコリ10・16)。パンはキリストのからだを表し、ぶどう酒はその血を表すことによって、キリストご自身が見えない姿で現臨されます。それは教会の霊的一致を具体的に経験する機会ともなります。(『クリスチャン生活百科』より)

2017/6/18 週報メッセージ

   教会とは                                                                 
                                                                                                                                   朝位 真士
 『クリスチャン生活百科』(いのちのことば社)の中に「教会について」という項目がある。
  神はその民をご自身との交わりに導き入れ、その生活を正しく保持するため、また福音の正しい継承と宣教
 のために教会を建てられました。教会はイエスを救い主と信じる信仰の告白の上にキリストご自身によって建
 てられます(マタイ16・16~18)。
  教会の本質は建物(教会堂)でなく、キリストとの交わり、また彼を信じる人々の交わりです(Ⅰヨハネ1 ・3)。
 大きな群れもあれば、小さな群れもありますが(ローマ16・5)、たいせつなのはイエスを救い主として信じる信仰
 によって集められているかどうかなのです。各地にある信者の群れすべては「唯一の聖なる教会」に属し、「見
 えない教会」には、この世を去ったクリスチャンたちも含まれています。神はイエスを救い主と信じ、その名に 
 よって集まる人々とともにおられます(マタイ18・20)。
  教会の目的は、神との真実な交わりを土台として、全世界の民をキリストの救いに導き入れ、弟子とするこ
 とにあります。伝道・信仰教育・いやしなどの活動はすべて、この目的にそってなされるべきです。大宣教命
 令(マタイ28・19~20)は、そのような内容を含みます。それはまた、キリストのみわざの継承でもあります
 (マタイ4・23、9・35)。教会の重要性についてある神学者は「神を父として持ち、教会を母として持つ」
 と表現しました。
 先々週は九四周年記念礼拝で、ペンテコステ礼拝でもあった。私共の教会が、かつてのように礼拝五〇名、祈祷会二〇名、夕拝三〇名を祈りたいものである。もちろん数だけがすべてではないが、まず祈って人を集めて、一人でも多くの方々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えようではないか。                               

2017/6/11 週報メッセージ

      詩「人生の祝福」
                                                                                                               朝位 真士
 ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所の壁に作者不明の「人生の祝福」という詩が刻まれていることを最近読んだ。
   大事をなそうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。より
 偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、より良きことができるようにと、病弱を与えられた。幸せになろ
 うとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求め
 たのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに、あらゆ
 ることを喜べるようにと、生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとど
 けられた。神の意に沿わぬ者であるにもかかわらず、心の中に言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私
 はあらゆる人生の中で、もっとも祝福されたのだ。
 
  私はこの祈りの答えを見て、私の祈りがいかに自己的であったかを深く反省させられた。確かに祈りは自分の願望を神に伝えることだが、しばしば自分の祈り通りにならないことがある。祈りが答えられないように思われることがある。例えば、教勢を倍加してくださいと長く祈っているが、なかなかその祈り通りには答えられていない。しかし私は考えた。人数が増加することよりも、数が少なくても一人ひとりの信仰が確立されて、大人の信仰者として自立して、自分で聖書を読み、祈り、キリストの証し人として働く人が出てくるように祈っていかなくてはいけないと、神様に示された。祈り通りに答えられなくても、神様の答えは最高の解答であるということである。

94周年記念礼拝を終えて

イメージ 1写真:K/Kさん提供
<6月4日(日)の礼拝について>
主の御名を賛美いたします。
岸義紘先生を講師にお招きして、17回目のチャペルコンサートと記念礼拝をすることができました。
「油断大敵!!予備の油はありますか?」というテーマでのお話でした。
 聖書箇所:
マタイによる福音書25章1節~13節
花婿を迎える乙女たち、賢い乙女と愚かな乙女の箇所です。
岸先生は、マタイによる福音書におけるたとえ話は、福音書全体を見て考えることの重要性をお話されました。
最初のたとえ話には、岩の上に家を建てる賢い人、砂の上に家を建てる愚かな人の話が、マタイによる福音書には書かれているということ。
そして、最後のたとえ話が、賢い乙女たちと、愚かな乙女たちということ。
これは、何を示しているか。
この聖書の箇所には、様々な矛盾ともいえる要素があるとのこと。何故か。そこを分かりやすく解説いただきました。
「天国は次のようにたとえられる。」といお話で、花婿を迎えるための油は、結婚を執り行う家が用意するものであるが、天国では、乙女がそれぞれ用意しなければならないとあります。自分が用意しなければならない予備の油とは何か。賢い乙女と愚かな乙女は、どういうことを意味しているのか。
予備の油を持った賢い乙女たちが花婿と一緒に婚宴の席に入ることができる。
愚かな人とは、知識はあるが本質が見えていない人。宗教指導者たちは欲に溺れて金と権力をもって本質を追及していない。この状況下で、宗教改革はイエス様によって初めてなされているということ。ルターの宗教改革500周年の年でありますが、2000年前に、イエス様がなされたということ。イエス様は、十字架につけられることを知りながら、「お願いですから、指導者たちよ、目を覚まして、聞く耳を持ってください」というような思いで訴えておられたということ。
予備の油は、キリストを信じるということ、イエス様から恵みと信仰によっていただくものだということ。
主イエスキリストによって、聖霊をいただくことが私たちには可能です。主の恵みと信仰で賢い者になることができる。誰か他の人から分けてもらうものではなく、自分が用意しなければならない予備の油。
運命を分けるもの。予備の油を持つか持たないか。予備の油は、恵みと信仰によって、主から、誰でも、ただで、いただけるもの。良い行いが必要なのではなく、恵みと信仰によって、主から、ただで、いただき、賢い者いなることができる。
最も貧しい地域から、知識人には重要な地域ではなかったガリラヤから、イエス様は、主の働きを開始されたということ。この意味についても、改めて考えさせていただきました。
        真夜中に「花婿だ。迎えに出なさい。」と叫ぶ声がした。
        乙女たちは皆起きてそれぞれのともし火を整えた。
                         主の恵み深いことを、心から味わい知る1週間でありますように。
                         本質が見えますように。

2017/6/4 週報メッセージ

   創立九四周年記念礼拝を迎えて
                                                                                                                                       朝位 真士
 今年も岸義紘先生をお迎えすることができて感謝いたします。今年で17回目になります。
 私共の教会は1923(大正12)年6月1日、初代教師である板井康裕先生が世田谷桜新町の自宅で伝道を開始したことで始まりました。1930年、渋谷区栄通りに移転して「祈りの家渋谷ホーリネス教会」と改称。1942年、日本基督教団設立とともに教団に加盟し、「桜ヶ丘教会」となりました。
 創立記念礼拝に岸先生をお迎えできたことは、先生のご厚意はもちろんのこと、神様のお導きだと感謝しています。先生は日本全国、どんな小さな集会でも御用してくださる方です。今回はマタイ25章1~13節を通して「油断大敵!予備の油はありますか?」という題でメッセージを取り次いでいただきます。
 今日は大変記念すべきペンテコステの礼拝でもあります。2千年前、イスラエルの120人の人々がエルサレムの
2階座敷で熱心に10日間祈っていた時に約束の聖霊が降り、人々は聖霊体験をしました。弟子のペトロが説教したときに3千人の人々が救われたと使徒言行録2章に記されています。これは創世記11章1~9節のバベルの塔の崩壊からの回復です。そしてペンテコステの時に新約の教会が誕生したと言われています。
 岸先生が来られた、この記念すべき時に、もう一度ペンテコステの恵みによって私たち一人ひとりが神との交わりを回復し、人々との関係も聖霊の力によって回復させていただきましょう。渋谷ホーリネス教会時代の礼拝平均
50名、祈祷会20名、伝道会30名に戻って100周年記念礼拝を持てるように、教会員の皆様方のお祈りを切に願うことであります。今の時代に大切な魂の救いを神様は願っておられるのではないでしょううか。

6月4日創立94周年記念礼拝について

イメージ 16月4日(日曜日)10時30分~
岸義紘先生をお迎えし、創立94周年の記念礼拝を捧げます。
お話のテーマ
「油断大敵!! 予備の油はありますか」
いつも岸先生は、サクソフォンの演奏をしてくださいます。
チャペルコンサートと礼拝のひと時を、日曜日に桜ヶ丘教会で、ご一緒に過ごしてみませんか。
どなたもご自由に参加できます。
主のお恵みの雨に打たれて紫陽花のように咲きたいと思います。
祈りつつ、主のご栄光を拝し、日曜日を待っております。

1923年6月1日創立