「キリスト教的愛の生活」2020・9・20説教要旨

朝位真士

今日はローマ12・9~21節を通して聖書を学びましょう。この12章は1~2献身と、聖別された生活。3~8信者各人の賜物と奉仕。9~16教会内の兄弟に対する愛の行為と奉仕。17~21教会外の敵人に対する愛の態度と善行。

ローマ12・9~21節を見て下さい。

9節以下は、信者相互に対する態度として、愛と一致を、また、反対する者に対する態度として、祝福し、忍耐をもって愛の行いをなすべきことを説いています。12章前半においては神に対する献身と奉仕を勧めたが、この後半において同志と敵に対する愛を力説しているのは、大いに考える事であります。キリスト者の生涯は、神に対しては奉仕、人に対しては愛の生涯でなければなりません。上に向かう関係だけでなく、横に広がってゆく関係があります。神に対する奉仕においていかに熱心であっても、人に対する行為において深い愛がなければ、そのキリスト者生活は完全なものとは言えない。表面における熱心な奉仕のうらに、こうした愛の生涯がなければならない。神に対して忠実であるだけでなく、人に対しても親切でなければならない。コリントⅠ・12章に奉仕のための種々の賜物をしるしたのち、13章で愛を詳しく説いているのもそのためである。ただ教会内の兄弟姉妹に対してだけでなく、反対者や迫害者に対しても愛をもって接すべきことを説いています。これは山上の垂訓にある教えで、私達は主に仕えるには熱心で、霊に燃え、主に仕え、人々とは、出来る限りすべての人と平和に過ごし、敵に対しては、善をもって悪に勝つべきであります。ある人はこの一段を次のように分解しています。この一段は愛の生涯であります。1・この愛の実質―内部的面(12・9~13)。偽りのない愛(9上)、純潔な愛(9下)、兄弟愛(10・上)謙遜愛(10下)、熱烈な愛(11上)、忠実な愛(11中)、奉仕する愛(11下)、望みある愛(12上)、忍耐深い愛(12中)、祈り深い愛(12下)、2・この愛の行為―外面的愛(13-21)。聖徒に対して(13)、迫害者に対して(14)、幸福な人に対して(15上)、悲しむ人に対して(15下)、争いやすい人に対して(16)、弱い者に対して(16中)、悪人に対して(17上)、すべての人に対して(17下、18)、怒りやすい人に対して(19)敵に対して(20,21)。

コリントⅠ13章は、愛の内容分析をして、愛の本質をあきらかににした愛の賛歌として有名であります。そこでは愛の広さ、真実さ、情け深さ、さらに、その永遠性が記されています。ここではその愛を外に向かって用いる事が、勧められています。ルターは、キリスト者は、ひとりのキリストであるといったが、この言葉は深い意味をもっています。キリストは、愛なるものでありますから、ひとりのキリストになることは、外に対して、愛となることにほかならない。信仰によって神の御前に立つ資格が与えられる時、信仰のほかにも、神と「わたし」のあいだに入り込む事は出来ない。というのは、神はすべてをもち、「わたし」は何も持たないからであります。ルターは、「私」は、乞食だといいました。だから愛をもっていると考えてはならない。信仰があると言っても、これは、神と「わたし」とのつながりを神が与えて下さる賜物なのだから、「信仰」という孤立した品物を「わたし」が持っているわけではありません。「私」だけでは「信仰」はなりたたない。「神」と「わたし」とがあって「信仰」という状態が出来るのであります。愛があっても、そのなかに顔を出すことは出来ない。ところが、愛の活動は、「わたし」が、神との交わりを許されるにいたって、俄然、活発になるのであります。キリストが、ご自身を「わたし」のために与えたうたことは、愛を与え尽くされたことに他ならない。そのことを真として、受け入れる信仰者は、また友のために命を捨てるのであります。愛は、キリスト者を通して、活動します。だからパウロは愛には偽りがあってはならないというのであります。12章19~21節を見て下さい。箴言25・21~22p1024を見て下さい。これこそキリストにおいて完全に具体化された真理であります。キリスト者の行為には、神の力が加っています。行為自体が、神にもちいられて、キリストのあかしとなるのであります。キリスト者の生活は、このような意味において勝利の生活であります。

結び

 もう1度12・9~21節を見て下さい。

パウロは12章から「キリスト者」はいかに生きるかという倫理を教えて前回12・3~8節においてキリスト者は教会において、丁度体に手足があるように、1人一人が結び合い連帯して、1つの共同体を築いていくように教えています。今日のところは、体の中を血が流れているように、わたしたちの共同体を生かすものが、「愛」であることを教えています。キリスト者はキリストの愛に動かされて、愛に生きるように促されています。しかしわれわれが純粋な愛を変わりなく貫く事は、決して生易しいことではありません。私達の愛はすぐ枯れてしまいます。我々の愛の泉であるイエス・キリストにつながり、キリストの愛を注がれることによって、真実の愛を燃やし続ける事が出来るのであります。12・11節「霊に燃えて」と言う言葉で思い起こされるのは、ルターが「キリスト者の自由」の中で、神と人との関係を、火と鉄とに譬えているところがあります。鉄はそれ自身では黒く冷たいのですが、火の中に入れられると、焼けて真っ赤になり、それ自体が火のようになります。わたし人間は罪に蝕まれ、心は冷えて、鉄のように重く冷たいのですが、主イエスの恵みの炎に燃やされると、鉄が火に焼かれて真っ赤になるように、私達も喜びと愛に赤く燃えるのであります。