「主イエスキリストの為に生きる」2020・10・11説教要旨

朝位真士

序 今日はローマ14・1~12節を学んで行きましょう。この所では信仰の弱い者に対する態度、自由と愛の道。意見より愛。ここでは信仰の弱いも音に対する態度として1~6相互の信仰を裁いてはならないこと。7~9私達の生も死もキリストのためであること。10~121人1人皆キリストの裁きの座の前に立つ事を思って、人を裁くべきではないこと。13~21食物と愛の道(食物によって兄弟をつまずかせてはならないこと)。22~23信仰によって行うこと。14章は、互いに人を裁いたり、食物その他ささいな事のために人をつまずかせたりしてはならない。8章の恵みの体験した者は12~13章の愛の生活を送り、また14章では信仰の弱い者に対して寛容でなければならない。ローマの信徒への手紙は使徒パウロが書き残した手紙の中で、最も長いだけでなく、その思想的雄大さと深さにおいて、他に類を見ません。新約聖書の最高峰であります。パウロは14~15章と2つの章を割いて、当時のローマ教会にあった2つのグループの対立について、意見をのべ解決を図ろうとしています。これは現代の私達にも教えられることです。ここではキリスト教会のあり方が問題になっています。キリスト教信仰にとって教会は大切な意味を持っています。日本基督教団の信仰告白においても「教会は主イエス・キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり」と告白されています。キリストを信じると言うことは、キリストの体である教会の1つの枝として生きるということ、ぶどうの木に1つの枝にされることであります。しかもその教会は、今ここで私達が生きている、ここ教会がキリストの体であり、またそう呼ばれるにふさわしい姿を取るように命じられています。そして教会には、人間の集団として持たざるを得ない、さまざまな問題が突き付けられています。それをキリストの体としての教会にふさわしいものにしていく課題として受け取るべきであります。

本 ローマ14・1~12節を見て下さい。ここでは信仰の弱い者と強い者が1~4節に語られています。信仰の弱い者というのは、「信仰に対して弱い者」つまり、キリストを信じて、キリスト者の仲間入りはしたが、信仰理解において、また、信仰の生活化において未熟な者のことであります。こういうキリスト者を、交わりの中へ全面的にいれよとパウロは言っています。そして信仰の弱い者となる原因となる考え方を、いたずらに

批判するにとどまってはならない。先ず第1に食べ物の問題。信仰生活について未熟な者は、肉食をしてはいけないと考えて野菜だけを食べる。しかし信仰のことが、よくわかっている者は、何をたべても良いと考えています。神が主人で、強い者も弱い者も、この主人に聞き従うべきであります。弱い者を強い者に変化させるのは、主人である神であります。人間にはできないことも、神には出来るのであります。

結び

もう1度ローマ14・1~12を見て下さい。キリスト者の生活は、主にあって死に、主にあって生きる生活であります。キリストこそ、キリスト者生活全体を支配ささるお方でありますから、キリスト者相互のさばき合いは、筋が通りません。キリスト者1人1人は、主イエス・キリストに対して、自分の言い開きをするべきであります。「自分に言いひらき」とは、どういうことでしょう。それは、自分が、主イエス・キリストの神の座を侵して、弱い者を、批判したこと、また強い者を非難したことに対して、申し開きをするということであります。愛の欠けていたことに対する自己批判ともなるのであります。パウロは寛大な立場の方に共鳴しています。信仰の弱い人は教会に来られた場合、兄弟愛をも持って受け入れなければなりません。避けなければならない3つの態度があります。1つはいらだった態度を避けなければなりません。2つは嘲りの態度を避けねばなりません。3つは軽蔑の態度を避けねばなりません。14・2~4節には他人の見解に対する寛容が語られています。14・5~6同じ目的にいたる異なった道。14・7~9孤立の不可能性。3つの面から人は隣人と絶縁することは出来ない。1・過去から隔離することが出来ない。2・現在から孤立することは出来ない。3・未来から孤立することは出来ない。まして、人は到底イエス・キリストから絶縁することは出来ない1・この人生において、キリストは永遠にいける存在でありあります。2・死でさえもその現在を打ち破る事は出来ない。14・10~12神の裁きにある人間。あがなわれた目的は「神の栄光のために生きる」ということであります。その言行、動作、生死の目的はすべて神の栄光のためにするのですから感謝することが出来るのです。

ローマ14・7~8節をみて下さい。