2021/7/25 週報メッセージ

コリント第一の手紙について

朝位 真士 

  パウロはコリントにおける約2年の伝道の後、エフェソに行き、そこで約3年の間伝道に従事した(行18・18~23)。パウロはコリントから来たクロエの家の者たちから、教会の中に争いがあり、「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」「私はケパに」「わたしはキリストに」と党派的分争に教会が陥っていることを聞いた(Ⅰコリ1・11~12)。それに加えて、教会内の異教的不品行を知り、重大な事態に当たり、手紙を送るに至ったのである。その執筆はエフェソ在住の最後の年であったAD54年の春頃といわれている。

 内容・特質は(Ⅰ)コリント教会内部の重大な事件とその解決策(1~6章)。(1)アポロ党をはじめ四分派の論争。パウロは福音の中心がキリストの十字架にあり、巧みな知恵や賢さにはないことを力説し、パウロもアポロも皆神の同労者であり、すべてはキリストのもの、神のものであるとして、分派闘争を排除せんとしている。(2)淫蕩な異教の開港場としてのコリントにあるので、教会にも不倫な出来事が起こるが、それを取り除けと厳命している。(3)教会内の信者間の争いを普通の法廷の訴訟事件としたことを否とし、訓戒する。(4)性的自由主義を主張する者を訓戒し、からだは神の宮であり、自分のからだをもって神の栄光をあらわせと命じている。

 (Ⅱ)コリント教会からの質問に対する答え(7~15章)。(1)結婚問題についての回答。(2)偶像の供え物についての回答。(3)教会の集会における婦人のかしらのおおいに関して、晩餐に対してはキリストの十字架と死の証しとして厳粛に守るべきことを命じている。(4)霊の賜物について。13章は有名な愛の賛歌を送っている。(5)復活について。死者の復活は福音の中心である。(6)エルサレム教会の援助。愛をもって行うように勧める。

 Ⅰコリント書は、具体的で重要な問題が信仰により解決されており、パウロの愛と寛容がその牧会的配慮を貫いている。

「キリストに倣う者でありなさい」2021・7・18説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント11・1~16節を学んで行きましょう。この11章部分は男女の地位。聖晩餐礼典の意義。1私にならいなさいとのパウロの勧め。2~16男女の地位と婦人のかぶり物の問題。ある注解書ではこの部分は3つに分けることができます。(1)11・2~3守るべき伝承と秩序。(2)11・4~6礼拝でのかぶり物。(3)11・7~16かぶり物についての根拠

1コリ11・1~16節を見て下さい。(1)始めにパウロはコリント人らを(立派だと思う)(称讃する)と言う。それはパウロのことをよく記憶し、伝承を固く守っているからだと言う(2節)。つまり11・23以下の聖餐に関する伝承と15・3節以下の告知された福音の内容を彼らが固守していることをパウロは称讃している。だがそれに加えて(知っておいてほしい)ことを3節で述べる。(すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神)。これは「創造の秩序」を示した創2・18~23のラビ的注解と解される。これは神の支配はキリストによって全ての男女に及び、同様にキリストの支配は全ての男女に及ぶことを示しています。しかも男はキリストに従うことによって神に従い、女はそのような男に従うことによって神とキリストの支配下に立つことを示している。ゆえにこれは創造論的・キリスト論的秩序と解される。(2)4~6この秩序に基づき、礼拝における男と女のかぶり物について述べる。パウロはここで女も男同様公然と(祈ったり、預言したりする)ことを認める。

その場合、男は頭にかぶり物をかぶってはならないことを命じる。男はキリストにあって、かぶり物なしに主の栄光を反映し得ると考えられたからである。(7,2コリ3・18)。これに対して女がかぶり物をしないことは、頭を侮辱することになるから、髪の毛を切ってしまいなさい。と命じる(6)。女が人前でかぶり物をすることは当時の習慣として一般化されていた。(3)7~16始めに(男は神の姿(像)と栄光を映す)ことと(女は男の栄光を映す)ことが示される。8節以下はこれに対する論証。(女が男から出て・・・男のために造られた)というのは創2・18以下のラビ的注解で、男と女の創造の秩序である。11節パウロはこれに加えて(主においては、男なしに女はなく、女なしには男は)ないと言う。これは(主において)の「救いの秩序」である。パウロによれば「創造の秩序」を廃棄しないし、止揚しない。ただ(主において)こそ(女が男から出た)ということと12節(男も女から生まれ、またすべてのものが神から出ている)ということが実現する。ここで女がかぶる物をするのは「み使いたちにために頭に権威を持たせるため」(頭に力の印をかぶるべき)という(10節)のはどういう意味であろうか。これをみ使いたちの性的誘惑(創6・1以下)から女を守るためと解釈する者もいる。しかしパウロはみ使いたちの性的誘惑についてはどこにも語っていないので、この解釈は当たらない。「権威」「力」を(自由)と解して女性がかぶり物をするのは、礼拝における自由の印と見る解釈もある(フランシスコ会聖研)。しかし、これはみ使いたちの超自然的な力に対する女性の弱さを守る防御の印と解してよい。この部分の結びとして、かぶり物をかぶることの賛否を読者自身の判断と自然理解に委ねると共に教会の習慣に従うよう勧める(13~16)。

結び

もう1度11・1~16節を見て下さい。当時ギリシャでは、男子は頭に物をかぶらず、婦人はかぶるのが通例であった。パウロはこのギリシャ人の風習を尊重し、それに霊的意味を加えて、4~5に語っています。しかし婦人がかぶらないのは服従しないことを表すので、恥ずべき事であるという。当時奴隷の女や姦淫の女は髪をそっていた。物をかぶらないのは(髪)をそったのと全く同じだからそれを恥じて物をかぶりなさいというのである(6)。ここでもう1度11・1節を見て下さい。「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」自分の覚悟を述べてきたパウロは、大胆にこう呼びかける。非常な確信を持って、信者に迫り得たパウロは本当に素晴らしいと思います。しかしその確信は、決して、独りよがりの者ではありません。「私がキリストにならう者であるように」と言うところに、彼の深い謙遜が示されています。キリストは「御自身を喜ばせることなく」(ローマ15・3)、「おのれをむなしくして僕に形を取り」フィリピ2・7、「ご自身をいけにえとしてささげ」られたエペソ5・2。パウロはこの主イエス・キリストにならった。パウロは、愛の為に、喜んで自分を束縛させた。叉同胞の救いのためには、自分は滅びてもよいと思い(ローマ9・3)、同信の共のためには自分の生命をも与えたいと願った(一テサ2・8)

まことにパウロは、わたしたちが模範として、仰ぐに足る人物であるこれはすなわちイエス・キリストに従ったパウロであるその模範はイエス・キリスト様であります。主イエスは私達の罪のために身代わりとして十字架で死に3日目に復活された活ける神主イエス・キリスト様です。このかたに倣って行きましょう。

2021/7/18 週報メッセージ

主の祈りに学ぶ                                                          朝位 真士 

  主の祈りはマタイ6・9~13、ルカ11・2~4に記載されている。

 主の祈りの意味――第一に、主の祈りの最初のことば「天にまします、われらの父よ」である。全知全能の聖なる神を私たちは父と呼ぶ。神は私たちを子として訓練していてくださるからこそ、天の父なのである(ヘブル12・6)。

 第二に、主の祈りをよく読むと、そこには願いしか記されていないことに気づく。これは、子が父を慕うように、何でも祈りなさいと主は勧めておられるということである。祈りの形式とか言葉とかを考える前に、主はただ求めなさいと言う。主は父として、私たちのありのままの姿を求めておられる。

 第三に、主の祈りの六つの祈願である。それらは二つに大別される。前半の三つは神ご自身と神の国のことであり、後半の三つは地上のことであり、一つ一つの順序にも意味があり、またそれぞれに深い真理が込められている。前半の三つは、実に壮大なビジョンをもった願いである。そして、後半の三つの願いは、この理想世界を実現するために欠かせない三つの要素を示している。日用の糧の願いから始まり、飢えからの解放、神によって罪が赦されて得られる魂の平安、さらに、悪魔の働きからの解放を願う。

 第四に、主の祈りの根本には、人類の究極の希望、イエスの再臨によって実現する神の国への待望がある。

 第五に、この主の祈りには、必ず「われらの」とある。祈りは、一人で祈っているようで、実はみんなで祈っているのである。群れの祈りである。だから「われら」には、とりなしの意味がある。主の祈りは、とりなしの愛、兄弟愛の告白である。だから、全世界の人々が祈るべき祈りであり、主イエス・キリスト様が弟子たちに、また私共に教えてくださった最高の祈りの模範である。毎回主の祈りを祈る時にこのことを心にとめると、今まで経験することのなかった恵みを経験することになると思う。

2021/7/11 週報メッセージ

目的のある人生

朝位 真士 

  「あなたがたが食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリ10:31)

  人間の人間らしい生き方とは、確かな人生の目的をもって生きることです。自分の人生が生産的な方向に向かっているか、滅亡に向かって歩いているか分かります。私たちは本当の人生の目的を持たなければなりません。

 まず、人生の目的の条件の第一は、魂を満足させる人格的なもの――人間は欲望の存在です。食欲、性欲、名誉欲などさまざまな欲望の満足を求めて生きています。しかし、これらの欲望を充足させるだけでは、人間は決して満足できません。何故なら、人間は魂をもつ人格的存在だからです。

 第二は、無限の欲求を満たす永遠的なもの――人間の魂の欲求は無限です。人間の魂は、永遠なるものを求めています。愛においても、善においても、自由においても永遠なるものを求めています。しかし、人間は無限を求めながら、有限を自覚しています。ここに神に背いた罪の結果である死の問題があります。真の人生の目的はこの死の壁を打ち破る力をもった永遠的なものでなければなりません。

 第三は、心と心を結ぶ共感を得るもの――人生の目的は、人と人とを結びつける普遍的なものであるべきです。人間は、自我の満足だけでは幸福になれません。心と心の結びつき、すべての人たちの心に通じる共有の真理があってはじめて、人間は満足します。三重苦の試練の中で生き抜いたヘレン・ケラー女史は「人間にとってもっとも悲惨なのは心の世界がないことだ」と記し、最大の苦痛は「わからない」ことではなく、「わからせることができない」ことだと、自伝で語っています。真の愛、この愛の支配こそ、人間が求めている目的です。神の栄光こそが、神の愛こそが、私たちのあらゆる欲求に本当の満足を与えてくれるものだということです。キリストご自身こそ神の栄光です。キリストを信じ、愛して生きることが、神の栄光を目的とする人生です。

「神の栄光を現わしなさい」2021・7・11説教要旨

朝位真士

今日は1コリント10・14~33節を通して聖書を学んで行きましょう。この10・14~33節は偶像に関する警告。14~22聖餐における聖徒の交わりは偶像礼拝を避けるべきことを要求する。23~30再び、偶像にささげた肉を食べる事について、キリスト者自由の制限、31~33飲食における愛の道。

聖書を見て下さい。10・14~33節14節以下は、偶像とそれに供えた肉を食べることについての、再度の警告である(8・4、7)。悪の霊が偶像を用いて人々を迷わせ、真の神を真理から離すのである。偶像礼拝に加わり、(悪霊どもの杯)を飲むことは、聖霊によって主の肉と血を受けるわたしたちのなすべきことではない。(20,21)。昔、供え物を食べる祭司たちが祭壇と関係を持つように(18)、主の肉と血を味わう聖餐にあずかる者は、主と1体となり、その聖徒の交わりに入るので(16,17)、このような者は偶像に遠ざからなければならないのは勿論であるが(14)。偶像そのものは存在するものではないが、偶像礼拝の背後には悪霊の勢力があるからである(19-22、申命32・17)、しかし、キリスト者は偶像信者と交わってはならないというのではない(1こり5・10)。彼らに招かれてもなされることもあり、偶像にささげたあと市場に売る肉を出されることもある時、(いちいち良心に問うこともしないで)食べてもさしつかえないが((25~27)、もしその事を特に注意され、あるいはそれによって私達の信仰が試みられるような場合には、その人の良心のために食べてはならない(28,29)。すべてのことが自分にとって別に悪いわけでもなくても(しかしすべてのことが益になるわけではない)、私達は自分の利益を求めないで他の人の益を求めるべきである。(23,24)。要は(飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである(31)。自分は自由をわきまえていても、そのために人にそしられたり(30)、また人をつまずかせたりしてはならない(32)。かえってどうにかして人を救う為に、自分の益ではなく、人の益を求め、(すべての人に喜ばれるように努め)なければならない(33)。わたしたちの言行は、人の救いのために利益とならなければならない。

パウロの書きぶりからすると、コリント教会のキリスト者の中には、信仰の自由の名のもとに、偶像の宮で偶像にささげられた肉をおおぴらに食べて弱い兄弟たちを躓かせていた者がいたようです。もっぱら主にある兄弟姉妹に対する愛の配慮の為に身を慎むようにという線で勧めを8章でしていました。しかしここに至ってパウロは別の角度かあるこの問題に警告を発しています。キリスト者は、聖餐によってキリストと1体になっているのである。それにもかかわらず、そのキリストにある者が偶像にささげられた物を食べるなら、彼は偶像と1体となる。悪の霊は偶像を用いて人々を惑わし、彼らを真の神と真理から引き離す。サタンは、人間が真の神以外のものを拝むことを喜ぶ。人間が偶像の宮で礼拝することは、悪霊を喜ばせることにはかならないのであります。パウロは自由制限の精神を31節を見て下さい。

「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしる、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」自分のためではなく、人のためにという配慮は素晴らしい。しかし私達キリスト者は、それ以上に神の栄光のためにという祈りと願いをもたなければならない。そうする時初めてわたしたちは自分より他人のことを真に第1に考えて生きられるようになるのであります。パウロは世界的視野に立って、32,33と行っています。パウロは8章以来長く続いた「偶像にささげた肉」についての考察を閉じる。

結び

もう1度1コリント10・31節を見て下さい。「だから、飲むにも食べるにも、」また何事をするにも、全て神の栄光にためにすべきである。これはキリスト者生活の大原理であります。わたしたちが、この世に生かされている究極の目的は「神の栄光のため」であります。だから、日常生活のすべてにおいて、このことを念頭におおて生活しなければならない。そしてその目的は32節33節です。パウロはここにキリスト者の心がけを述べたが、ここでは自分の覚悟を語っています。「多くに人が救われるために」、「彼らの益を求めて」つねに自分の行動を定めたのであります。一人でも多くの人が救われる為に、喜んで自分の自由を制限しようというのであります。

新約学者ウイリアムバークレーは「わたしたちは、同胞にたいして果たすべき義務を念頭においたとき、はじめて、すべてのことを神の栄光にためにすることができるのである。また、キリスト者の自由は自分のためにではなく、他者のために与えられているのだということを念頭においたとき、初めて、同胞に対して果たすべき義務を考えることができるのである」と記しています。

2021/7/4 週報メッセージ

信仰の友の死に臨んで

朝位 真士 

  「主の聖徒の死はそのみ前において尊い。」(詩116・15)

 「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。」(ヘブル11・4b)

 先日、我が母教会の信仰の友の死の報告を受けました。彼は遠洋航海の船員として海外に行っていました。彼の証しを紹介します。

 20代の頃、大阪でキリスト教のチラシを受け取り、九州に帰ったら復興教会に出席するように言われて、1年間遠洋航海に出たのち九州の教会に出席するようになりました。聖書を熱心に読み続けるうちに神の存在をはっきりと知り、またイエス・キリストというお方が罪深い私のために身代わりとなって十字架にかかってくださった事実に出会いました。私を悩ましていたのは死の問題でした。聖書に出会うまでは、命がなくなると自分という存在が永久に失われるという概念を持っており、強い虚無感に囚われておりました。主イエスの救いに与る者たちには、永遠の世界が用意されているという福音に出会った時に大きな喜びを得ました。こうして、私は船の中で主イエスを自分の救い主として受け入れました。1年間の遠洋航海を終えようとした頃に一大決心をしました。教会生活を送るために船員を辞めるという気持ちが大きくなっていたのです。日本に帰って、会社に退職を申し出ました。復興教会での教会生活を始めてからしばらくして、1973年10月3日に洗礼を受け、幸いな今日があるのは、主イエスの不思議な導きのお陰です。

  私が教会にいた頃は、教会活動に積極的に参加し、クリスチャンの姉妹と結婚して二人のお子様に恵まれ、教会では絶えず信者の模範となっていました。教会役員となり、家族あげて教会のために全力を注いで励んでおられました。寡黙な兄弟でしたが、彼の存在は今でも教会にとって大きなものです。一人の信仰の友を天国に送りました。天国は賑やかなことでしょう。

「賞を得なさい」2021・6・27説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント9・19~27節を通して聖書を学んで行きましょう。この9・19~27節は真の奉仕の方法と報い、19~23人をキリストに導く為の奴隷的態度、24~27勝利の冠を得る為のパウロの克己の生涯。パウロは自ら進んですべての人の奴隷になった(19~23)、(できるだけ多くの人を)主に導くために、(ユダヤ人には、ユダヤ人のように)(弱い人には弱い者に)なったとは、自分の信仰と主義を曲げて人に迎合し、八方美人的にだれにも妥協したというのではない。彼は決してそんな人ではなく、ただあらゆる人種あらゆる階級の人の魂を救うために、すべてに人に譲歩し、自分を彼らの標準において、彼らの友となったのである。それは(なんとかして幾人かを救うためで、(22,ローマ11・14)、(福音のために、わたしはどんな事でもする)という(23)。ここに彼の謙遜と熱心が表れています。伝道者は勿論であるが、誰に向かっても福音をあかししてその魂を救おうと心がける者は、この愛による

同化性を持たなければならない。この愛のある者だけが人をとらえる。

 1コリント9・19~27節を見て下さい。この終わりには、勝利者となることを、競技の例を引いて勧め、自分の克己の模範を示しています(24~27)。当時オリンピックと同様の競技が2年ごとにコリント市郊外で行われ、全ギリシャを熱狂させた。それに加わる選手は、10ヶ月も前から特別に克己節制して練習し準備しあったという。まして霊界の競技場で

勝利の月桂冠は、朽ちない、いのちの冠である(25)、わたしたちの信仰生活や奉仕は、目標にない競争ではなく、必ず上からの賞与がある(フィリピ3・14)。私達の信仰の戦いは(信仰生活と奉仕は戦いである)、空を打つような拳闘ではなく、(26)、目に見えない敵が現実に存在する。これを思う時、緊張しないわけにはいかない。ことに克己自制の必要がある(27)。(服従させる)とは、「奴隷として引きずり回す」というような言葉で、肉体の欲や安逸に機会を得させないために、これを征服すべきことを言う。そうしなければ、審査に合格せず、賞を得ることが出来ない。パウロは自らを(すべての人の奴隷)にしただけでなく絶えず用いられる器となるために、主人が奴隷を打ったように、(自分の体を打ちたたいて服従させた(27)。パウロにはキリストの愛から離れさせられる恐れは少しも無かったが(ローマ8・38~39)、用いられる器としての特権を奪い去られることを恐れて、大いに刻苦勉励したのである。真の愛とは、外側から相手に与える同情ではなく、相手の立場に自分を置いて、相手と同じ気持ちで物を見たり、感じたりすることである。これはとても自分の力ではできることではありません。賜物として神から与えられる愛に根ざしてのみできることであります。パウロはこの愛を求めるようにと私達に命じています。(1コリント14・1p317)

結び

もう1度9・24~27節を見て下さい。ここに自分に対する厳しさここでパウロは、福音の宣教者が、福音を伝えられて救われた者と共に救いの完成を目指して努力すること、つまり自己訓練をすべきことをといています。パウロが、救われた者が、救いの完成をめざして努めることである。(ローマ8・23,フィリピ3・21)。パウロは信仰生活には、克己の精神が必要であることを述べています。コリントもギリシャ都市で、スポーツははなやかであった。全国から青年男女が集まって、栄冠を競うた。競技の種目はランニング、跳躍、円盤投げ、レスリング、拳闘の類いであったと言われる。市民はこれらのことをよく知っていた。その出場選手の全てが、栄冠を得るのではない。優勝者はただ1人である。同じように、キリスト者も、万人注視の中に、信仰生活のコースを走っている。しかし用心しないと、途中で落伍する者もでる。だから、最後に主より栄えの冠りを受ける者となるためには、心して励み努めなければならない、パウロは自分は朽ちない冠を目指して走っている。その目標ははっきりしている。これはパウロの確信であった。信仰生活において打つべきところはどこであるか。それは他でもない。「自分のからだ」であるすなわち、肉の欲を制して、霊の力に従わせることである。そうでないと、口先でどんなに立派なことを

説いても、生活がそれに伴わないと、多くの人をつまずかせ、主を裏切ることになる。こうして最後の審判の日に、「失格者」の烙印押されて、外にすてられるであろう。その恥と悲惨を思うべきである。私達は信仰だけで救われる。しかし、その信仰は生ける信仰でなければならない。生ける信仰には、生ける生活が必ず出てくるはずであります。それはまことに緊張した不断の努力でなければならない。

最後にエリックのことについてこのToKYOの大会の歴史と物語のなかp13からp34引用します。

2021/6/27 週報メッセージ

協働牧会伝道によるホ群教会形成

朝位 真士 

  「成長させてくださる神」(Ⅰコリント3・6)の御言葉を与えられて、協働牧会伝道によるホ群教会形成を祈りの中で実践しています。

 私共桜ヶ丘教会の協働牧会教会は、宮崎清水町教会(山口英希師)、舘坂橋教会(村上義治師)、日野原記念上尾栄光教会(長橋和彦師)です。2020年ホ群セミナーの頃より、4つの教会がパートナー教会として協働牧会形成をさせていただいています。ホ群教会として相互に祈りと週報交換、また特別の祈りの課題を出し合って祈っています。昨年よりコロナ禍の中で各教会が大変試練の中にあり、私共の教会も今まで経験しなかった教勢減少、財政的な困難の中にありますが、祈りによって不思議と力づけられ励まされています。とかく教会は孤立しがちでありますが、少なくともホ群教会は、祈りによって、小さな群れではありますが、守られ、助けられています。複数教会がパートナー教会として与えられていることは大変心強く感じています。パートナー教会の先生方や教会員の方々に祈っていただき、また教会の内情もお互いに情報交換し合って、何か4つのパートナー教会が近くにあるような感じがしています。私共の教会は、先程も申し上げましたように、人数は減少し、財政も逼迫している中で、昨年は3人の受洗者が与えられ、パートナー教会の方々の祈り、またホ群全群の祈りと支援によって、財政も赤字を出さずにすみました。予想だにしなかった方からの献金もありました。

 コロナ禍で礼拝人数も制限され、ユーチューブ配信したり、週報も礼拝1週間前に郵送したり、訪問したりして、少し多忙になりましたが、神様は私共に宣教のビジョンと知恵を与えてくださっています。主イエス・キリストの御名を崇めます。ハレルヤ!!

福音宣教の喜び」2021・6・20説教要旨

朝位真士

今日は1コリント9章1~18節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの9章全体を伝道者の権利と克己。福音宣伝の責任。勝利者の節制と語って、1~3パウロの使徒たること。4~6使徒としての彼の権利と自由。7~15伝道者の生活に関する律法の与える権利と、パウロの自己放棄。16~18彼の福音宣伝の責任と報い。19~27真の奉仕と報い。

19~23人をキリストに導くための奴隷的態度。24~27勝利の冠を得るための彼の克己の生涯と分解しています。

1コリント9・1~18節を見て下さい。パウロには、使徒として教会からの供給を受けて生活し、また他の使徒のように妻を持つ権利と自由があるはずであり(4~5)、天幕造りをして働きながら自給伝道をする必要はないはずであった(6、使徒18・3)。福音を宣べ伝える者が福音によって生活することは当然の事であり(14)、伝道者が信者から物質上の供給を受けることは当然の権利であり、霊の恵みを与えて肉体に必要な物をもって報いられることは決して分に過ぎたことではない(7、11)。これは律法の示す権利であり、神の定められた道である(8-10、13,14)。けれどもパウロはこの当然の権利さえ放棄して、天幕造りの労働をしながら、伝道したのは、福音の宣教の業にいささかも妨げにならないようにとの心からであった(12,15)。パウロが福音宣教のためにこれほど大きな克己犠牲の生活を送った精神は、私達すべての伝道者が見習わなければならない。伝道者が当然の権利を用いずに、

克己犠牲の生活を送って奉仕に専念し、信者は聖書の命じるように伝道者を敬い尊び、その労をねぎらい、豊にそれを報いる心があってこそ、教会は進歩し、強固に発展するのであります。パウロは、福音宣教の大使命のために選ばれ、主に捉えられたものであります。好むと好まざるとにかかわらず、その責任を免れることはできない。熱心に宣べ伝えたからといって誇るべきことはなく、怠れば実に災いであるという(16,17)。彼はそのために使徒としての権利を用いないばかりか(12)、むしろすすんですべての人の奴隷となった。それはできるだけ多くの人を主に導くためであると言っています。この9章1~18節はパウロの誇りを語っています。16節を見て下さい。「私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、わたしがどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います」と言っています。つまり福音宣教は神によって課せられたパウロの義務であったのです。このように、パウロが使徒であることの証拠は、彼のあり方そのものに現れていますが、特にキリストの福音宣教を神から委託されていること(17)と、「私の働きに実」(1)であるコリント教会の存在であった。

結び

もう1度8・15~18節を見て下さい。

パウロは生活の料(しろ)を得るためでなく、ただ福音を伝えた。しかし、福音を伝えること自体を別に誇っていない。何故ならば、それはパウロにとってやむにやまれないことであったのである。彼は、神によって、福音宣教のために捕らえられていた(フィリピ3・1から11節p364)もしそれを怠るならば、神の御心に反し、自分の使命に不忠実となる。そうなれば実に災いである。こうして、狂える者のように、ひたむきに伝道の業に励んだのである。パウロは物質的報酬を受けずに伝道した。それでは、伝道には、何も報いはないかといえばそうではない。伝道それ自身が報いである。そして他人に経済的負担をかけずに働くことの中に、大いなる誇りがあり、喜びがある。彼が求めたものは、物質的援助ではなく、福音宣教からくる内なる喜びであり、高い誇りであったことがわかります。最後に付け加えておきたいことは9・4~9節を見て下さい。パウロはここに1つ1つ権利を挙げています。1・教会より経済的支持によって生活することをさしています。2・妻帯の権利をいっています。3・

第1のものを別の言葉でいっただけであります。パウロ自ら天幕造りをしながら伝道した(使徒18・3)働く伝道者に、権利のあることを裏書きしています。伝道者が教会より経済的援助をうけることは、むしろ当然ありますが、パウロはあえてその権利を使用しなかった。旧約聖書申命記25・4引用ですが、牛でさえ、働く時には、食を得ることが出来る。それが神の律法であるならば、神の為に働く人が、その報酬をえることは当然といわねばならない。

けれどもパウロは自給伝道したのであります。それは個人によって色々です。私の場合は九州では会堂建設のため妻フミ子牧師が音楽教室をしてその月謝を会堂献金に献げました。皆さんも会堂建築のため信者の皆さんが多額の献金を献げられたのです。そして今日このような立派な音響装置の完備した礼拝堂でチャペルコンサートーに岸先生やベアンテ先生や高田先生などの音楽関係のプロの方々をお呼びすることが出来て感謝です。

1923年6月1日創立