「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2021/4/25 週報メッセージ

聖書を読みましょう(マルコ)

朝位 真士 

  マルコ福音書について米田豊先生はこのように注解しておられます。

  記者マルコという信者の子で別名はヨハネと言い(使徒12・12)、バルナバのいとこである(コロサイ4・10)。パウロとバルナバに伴われて、その第1回伝道旅行に出たが、途中から帰ったため、第2回目にはパウロに見捨てられ、バルナバに伴われて、その伝道に出た(使徒15・36~39)。のちにパウロと和らぎ、彼の同労者となった(第2テモテ4・11、ピレモン24)。本福音書は、伝説によれば、紀元60年頃、ローマにおいてペテロがとらわれていた時、彼の指揮の下にマルコが記したものであるという。それは、彼がペテロに浮かれたことと、書中にペテロに関しては詳しく記され、また本書の書き様がいかにもペテロの性質を表わすところが多い(「たちまち」「直ちに」などの言葉多いのはその一例である)ことからもうかがわれる。

  マルコはローマ人および一般の異邦人のために記されたものであることは、ユダヤ人の風習や土地言語などに注意深く説明を加えたこと(5・41、7・34など)、またイエスの系図を省いたこと、旧約からの引用の少ないことなどから、知ることができる。マルコは、勝利者たるローマ人に適すように、勝利者たる神の子キリストの働きを簡単に記している。

  皆様、マルコによる福音書を前提なしで読んでみましょう。キリストの働きが直裁的に、単刀直入に書かれています。

2021/4/18 週報メッセージ

聖書を読みましょう

朝位 真士

  「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3・16)

 イースターを迎え、マタイ伝より読むことを実行しています。注解書なしで、御言葉の力で1日の生活を始めたらいかがでしょう。

 米田豊先生の注解によると、福音書の記者であるマタイは12弟子の一人で、別名をレビと称し、収税を業としていたが、主の召命を受けて弟子となったものです(9章9節)。この書はユダヤ人のために書かれたもので、記者が目的としたところは、イエス・キリストが旧約聖書に預言されているメシヤすなわち救主であることを証明することです。したがって旧約の預言からの引用が多く、その数は65を下りません。紀元50~60年頃、パレスチナで書かれたもので、キリストの言行を分類的に記しています。簡単に分類すると、5章から7章までが説教、8章から9章が奇跡、10章が使徒に対する教訓、13章がたとえ、23章が律法学者やパリサイ人に対する譴責、24章から25章が再臨に関する警告および比喩集であります。

 マタイ福音書は28章ありますが、1日4章読んでいくと1週間で終了します。皆様もチャレンジしてはいかがでしょうか。もちろん、毎日15分間の御言葉と祈りの習慣を継続していくと、さらに御言葉の恵みに充足されるのではないでしょうか。

2021/4/11 週報メッセージ

フィリピの信徒への手紙を読んで

朝位 真士 

  フィリピの教会は、パウロの第2回伝道旅行の結果生まれたヨーロッパにおける最初の教会です。紀元51~53年の頃と思われます。その設立事情は、使徒16章6~15節に記録されています。創立会員は、テアテラ市の紫布の商人ルデヤという婦人と、占いの霊につかれていた女奴隷、それからフィリピの獄舎の看守とその家族でした。これらのキリスト者が教会形成の礎石となったわけです。フィリピの教会には、その後アジア人、ギリシャ人、ローマ人などのいろいろな民族、またいろいろな国籍をもった人々、上流階級、中流・下層階級からの人々が加わって、教会が形成され成長していったと考えられます。パウロの宣教によって教会の関係者は愛と信頼に固く結ばれました。彼の生んだ教会には、深く親しい交わりが見られています。4章10節、15節、16節から、フィリピの教会の信徒のパウロに対する愛の心と愛の贈り物が読み取れます。

 私の好きな聖句は、フィリピ4章11~13節「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」短い四章の中に、「喜ぶ」「喜びなさい」等が十数回記録されています。喜びの少ない不安と恐怖のこの時代に、キリストの御言に耳を傾けましょう。

2021/4/4 週報メッセージ

 イースター礼拝を迎えるにあたって

朝位 真士 

  2月17日(水)より4月4日(日)までの四旬節(レント、受難節)にキリストの受難と復活を学ぶ時期を過ごせたことを感謝します。主の復活を祝うキリスト教最大のお祭りがイースターですが、春分の後の最初の満月の次に来る日曜日ということになっています。当時のユダヤの暦が太陰暦に基づいていたからです。このため私たちの使用しているグレゴリオ暦では、毎年日付が変わってしまいます。教会では主の復活を記念して早天野外礼拝を行うところが多くあります。また、死んだような殻を破って新しい生命が出てくることの連想から、彩色された卵が配られます。キリストの新しい命を象徴しています。

 今はコロナ禍の時代です。3密を避け、手指の消毒をし、マスクをして生活しなくてはなりません。ある牧師が「3密(密集、密閉、密接)を避けなければならないが、イエス・キリストには3満があります」と言いました。クリスマスによく読まれるヨハネ1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。①栄光、②恵み、③真理の3つの満があります。つまり、イエス・キリストは栄光、恵み、真理に満ちておられました。このコロナ禍の時、3満に充足していただきましょう。イースターの時、大いにキリストの3満に充たしていただきましょう。

2020/3/28週報メッセージ

2020年度最後の礼拝にあたって

朝位 真士 

 教会の年度は4月から翌年3月までとなっている。昨年3月の役員会で感染症対策について話し合った。礼拝は休まず粛々と行う。法令に基づいての規制には従い、牧師は礼拝堂にて、各々は家庭など自らの場で礼拝を行う。新型コロナウイルス感染症流行が続いている中で、手洗い、マスク、手指の消毒をして礼拝を守り、しばらくは例会(婦人会、ホープ会、青年会、エリム会、ふれあい会、夕拝、昼食)は中止する。その時、私に御言葉が与えられた。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)神様は最善以下のことはなさらない御方である。

 教会の礼拝形式として、U姉にユーチューブ配信をしていただくようになり、礼拝に出席できない方も自宅で礼拝を守ることができるようになった。コロナ禍における神様のお導きだと感謝している。U姉のためにお祈りしてほしい。そのような中で、3人の方々が受洗された。神様は試練を通してこのようなお恵みを与えてくださった。O夫妻は5月31日のペンテコステ礼拝に受洗された。高齢の方々だが、若い頃からキリスト教について大変多くの知識をお持ちの方である。コロナウイルス感染防止策を考えながら洗礼を授けさせていただいた。健康が許される限り毎回礼拝にご夫妻で出席されておられる。Y姉は12月20日のクリスマス礼拝で洗礼式をさせていただいた。ベアンテ・ボーマン先生御夫妻の御用の日であった。Y姉は女優さんで、2月に結婚されて他教会へ転出された。このように困難の1年の中にも神様の祝福が与えられた。ハレルヤ!!

2021/3/21 週報メッセージ

最近の私の霊想書を感謝して

朝位 真士 

  最近私は詩編によって大変恵まれています。米田豊師によると、詩編は宗教的な人民であるイスラエルの昔の多くの詩人の作を、神を礼拝する時に音楽に合わせて歌わせる目的で後代のエズラが編集した聖歌集です。最も古い作者は紀元前1500年代のモーセであり、編集者エズラに至る1000年間にわたる作のうち、ダビデのものが最も多く、73編あります。全体を通じて敬神愛国の情緒にあふれ、感謝賛美、ざんげ祈祷で調子づけられています。

 その題目は多種多様で、義人の繁栄、悪人の災禍、人生の無常などを歌った教訓的なもの、神の義、神の愛、神の恵み、神の力、神の栄光などの神の属性や神の律法、神の摂理などを歌った信仰的なもの、罪の悶えの中よりのざんげ、患難の中よりの哀訴、個人および国民の上に下されたあわれみに対する感謝などの祈祷に関するもの、イスラエルの過去を記した歴史的なもの、および救主来臨(初降臨および再臨)の希望、ならびにイスラエルの将来の幸福を歌った預言的なものなどがあります。詩編という標題の原語たるテヒリームは「賛美」を意味しますが、実際には詩編の中には「賛美」と「祈」と「感謝」「歌」等を含んでいて、もし総括的な名称を付けるとするならば、「宗教的詩歌」と称することができます。

 ヘブル語聖書は5巻に区分され、各巻は頌栄をもって終わります。ただし最終の第150編は全体の終わりの頌栄ともなり、また最初の1編は全体の緒言的詩として入れられたものです。第1巻は1~41編。第2巻は42~72編。第3巻は73~89編。第4四巻は90~106編。第5巻は107~150編となり、「イスラエルの神、主はとこしえからとこしえまでほむべきかな。アーメン」が置かれていることをもって証明することができます。

 さあ皆様、詩編を毎日少しずつ読んでみましょう。きっと素晴らしい神様の恵みと宝が隠されていると思います。

2021/3/14 週報メッセージ

最近思っていること

朝位 真士 

 コロナウイルス・パンデミックの状態が2年目に入り、魂が悩んでいる方が大変多くおられます。教会も2020年には礼拝のユーチューブ配信を始めました。礼拝の1週間前に週報を郵送・ポスティングしたり、電話をかけて安否を問い、電話口で神様に祈り合ったりしています。またライン等のSNSで安否を問うたり祈ったりさせていただいています。その点においては感謝ですが、そういう機会を失っておられる方は大変心配しています。1日も早くコロナウイルス・パンデミックが終息することを祈る毎日であります。

 あるカトリックの神父が、このコロナウイルスは短くても3年半は継続すると語っていました。その言葉は思いつきではなく、ヨハネ黙示録でサタンの働きは3年半は継続すると語っているからだと言われました。神学的な解釈はともかくとして、善意に解釈すると、しばらくはコロナウイルス・パンデミックが続くということでしょう。いつコロナウイルスが終息するかはともかくとして、その後の信仰生活はいかがでしょうか。礼拝を自宅で守る習慣が身について、教会に来るのがおっくうになることを心配しています。高齢の方や病気の方など、事情もそれぞれ違います。私自身高齢であり病気に罹患している者として、礼拝や集会に出席できることには限界があるということを感じています。世の終末の近いこの時、私たちは今こそ、主との交わりを少しでも多く持ちたいと思います。

2021/3/7 週報メッセージ

 最近思うこと

朝位 真士 

  新型コロナウイルス感染症の流行が少し下火になったとはいえ、まだまだ安心はできない状態です。去年からユーチューブ配信をして、会堂では少数の方のみで礼拝を守っています。三密を避け、マスク、手指の消毒をして、注意しながら出席しておられる皆様は、大変不便を感じておられると思います。早くワクチンが接種され、コロナウイルス・パンデミックが終息することを祈ることであります。

 前にも申し上げましたが、役員の方々の協力を得て、週報は次週のものを印刷して郵送やポスティングをしています。今後礼拝や集会の形態が変化していくとは思いますが、私的には早く終息して以前のように自由に礼拝や集会が行われることを祈っています。ヘブル10章23~25節に、「約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」と語られています。今はまさに非常事態です。ユーチューブ配信、次週の週報の郵送・ポスティングはコロナ禍に生まれた知恵で、大変ではありますが恵まれます。

  私が一番心配なのは、コロナ禍が終息した後に礼拝に出席する習慣が希薄になりはしないかということです。また諸集会が制約を受け、中止され、教会活動が停滞している感がいたします。早くコロナ禍の終息が与えられて、以前のように共に集会に集い、交わり祈りながらお互いの信仰の成長を求めたいと思います。

2021/2/28  週報メッセージ

最近感じている事

朝位 真士 

  最近、責任ある立場の方の失言によって、今迄の業績が水泡に帰していることは、説教者として大いに反省させられる事柄です。以前ある教師がこんな話をされたことを思い出します。「ある人に大いなるホメ言葉を発した時、その人の心はどうであるか。またその人に対して、大変失礼な言葉を発せられた時に、その人の気持ちはどうであるかということである。人から賞賛された時、勿論嬉しく感じるが、逆に大変失礼な言葉を発せられた時はどうか。以前の私であれば大いに激怒したであろうが、今は主にあって平安を保つことができる。これも信仰のお陰だと感謝している。」

 皆様方は如何でしょうか。大いに褒められた時、また大いに貶され自尊心を傷つけられた時の心の状態は如何でしょう。クリスチャンとノンクリスチャンとでは比較ができないと思います。私は十代でクリスチャンになり六十年以上信仰が与えられています。まだまだ未熟者ですが、この二つの全く違う言葉を聞いた時、一時的にはムッとして数秒は感情の高揚を感じますが、すぐに収まります。それは主イエス様が私の心の中に平安を与えてくださっているからだと思います。勿論、世の中の悪や不公平に対して異議を唱えるのは必要だと思いますが、特にクリスチャン同士、または教会に来られている方々は、自分の気に入らないことがあっても、怒ったり腹を立てたりすることを止めて、平安・平和に過ごしましょう。「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」

2021/2/21週報メッセージ

森島泰則教授の文に感動して

朝位 真士 

  先日『いのちのことば』2月号の中で、国際基督教大学の森島教授の「時代を見る眼」という文章が心にとどまったので、皆様にご紹介させていただきます。先生は、認知心理学を専門とされる方です。

 認知科学者のスティーブン・ピンカーが、近著『二一世紀の啓蒙』の中で次のようなエピソードを紹介しています。心は脳の活動パターンで決まるとされています。しかし、脳の活動パターンという物質的活動から非物質的な理性(心)が生じるのかという問いは、現代脳科学の最大の未解決問題と言われます。そして先生は「聖書によれば、理性(心)は神によって与えられました。もちろんこれは科学的な説ではありませんし、脳活動と心の脳科学的な関連性を否定するものでもありません。しかし、一部の科学者が批判するような迷信のような信念でもありません。聖書は、確かな根拠に基づいた信頼に値するものだからです。」コロナ禍を「克服」する鍵は、生きる意味を持っているか、そしてその意味とは何なのかにかかっているのではないでしょうか。キリストにあって生きる意味と希望を見出したパウロの次の証しは、私たちに勇気を与えてくれます。「私は、貧しさの中にあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることも飢えることにも、富むことにも貧しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4・12~13)私も同感です。