「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2024/3/10 週報メッセージ

「悲しみの道」(ルカ書 23:26-31)

主イエスが死刑の判決を受け、ビラト官邸からゴルゴタの丘まで、自ら十字架を背負って歩かれたおよそ1キロほどの道を ヴィア・ドロローサといいます。日本語では「悲しみの道」「苦しみの道」と訳されています。わたしたちがこのヴィア・ドロローサについて学んだり、黙想したりする時には、荘重で厳粛な思いに立たされます。

現在のヴィア・ドロローサは、石畳の路地で、狭く、曲がりくねった道です。道の両側には、小さな店(土産物)が並び、熱気と活気に満ち、そしていつも観光客、巡礼者であふれかえっています。歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代史』によれば、当時、過越祭であり、エルサレムへの世界各地からの巡礼者は270万人に及び、市街は芋を洗うような混雑状態だったとのこと。

イエス様は最後の晩餐の後、一睡することもなく、逮捕、尋問、裁判で引き回され、ムチで打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架の横木を担いで、刑場までふらつきながら歩かれたのです。

クレネ人シモンは、たまたまローマ兵と目が合ったがゆえに、横木を代わって運ぶように命令されました。ローマに支配されていた時代のユダヤ人の労役義務でした。「なぜ、正装して出かけてきた巡礼日に、血だらけの十字架を担がねばならないのか」「なぜ、自分がこのような不運な目にあうのか」と怒りと憤懣に満ちていました。シモンは歩きながらその男の顔をのぞきました。刑場を追い出されてからも、彼のことが気になって遠くから眺めていました。その男が十字架上で、神に祈られる声、「父よ。彼らをお赦しください」と人々を赦す言葉を聞いて、震えるような感動を覚えました。やがてその男が十字架上で死んだときは、彼自身もすっかり変えられていたのです。

3/3 山本師説教から)

2024/3/3  週報メッセージ

「完全な成長に向かって」(ヤコブ書 1:1-8、12)

キリストを信じて救われた者が、なぜそれ以上に成長することが必要なのでしょうか。それは、救われたということは、神さまとの関係を回復したことであり、天国に向かって第一歩を進めたに過ぎないのです。私たちの魂は、天国に向かって成長していかなければならないからです。

私たちはかつて洗礼を受けました。キリストの福音を信じて救いを得、霊的な幼子として誕生しました。霊的な幼子は、純粋な、みことばの乳を飲んで育ちます。私たちキリスト者も、み言葉(聖書)をたくさん読み、その深い意味を理解し、自分の栄養にしていく必要があります。

私たちが成長していくうえで、さまざまな「試練」「訓練」がやってきます。①ヤコブ書は「試練」を、むしろ「喜べ」()と前向き、ブラス思考にとらえるように勧めます。②また試練から「忍耐」()が生じます。聖書の忍耐には「苦しみに耐える」こと以上の深い意味があるのです。それは「神のご計画を待つ心、ゆだねる心、信頼する心」が養われることです。③さらに「試練」を耐え忍ぶ人は、「命の冠」をいただく」(12)と約束されています。

私たちクリスチャンの成長の最終ゴールは「キリストに似た者」となることです。創世記3章は、アダムの罪により、私たちの、神のかたちが歪んでしまったというのです。しかしパウロは、私たちは再び「主と同じ姿に造り変えられていく」(Ⅱコリント3:18)と明言するのです。

今一度、私たちは着実に霊的に成長しているか顧みてみましょう。私たちは、神の子として、恵みから恵みへ、信仰から信仰へ、昨日より今日、今日より明日、日ごとに新しくされ、変えられ、成長しているでしょうか。成長させてくださるのは神さまです。その神さまは、私たちが幼子から成人(大人)へと成長することをどんなに期待しておられるでしょうか。 (2/25山本師説教

2024/2/24  週報メッセージ

「被告席に立つ神」(マタイ書 26:57-68)

 C.S.ルイスは「被告席に立つ神」というエッセー集の中でこのように述べています。「現代に生きる私たちも、神様を全く無視している訳ではない。私たちも、神様の言葉に、耳を傾けることもあるし、神様を信じることもある。しかし、問題なのは、その耳の傾け方、その信じ方である。現代人は、まるで神様を、被告席に立たせているかのように取り扱っている。神様を被告席に立たせておいて、その神様に様々な質問をして答えさせている。これはどういうことなんですか?なぜこうなのですか?あなたは神として、一体何をしているのですか?それらの答えに、自分が納得している限りにおいて神様を信じている。しかし、それは信仰ではない。信仰とは、自分は被告席に立ち、神様を裁判官として、神様の問い掛けに答えていくことである。」まさにルイスの言う通りですが、人類はその初めから、神様を被告席に立たせて、神様に文句を言い、神様を責めています。

最初の人アダムは、「あなたが、私と共にいるようにしてくださったあの女が、木から取って与えたので食べました」と言って神を責めています。今朝の箇所では大祭司たちは、神の子主イエスを、実際に被告席に立たせて裁いています。大祭司たちは「今の生き方を変えなさい」と、悔い改めを迫る主イエスが邪魔だったのです。そんな彼らに対して主イエスは、たった一言語られました。「あなた方の神であるこの私が、今、ここに、こうして、被告席に立たされ、裁かれ、こぶしで叩かれ、唾をかけられている。それは、あなた方を救うためなのだ。あなた方が、その生き方を変えて、父なる神の愛の中に生きるようになるために、私はここに、こうして被告席に立っているのだ。」主イエスは、ただ一言話された後は、ただ黙々として、十字架へ道を歩まれました。受難節の時、主イエスのこの御心を、この愛を、この御苦しみを、心に刻みつつ歩んで行きたいと思います。(2/18 柏明史師説教)

2024/2/18 週報メッセージ

「成長しなさい」 (成長シリーズ①

(Ⅱペトロ書3:14-18)

日から説教のテーマが「イエス・キリストを知る」から「成長」に変わります。

思えばペトロこそ、主イエスにあって著しく成長した人物の一人でした。漁師の出身であり、粗野で、向こう見ずで、口より行動の方が早いタイプの人でした。そのペトロはさまざまな試練や失敗を重ね、とくに聖霊を受けてから、大きく成長し愛の人に変わったのです。 晩年はキリスト教徒が迫害されていたローマに乗り込みますが、皇帝ネロに捕らえられ、逆さ磔になって殉教したと伝説では伝えられています。

このペトロが晩年に2通の手紙を書きます。この手紙Ⅱを閉じるにあたって、遺言のように「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」(18)と語ります。ここでの成長とは、霊的成長、私たちの魂の成長のことをいいます。キリスト者は、救われればそれで終わりではなく、その後、霊的に成長していく存在です。

霊的に成長することは、第一はすべて「神の恵み」によるものであり、決して私たちの努力や功績によるものではありません。第二は「神の業」であります。私たちが信仰によって救われたのも神の御業によるものでした。第三は「イエス・キリストの知識」において成長するのです。イエス・キリストを知れば知るほど、イエス・キリストとの関係は親密になり、霊的に成長するのです。

  最後に、霊的な成長は、神さまの命令です。「成長しなさい」とは、時々ではなく、思い立ったときでもなく、「成長し続けなさい」(現在進行形)の意味なのです。ある教師が言います。「信仰の中断あるいは停滞は、信仰の後退ですよ。」

(2/11 山本師説教)

2024/2/11  週報メッセージ

「わたしの主、わたしの神よ(ヨハネ書20:24-29)

           (イエス・キリストを知る④)

「イエス・キリストを知る」の4回目です。

私たちはパウロの残した「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」という信仰告白を学んでいます。どうしてイエス・キリストを知ることが、「特権」であり、「特別の恵み」であり、「絶大な価値」といえるのでしょうか。

本日の聖書箇所から、「キリスト・イエスを知る」ことは、「人格的な主イエスとの出会い」であり、究極的な意味では、「復活されたイエスに出会う」こと、「圧倒的に臨在するイエスの前に立つ」ことであることを教えられます。

トマスは、「他の弟子たちが、復活のイエス・キリストを見た」と言っても、疑った人物として知られています。主の復活に対して「自分の目で見て確認しなければ」と懐疑的な立場を取っていました。そもそも信仰とは疑いを持たないことではありません。自分の疑問や疑いを率直に神とイエスさまに「主よ、なぜなのでしょう」と問いかけることも大切です

その後、トマスは復活のイエスに出会い、声をかけられ、そのあまりの感激に(すばらしさに)、ひれ伏して、心からなる信仰告白を捧げたのです。「わたしの主、わたしの神よ」との告白は、キリスト教信仰の核心であると言えます。

「わたしの」という言葉が大切です。「彼のため」、「彼女のため」ではなく、この「わたしのため」に、ご自身の命を捨ててくださった(ガラテヤ2:19、20)「主イエス・キリスト」を、あがめ信じる告白だからです。

今、私たちも、「わたしの主、わたしの神よ」と告白し続けましょう。(2/4 山本師説教)

2024/2/4  週報メッセージ

「イエス・キリストを深く知る(フィリピ書3:1-11)

                (イエス・キリストを知る③)

今年の教会標語聖句「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をさらに学びましょう。本日は3回目。「イエス・キリストを深く知る」というタイトルなのに、どうしてパウロの話なのでしょうか。パウロを学ぶのは、イエス・キリストを深く知るためです。

パウロはユダヤ人で熱心なパリサイ派でした。キリスト教徒を迫害、弾圧していました。そのパウロがダマスコ途上で、衝撃的な出来事があり、そのことにより劇的に信仰・価値観などが変えられたのです。それは復活のイエス・キリストとの決定的な出会いでありました。パウロにとってイエス・キリストを知るとは、復活のイエス・キリストとの出会いであり、そのイエスを愛することであり、「そのイエスを信じることが救いである」という信仰でありました。

このところからある牧師から厳しく教えられます。

①「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(8)にパウロは驚嘆していますが、私たちはなんと無関心・無感動でしょうか。私たちの価値観が変わらないのはなぜでしょうか。

②パウロはこの世における自分の有利に思える状況((お金、財産、名誉、学歴、能力、実績、友人…)(5-6)を「塵あくた」(排泄物)ととらえたのに、私たちは人生・生活が少しでもプラスになるように、なぜ塵あくたを求めているのでしょうか。「肉に頼る信仰」「人間の肉によって救いを得ようとする信仰」(4)を大切にしているからでしょうか。

③パウロは「キリストのゆえにすべてを損失と見なした」(7)のに、私たちは、キリストを信じながら、なんとかその一部でも手に入れたいと、物欲しげに求めているのではないでしょうか。

(1/28 山本師説教)

2024/1/28  週報メッセージ

「抵抗せよ」(Ⅰペトロ 5:6-11)

18世紀のフランスに生きたマリ・デュランは、プロテスタント信仰を守るために38年間も牢獄に閉じ込められました。彼女は牢獄の石の壁に、血を流しつつ爪で「レジステ、抵抗せよ」と刻み続けました。レジステという言葉は、本来は「立ち続ける」という意味だそうです。

「信仰にしっかり踏み止まって、悪魔に抵抗しなさい。」(9節)この言葉は、マリ・デュランよりもっと厳しい迫害の中にいた初代教会の信徒たちに、使徒ペトロが送った励ましの言葉です。ペトロは、信仰生活とは悪魔との絶えざる戦いである、と言っています。主イエスも、人間を罪の虜にしようとしたサタンと、戦い続けられました。サタンは、人間を罪から贖い出す十字架を何とか阻止しようとしました。主は、そのサタンと戦い続けられました。

私たちの信仰生活も、常に神様に従うか、サタンの誘惑に負けるか、という戦いの中にあります。サタンは極めて巧妙に私たちを誘惑してきます。ですから自分の力では打ち勝つことはできません。思い煩いをすべて主に委ね、主に戦ってもらうのです。主に大将となって頂き、自分はその後に従って、大将の指示に従って戦うのです。あらゆる恵みの源である神様は、私たちを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。「完全な者とし」という言葉は、破れたものを繕い直す、という意味の言葉です。母親が愛するわが子の着物の破れを丁寧に繕うように、神様は、私たちの欠けを繕ってくださり、本来の姿を回復してくださるのです。

この神様の恵みの中に、私たちは立ち続けるのです。サタンに襲われ易い人とは、神様に委ねることをしないで、一人で思い煩っている人です。自分で何とかしようと思い煩う者は、やがて疲れ果てて、サタンに隙を見せてしまいます。その隙を見せた所に、サタンは襲い掛かってくるのです。どのように神様の恵みの中にしっかりと立ち続けることができるか。それがサタンとの戦いの鍵なのです。(1/21 柏明史師 説教)

2024/1/21 週報メッセージ

「イエス・キリストを知る」(2)(マタイ16:13-20)

今年の教会標語聖句は、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ3:8)というみことばです。この一年少しでも、ひとつでもキリストのすばらしさを体験してみませんか。

もう少し「キリストを知る」ことについて学んでいきます。

第一に、「イエス・キリストを知る」ことは、「永遠の命を獲得する」ことです。聖書は、はっきりと永遠の命とは、唯一の神とイエスを知ること(ヨハネ17:3)だと語ります。どこまでわたしたちは「イエスのご降誕、受難、十字架、復活、昇天、神のゆるし、愛」などを知っているでしょうか。

第二に、「イエス・キリストを知る」ことは、「イエス・キリスト愛する」ことです。創世記の4章1節には、「さてアダムは妻エバを知った」とあります。罪のためにエデンの園を追放されたアダムとエバが、神様の導きによって、夫婦として結ばれていく記事が載せられています。ここで「知る」というのは「愛する」「一体となる」ことを意味します。イエス・キリストを知るということは、「イエス・キリストを愛する」「イエス・キリストと一体となる」ことを示しているのです。

第三に「イエス・キリストを知る」ことは、「わたしたち自身の目で、耳で、体験の中で知る」ことです。ペトロは、人々のイエスの噂、評判を盲信したのではなく、ペトロ自身の目で、耳で、体験の中で知って、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したのです。

第四に、「イエス・キリストを知る」ことは、「わたしたち自身が変えられる」ことです。イエスを知ることによって、わたしたちの中に重大な変化が起こり、わたしたちの生き方・価値観が変わることです。もし「イエス・キリストを知る」ことによってなんら変化がないなら、いま一度信仰生活を見直す必要があるのではないでしょうか。(1/14 山本師 説教)

2023/1/14 週報メッセージ

「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」

(フィリピ3:5-14)

穏やかな、平和な元旦を迎えましたが、その夕方には能登半島で激しい地震、津波、火事、があり、翌日には羽田空港・衝突事故がありました。波乱と恐怖の一年の幕開けなのでしょうか。それとも信仰と祈りに立って歩むべしとの警醒でしょうか。

今年の標語聖句は、フィリピ書3章8節からきらめくようなすばらしいみ言葉が与えられました。パウロはどのような状況でこの信仰告白をしたのでしょうか。それは不潔な、暗い、冷たい牢獄の中でした。鞭で打たれた痛みでうずきました。いつ裁判で死刑にされかねない不安もありました。にもかかわらずパウロは、「喜び」を強調するフィリピ人への手紙を書いたのです。

パウロはこの手紙では、ただ単に「イエスを知ること」だけでなく、「イエスを知ることのあまりの素晴らしさ」を伝えようとしています。

ではそれはどういう意味でしょうか。なぜ「キリストを知る」ことが、そんなにすばらしいのでしょうか。

パウロはイエスに出会って(知って)から、価値観が転換し、これまで大切にしてきたこの世の利益が、無価値に思われるようになったのです。

ところで「イエスを知る」とは、知識としての「知」ではなく、神を「あなた」と呼び、神に「私は」と応える人格的な関係のことをいいます。この人格的な交わりによって、私にとって神がかけがえのない方となり、一緒にいることを喜ぶ関係となるのです。そのような神との交わりが「永遠の命」(ヨハネ17:3)につながるのです。

別の言い方をすれば、「イエスを知る」とは、「私たちに何をしてくださったのか」を知ることです。この世に降臨されたこと、十字架に架けられたこと、三日目に復活されたこと…などの真理をとことんまで知ること、知り尽くすことです。                        (1/7 山本師)

 

2024/1/7 週報メッセージ

「いつも感謝していなさい」 (コロサイ3:12-17)

皆様にとって、今年は感謝にあふれた一年だったでしょうか。それとも不満ばかりの一年だったでしょうか。あるいは感謝もあり、不満もありの一年だったでしょうか。

感謝は神さまの「命令」。文法上では命令形で書かれています。しかし神さまは私たちの意思を無視して命令されるお方ではありません。むしろ私たちがどんな状況の中にあっても、いつも感謝できる人になってほしいと望んでおられるのです。感謝すればするほど、神さまは私たちに「最善のもの」、「あらゆる人知を超える神の平安」、「満ち足りる心」、「喜び」、「成熟」を与えて下さるのです。

コロサイ書は最初から感謝を強調しています(1:3)。「…いつも祈り、…神に感謝しています」(1:3)「あふれるばかりに感謝しなさい」(2:7)、「いつも感謝していなさい」(3:15)…。その時のパウロの置かれたところは牢獄の中でした。とても喜べる、感謝できる環境にはいなかったのです。にもかかわらず感謝を続けました。

私たちはどうすれば感謝の心が身につくのでしょうか。感謝は、私たちの感情ではなく、私たちの意思で選択するものです。感謝を「習慣化」する必要があります。まずは小さな感謝を見つけては、感謝をくり返すことが大切です。

感謝できない、愛せない、赦せない…とき、イエス様を見つめ、主の愛を思い起こし、主に愛されてきた経験を思い出しましょう。そこから小さな感謝の心が芽生えてくるのではないでしょうか。

感謝の反対は何でしょうか。それは、不平不満、つぶやきであります。残念ながら、私たちは感謝することより、不平不満が出やすい傾向があります。これは神さまが最も、嫌われるものです。聖書も、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか警告しています(Ⅰコリント10:10)。

(12/31山本師)