「週報メッセージ」カテゴリーアーカイブ

2023/1/22 週報メッセージ

 深く憐れまれた

朝位 フミ子 

  「イエスはこの12人を派遣するにあたり、次のように命じられた。」(マタイ10章5節)と書かれていますが、イエス様が弟子たちを生み出すときに、どんな思いで生み出したのか、次のように書かれています。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(9章36節)

 イエス様の気持ちは「深く憐れまれた」という言葉に表れています。これは、単なる可哀そうという気持ちではありません。もっと強い意味の言葉で、人への同情から、内臓が締め付けられるような思いになる、その人のためにじっとしていられない気持ちになる、いてもたってもいられないような気持ちになる、その人を放っておけない気持ちになる、その人のために行動したい気持ちになるというものです。私たちに向けられている神様の愛、イエス様の愛の気持ちを、聖書は伝えています。

 これと同じ言葉は、あの放蕩息子のたとえに出てきます。「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」放蕩息子のお父さんは、自分を裏切って見捨てて出て行ったこの放蕩息子を見つけると、過去の過ちや失敗を裁かず、罪を咎めないで、自分の所に帰って来てくれたことを素直に喜びました。息子を見かけると、当時身分の高い人が走ることははしたない行為と言われていたのに、なりふり構わず走り寄ってこの息子を抱きしめて、彼が自分の所に帰って来てくれたことに対して、何よりも嬉しい気持ち、喜びの気持ちを全身で表したのでした。

  それと同じように、今日イエス様が私たちを弟子として選び、神様の仕事のためにこの世に遣わすときも、この放蕩息子のお父さんと同じ気持ちになって、深い憐れみの気持ちで私たちを迎えて喜び、弟子としてこの世界にお遣わしくださるのです。

2023/1/15  週報メッセージ

塩を持ちなさい

朝位 フミ子 

  主イエスは言われました。「塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9章50節)ここで塩気、塩味と言われている譬えは、キリスト教会のオリジナリティー、キリスト教会の特色のことです。教会、クリスチャンは、地の塩、世の光として、世の中の人たちとは、はっきりと区別される持ち味があるということなのです。クリスチャンと世の人には、はっきりと違う塩気、塩味、特色があるのです。

 教会は、主イエスのしてくださった愛の業をしっかりと受け継いでいく所です。主は、神の国の福音を宣べ伝える働きの中で、最も弱い人を受け入れ、躓かせないように配慮し、大切にされました。これが教会の福音であり、良い知らせ、大切な塩気、持ち味です。ですから、教会が塩気を失うこと、私たちクリスチャンが塩気を失うということは、教会の交わりの中にいる小さい人、弱い人、信仰の未熟な人、不信仰な人、ハンディキャップを持っている人、お年を召されている人たちを躓かせてしまうことに対して、鈍感になるということです。私たち一人ひとりが、教会に来ている弱い人を躓かせることに対して、無頓着、無関心、鈍感になって、配慮する気持ち、大切にする気持ちが失われてしまったら、教会は味を失った塩気のない塩になってしまいます。世の人たちと何の違いも区別もなく、何も変わらなくなってしまいます。

 桜ヶ丘教会が、弱い人、信仰の未熟な人をいかに大切にするのかということに、これからの教会の命がかかっているのです。主は言われます。「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」私たちも、神の愛の力をいただきながら、躓きそうな人がいれば、転ばないように、その人を支える杖になって、温かい配慮をしていきましょう。

2023/1/8  週報メッセージ

聖餐式

朝位 フミ子 

  私たちは、今、主イエスに召されて、桜ヶ丘教会で主に従う信仰の歩みをするために、ここに集められている兄弟姉妹と共に歩んでいます。この地が、私たちに託されている神の使命を行う場所です。

 洗礼とはキリストと一つに結びつくこと、そして、聖餐式とはキリストとより深く結びつくこと。この主イエスの愛の中に入れられて生かされていること、神との愛の交わりの中に生かされていることを日々忘れないように、パンと杯に与る毎にキリストとの出会いを経験し、昨日よりも今日、より深くキリストに結びついて生きていくのです。聖餐式のパンと杯に与る度毎に、私たちは、イエス様が十字架の上で命をかけてしてくださった救いの業、神様の愛を、ただ心だけで味わうのではなく、現に手で触り、口で味わい、食べ、そして飲む仕方で、この体も主イエス・キリストとの交わりの中に入れられていることを喜び味わうことができます。そういう仕方で、聖餐式ではキリストとより深く結びつくことができるのです。

 私たちの存在、私たちの働きの始まりにあるのは、主イエスの憐れみであること、これは忘れてはならないことです。深い憐れみは、私たちがまず主イエスの憐れみによって癒され、生かされているということによります。私たちは本当に弱く、欠けが多く、破れた者であるけれども、そのような私たちを決して見捨てないで愛し、私たちと一緒に神の国の事業を進めようとされる、神様の御心によって今ここにあること、主イエスと一緒に今、試練と困難の中にいる兄弟姉妹と共に生き、共に重荷を担い合う姿勢が求められています。それにはまず、主イエスの御心を聞く心を持って、主イエスの愛をしっかりと聖餐式のパンと杯によって受け取ることを、忘れないようにしたいと思います。主イエスの弟子には、人を愛し、人に仕える姿勢が求められているのです。

2023/1/1 週報メッセージ

やめさせてはならない!

朝位 フミ子 

  自分たちのやり方と違う人の言葉や行動が、気になる、我慢ならない、許せない、私たちの狭い心と、主イエスはいつも真剣に向き合って戦ってくださいます。「やめさせてはならない」(マルコ9:39)と。この言葉を言われた時に、主イエスは、エルサレムの道、十字架の道をまっすぐに歩いておられました。主イエスは、人と人との違いを受け入れられない狭い心の私たちのために、十字架に架かって死んでくださり、その愛によって狭い心を打ち砕いてくださいました。

 聖書では、主イエスの十字架の救いのイメージには、空間的な救いのイメージがあります。つまり、羊飼いが、普段は狭い囲いの中にいる羊が、狭い囲いの中でステイホームしすぎてストレスを溜めないように、時には囲いの外に出して、広い場所に連れ出してくれるのです。羊飼いは、狭い場所から広い場所に、羊を緑の草原に連れて行って草を食べさせ、川に連れて行って水を飲ませてくれます。つまり、救いとは、イエス様が私たちを狭い所から広い所へと連れ出してくださることなのです。

 隣人の言葉や行動が許せなくて、自分だけが幸せになればいい、自分たちだけが救われたらそれでいいと考えるような、狭い心、小さい心でしかない私たちに対して、イエス様は、あの人たちのやることを「やめさせてはならない」と言って、狭い所から広い所へと連れ出してくれます。視野を広く持つように、広い心で他の人の違いを受け止めて、共に生きられるように、主は十字架に架かって死に、神の愛に触れさせてくださいました。救いとは、いつもイエス様の広い心、愛の心に触れて、私たちも広い心を持って、隣人と共に生きていくことに尽きるのです。  桜ヶ丘教会の礼拝には、皆気の合う人ばかりではなく、色々と性格の違う方も来られます。皆が広い心で、温かい気持ちで、色んな人をお招きして、教会に歓迎しましょう。

2022/12/18 週報メッセージ

正しい人                                                                 

朝位 フミ子 

  イエス・キリストの誕生の話です。イエスの父はヨセフ、母はマリア。イエス・キリストの父と母になったヨセフとマリアの物語です。

 ユダヤ人であるイエスの父親ヨセフと母親マリアは婚約していました。ヨセフとマリアはまだ結婚前で性的な関係もないのに、婚約者のマリアのお腹の中に赤ちゃんがいることを知るのです。私たちの一般的な感覚では、マリアはヨセフの目を盗んで別の男性と肉体関係を持ち、妊娠したと考えるのが普通でしょう。ヨセフもこの時、そのように理解していました。当時のユダヤの法では、婚約関係は大変重いものでした。もし婚約中に他の人と肉体関係を持ち、子どもができれば、姦通罪が適用され、相手の婚約者が訴え出れば石打の刑(死刑)にすることもできました。

 ヨセフは婚約者マリアの裏切りに対して悩みました。しかし、ヨセフはマリアの裏切りに対して、悔しい気持ちを抑えて我慢しました。ヨセフはマリアに裏切られても、マリアが不幸になることを望まない人でした。ヨセフがマリアを愛していたこともあるでしょう。聖書では、ヨセフという人は「正しい人」であったと記されています。ヨセフが婚約者マリアに下そうとした決断は、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(マタイ1:19)というものでした。彼はマリアとひそかに離縁して、世間に表ざたにならないようにマリアの罪を許して、助けようと考えました。聖書が言う「ヨセフが正しい人」とは、単なる正義の人というだけではありません。ヨセフは神の心をよく知っている人だったのです。神の心とは「隣人を自分のように愛しなさい」、「敵を愛しなさい」。ヨセフは神の愛をよく聖書の中から学び、実践していた人です。「ヨセフは正しい人」とは、マリアの罪を許して助けるような「優しい人、愛の深い人、思いやりのある人」という意味です。

2022/12/11 週報メッセージ

思い悩むな

朝位 フミ子 

  マタイ6章では、主イエスは「思い悩むな」と私たちに呼びかけられます。私たちの心の中には、毎日生きていれば様々な声が聞こえてきます。その声の多くは、心を騒がせる思い悩み、心配事です。生活のこと、仕事のこと、経済的なこと、家族のこと、親子のこと、自分の健康、社会の問題、自分の将来のこと、コロナのこと、私たちは心を悩ませ、不安になり、自分の力で何とか解決しなければ駄目だと思い、心配事、思い煩いが増えていくのです。心の中が思い悩みや思い煩い、心配事でいっぱいになってしまうと、他のものが心の中に入り込む余地がなくなる訳ですから、私たちにとっては不幸なことであり、どんな時も不安な気持ちで生きなければならなくなるのです。

 だから、そんな私たちに主は「思い悩むな」、「思い煩うな」、「もう心配しなくても、大丈夫だよ」と呼びかけておられるのです。主イエスは、あなたをこんなにも大切に思っている、神に信頼しなさい、神様があなたのことを本当に愛し、慈しんでおられることを忘れないようにしなさい、ということなのです。それは、私たちが色々な事で心配している、思い悩んでいる時に、まるで神様が共におられないように、何でも自分の力でしなければならないと考えてはいけない、神様はあなた共におられ、あなたの重荷も一緒に担ってくださるのだから、心配しなくても大丈夫だよと、はっきりと言ってくださっているのです。

 ここで重要なのは、主は、神様のいることを忘れ、神様の御前にあることを忘れて、神がおられないような生き方をしてはいけないと言っているのであって、神様が共におられることに早く気づき、神様に励まされなさい、神様に慰められて、神様に癒されなさい、どこにも助けはないと一人で間違って思い込んで、自分の心と体を余計にすり減らして生きてはいけないよと、語りかけてくださるイエス様の言葉に信頼していくことです。

2022/12/4  週報メッセージ

クリスマスの礼拝を考える

朝位 フミ子 

  クリスマスは私たちにとって忙しい時です。私たちはそのような現実の中で、毎年決められたことをこなすのに精いっぱいで、本当にクリスマスを祝うというのはどういうことなのかをあらためて考えることができなくなっているかもしれません。そうだとするならば、この機会にちょっと立ち止まって、私たちのクリスマスの礼拝のあり方を考えてみたいですね。

 ご存じのようにクリスマス成立の事情は複雑です。クリスマスが祝われるようになったのは4世紀になってからで、12月25日も、そもそもは冬至に行われていたローマの太陽神の祭りであったものを、教会が強引にその日を降誕祭にしてしまったのです。そのためにクリスマスは主に冬至に関わるヨーロッパ各地の民族的な祭りに起源をもつ習慣や伝統を受け継ぐことになりました。教会はそのような習慣を聖書的に再解釈しようとしてきましたが、クリスマスがもつ祝祭的な雰囲気がそうした各地の祭りから来ていることは明らかです。私たちは必ずしもそのような祝祭的な要素を排除する必要はないでしょう。むしろ、世俗的な面をもっているが故に、クリスマスは多くの人が共に喜ぶことのできる楽しい祭りになったのかもしれません。

 キリスト者としてクリスマスを祝う私たちは、ただ雰囲気に流されるのではなく、クリスマスにおいて本当に大切な事柄が何であるかを問い続けなければいけません。主の降誕を祝うこの祭りが英語圏でキリストの礼拝と呼ばれるようになったのです。私たちは何よりも礼拝において主のご降誕を祝うのです。そうであるならば、礼拝そのものが本当に喜びに満ちたものになるよう努力をしたいと思います。

 「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。』」(ルカによる福音書2章10節)

2022/11/27 週報メッセージ

アドヴェント(待降節)
                      朝位 フミ子 

今日からアドヴェント、待降節が始まります。アドヴェントの礼拝に初めて出席された求道者の皆さんは、こう思っておられるかもしれません。なぜ教会にはアドヴェントがあるんですかと、疑問に思うかもしれません。待降節は文字通り、クリスマスを待つこと、キリストの御誕生を待つ期間です。つまり、救い主を待ち望み、そのために主イエスとの新しい出会いに向けて,心を準備する期間なのです。
 しかし、この待降節は、単に毎年、新しくクリスマスを迎えるためにあるわけではありません。待降節には、実は二重の意味があって、待降節でクリスマスに主イエスを迎えることは、この世の終わりの時に、再びこの世に来られる主イエスの再臨を待つことと一つに重なるのです。待降節は,単にクリスマスを待つのが嬉しいから、心を備えて待つわけではありません。やがて、この世の救いの歴史の終わりの日に、再び来られる主イエスとお会いすることを待つということが、本当の待降節の期間の過ごし方であり、それが私たちの人生を変えるとても大切な時になるのです。つまり今日、この日、この時、私たちがどういう姿勢でクリスマスを迎え、救い主を迎える心の準備をするのか? それがとても大切になってくるのです。
主イエスは、私たち全ての人間の救いのために、クリスマスの時にこの世に生まれてきてくださいました。同じイエス様が、この世の救いの歴史の終わりの日に、再び来られるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)とある通りです。私たち全ての人の救いのために、主が再び来られるのです。それは、私たちが再臨の主イエスにお会いする時です。愛するイエス様が来られる時に向かって、私たちは喜びと希望をもって、主をお迎えする日を楽しみに待ち、信仰の旅路を歩む者でありたいと思います。

 

2022/11/20 週報メッセージ

小さな子どものささげもの                                                朝位 フミ子 

  聖書には、イエス様が小さな男の子のお手伝いを心から喜んでくださり、5つのパンと2匹のお魚をたくさん増やしてくれたお話があります。しかし、主のお弟子さんは「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と思いました。大人たちから見たら、何の役にも立たないと思うお弁当は、この男の子にとっては自分の持っている全部だったのです。今自分ができる精一杯の大きなささげものを、イエス様にささげたのです。

 それに対してイエス様は、この小さな男の子が神さまのためにしたお手伝いを、とても喜んでくれました。この男の子の働きを皆で心から喜ぶことができるように、神様にお祈りをしてパンと魚を増やして、皆で一緒に分かち合うことができるようにしてくださいました。この男の子が神様にささげてくれたお手伝いを、パンと魚を増やして祝福してくださいました。

 私たちも、時々こう思うことがあります。こんなに小さい子どもだから駄目なんだ、自分は小さなことしかできないから何の役にも立たないと、私たちは思うことがあるかもしれません。でも神様は、小さい子どもたちが神様のためにしてくれたお手伝い、奉仕を特に喜んでくださり、いっぱい祝福してくださるのです。そのことを忘れないようにしたいと思います。そして何よりも、私たち大人も神様から見たら小さい子どもです。だから、自分には何もできない、役に立たないと思っている人も、自分は弱い者で何もできないと思っている人、自分は全然駄目だと思っている人も、神様の呼びかけに応えて、少しの勇気を出して、自分の持っているものを神様にささげる時、神様のためにささげる奉仕に、神様はその人の働きをとても喜んで豊かに用いてくださり、たくさんの祝福を与えてくださるのです。

2022/11/13 週報メッセージ

召天者記念礼拝を終えて

朝位 フミ子 

  「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3:1)

 今年も召天者記念礼拝を無事に迎え、終えることができ感謝しております。ご奉仕をしていただきました方々に心から厚くお礼申し上げます。「召天者名簿」にありますように、今年は3名の方が加わり76名になりました。私は、名簿とお写真を確かめながら、あらためてその生涯を偲び、またその終わりの時、その葬りの時、さらにご家族のその後の歩みを思い浮かべながら過ごしました。ここにご出席しておられる、おられないに関わらず、召天者を覚えていらっしゃる方々の上に神様の慰めと励ましが与えられますよう願っています。私自身、時の経過を実感し、自分の生涯の終わりのことを考えさせられました。今年も、いろいろな事が起こりました。教会にとっても、教会員の姉妹が、長老役員が、そして主任牧師が天に召されました。愛する方々の死を覚えながら、必ず訪れてくる死について思い巡らすことは、意義あることと思います。

 ルカ16:19~31から、山本牧師のメッセージをいただきました。金持ちとラザロのたとえから、第1~第3のお話です。死後のことは変更できないこと、そして生前が問われる信仰生活の問題、平凡な1日を大切に生活してゆくことが大切ですとお話を伺いました。しっかり心に留めていきたいと思います。「終わりを意識して」思慮深く生きていくお互いでありたいと思います。ますます残されている時は短くなりつつありますが、与えられている賜物に感謝しながら、私たちのなすべき事に励んでいきましょう。

 「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」(ヘブライ人への手紙13:7)