「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「神の愛の勝利」2020・7・12説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・31~39節を通して聖書を見ていきましょう。今日でローマ8章が終わります。米田豊先生はこの全体を通して律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌として、1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉的な人と霊的な人。14~17神の子たる者の特権。18~22今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び31~34神の保護、選び。キリストのとりなし35~39愛、神の愛による勝利。永遠の安全。と分解しています。

本 今日のローマ8・31~39節を見て下さい。ローマ8・31~39節には、主イエス・キリストの溢れる御恵みと、このキリストを信じて生きる者に与えられている勝利の人生が、声高らかに歌い上げています。ここはローマ書のキリスト教信仰の基本の結論であります。「神がわたしたちの味方である」(8・31)は、この結論の要約言ってもよいでしょう。「味方」と訳された言葉(ギリシャ語の(ヒュペル)は、英語ではforであり、「ために」とも「代わって」とも訳されています。神はわれわれのために身代わりになってくださったと言うのであります。32節は「その御子さえ惜しまず」とい言葉は創世記22章12節の言葉そのままであります。族長アブラハムがイサクを献げる場面です。

創世記22章を見て下さいp31です。この時の「自分の独り子を・・・惜しまない」という言葉が、その通りにローマ8・32節に使われています。神御自身は御子イエス・キリストを惜しまないで十字架につけて人間のために犠牲とされたのであります。人間の救いをめぐる神の愛の活動は、それは、現在的であって、過去的ではない。といことである。神によって、御計画のままに行われる救いに実施すなわち、神の救いのみわざは、不思議な面をもっているのである。これによって神の愛の生きた力にふれるのである。愛は理論ではない。悪魔との戦いのなかに、具体的にあらわれるのである。キリストを信じる者は、自分が、その愛の中あることを信仰を持って知らされるのである。

神の愛が、「わたし」に与えられていることを信仰によって知る時、神は「わたし」の味方であるという確信を与えられるのである。神は「わたし」の味方と考えるなら、その線に立って、大別にして2つになる。神の側の事柄と、キリスト者側の事柄とである。神の側の場合は1・神はキリストを死に渡したもう。2・万物をも賜う。3・キリストは、父なる神のみこころに一致して死に、そしてよみがえりたもうた。4・キリストは、神の右に座して、わたしたちのためにとりなしたもう。その支配はおわることがない。キリスト者の側の事柄は、神の側の出来事を原因として、あらわれるのであるが、つぎの3つのことがいえます。1・キリストにある者は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣をうける。2・わたしたちを愛して下さったかたによって、あらゆる苦難に対して勝利をえる。3・勝利を得る毎に、神の愛の強さを知り、この愛からわたしたちを引き離すものは何1つないという確信が与えられる。38節をもう1度見て下さい。キリストのうちにある神の愛と「わたし」とを絶縁させるものは1つもない。これがキリスト者が神の愛に押し出されて、わたしのものとするのであります。キリスト者は、神の良き兵卒であります。兵卒は、将軍に対して忠誠をもつ。最悪の事態が身に降りかかっても、たじろがないのが、勝利をねがう兵卒である。キリスト者の信仰の戦いこそ、これである。テモテヘの手紙2・2・1~7節p392見て下さい。キリスト・イエスの兵士としてパウロが書いています。キリスト教の歴史は、キリスト者のキリストへの忠誠の歴史といってもよいでありましょう。

結び

もう1度8・31~39節を見て下さい。特に31節にあった問いに対する回答であります。キリストを通して働く神の愛の力から私達を引き離すものは何もないのであります。神との出会いの故に、永遠なる者と向き合った存在として歴史と人生の最後の瞬間にも、8・39のですから、わたしたちは「御国に生きる」者となるのであります。フイリピ3・20~4・1p365を見て下さい。パウロはローマ書の8・38~39節にもこのことを語っています。どんな被造物もキリストにある神の愛から私達を引き離す事は出来ないと言う確信の告白であります。

悪しき霊の働きは、現代においても種種の占いや迷信の虜になっている。キイスと者はその現実をみて、自らを正すと共に、完全に自由と勝利を得ているかどうかを自問して身を引き締めなければならない。最後に8・31節を歌います。

「万事が益となる」2020.7.5説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ8・18~30節を通して聖書を学んで行きましょう。最近地球の温暖化で太平洋上の島国が海面下に沈んで行くという現象も起こっています。人間が自分達だけの快適な生活を求め、また産業を発展させ、環境破壊が地峡の生活を危機に陥れています。生態系の危機であります。これまでの経済を考える人間中心の考え方から、自然環境に関心を広げ、「自然」にやさしい、人間以外の動植物や地球全体と共存する生き方が求められています。パウロはローマ8・19節から22節において、人間と世界が運命共同体として生きており、人間が罪と滅びから解放される日まで、自然や生命もまた、呻きながら、完成の日を待っていると教えています。

 聖書を見て下さい。8・18~25節ここでは栄光の道が語っています。キリストにあって、悪の力に対する苦闘を続ける事は、楽なことではない。しかし、神は、キリスト者が、そのような行き方を続ける事によって、ついには、神との交わりの深さ高さ広さに達することを約束されたのであります。今のこの時に苦しみとやがてわたしたちに現わされようとする栄光との間には、比較にならないほどの大差がある。パウロはここで、被造物全体の秘密をつげるのである。被造物全体は、人間をめぐって、相互に関連している。人間が神との関係の破れの中にいる限り、造られたものはみなその破れの中にいる。

しかし、パウロは、現実から目を離してはいない。被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共にうめき共に産みの苦しみを続けているというのである。神の勝利の歌は、「うめきのシンフォニー」のつづきである。苦難なくして栄冠はない。キリストの中にある呻きこそ、栄光へ通じている。キリストにある呻きは、絶望の呻きではある。確かな根拠にたっている呻きである。その根拠は御霊の最初の実をもっているということである。聖霊の与えられる約束をイエスが与えられたことはヨハネ福音書によって、明らかであるが、パウロにとって聖霊が与えられ、それによって、驚くべきことが、つぎつぎと、あらわれてきたことが重大である。聖霊は、御父と、御子とより出で、御父と御子とともに、創造し、いのちを与えたもうたのである。従って、聖霊の働きのあるところ、そこに、具体的な現象があるのである。全人類、全被造物に、個別的にそれぞれの身分の変化を実現させるおかたこそ聖霊なる神である。このような三一の神のみわざこそ、わたしたちが、忍耐して待望する心のよりどころである。

8・26~27節を見て下さい。ここでは聖霊のとりなしが語られています。キリスト者の弱さは、現実の問題に直面して、正しい方向をとらええないという点である。この弱さを助けてくださるのが、聖霊である。キリストは、聖霊のことを助け手と呼ばれた。それは弁護者という意味である。キリスト者の弱さをしりつくしたうえに適切な支えを与える御方であるというのである。しかも、聖霊は、言葉にあえあわせない切なる呻きをもって、キリスト者に代わって、祈って下さるのである。8・28~30節を見て下さい。ここに選びの奥義が語られています。

結び

ここに神の恵みの選びが語れています。パウロはローマ8・17節において、キリストの救いを与えられたものが、神の子であり、神の国の相続人であることを語りました。そして、18~27節にかけて、最初の人類の堕罪によって、死と滅びの呻きの中にある人間と世界に神が聖霊を送って共に苦しむことによって救いの道が開けたことを教えました。

今日のところは、その結果で、人間を救う為に神恩寵の選びが語られています。8・28をもう1度見て下さい。「神を愛する」のは、神の愛を受けてそれに応える姿であります。パウロは、イエス・キリストの十字架と復活によって、人間を救う神の愛が溢れるばかり注がれたとき、人間はその愛を神に返し、「神を愛する者たち」とされたのであります。パウロはこれを「ご計画に従って召された者たち」と言い換えています。ここに「神の予定」という考えが表されています。神が以前から「ご計画」なさり、その救いを人間一人一人の人生において、実現してくださるのであります。「召される」というのは、神が予定された救いを与える為に、歴史的な働きかけ、呼びかけをされることであります。「万事が益となるように共に働く」という場合の「万事」は、18節に出てくる「現在の苦しみ」のすべてのことだと思われます。それは、具体的には後の35節から39節に列挙されているような苦難や滅びであります。被造物と人間はそれによってうめきくるしんでいうのですが、神はそれら全てを摂理の御手を動かして、究極の救いと光栄へと導かれてゆかれるのであります。8・29~30ここに神の救いのご計画が「救いの秩序」として示されています。

人間の救いは、「予知」、「予定」「召し出し」「義認」「栄光」という順序を踏んで実現するのであります。私達は「現在の苦しみ」の歴史の中で、神の救いのご計画を読み取り、希望が与えられ、それゆえ忍耐をもって前進するものであります。最後に私の証をさせて下さい。5~10分以内です。時間がなければ割愛します。お祈りします。

「神の相続人」2020.6.28説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・12~17節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの8章を律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉に従わず霊のよって起きる生活。14~17神の子たる者の特権。と分解しています。そして8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみに関する望みと慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26、27)。私達の境遇に関する勝利の霊(28、29)となる。31節以下は8章の結論である。そして8章は勝利の凱歌をもって終わる。この大変化は、きよめられて聖霊に満たされた結果である。

今日の8・12~17節を見て下さい。ここでは1口で表現するならば神の子たちといえます。神によって創造された最初の人、アダム、とエバ最初の父また母は、創造主である神によってゆるされた範囲の自由をもっていたにちがいない。しかし、悪の力の誘いによる正常な神関係の喪失によって、神によって許された自由をも失ったのである。その代わりに、人間は、悪の力との関係において、悪に走る自由をえた。

つまり、罪に落ちた人間は、ただ1つの自由だけを持っている。それは悪ヘの自由である。これは奴隷的意志に結び付くものである。もし、人間が、悪の力の奴隷状態から脱出することが出来れば、そのとき、神との正常な関係が回復されるのである。パウロは、「肉」と「霊」という2つの言葉によって悪の力の下の状態と神の力の下の状態とを描き出すのである。

 肉に従っていきるとは、反神的な力の奴隷となっていたことに義理を感じて、「反神的な力に調子を合わせて生涯をささげつづけるなら」ということで、「生きる」は、「歩む」よりも強い調子を出しているのである。このような生き方の結果は自動的に「死」より外はないということになる。いま1つは、霊によってからだの働きを殺すという生き方である。「霊によって」とは、「肉」によっての」正反対である。聖霊の働きのもとにあって、これに調子を合わせるように導かれる事によって、反神的な肉の同盟者であるからだの働きを積極的に窒息させていくのである。

「からだのはたらきを殺すこと」は、人間のもっている自然の力の努力ではなくて、むしろ、神によってさずけられた働きだからである。聖霊が、キリストの死とよみがえりとを証するところ、そこに積極的に、悪の力に抵抗する力が与えられるのである。聖霊のみ業が活動最中に起こる出来事こそ、「わたし」にとっての奇跡的現実なのである。

合理的に筋を立てて述べられない領分がある。しかも、「わたし」は現実に、「からだの働きを殺す」というはなばなしいことをやってのけているのである。これをキリストにおける実存とか終末的出来事とかいってもよいでしょう。このような生き方が、身についてくれば、神の御霊に導かれている者という光栄ある名が与えられるのである。このような者は、また、神の子であるともいわれる。神の子は神を父と呼ぶことを許されています。神の子は、キリストと有機的に、また生命的につながりを持っているからである。そのキリストは「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで従順であられた」。神関係において、これほど典型的な態度はないのである。

神の子のあり方はここに、その全貌が示されているのである。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」とイエスはいわれた。神の子は、神の相続人、キリストと共同の相続人としての資格は、キリストのなかで与えられる。その資格の第一は、キリストと共に死ぬことにほかならない。死ぬには、従順を必要とする。死ぬことは、反神的不従順と絶縁することであるからである。悪魔との絶縁は、神との結縁を意味し、死から脱出して、永遠のいのちの相続人とされることである。

結び

もう1度ローマ8・12~17節を見て下さい。ここに神の子供とされるキリスト者が描かれています。特に8・16節に注意してください。神の子供としての身分を与えられることは、当然法的な権利が伴う。それは「相続人」(8・17)ということばで表される。相続するものは神の国で、相続人とは神の支配にあずかる者のことである。キリストは現在すでに神の国の支配者として御父の右にあって支配しておられる。

しかがって私達は、キリストの統治に共にあずかる者となるのである。「キリストとの共同相続人」とはこのことであります。ただしその際に、キリストが相続人として栄光の座に着座するために、まず十字架の苦難を通られたことを思い起こさなければならない。「私達がキリストと、栄光をともに受ける」ためには、キリストと苦難を共にしなければならない。キリストの御霊を受け、御霊の導きをうけることは決して熱狂的な事柄ではない。私達はキリストによって神の子として導かれ、霊の賜物を注がれて、神の国の相続人として立てられていることを思い、「神の国と神の義を求め」(マタイ6・33)のために「キリストと共に苦しんで」(8・17)愛の業に励み、キリストと共にその栄光をも受ける希望をもって歩みたいものであります。

「聖霊による命」2020.6.21 説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・1~11節を学んで行きましょう。この8章は律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。米田豊先生は

1~2キリストにある自由。1罪に定められることのない生涯。2いのちの御霊の法則による罪と死の法則からの解放。3~4律法の要求を満たすキリストの贖い。5~13肉的な人と霊的な人。5~7肉の思いと霊の思い、8~9肉におる者と霊におる者。10~11

聖霊の内住と、その霊魂と肉体に及ぼす影響。12~13肉に従わず霊によって生きる生活。14~17神の子たる者の特権。18~22

今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30

摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び。31~34神の保護、選び。キリストのとりなし。

35~39愛、神の愛による勝利、永遠の完全。8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると、私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみ関する望みト慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26^27)、28節は、神はどのような苦痛や患難も、摂理の内に(万事を益となるようにして下さり)(28)、かえってそれによって(御子のかたちに似たものとしようとして)(29)いる。31節以下は8章の結論である。

8・1~11節を見て下さい。この8章は別の注解者によると、全体を貫いているのはキリスト者の自由の宣言であり、それはさらに4つの部分に分かれている。1~11節は聖霊にあるキリスト者の生、12~17子たる身分、18~30終末的自由への希望、31~39勝利の喜びの歌、と区分することができる。

今日の1~11節は聖霊にあるキリスト者の命である。この箇所は「キリストによる新生」について語っています。ローマ7章は律法下にある人間の困難な状況が語られていますが、8章は聖霊に生かされる新しい生活が示されています。律法からの解放は、キリストが人間をさまざまな掟に縛られた生活から解き放ち、立ち上がらせ、前進させていく力を伴うものでありました。人間を外側から縛る律法ではなく、内側から導く霊による生活を論じたのがこの8章です。8・1節を見て下さい。2節はその理由です。イエス・キリストに結びつくときに、霊的生命の原理が力強く働いて、人間を、破滅させる罪と死の原理から人間を解放すると言うのであります。この8・1節はパウロが特に愛して使用した信仰用語です。人間がキリストの人格的な力に覆われ、キリストの愛と命に包まれた状態を示しています。

私達がキリストの手の中にある、キリストの中にいる、in Christであります。詩139・7~9にあるように私達がどこへ行こうと、キリストの愛の中、キリストの命の中にあります。これが「キリストにある」ことであり、これを認め、受けることが信仰であります。3節を見て下さい。

 このキリストによって、罪と死の法則(律法)が打ち破られ、神の命の霊が働く過程が語られています。この点を理解するために1つの例を挙げたいと思います。種痘するとき、天然痘の病原菌が直接私達の肉体を侵すと、私達の肉体はそれに抵抗することが出来なくて、顔かたちが崩れたり、死ぬ場合もあります。しかし、人間より体力のある牛に感染させると、病気にはなりますが、やがて体の抵抗力によって、病原体を打ち負かして健康に戻ります。そのときに牛の体内に出来る「抗体」を人間の体内に移す「種痘」によって、人間も天然痘に対する抵抗力を得ることができます。イエス・キリストの人生と十字架の死は、人間の内に宿るあらゆる罪の力をキリストが引き受けられた状態であります。特に、十字架の死は、人間が神を離れ罪に死ぬ、その死の力にキリストも吞み込まれたことを示しています。しかし、我々にとっては絶望である死も、キリストにとってはおわりではありませんでした。主は3日目に甦られました。このキリストを死人の中から甦えらせた力、「神の力」「聖霊の力」であります。罪による死の力に打ち勝ったキリストの霊的抗体である聖霊を受ける時、私達はこの力によって、罪と死の力に勝ち、新しく生きる者であります。このようにパウロは、イエス・キリストによって、罪と死に至る「肉に従って歩む道」から永遠の命に至る「例に従って歩む道」への転換を説いてきましたが、キリストの十字架と復活による救いの完成は、キリスト者の実生活においては、終末の完成に向かって進行中だと考えています。キリスト者は、原理的には霊的人間として生きていますが、現実的には「霊に支配と肉の支配」の葛藤の中で、ルターが言う「義人にして同時に罪人」としてしかし霊的人間としての成長の希望を持って生きています。8・11節を見て下さい。

キリスト者の希望を未来形で書いたのであります。

結び

もう1度ローマ8・1~11節を見て下さい。

この素晴らしい神様の大きな恵みの中にあるということを、わたしたちは確信したいと思います。それが、わたしたちのすべての悔い改めや献身の根拠であります。パウロ今日のところでは、この事実、わたしたちが御霊を確かに宿している。そうであるならば、わたしたちは御霊の世界の中に入れられているのであります。この御霊の法則的な確かさによって死の体から必ず救われるのであります。このことを信じ、また感謝したいのであります。祈ります。

「感謝すべき福音」2020・6・14説教要旨

朝位真士

今日はローマ7・13~25節を通して「感謝すべき福音」と題して聖書を見て参りましょう。この箇所全体を通して聞こえてくるのは、キリストにあって義とされた人間の雄々しい戦いの声ではなく、実に惨めな罪の奴隷のうめき声である。

1・18-3・20において、パウロは神の怒りの下におる人間の罪について述べている。しかしそこに描かれてるのは罪の支配下でうめき嘆く人間ではなく、罪の中にありながらなお自ら高ぶる人間の姿であり、更にその状態をよしとする倒錯した心であった。

そのような人間の姿は、福音の光に照らされて初めて明らかにされる。7・7―13では、罪は神の律法や戒めを通してそのいとわしい

姿を現わすほど邪悪であることが示されたが、それに続く箇所でパウロは、生きながら地獄を経験した人間のことを語っています。

 今日のローマ7・13~25節を見て下さい。この13~23節まで二律背反を語っています。パウロは、律法は、聖なるもの、正しいもの、また善なるものと言い、さらに、この段では、霊的ものであると言った。このことを記憶しておくことは、ここにあるパウロの自己分析についていくのに役だつのである。次に、ここに見る事柄は、キリストと出会って、罪のゆるしを与えられた後のパウロの自己分析であることである。なぜなら、このような思い切った自己分析は、キリストの光なかである。そのことは、24節と25節からわかるのである。

キリストを信じる者は、その信仰によって罪がゆるされる。しかし、罪がゆるされ、神との関係が、正常にされるのは、あくまでもキリストの中においてである。しかし、キリストを信じる者は、キリストに免じて神との正常な関係に立たされるにしても、キリスト者の中身は、やはら、まだ「古いわたし」なのである。キリスト者は、義とされた者であると同時に罪人であると言うことがキリストの中にある者に対して言いえられるのは、ここに述べた理由である。

キリストの中にある「わたし」は、霊的な律法、すなわち、神をみなもととしている律法をよろこび受けるはずなのだが、現実のわたしは、肉につける者であるからそうはしないとパウロは告白する。キリストを知っても体質の改善は、全面的に完成したわけではない。まだ「肉のもつ特有の傾向をもっている」ので、「罪の下に売られた者」として存在する。

しかし24~25節を見て下さい。勝利は約束されている。人間失格の叫びである。自分で自分を救うことができないのに、自分で救おうとすれば、死ぬよりほかはない、それは、死に勝ちをえさせることである。ところがここで、人間理性では説明のつかない救いがキリストからきたのである。だから、パウロの言葉は、簡単である。

しかし、その言葉は、勝利者の凱歌である。万歳の叫びである。「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」といっただけである。ギリシャ語では、「感謝、神に対して、イエス・キリスト、わたしたちの主によって」の順序である。

キリストの御業を証する御方は、聖霊である。感謝は、聖霊の証に対し反射的におしだされる。父なる神が、その感謝をおうけになる。そして、イエス・キリスト、私達の主こそ、救いのみわざの実行者である。だからキリストを通路として、「わたし」の感謝と讃美とは、父なる神の御前にささげられる。ここに三位一体の神のそれぞれの役割をのぞきみると共に、「わたし」は、このような生ける神の御手のうちにあって、この方に応答しているのだという確信をもたらされるのである。

この神にしてはじめて、罪の支配に対する勝利を得ることが出来るのである。罪と死と悪魔と三つが上げられ、人間をほろびに導く恐るべき力として知られているが、父と子と聖霊なる神は、この力の上に立って悪の力を克服したもうのである。「あなたがたは、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とイエスは弟子達を勇気づけられた。パウロが彼の問題に悩み抜いて、主から与えられた導きもこれであった。すなわち、この世にある限り、キリスト者は二律背反を体験する。しかし、罪の律法は、キリストによって、骨抜きにされている。牙のない毒蛇である。大胆に自分の罪を認め、これを告白し、また、それ以上に大胆にキリストを信じ、神の御心に従う事こそ、」キリスト者の行くべき道である。これは、ルターが、メランヒトンに宛てた手紙の一節の内容であるが、パウロの線に立っているものであることは、だれにでも、解るところである。

結び

 もう1度ローマ7・24~25節を見て下さい。この14~25節は神の律法と罪の法則が語られています。

パウロのこの議論によって、「律法」がそれ自体「罪ではない」と言うことは確かに明らかにされ、「律法は良いものであること」が明らかにされました。しかし「律法」は、私たちをこの内部の渇藤から「救う」ことについては無力であることも、明らかになりました。律法は罪を目覚めることに有効であります。その罪がひとつの法則性さえ持っていることに目覚めさせることに有効であります。しかし、その手強い、法則性さえ持っている「罪」からわたしたちを解放する「救い」の力は、掟にはありません。

パウロは24節で、「私は何という惨めな人間なのだろう」と叫んだのではありますが、これは決して、自分の中に内部分裂があるから「みじめ」だという叫びではありません。私の中に善い事をしたいと言う思いもあれば、しかし実際には悪い事ばかりすると言うことを、彼は「みじめ」だと言っているのではありません。そんなことであれば、ギリシャの文化人でもローマの文化人でも皆言ってきたのであります。

パウロがここで本当に自分のみじめさを告白しておりますのは、救ってくれるはずの「律法」に「救い」の力がない、と言うことを知ったからです。「いのちに導く律法」が、「罪」を目覚めさせるには力がある、「罪の法則性」を知らせることにも有効なのに、その力からわたしを解き放ってくれない、「律法」だけでは救われないという事実にパウロはぶち当たっているのです。神様が人間に与えて下さった宗教、「これを行え、さらば生くべし」と言って下さったその「律法」が救うことについては無力だとしたならば、人間はどこに希望を託せますか。「私はなんと惨めな人間なのだろう」しかし、「感謝すべき」ことに、「私達の主 イエス・キリストによって、神は」その無力な「律法」とは違う“恵みによって私達を罪の力から救う、救いを与えてくださったのであります。これが「感謝すべき福音」なのであります。もう1度7・24~25節を見て下さい。

「初代教会のキリスト者生活」2020.6.7  説教要旨

朝位真士

 今日は本来であれば、桜ヶ丘教会創立97周年記念チャペルコンサートで、毎年岸義紘先生をおよびして、特別集会を開催するところですが、ご存知のようにコロナウイルス感染症流行のため4月12日イースター礼拝より自主礼拝を勧めている関係上、三密を防ぐ為岸先生には申し訳ありませんでしたが、今回に記念特別礼拝を中止させて頂きました。皆さんも残念だと思いますが、現状は仕方のないことです。そこで、今日は初代教会のキリスト者の生活を聖書使徒2・40~47節を通して、2000年前の信者の生活に思いを馳せてみたいと思います。

 聖書使徒2・40~47節を見て下さい。ペテロは多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲がった時代から救われよ」と言って勧めた。とあります。この世は、神の創造の正しい目的から外れて、罪のために不信仰、不従順となった時代であるとは、パウロ、ヨハネの思想にも見られる(フィリピ2・15)2・41その日1日で、3000人が受洗し、彼等は専心、42節使徒達の教えを守り福音の奥義と信仰の訓練を与えられた。ここに2・41~42節の中で4つのことが語られています。1・使徒たちの教えを守り。2・信徒の交わりをなし(コイノ二ヤ)。3・共のパンをさきユダヤ教の風習によって、家の教会では、食物を持ちよって共同の会食をした。はじめに感謝の祈りをささげて後、パンをさいてわけ、イエスと共にした食事のことを追想した。後、これが記念として行われ、会食と別に聖餐の礼典となった。4・祈りはかれらの共同生活を支配する、大切な要素であった。以上4つは、初代教会の礼拝と、組織の内容を明らかにしている。こうして教会は、新しい共同体として発展した。次に2・43~47節を見て下さい。最初の信徒の教会生活が語られています。43節に恐れが生じたとありますが、これは神に対して畏敬の念を持つことは、信仰を一層強固にする。そして使徒達によって多くの不思議な業としるしが行われていたのであります。特に癒やしの奇跡を行った(5・12~16)ことは、著しい特色のある業であった。そして彼らの所有物はみな、神の恩恵の賜物と考えていたから、44節「すべてのものを共有し特に貧しい信者の窮乏を支えるためには45節「財産や持ち物を売り、そのお金を使徒達を通して、公平に分配した。こうした相互扶助の共産生活は、彼らが愛の精神をもつて自発的に行ったのであり、聖霊の賜物を受けた彼らの信仰の発意であった。使徒達は、かつてガリラヤにおいても、イエスと共に、このような生活を送ったことがある(ルカ8・3)。しかし、この共産生活は、エルサレム教会以外には行われていなかったようであります。このような生活の中に、彼等は、聖霊による「喜び」と真心をもって46節日々心を1つにして信者の家々である教会に分かれ集まって、使徒たちの教えをうけ、共に祈り神を讃美し、パンをさき記念の聖餐と、食事を共にし、共同の愛餐を行った。また、彼らは敬虔なユダヤ人と同じく律法を守り、エルサレムの宮の日々の礼拝に、出席することも忘れなかった。彼らの信仰と、愛の実践生活は、一般に人々からは好意をもたれ、救われる者が、日々彼等の仲間に加えられていった。

結び もう1度2・40~47節を見て下さい。ここでウイリアムバークレーによるとここに初代教会の特徴を見ることが出来ます。

1・学ぶ教会

2・交わる教会

3・祈る教会

4・敬虔な教会

5・何かが起こった教会

6共有の教会(44-45)

7・礼拝する教会(46)

8・喜びの教会(46)

9・好意を持たれる教会

初代の教会では、神の民に魅力が備わっていたのである。

私達は教会成長のためにどうするかあれこれ考えるよりも、まず教会としてどうあるべきかを検討することが大切である。桜ヶ丘教会創立100周年に向かってお互いに神様から知恵を頂くためにお祈りをしていくましょう。

「初代教会の誕生」2020・5・31 説教要旨 

                       朝位 真士

今日はペンテコステ(聖霊降臨節)の礼拝です。使徒2章14~21節を通して。ペテロの説教を見ていきましょう。この2章は聖霊降臨の状況が記されています。2・1~4節ペンテコステにおける聖霊降臨、5~13群衆の驚き、14~41ペテロの説教,42~47当時の初代教会の信者の生活と礼拝が記されています。弟子たちは主の約束を信仰の雄一の根拠として、祈りに祈って10日間も祈り続けた。キリストを十字架につけたエルサレムの町の真っただ中において、滅び行く魂に福音を説く、主の復活をあかしして、聖霊の力の必要を痛切に感じて、忍耐を持って祈った。そのために(一緒に集まって)(心を合わせて)一致の祈りを捧げた(1)神はこのような祈りに必ず答えられる。今日の教会が、その使命と責務を深く自覚し、このような熱心さと忍耐と一致をもって祈るならば、必ず証の原動力である聖霊が下ります。五旬節は原名そのままにペンテコステとも

言われ、また聖書には別名「七週の祭り」とも言われている(出34・22)。安息日の翌日の初穂(復活の初穂なるキリストの予表―1コリ15・23)を献げる日より七週過ぎた50日目に新殻の素祭をささげる日で(レビ23・15~16)。この日に聖霊が下り、教会が誕生された。主の復活から50日目に教会が新しく形成せれることが、このように律法の中に模型的に予告されたのである。

使徒2・14~21節を見て下さい。ここでは聖霊降臨に関するヨエルの預言(2・16~21,ヨエル3・1~5)

p1425。が成就するのは、世の終わりの大リバイバルの時であるが、ペンテコステの日にその予表的成就があつた。聖霊降臨はキリストの復活と昇天の結果で、聖霊を受けるということは、すべて神に召され、悔い改めて罪ゆるされた人々に与えられる約束である。この恵みの時代における私達が信仰によって受けることのできる特権である。今日教会に必要なのはこの聖霊である。きよめる聖霊、また聖霊の力である。

もう1度2・14~21節を見て下さい。この箇所は全体を通じて、旧約聖書と新約聖書にあらわれている大いなる主の日の基本的内容を教えています。ここではヨエル3・1~5節から自由に引用したものである。ヨエルは、メシヤの来臨とイスラエルの信仰復興に関して語っているが、その信仰復興は聖霊の注ぎによって起こると言っています。その預言が、実に今実現したのだとペテロは解説している。神の霊が人間に与えられるというのは、決して当たり前の出来事ではなく、そこには異常現象が起こったりもする。この新約時代には天変

地異が起こることも予告されている(使徒2・19~20)。これは特に、主の再臨の時に起こるものと見ることができます。しかし、その混乱の中でも、「主の名を呼ぶ者は,みな救われる」(21)との約束が与えられています。すなわち、天地宇宙がその根底より揺り動かされる時にも、神により頼む者、主イエス・キリストを信じている者には救いがあると言うのです。

結び

この2・14~21節は、旧約の預言者ヨエルの預言が成就したこと。すなわち、メシヤ時代が到来したこと。22~28節はイエスこそ旧約で預言されたメシヤであること。すなわち、イエスの復活によってメシヤとしての資格があること。29~35節は、旧約のダビデがメシヤではなく、イエスが復活と昇天と聖霊の注議によって、真のメシヤであることが実証されたこと、彼らがみなその証人であること。ヨエルはいつ頃の預言者であるか判明していませんが学説によるとペルシャ時代の末期紀元前400年から333年頃の預言者と言われています。ヨエルとは(ヤーウエーは神)という意味だそうです。ペルシャ時代が滅んで、その後神はユダヤ人の全ての人々に(霊)を注がれる(ヨエル3・1)これがヨエル書の信仰の根本であり、このヨエル書の預言が、新約聖書では「聖霊降臨」の預言として引用されていることは良く知られていることであります。(使2・17~21。ヨエルの預言は、神が世の終末の時に全ての国民に対して行う審判を説いたものであるが、ペテロは、今や旧約の預言の時代は終わって、キリストによって始まる終末の時代がきたのであると見ています。

預言、幻、夢は、聖霊に満たされた時に与えられる賜物であって、性や年齢や、地位、男女の僕や境遇によって、区別されることはない。また天に奇跡、地にしるし、の天変地異が、キリストの再臨の前に起こる(マタイ24・29)。主の大いなる輝かしい日は、すべての人の目にあらわとなる、主の審判の日である。太陽の光は消えて暗やみとなり、月は血の色を呈して、やがて地上に血を流す大虐殺の来るエルサレムの滅亡の預言の型を呈している。こうしたたとえは、旧約の預言者エゼキエル、イザヤ、アモス等も用いている。そのとき、主の名を呼ぶ者は、みな救われるであろう。終末の預言において救われる者は、「残れる者」である。ペテロは、この「残れる者」をイエスを信じ、御名を呼び求める少数の群れと見たのである。

今日洗礼を希望しておられる方は皆救われます。ハレルヤ!感謝であります・

「律法は聖であり正しい」2020・5・24説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ7・7~12節を見ていきましょう。米田豊先生は7~25節は律法によってはきよめられない事。7~12節は律法の目的。律法と罪の関係。13~14律法と罪とわたしの三者の関係。15~24内住の罪のための煩悶。25上救主の発見。25下律法の下にある実際の状態。と分解しています。

 7節以下12節を見て下さい。7節以下では(それでは・・・律法は罪なのか)(7)と、(では、善なるものがわたしにとって死となったのか)(13)との2つの問い提出して、それに答える。まず、律法とはいかなるものかを述べて、(聖なるもの)(正しく、善かつもの)(12)また(霊的なもの)(14)で、その目的は罪を示すにあることを説き(七)律法の下にあっては罪が活動するもので(9)、本来は人を生かすかためにあたえられた律法(ガラテヤ3・11~12)が、かえつて人が罰せられることを述べている(10)。人の生来の罪は、(戒めによって機会を捕らえ)人を誘って罪を犯させ、ついに死に至らせる(8、11,13)。ローマ7章は、「福音が律法から解放をもたらすもので」あることを教える者でありますが、今日の箇所では「律法」とは何かここでパウロは律法そのものが悪しき者、間違ったものであるかのように考えることはハッキリ否定しています。7・12「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものである。」と語っている。「律法」という言葉は日本のキリスト教の術語であって、他ではあまり使われません。英語ではLAWで、「法律」と同じ言葉です。聖書において用いられている場合は、神の法律、神の掟という意味が強いので、神が与えてくださった人間生活のルールであります。このルールにそって生活する事によって、人間として訓練され、堅実な生活を築くことができるのであります。もう1度7・7~12節を見て下さい。ユダヤ人が、生まれますと物心の付くときから、親から読み書きを習いあるいは言葉を教わりますその言葉、その文字は、聖書の掟であります。だからユダヤ人がものが言えるようになって最初に言える言葉は、釉薬聖書の律法の言葉であり、彼らが字を書けるようになる最初は旧約聖書の掟の文章でありました。ところがユダヤ人は、男子13歳から神の戒めを自分自身の責任でことごとく守る責任を請け負う1人前のユダヤ教教徒として成人式「パル・ミツワ」、“戒めの子`という意味でありますが、これを迎えるのであります。それはそのころにならなければ暗記していた神の戒めの意味が分からないからであります。私達クリスチャンは、決して、神の戒めを首尾よくまもり果たす事によって、神様から義とされて救われるのではありません。そのような手続きから解き放たれております。わたしたちはただ、自分が無力であることを、キリストを私の救い主として信じますと言えば、その信仰によって、恵みによって救われます。

結び

 もう1度ローマ7・7~12を見て下さい。ここまでの事柄を要約すれば、律法は、もともと、神のみまえにおける人間にいのちにいたる行為の規準を与えられる者であるのに、「古いわたし」に接蝕するときは、かえって、死に導く結果をもたらすことになってしまうのである。これがパウロにいつわりのない告白からひきだされる結論である。12節を見て頂きますと、パウロは、この段で、「律法」と「戒め」とをならべ、相互の関係を示してくれる。律法は総括的な表現であり、戒めは、律法と特定の部分出関係する。言葉を換えて言えば、戒めが集まって律法を構成するといえるのである。律法も戒めも聖なるものであるということは、律法も戒めも、共に神にぞくし、神より出で、神にぞくし、神のためにこの世のものとくべつされていることを意味しているのであります。しかがって、これらは、神の側に立つものであって、罪の側に立つものではなく、したがって、罪のそとにあるのである。さらに、律法及び戒めが正しいと言うことは、それらは神のみこころと一致していて、人間の行為に対して規準となりうることを示しているのである。これらのものが、善なるものであるとは、悪と何のかかわりをもたず、むしろ、積極的に、われわれを、刑罰と死とをもたらす悪から遠ざけるように強要するだけの倫理的な力をもっていることをあらわしている。このように、律法と戒めとは、「聖」「正」「善」として性格づけられるものを本質としていることがわかるのである。

「神に対して実を結ぶ」2020・5・17説教要旨

朝位 真士

今日はローマ7・1~6節を通して聖書を学んで行きましょう。このローマ7章は米田豊先生は

全体を律法に対する死。律法の下の生涯。心の内の矛盾分解としては1~6律法からの解放された信者の身分。1~3律法は人をその生存中だけ支配する。夫に死別した妻の例。4~6律法と信者の関係。7~25律法によってはきよめられないこと。7~12律法の目的。律法と罪の関係。13~14律法と罪と私の三者に関係

15~24内住の罪のための煩悶25上救う者に発見、感謝。25下律法の下にある実際的な状態。

聖書ローマ7・1~6節を見て下さい。私達信者は律法の下にいない身分の者であることをしるす。いったい

(律法は人をその生きている期間だけ支配するもので)、死んでしまえば律法の束縛から免れるうえ、夫が死ねば妻は再婚することが出来る(1~3)。これは夫が死んだ場合であるが、私達はさきに律法という夫を持ち、

その夫に縛られていたけれども、私達がキリストの死に合体して、(律法に対して死んだので)律法から

解放されたのである)(4~6)。私達が夫である律法に不従順であったため、律法である夫が私達を殺そうとしたのを、キリストがその刃の下に入って私たちの代わりに死んで下さった。それゆえ私達は、キリストによって、律法と死別した身分である。(4上、ガラ2・19)。そして(死人の中からよみがえられたかた)すなわちキリストに嫁ぎ(4下)、今度はキリストを夫として、今迄のように(死のために結ぶ)のではなく、(神のために実を結ぶに至る)のである。(5、4)。キリストの死は私達を「罪から解放し」、(6,7)、(律法から解放)し、(6)、世と絶縁させる(ガラ6・14)。私達は、罪から解放されたので、きよい生活を送ることができ、律法から解放されたので、その生涯と奉仕に自由があり、世と死別したので、世の誘惑に勝つことができる。キリストの死の力は讃美すべきである。

結び

もう1度ローマ7・1~6節を見て下さい。クリスチャンが、今新しい主、主イエス・キリストのものとなって再婚出来ている。このことは事実です。説明の必要はありません。しかしともすると気づかないでおりますことは前の夫の掟(律法)、古い掟に引きずり回されているということです。前の夫は死んだのです。前の律法からの解放されたのです。ルーテル教会の神学者岸千年先生はこの7章全体を律法と律法からの解放としており、7章1~3節は律法の用法。7・4~6キリストの死と律法と分類されています。律法は人をその生きている期間だけ支配するといって、律法の機能は1時的であって、その期間が過ぎれば、その力は、それ以上に及ばない、夫と妻との関係を例に取れば、夫と妻というこの世における秩序の中での関係は、夫の在世中の問題である。だから夫が死ねば律法から解放される。妻は、女性として自由を得るのである。パウロはここで、未亡人の再婚をすすめていうのではなくて、1つの状態からの解放の実例を律法における夫と妻との関係にとっているのである。ですから私達は「神に対して実を結ぶ」それは「きよきに至る実、その終極は永遠のいのち」である。人がキリストとの一致によって生活を守るとき、もはや罪への欲情を喚起させる律法の法に規制されないのである。「精神を尽くし、心をつくしてイエス・キリストに忠誠を献げようとするのである。」また実として考えられるのは御霊の実ガラテヤ5・22~23節「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」という9つの実です。また人がキリストとの一致によって生活を守るとき、律法ではなく、愛の生活の動機となる。愛の力は律法の拘束が実行することの出来なかったことを実行させるのである。ここでキリスト者はキリストの花嫁である故に、「神に対して実を結ぶように」といつているところである。木が水を注がれて養い育てられると、時が来ると、実を付けるように、神の恵みに潤され育てられた者は、神のために、神を喜ばせる生活を産み出していく者である。それにはヨハネ15章にあるぶどうの木と私達の関係を良く現わしています。葡萄の木と私達の関係、キリストに結び付くつまり教会に連なって行くならば、実を結ぶ事が出来ます。

「イエスによる永遠の命」2020・5・10説教要旨

朝位 真士


今日はローマ6・15~23節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生によると
ローマ6・15~23節を2つに分類しています。6・15~22義の僕であるゆえ、聖潔に至るべきこと。23罪の支払う報酬である死と、神の賜物である永遠のいのち(命)と分解しています。15節以下は私たちは今は(罪から解放され、義の僕となった)者(18)、また(罪から解放されて神に仕える者)(22)であるから、(義にいたる従順の僕)で(16)、(きよくならなければならない)者でこそあれ(19)、決して罪を犯すべき者ではあに、と説く。義の僕は現世においては聖潔という果実を結ぶが、その終極は(永遠のいのち)である(22)。これは(罪の支払う報酬)(死)とは全く反対で、神の純粋の恵みのみの賜物である(23)。



ローマ6・15~23節をみて下さい。ローマ6章は、古くから「義認と聖化」の問題を取り扱われています。「義認」とは、神が恵みにより、イエス・キリストの十字架の犠牲を通して人間の罪を赦し、義と認めるという、福音の神髄を表す言葉であります。それに対して「聖化」(聖潔)とは、罪を赦された人間が、この恵みに応えようとして努め励み、生活をきよめ、正しくしてゆくことです。このために聖霊が私達の内に働いて、私達を強めてくださるのであります。ルターなどの宗教改革者は「義認」福音を再発見したのでありますが。
ジョン・ウエスレーは「聖化」の問題を生涯追求し続けたのであります。この義認と聖化の2つの真理がどのような関係にあるかは、大きな問題であります。「義認」を強調すると、神の赦しをよいことにして、恵みに甘えた、生ぬるい人間を作ることになりかねません。また「聖化」を強調すると、人間が自分に生涯を潔くなっているか、向上しているかということに神経質になり、「義認」の福音が教える、「あなたの罪は赦された」という真理、あの喜ばしい真理が解らなくなってしまいます。この「義認と聖化」「福音と律法」の関係について、パウロは6章の前半において、キリスト者は「キリストと共に罪に死んだ」者であることを強調し、罪人としての古き人生から断絶されているのであるから、古い生活に安住することは不可能であるとか語ったのであります。6章後半においては、キリストの救いは、人間を罪の支配のから神の支配に移すことであり、従って救われた者とは、同時に神の支配に服して神に仕える者であり、罪の生活に安住するようなことはあり得ないことを明らかにしています。ここで罪は人間を無理矢理に引きずつていく、強い力として示されています。人間は内なる欲望を満たそうとして、誘惑に負け、罪を犯すのでありますが、それをきつかけとして、悪魔的な力が彼を虜にして、支配するものであります。この力から人間を解放するのは神の力以外にはありません。従って人間は、罪の奴隷か、神の僕であるか、いずれにせよそのどちらかの力によって、支配されている存在なのであります。「6・16」しかし6・17~18節を見て下さい。ここに決定的支配の転換が起こったことを告げています。20節には「自由の身」と訳されています。ガラテヤ5・1を見て下さい。ここにキリスト者が罪に対して「自由の身」でありつつ「神の奴隷」であるというのです6・22節を見て下さい。


結び

もう1度6・15~23節を見て下さい。カルヴァンは「キリスト教綱要」に中で、「キリスト教生活の要約」として、一言で言えば、自分を「生きた、聖なる、神の受け入れられる供え物として、神に献げる」ことである(12・1)と言い、次のように説いています。
「われわれはわれわれのものでない。・・・・したがってわれわれは、肉によって自分に都合のよいものを求めることに目的を置いてはならない。・・・その逆に、われわれは神のものである。したがって、われわれは神のために生き、彼のために死ぬべきである。われわれは神のものである。従って我々のことごとくの行動は、神の知恵と意志によって支配されねばならない。われわれは神のものである。それならば、われわれの生のいつさいの部分は、あげて(唯一の)正しい目的として彼に向かわなくてはならない。ああ、自分が自分のものでないことを教えられ、自己の理性から主権と支配とをとりさって、神に身を委ねる人は、いかに進歩した人であろう」。
(キリスト教綱要Ⅲ1,7,1)
6・23節には6章の結論として「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。と聖書は語っています。」