「キリストの体」2021・8・8説教要旨

讃美歌285番 1番 主よみ手もて ひかせたまえ ただわが主の 道を歩まん いかに暗く けわしくとも みむねならば われいとわじ 4番 この世を主に ささげまつり かみのくにと なすためには せめもはじも 死もほろびも 何かはあらん 主にまかせて 

朝位真士

今日は1コリント12・12~31節を見ていきましょう。この12・12~14キリストの体である教会の有機的一致。15~27肢体の一致の必要。28~30賜物による種々の職務。31最高の霊的欲求。ここでは、教会、教会と信者との関係、信者相互の関係を説く。教会はキリストをかしらとする1つのからだで、信者個人個人は皆その肢体(12-14)。(からだが1つであっても肢体は多く)ある。肢体が多くあるのは、またその肢体のそれぞれの力と働きが異なるのは、教会を維持するのに欠くことのできない務めをさせるためである。すなわち、目は目の用をなし、鼻は鼻の用をする。手は手、足は足、互いにその務めは異なるが、皆ひとしく全身を維持するために働く。おのおのの肢体にはそれぞれの使命があり、互いに助け合ってからだを保ってゆくべきで、自分だけ孤立すべきでなく(15-20)、また、自ら高かぶって他を卑しめたり退けたりすべきではない(21)。最も弱い者、最も卑しいと思われる者は特に顧みなければならない(22-25)。このように信者は、おのおのその賜物を異にし、したがって務めが異なっていても、皆互いにからだのために働き、教会の徳を建てる。それゆえ、賜物のいかんによって人を軽んじたり卑しめたりしてはならず、また互いの間に党派を立て、分裂するようなことがあってはならない。信者はすでに1つのからだの肢体で、利害を同じくし、苦楽を共にする者である。(もし1つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、1つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ)26。これは、キリスト者間の当然あるべき麗しい一致同情である。指の先にけがをしても全身の活動や気分に影響するように、教会内の「最も小さい者」のひとりの苦しみも、全体に響くほどでなければならない。こうして「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」キリスト者的同情が表れるのである(ローマ12・15)

1コリント12・12~31を見て下さい。ここでは私達の体のことを考えて見ましょう。神はむだなものは何1つ造られない。またよく観察すると、1つの器官は多くの目的のために造られている。各器官が実に便利に造られており、どれも欠くことができないのであります。それは教会でも同じで、1見役に立たないように見える人が実に教会に欠くことのできない重要な存在だったりします。その人に適した働きが必ず、そしてたくさんあります。こんことによって私達は多くの問題を解決することが出来ます。特にパウロは言おうとしているのは、キリストのからだなる教会のあり方であります。12・12~13節を見て下さい。また各自の信仰生活においても同じであります。12・8~11を見て下さい。更に神は、他より劣っていると見えるところをことさらに尊んで体全体の調和を図り、分裂をなくし、各部分が互いにいたわり合ってキリストのからだとしての栄光を現わすことを望んでおられる(12・22~27)。また私達は霊的には、キリストのからだという有機的統一体に属しているのであって、1人1人はその器官であります。だから1人の問題はまた全体の問題なのです。

12・26節を見て下さい。からだの各器官はそれぞれ使命を持ち、どれ1つを欠いても全体は存在しないのであります。それと同じように、わたしたちキリストにある者は各自に与えられた分を感謝し、最善を尽くして全体のために奉仕すべきであります。これがキリストに栄光を帰す道であります。

結び

もう1度1コリント12・27~31節を見て下さい。初代教会における働き人としての種類が8つ挙げています。始めの3つは使徒、預言者、教師は教えることをなす者で、次の2つは力あるわざを行う者、いやしの賜物を持つ者は実際的活動に属する者で、その次の2つは補助者、管理者は教会の事務や政治に関する役目であり、最後に異言を語る者が置かれています。人にはそれぞれ異なった賜物があります。また教会には異なった奉仕活動の分野があります。すべての人が同じ任務につくことは、適当でないばかりか、それでは教会活動は正常に運営されない。違った人が、違った任務を分担して、互いに助け合ってこそ、教会は生かされる。高い地位やはなやかな働きをする人だけが、教会に必要な人ではありません。ここに「みんな」という字が何回もくりかえされていますが、教会ではこのみんなが分に応じて、それぞれ貢献したいと思います。最後に12・31節を見て下さい。これは12章の結尾の句であると共に13章へのつなぎとなる言葉である「更に大いなる賜物」は教会生活において最も大切な賜物であります。外面的にははなばなしい活動する力も神の賜物である。しかし、たとい外に表れなくても、多くの人を益し、真に教会の徳を立ててゆくものがあれば、それこそわたしたちがまず何よりも「熱心」に慕い求むべきものであります。それは一体何か。1コリント13章にパウロが調子も高く歌いだした愛がそれであります。これこそ聖霊の賜物にうち一番尊いものなのです。