榊原紀惠子 のすべての投稿

「憐れみの器」2020・7・26説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・19~29節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの箇所を9・19~23信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。24~29このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語りつています。ローマ9章においてパウロは、神の選民であるユダヤ人が、なぜ神の子キリストの福音を受け入れず、選民の資格を失ったように見えるのかという問題を取り上げてきました。これに対するパウロの第一の答えは、ユダヤ人を選民したのは、彼らの能力や素質ではなく、ただ神の憐れみであったという事でした。ですから、人間を神の民とするのもしないのも、神の自由であり、「9・18」。このように、神の恵みが自由な恵みであることを強調したのであります。これに対して人々が強く反論するであろうと予想して、その反論に対する答えを書きしるしたのが、今日の箇所であります。

本 ローマ9・19~29節を見て下さい。ここに神の真意が語れています。神は、人間を悪魔の手から解放するために、悪魔的力に御子をゆだね、そのことによって、悪魔を克服したもう。神の御計画には、一種の循環運動のようなものがある。しかし、知恵輪のように、この循環運動の中には、私達にわからない部分が含まれています。神が悪の力にふりまわされているのである。その「分からない部分」だけを見ていると、それが神に対する疑問となってくるのである。19節を見て下さい。愛と憐れみの神の手になるものが、神から不正な扱いを受けるはずがない。造られた者は、神に反逆しているのだから、当然、全被造物は、神の怒りに値するものである。それにもかかわらず、20~23節を見て下さい。そのことは神の憐れみの証拠ではないでしょうか。そのうえ、それらの「あわれみの器」のみならず、他の、怒りの器さえ、救いの恩恵を被る事が出来れば、神の憐れみは、一層あきらかになるでしょう。怒りの器に対し、「憐れみの器」が神によって前もつて用意されているという、御計画に従って、選びによる召しが、「ユダヤ人」の中だけでなく、他民族の中でも、着々と実行されたのである。パウロは、神のなされる悪の力克服の事実を聖書によって、裏づけた。ホセヤとイザヤからの引用句が、肩をならべるのである。ホセア2・25,2・1、イザヤ10・22―23、1・9の70人訳からの引用(ローマ9・25―29)。異邦人が神の民にくわえられることは、旧約の時代からすでに神の救いの計画と展望の中にあったとパウロは語っています。」ホセアの言葉とイザヤの言葉とだけでも、神は、どれほど、手際よく、悪のちからを克服し、悪の力の奴隷であった人間の身分を変えて、神の子とされるかということを的確に表現したホセアの言葉に注意することを忘れないようにしたい者です。キリストの救いのよきおとずれが、ここにきかれる。救いとは、神のみまえにおける身分の変化である。神への反逆者が、神の子となることである。奴隷と神の子とでは、身分の上に天と地との相違がある。神は、人類を滅亡にみちびくことを考えておいでにならないことをハッキリ知ることが出来る。

結び

イスラエルの歴史は、神の選びが実現されていく歴史である。また、それは滅びに定められた者の実現の歴史である。しかしそれ以上に、滅びに定められた者に対する神の深く大きな忍耐と寛容の歴史でもあり、やがて異邦人が憐れみの器として登場することを促す歴史でもあった。そして神が憐れみの器として「私達」、すなわち教会をユダヤ人と異邦人が混じり合ったものとしてお召しになるとき、神は約束を実現する。神は、ユダヤ民族だけでなく、広く世界の民の中から御自身の民を集めてくださる。教会は、新しいイスラエルであり、真のイスラエルとなるのである。人間おかれている条件の根本が、神に造られた存在ということであります。この点では人間も陶器も変わらないのであります。創世記2章には神が土で人間を造り、それに命の息を吹き入れられると生きた人間になったと言われています。人間あり陶器と同じように土のもろさをもっており、土より出でて土に帰ります。ただその土の器に神が命と恵みを注いでくださるゆえに、万物の霊長として立っているのであります。従って我々は、被造物としての謙虚さを持って、神によって造られ、置かれている条件を受け入れて、神に仕え、神に応えて生きる事が大事であります。

2020/7/26週報メッセージ

ホ群常任便り2号

朝位 真士 

  ホ群委員長の横山基生先生より送られた「常任便り2号」を抜粋して記載します。

 1.弾圧記念聖会-6月26日で78年目となる。特別の礼拝を守ってほしい。

 2.アンケートの結果-5月15日付の「ホ群常任便りⅠ」での新型コロナウイルス感染の影響に係わるアンケートは37教会から回答あり。①ほとんどの教会において4月から5月末まで礼拝や祈祷会が自粛された。②自粛中にオンラインによるライブ中継ができたところと、設備等の不足でできなかったところに分かれた。オンラインでできても、スマートフォン等を持っていない方へは、文章での説教送付等がなされている。③経済的には、今後どうなるか不安を覚えている。礼拝が通常になっても献金収入が例年と同じ程度に回復するかは未知数と感じているところが多い。ホ群としても支援方法が決まり次第、別途連絡させていただく。④ホ群への要望として挙げられた項目の多くは、IT関係に対する支援であった。ホ群の全ての教会がしっかりとオンラインで繋がる必要性を覚えた。人的・財的支援を秋のセミナーに向けて具体的に行っていきたいと願っている。

 3.オンラインホ群員会-オンラインでホ群員会を会議ソフトZoomを用いて開催した。

 4.秋のセミナー開催形式の変更-10月6日(火)のみオンライン形式。10月5日(月)・6日(火)に予定していたホーリネスの群信徒・教職共同セミナーは、開催形式を大幅に変更。そのため日程は10月6日(火)だけとし、地域毎に集まれる教会の方々は集まっていただく等をして、できるだけ多くの方々をオンラインで結びたいと願っている。現在ITの設備が不十分な教会には、10月までにホ群からの支援のもとオンラインで繋がることに尽力したいと願っている。

 5.2020年度ホ群年会の開催形式の変更と各種献金のお願い。①弾圧記念献金(予約78万円)。②東京聖書学校予約献金(予算400万円)。

「神の憐れみ(あわれみ)」2020・7・19説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・1~18節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をローマ人への手紙は8章までで一段落を告げ、8章の高い経験からすぐ12章の実行の部分に続くべきであるが、教理の終わりの部分に9、10,11章の3章を挿入して、ユダヤ人の選びと福音の関係についてしるしています。信仰による救いとユダヤ人の選びとの調和は、かなり大問題であるが、パウロは「この3章において、信仰による救の道を信じない選民が捨てられたことについて、神のために弁明している。9章では神の絶対主権からこれを弁明し、10章では彼らの捨てられたのは彼ら自身の不信仰のためであることを述べて弁明し、11章では神の知恵ある計画から弁明している。パウロはまず同胞に対する大きな愛を言い表してから(1-3)、彼らの特権を数えあげ(4―5)、神の彼らに対する約束が無効になったのではないことを述べる。信仰による救いと彼らが捨てられた事の関係は、約束に矛盾しない(6-13)。選びは神の大権によることで、信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。(14-18)。信仰による救い神の選びの秘密は聖書にかなっている(19-23)。このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語り(24-29)。かえって、異邦人が救われるのは信仰により、選民が救われないのは不信仰に為であることを説く(30-33)。

 ローマ9・1~18節を見て下さい。ここではイスラエル人に対する神の目的が全体で語られています。1-3パウロの同胞民族に対する切なる感情、4-5ユダヤ民族の7種の特権、6-13彼らに対する約束が無効になったのではないこと、14-18選びに関する神の大能と分解することが出来ます。岸千年先生はこの9章全体をイスラエルの救いを9章全体で語っています。1-5パウロの悩みパウロが、一瞬も忘れなかつた事は、同胞ユダヤ人の救いについてであった。

パウロ自身ユダヤ人であり、キリスト者を迫害した経験の持ち主でありながら、今は、キリストの証人である。彼はキリストの教えの宣教されるたびに、妨害し、時には宣教者の生命を危うくするような挙動にでたことさえもあった、にもかかわらず、パウロの心は、同胞のために燃えたのである。1-5節にパウロの人間としての暖かさを感じます。同胞が、キリストの救いに預かることと、パウロが、悪魔の手に渡されることが、交換条件になっています。6-13節を見て下さい。ここに神の選びー約束の子ここに、パウロは、神の光にてらされた選民イスラエルの実情をここに具体的例としてあげながら、神の御計画の実行にあたっては、人間にとっては、いつも疑問を含んでいるということをあきらかにしています。まず第1にパウロが問題にしたのは、神の言葉の有効性ということである。

何故なら、神の言葉の有効性が、確認されるなら、その言葉は、いつかは、必ず、成就するということも確認されるからである。次にパウロは、冷静にイスラエルの現実をながめる。その観察の結果は、次のようである。このことを追求すると二つの線が出てくる。

神の選びの計画―召しーアブラハムーイサクーヤコブー約束の子、エサウー肉の子。約束の子こそイスラエルであり、アブラハムの子孫にふさわしい内容を備えた者である。これに反して、同じアブラハムから出た者でも、その名にふさわしい備えない者たちは、肉の子である。9・14~18を見て下さい。神の真意が語られています。神は、御自身が、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を、慈しみたもうのであります。ローマ9・15~16節を見て下さい。神の自由な意志の働きから、憐れみの行為が出てくる。出エジプト7・13、8・15、9・12を見て下さい。この言葉をパウロは引用したのであります。神の愛と憐れみに対し、憎しみと、心をかたくなにすることとは、人間の側の事態に応じ、神の御計画に従ってからみあって、具体化するのである。しかし神は、どこまでも愛であり、憐れみたもうおかたであることに変化をきたすことはない。エジプトの暴君パロに対して神がなさったことでさえ、憐れみの枠からはずれてはいなかった。同時に、神のイスラエル解放の御計画からも逸脱していなかった。この二つの交わる点こそ、エジプトの暴君の立たされた場所であり、その場所で、彼は1つの役割を演じたのである。それは、神の名が全世界に言いひろめられるためであった。

結び

 今日のポイント9・15~16節をもう1度見て下さい。この箇所はわたしが箱根のケジックコンベーションという聖会でスコットランドのジョジ・ダンカン博士のメツセージを聞き献身を決意した箇所でもあります。1970年頃のことであります。そこで決心して1年間祈って毎週土曜日に淀橋教会に行って、日曜日朝5時30分の早天祈祷会に出て、教会学校から礼拝、夕拝に出て千葉の市川の会社の寮に戻り、東京まで出て仕事をして、1年後退社して聖書学校に入学して、1975年に卒業して北九州復興教会、曽根集会所に19年間奉仕して1994年4月桜ヶ丘教会に赴任にて26年目を迎えております。このローマ9・15~16節のみ言葉にお祈りの中で導かれました。先生のメツセージは出3~4章のモーセの召命の記事でしたがその夜徹夜でお祈りして献身の召命が与えられました。出エジプト33・19p150ここで神の絶対主権が確認される。神の憐れみと慈しみは、一方的に神の選びであります。救いも全く神の恵みであり、憐れみであります。前日銀総裁であり、教団阿佐ヶ谷教会の役員でいらした速水優兄弟は人生の目標は神の召しに答えることだと言われました。まさしくその通りダと思います。私達の人生の根底に、我々の誕生の前から我々を知り、神の民とすることを定め、我々を選んで導かれる、神の御手が働いているのであります。このことを心に刻み、この神の召し、招きの御声を新しく聞き、神の民の一員として、神の国の建設のために励んで参りましょう。

2020/7/19週報メッセージ

終末の徴

朝位 真士 

  マタイ24章7~14節に「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起きる。しかし、これらすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のためにあなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証として、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」と記載されている。

 最近、コロナウイルス感染症流行のため、世界的に多くの感染者、死者が出ている記事が、テレビ、インターネット、SNS等で報道されている。また全国で地震や洪水の被害があり、特に私の故郷、九州では大被害を受けている。私自身、伝道者として四十数年、キリスト者として六十年近くなるが、このような被害を見たことはあまりない。

 毎日報道されるニュースは暗いものばかりである。まさしく終末の徴を予想しているかの如くである。私たちクリスチャンは霊の目を醒ましていなければならない。科学文明は進歩して、子供から大人まで便利な時代になり、インターネット、スマホ、メール等、私の幼い頃には想像もつかないほど便利になった。しかし、人間の心は本当に平安と喜びと感謝に溢れているだろうか。この終末の時代、私は神の御声を聖書から聞く。「悔い改めて、福音を信ぜよ。」私はますます伝道者として、キリスト者として、救われる魂のために時間をかけて祈り、労さなくてはならない。主の再臨が迫ってきていると感じる今日今頃である。皆様は如何お感じだろうか。キリスト者の皆様も、神の御声を聖書より聞いてほしい。

2020/7/12 週報メッセージ

朝祷会の恵み 

朝位 真士 

  私は牧会の助けの一つとして朝祷会(超教派の祈り会)に出席しています。信徒(1961年12月、北九州復興教会の山中日出刃牧師より受洗)の時も、9年間サラリーマンとして仕事に支障のない限り、北九州と東京で早朝七時過ぎからの祈祷会に出ていました。牧師になってからも朝祷会によく出席しています。これが超教派の方々との交わりの原点となっています。

 最近出席した青山朝祷会で、浜田耕司郎牧師の『祈りの道』という御本に出会って、いくつかの感銘を受けました。その中の「神との時間」という項目の中で、「祈」という八木重吉の詩が記載されていました。「ゆきなれた路のなつかしくて耐えられぬように、わたしの祈りのみちをつくりたい」とありました。浜田先生は「私たちが歩んでいるキリスト者の道は、地図にもない未踏の小道ではありません。使徒・聖徒・先輩兄姉らによって踏み固められた大道なのです。それと同じく、祈りの道は主イエスによって切り拓かれた父神に至る道、イエス御自身がそのものでもあります。そして、その道を進む原動力は聖霊である祈りの霊です。」と述べておられます。

 他の箇所では「優先順位」として、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)が紹介され、祈りの習慣をつくることや、神との時間をつくることの大切さを訴えておられます。例話としてアサヒビールの樋口廣太郎兄が出てきます。会社の危機を救うために社長として派遣された時のこと。彼は「主よ、何とかしてください」とは祈らず、「主よ、感謝します。シェアが拡大し、社員とその家族全員が喜んでいます。お客様にも喜ばれています。ありがとうございました」と、既にそうなったこととして祈り続けました。領収書の祈りに徹し、請求書の祈りは一切しませんでした。結果はと言えば、彼の祈りと熱意によって新商品が生み出され、会社の危機は救われ、感謝した通りになったということです。私たちも領収書の祈りに徹しましょう。

「神の愛の勝利」2020・7・12説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・31~39節を通して聖書を見ていきましょう。今日でローマ8章が終わります。米田豊先生はこの全体を通して律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌として、1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉的な人と霊的な人。14~17神の子たる者の特権。18~22今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び31~34神の保護、選び。キリストのとりなし35~39愛、神の愛による勝利。永遠の安全。と分解しています。

本 今日のローマ8・31~39節を見て下さい。ローマ8・31~39節には、主イエス・キリストの溢れる御恵みと、このキリストを信じて生きる者に与えられている勝利の人生が、声高らかに歌い上げています。ここはローマ書のキリスト教信仰の基本の結論であります。「神がわたしたちの味方である」(8・31)は、この結論の要約言ってもよいでしょう。「味方」と訳された言葉(ギリシャ語の(ヒュペル)は、英語ではforであり、「ために」とも「代わって」とも訳されています。神はわれわれのために身代わりになってくださったと言うのであります。32節は「その御子さえ惜しまず」とい言葉は創世記22章12節の言葉そのままであります。族長アブラハムがイサクを献げる場面です。

創世記22章を見て下さいp31です。この時の「自分の独り子を・・・惜しまない」という言葉が、その通りにローマ8・32節に使われています。神御自身は御子イエス・キリストを惜しまないで十字架につけて人間のために犠牲とされたのであります。人間の救いをめぐる神の愛の活動は、それは、現在的であって、過去的ではない。といことである。神によって、御計画のままに行われる救いに実施すなわち、神の救いのみわざは、不思議な面をもっているのである。これによって神の愛の生きた力にふれるのである。愛は理論ではない。悪魔との戦いのなかに、具体的にあらわれるのである。キリストを信じる者は、自分が、その愛の中あることを信仰を持って知らされるのである。

神の愛が、「わたし」に与えられていることを信仰によって知る時、神は「わたし」の味方であるという確信を与えられるのである。神は「わたし」の味方と考えるなら、その線に立って、大別にして2つになる。神の側の事柄と、キリスト者側の事柄とである。神の側の場合は1・神はキリストを死に渡したもう。2・万物をも賜う。3・キリストは、父なる神のみこころに一致して死に、そしてよみがえりたもうた。4・キリストは、神の右に座して、わたしたちのためにとりなしたもう。その支配はおわることがない。キリスト者の側の事柄は、神の側の出来事を原因として、あらわれるのであるが、つぎの3つのことがいえます。1・キリストにある者は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣をうける。2・わたしたちを愛して下さったかたによって、あらゆる苦難に対して勝利をえる。3・勝利を得る毎に、神の愛の強さを知り、この愛からわたしたちを引き離すものは何1つないという確信が与えられる。38節をもう1度見て下さい。キリストのうちにある神の愛と「わたし」とを絶縁させるものは1つもない。これがキリスト者が神の愛に押し出されて、わたしのものとするのであります。キリスト者は、神の良き兵卒であります。兵卒は、将軍に対して忠誠をもつ。最悪の事態が身に降りかかっても、たじろがないのが、勝利をねがう兵卒である。キリスト者の信仰の戦いこそ、これである。テモテヘの手紙2・2・1~7節p392見て下さい。キリスト・イエスの兵士としてパウロが書いています。キリスト教の歴史は、キリスト者のキリストへの忠誠の歴史といってもよいでありましょう。

結び

もう1度8・31~39節を見て下さい。特に31節にあった問いに対する回答であります。キリストを通して働く神の愛の力から私達を引き離すものは何もないのであります。神との出会いの故に、永遠なる者と向き合った存在として歴史と人生の最後の瞬間にも、8・39のですから、わたしたちは「御国に生きる」者となるのであります。フイリピ3・20~4・1p365を見て下さい。パウロはローマ書の8・38~39節にもこのことを語っています。どんな被造物もキリストにある神の愛から私達を引き離す事は出来ないと言う確信の告白であります。

悪しき霊の働きは、現代においても種種の占いや迷信の虜になっている。キイスと者はその現実をみて、自らを正すと共に、完全に自由と勝利を得ているかどうかを自問して身を引き締めなければならない。最後に8・31節を歌います。

「万事が益となる」2020.7.5説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ8・18~30節を通して聖書を学んで行きましょう。最近地球の温暖化で太平洋上の島国が海面下に沈んで行くという現象も起こっています。人間が自分達だけの快適な生活を求め、また産業を発展させ、環境破壊が地峡の生活を危機に陥れています。生態系の危機であります。これまでの経済を考える人間中心の考え方から、自然環境に関心を広げ、「自然」にやさしい、人間以外の動植物や地球全体と共存する生き方が求められています。パウロはローマ8・19節から22節において、人間と世界が運命共同体として生きており、人間が罪と滅びから解放される日まで、自然や生命もまた、呻きながら、完成の日を待っていると教えています。

 聖書を見て下さい。8・18~25節ここでは栄光の道が語っています。キリストにあって、悪の力に対する苦闘を続ける事は、楽なことではない。しかし、神は、キリスト者が、そのような行き方を続ける事によって、ついには、神との交わりの深さ高さ広さに達することを約束されたのであります。今のこの時に苦しみとやがてわたしたちに現わされようとする栄光との間には、比較にならないほどの大差がある。パウロはここで、被造物全体の秘密をつげるのである。被造物全体は、人間をめぐって、相互に関連している。人間が神との関係の破れの中にいる限り、造られたものはみなその破れの中にいる。

しかし、パウロは、現実から目を離してはいない。被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共にうめき共に産みの苦しみを続けているというのである。神の勝利の歌は、「うめきのシンフォニー」のつづきである。苦難なくして栄冠はない。キリストの中にある呻きこそ、栄光へ通じている。キリストにある呻きは、絶望の呻きではある。確かな根拠にたっている呻きである。その根拠は御霊の最初の実をもっているということである。聖霊の与えられる約束をイエスが与えられたことはヨハネ福音書によって、明らかであるが、パウロにとって聖霊が与えられ、それによって、驚くべきことが、つぎつぎと、あらわれてきたことが重大である。聖霊は、御父と、御子とより出で、御父と御子とともに、創造し、いのちを与えたもうたのである。従って、聖霊の働きのあるところ、そこに、具体的な現象があるのである。全人類、全被造物に、個別的にそれぞれの身分の変化を実現させるおかたこそ聖霊なる神である。このような三一の神のみわざこそ、わたしたちが、忍耐して待望する心のよりどころである。

8・26~27節を見て下さい。ここでは聖霊のとりなしが語られています。キリスト者の弱さは、現実の問題に直面して、正しい方向をとらええないという点である。この弱さを助けてくださるのが、聖霊である。キリストは、聖霊のことを助け手と呼ばれた。それは弁護者という意味である。キリスト者の弱さをしりつくしたうえに適切な支えを与える御方であるというのである。しかも、聖霊は、言葉にあえあわせない切なる呻きをもって、キリスト者に代わって、祈って下さるのである。8・28~30節を見て下さい。ここに選びの奥義が語られています。

結び

ここに神の恵みの選びが語れています。パウロはローマ8・17節において、キリストの救いを与えられたものが、神の子であり、神の国の相続人であることを語りました。そして、18~27節にかけて、最初の人類の堕罪によって、死と滅びの呻きの中にある人間と世界に神が聖霊を送って共に苦しむことによって救いの道が開けたことを教えました。

今日のところは、その結果で、人間を救う為に神恩寵の選びが語られています。8・28をもう1度見て下さい。「神を愛する」のは、神の愛を受けてそれに応える姿であります。パウロは、イエス・キリストの十字架と復活によって、人間を救う神の愛が溢れるばかり注がれたとき、人間はその愛を神に返し、「神を愛する者たち」とされたのであります。パウロはこれを「ご計画に従って召された者たち」と言い換えています。ここに「神の予定」という考えが表されています。神が以前から「ご計画」なさり、その救いを人間一人一人の人生において、実現してくださるのであります。「召される」というのは、神が予定された救いを与える為に、歴史的な働きかけ、呼びかけをされることであります。「万事が益となるように共に働く」という場合の「万事」は、18節に出てくる「現在の苦しみ」のすべてのことだと思われます。それは、具体的には後の35節から39節に列挙されているような苦難や滅びであります。被造物と人間はそれによってうめきくるしんでいうのですが、神はそれら全てを摂理の御手を動かして、究極の救いと光栄へと導かれてゆかれるのであります。8・29~30ここに神の救いのご計画が「救いの秩序」として示されています。

人間の救いは、「予知」、「予定」「召し出し」「義認」「栄光」という順序を踏んで実現するのであります。私達は「現在の苦しみ」の歴史の中で、神の救いのご計画を読み取り、希望が与えられ、それゆえ忍耐をもって前進するものであります。最後に私の証をさせて下さい。5~10分以内です。時間がなければ割愛します。お祈りします。

2020/7/5 週報メッセージ

あらゆる境遇に処する秘訣を心得ている

朝位 真士 

  パウロのフィリピ四・一三に「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とあります。この箇所について、尾山先生は次のように注解されていました。

これは、生活問題に関する信仰の奥義を体得したということでしょう。富んでいる時には信仰が順調であるけれども、貧しくなると信仰まで貧しくなってしまうという人があります。また、これとはちょうど逆で、貧しい間は信仰が生き生きとしていたのに、富むようになると信仰がなまってくるという人もあります。順境の時には信仰を持っていたのに、逆境になるとへこたれてしまうという人もありますし、逆境の時にはその大波小波を乗りきっていたのに、順境になったら信仰がなくてもやっていけるとでも思っているように、信仰のことなど忘れてしまっているという人がおります。このように、人間というものはどこかに弱点を持っているものです。人生というものは、いろいろな試練の嵐が次から次へと襲ってくるものです。そういう時、貧であれ富であれ、逆境であれ順境であれ、ありとあらゆる境遇に置かれても、これに処する秘訣を身につけるというのが、信仰者の生活なのです。つまり、信仰生活というものは、テクニックで解決していくものではなく、全生活でぶつかっていくものなのです。

 私たち信仰者も様々な問題課題を解決するために、あらゆる方法を見つけようと努力します。確かに人間的な方法で考え、努力することは大切ですが、最終的には凡てのことは神の御手に委ねて、神の最善、万事を益としてくださることを信じて従っていく時に、やがて最善の結果が与えられます。パウロのあらゆる境遇に処する秘訣を得たという信仰、私たちもそういう生き方をしたいものであります。

「神の相続人」2020.6.28説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・12~17節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの8章を律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌。1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉に従わず霊のよって起きる生活。14~17神の子たる者の特権。と分解しています。そして8章の主題は「御霊、御霊」である。大別すると私達の生涯に関するいのちの御霊(2~13)、私達の資格に関する神の子たる霊(14~17)、私達の苦しみに関する望みと慰めの霊(18~25)、私達の弱さに関する祈りの霊(26、27)。私達の境遇に関する勝利の霊(28、29)となる。31節以下は8章の結論である。そして8章は勝利の凱歌をもって終わる。この大変化は、きよめられて聖霊に満たされた結果である。

今日の8・12~17節を見て下さい。ここでは1口で表現するならば神の子たちといえます。神によって創造された最初の人、アダム、とエバ最初の父また母は、創造主である神によってゆるされた範囲の自由をもっていたにちがいない。しかし、悪の力の誘いによる正常な神関係の喪失によって、神によって許された自由をも失ったのである。その代わりに、人間は、悪の力との関係において、悪に走る自由をえた。

つまり、罪に落ちた人間は、ただ1つの自由だけを持っている。それは悪ヘの自由である。これは奴隷的意志に結び付くものである。もし、人間が、悪の力の奴隷状態から脱出することが出来れば、そのとき、神との正常な関係が回復されるのである。パウロは、「肉」と「霊」という2つの言葉によって悪の力の下の状態と神の力の下の状態とを描き出すのである。

 肉に従っていきるとは、反神的な力の奴隷となっていたことに義理を感じて、「反神的な力に調子を合わせて生涯をささげつづけるなら」ということで、「生きる」は、「歩む」よりも強い調子を出しているのである。このような生き方の結果は自動的に「死」より外はないということになる。いま1つは、霊によってからだの働きを殺すという生き方である。「霊によって」とは、「肉」によっての」正反対である。聖霊の働きのもとにあって、これに調子を合わせるように導かれる事によって、反神的な肉の同盟者であるからだの働きを積極的に窒息させていくのである。

「からだのはたらきを殺すこと」は、人間のもっている自然の力の努力ではなくて、むしろ、神によってさずけられた働きだからである。聖霊が、キリストの死とよみがえりとを証するところ、そこに積極的に、悪の力に抵抗する力が与えられるのである。聖霊のみ業が活動最中に起こる出来事こそ、「わたし」にとっての奇跡的現実なのである。

合理的に筋を立てて述べられない領分がある。しかも、「わたし」は現実に、「からだの働きを殺す」というはなばなしいことをやってのけているのである。これをキリストにおける実存とか終末的出来事とかいってもよいでしょう。このような生き方が、身についてくれば、神の御霊に導かれている者という光栄ある名が与えられるのである。このような者は、また、神の子であるともいわれる。神の子は神を父と呼ぶことを許されています。神の子は、キリストと有機的に、また生命的につながりを持っているからである。そのキリストは「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで従順であられた」。神関係において、これほど典型的な態度はないのである。

神の子のあり方はここに、その全貌が示されているのである。「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」とイエスはいわれた。神の子は、神の相続人、キリストと共同の相続人としての資格は、キリストのなかで与えられる。その資格の第一は、キリストと共に死ぬことにほかならない。死ぬには、従順を必要とする。死ぬことは、反神的不従順と絶縁することであるからである。悪魔との絶縁は、神との結縁を意味し、死から脱出して、永遠のいのちの相続人とされることである。

結び

もう1度ローマ8・12~17節を見て下さい。ここに神の子供とされるキリスト者が描かれています。特に8・16節に注意してください。神の子供としての身分を与えられることは、当然法的な権利が伴う。それは「相続人」(8・17)ということばで表される。相続するものは神の国で、相続人とは神の支配にあずかる者のことである。キリストは現在すでに神の国の支配者として御父の右にあって支配しておられる。

しかがって私達は、キリストの統治に共にあずかる者となるのである。「キリストとの共同相続人」とはこのことであります。ただしその際に、キリストが相続人として栄光の座に着座するために、まず十字架の苦難を通られたことを思い起こさなければならない。「私達がキリストと、栄光をともに受ける」ためには、キリストと苦難を共にしなければならない。キリストの御霊を受け、御霊の導きをうけることは決して熱狂的な事柄ではない。私達はキリストによって神の子として導かれ、霊の賜物を注がれて、神の国の相続人として立てられていることを思い、「神の国と神の義を求め」(マタイ6・33)のために「キリストと共に苦しんで」(8・17)愛の業に励み、キリストと共にその栄光をも受ける希望をもって歩みたいものであります。

2020/6/28週報メッセージ

クリストファ・サン師からのメッセージ

朝位 真士 

  台湾を始め福音派の世界で用いられ、日本にも来られて大伝道集会を開催された、エヴァンジェリスト(大衆伝道者)の先生からお手紙をいただきました。その中のメッセージに感動しましたので、その大意を記載します。

 新型コロナウイルスの発生は氷山の一角であり、人類が神の創造の原理に違反した結果が引き起こした問題を記していますとの序文で始まります。この苦難の時代に、私たちは見張りを忘れず、警鐘を鳴らし、祈らなければなりません。第一に私たちは神を求め、イエスの御声と御言葉を聞かなくてはなりません(ヨハネ一四・六~七、マタイ二四・四、五・一一)。聖書を熱心に読むこと。第二に私たちはもっと神を愛することを学ばなければなりません。神から来る愛は、すべての恐れを追い払うことができます。サタンは常に真理を誤解させ、神の意志を行わないように、私たちを欺こうとします。だまされない唯一の方法は、「神を愛する」ことです。神を愛することに集中し、一人ひとりがイエス・キリストを見上げる時、私たちはいのちの光の中を歩くことができるのです(ヨハネ八・一二)。第三に私たちは霊とまことによって神に礼拝を捧げなければなりません(ヨハネ四・二三、一五・七)。第四に私たちは継続的にイエス・キリストの内に留まらなくてはなりません(ガラ二・二〇)。第五に私たちはへりくだって神と共に歩まなければなりません(ミカ六・八)。

 神を求め、真に神を愛し、神に近づき、神に留まり、神と共にへりくだって歩んでまいりましょう。