「神の慈しみと厳しさ」2020・8・30説教要旨

朝位 真士

今日はローマ11・11~24節から聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこの11章全体を神の選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸として語っていまして、11~12彼らの躓きと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。

 11~24節を見て下さい。パウロはその同胞の回復されることを期待しつつ(14、15)、特に異邦人信者に対する警告を記しています。選民イスラエルは不信仰の故に、メシヤを受け入れなかったため、異邦人が選民の地位に座して、選民に約束された祝福を受けるようになった。さきには、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく、神もないものであった」私達異邦人が(エフェソ2・12)、キリストを信じたことによって、アブラハムの子孫とされ、(ガラ3・29)、アブラハムに約束された祝福を受ける身分とされた(14)。よいオリブの枝が切り落とされて、(野生のオリブ)がそこにつながれたのである(17)。これは異邦人が神の教会に受け入れられるために、ユダヤ人が場所をふさいでいるから折られたのではない。彼らが不信仰のために折られたから、その後へ信仰による異邦人が繋がれたのである。それゆえ。恵みに馴れたり、自分の身分を忘れたりして、高ぶってはならない(18-20)。私達は神の祝福を受けるに足る価値もなく、ただ信仰によって祝福に預かっているのであるから、不信仰になれば神はいつでも捨てて惜しまれない。ユダヤ人はその警戒の見本である。彼らは選民の特権を誇った為、今神に捨てられて、あちこちに離散し、放浪の苦難をなめている。これは神の正しい罰である。それゆえ(神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切りとられるであろう)(22)。これは実に厳粛名警告である。私達は神の愛と義の両面を見なければならない。愛や恩寵の面ばかり思うと、恵みになれ、放縦になりやすく、義や裁きの面ばかりを思うと、恐れて萎縮してしまう。両面を見て初めて円満に、また健全に、信仰が成長します。選民であるユダヤ人でさえ不信仰のために捨てられたのなら、まして異邦人である私達が捨てられないことがありましょうか(21)。

神が愛によって惜しまれるのは一方の面で、「1度救われたら永遠に滅びない」などと言うことは出来ない。不信仰に陥るならいつでも捨てられる。神の慈愛を信じ、その中に留まっているゆえに神の慈愛は私達に向けられているが、この慈愛から離れるなら、私達もただちに捨てられる(22)。それ故「神の愛の中に自らを保」たなければならない(ユダ21)p451。

結び

パウロはユダヤ人たちのつまずきの問題を9~11章にかけて論じて来たのでありますが、今日の箇所においては、このイスラエルのつまずきは、彼らの失敗、挫折という、否定的な意味しかないのであろうかと問い直しているのであります。もしそうだとするならば、それは神の失敗であって、神は旧約の全歴史を通じてイスラエル民族を救いに導いて来られたのに、最後の土壇場になってこの民族を最終目標に辿りつかせることが出来なかったということになります。このような疑問に対してパウロは「決してそうではない」と強く否定し、イスラエルの挫折が、第1に神の救いが異邦人に及ぶ機会となったこと、第2にイスラエルの奮起を促せるためであることを述べて、ここから信仰的、歴史的教訓を引き出しているのであります。第1の点、すなわちキリスト教がユダヤ人から排斥されたことよって、異邦人世界に広がっていったことは、歴史的事実であります。使徒13・46~48節をp240

を見て下さい。ここに異邦人伝道に専念することになったパウロを見ることが出来ます。このように神は福音に対するユダヤ人達の拒否という悲劇も用いこれを全世界の救済へのチャンスとされたのであります。イスラエルが神の恵みから落ちて挫折を経験したことは、イスラエル自身の責任でありますが、神はそれによってイスラエルを冷たく突き放し滅びに任せるのではなく、むしろそれによってイスラエルが安易な道を歩むことから立ち止まり、目を覚まして奮起一番、新しく立ち上がる為の訓練の機会とされたのでありあます。ここで人間は、神が慈しみに溢れた方であると共に、厳しい方であることを学ばなければなりません。11・22節を見て下さい。「慈しみ(クリストテース)は「親切」とも訳せます。クリスチャンは「クリストテース(親切)である」と言われました。神は「慈しみ深いお方であります。しかし同時に神は侮られることを許さない厳しいお方であります。」「厳しい」とは「切りすてる」という意味であります。神は高ぶる者を切り捨てられます。かってイスラエルの最初の王様サウルが、その地位におごり、神の命令の背いてほしいまま振舞った時

預言者サムエルは彼の前に出て「主の言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(サム上15・23)と告げました。p452

神の厳しさは神の慈しみの裏側であります。イスラエルはたびたび神の厳しい訓練を経験してきました。このことは異邦人キリスト者たちが自分たちにも関わりのあることとして、真剣に考えるようにさとしています。ヘブル12・4~12p417ローマ11・24も見て下さい。