2020/8/30 週報メッセージ

前任牧師西海静雄師語録よりⅣ

朝位 真士 

  西海静雄先生は2004年6月29日、享年62歳で召天されました。生前、3冊の御本、『教会に喝』『人生のスパイス』『み言葉アンサンブル』を発刊されましたが、今回は『み言葉アンサンブル』の「教会の聖性と俗性」より引用いたします。

 教会とはどんな存在でしょうか。一面ではキリストの体としての聖なるものであり、反面、人間の集団としての俗なるものでもあります。この両面を、まず聖性から見ましょう。

 教会は「天から」(使徒2・1)の聖霊降臨によって創設されました。それはこの世に存在するいかなる組織や集団ともまったく異なったことです。・・・・・・「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストいおいてお選びになりました」(エフェソ1・4)。ここで言う「わたしたち」とは教会のことです。つまり教会は天地が存在する以前に、すでにキリストのうちに存在していた、というのです。ですから教会の起源はキリストにあります。地上のいかなる要素も教会創設には参与していません。ですから教会は「聖なる者」(Ⅰコリント1・2)です。人間の集団としての教会が退廃しても、この根源的な面を見失ってはなりません。この教会はキリストの体であり(エフェソ1・23)、「御子はその体である教会の頭です」(コロサイ1・18)。

 ・・・・・・地上の教会は世的な動機で動く、俗性を持っていることを示しています。教会の方針決定や問題解決の手段として、聖霊の導きより、会議で決めるようになったのも俗性の現れです(使徒15章)。満場一致(同25)でパウロとシラスをアンティオキア、シリア州、キリキア州などに派遣することを決めたのですが、アンティオキアまで同行した二人も、「意見が激しく衝突し、彼らはついに別行動を」(同22~41)とってしまいました。人間的な思いが働くほどに、俗習ぷんぷんたるものが教会に漂います。

 ・・・・・・このように、キリストの体としての「聖性」と、人間の集団としての「俗性」を併せ持っているのが教会です。地上の教会は聖なるものとされていることを、もっと深く信じるべきですし、一方で「俗性」をも深く認識し、努力や反省、悔い改めと服従をもっと徹底すべきです。