榊原紀惠子 のすべての投稿

2021/12/26 週報メッセージ

2021年をふり返って

朝位 真士 

  「すべての国よ、主を賛美せよ。/すべての民よ、主をほめたたえよ。/主の慈しみとまことはとこしえに/

わたしたちを超えて力強い。/ハレルヤ。」(詩117編1~2節)

 この2021年は、いろいろな事がありました。日本に目を向けると、地震や暴風雨やコロナ・パンデミックのため、私共の生活様式が変化しました。オンラインでの仕事、産業界や観光業の減少、失業者の続出、病気や自殺者の増加、犯罪の多発。

 そういう中で、私共の教会は少数の礼拝ではありますが、ユーチューブ配信も昨年から継続しています。週報を1週間前に印刷して、教会を休んでいる方々に郵送しています。近くの十数軒の方々には、牧師が訪問して安否を尋ね、お会いできる時には門前にて祝福のお祈りをささげさせていただきます。

 私は超教派の朝祷会に出席して、桜ヶ丘教会のため、また2019年に前立腺癌を発症した自分のために、真剣にお祈りしていただきました。お陰様で今日まで数値は安定しており、主の御用が継続されています。2003年より始めた教誨師・篤志面接員としての少年院の奉仕も毎月継続しています。若い十代の女性に福音をストレートに語っています。私が十代(18歳)でクリスチャンになったお陰で、十代の悩み多い若い女性にキリスト教の牧師として堂々と、国の施設で福音を語ることができています。12月には職員も在院生も出席して、施設全体にクリスマス・メッセージを語ることができて、本当に感謝の一言に尽きません。これも桜ヶ丘教会の皆様の御支援の賜物だと、深く感謝しています。

 主が天国でお迎えくださるまで、イエス・キリストの福音を語っていきたいと思います。迎える年も、神の祝福を切に祈るものであります。

2021/12/19 週報メッセージ

61年目のクリスマスを迎えて

朝位 真士  

  私は、1961年12月24日(日)九州の北九州復興協会で山中日出刃牧師より受洗いたしました。当時、高校3年生で、友人の持田倫生君により教会に導かれました。高校生の特別集会があり、そのまま継続して教会に導かれて、受洗いたしました。キリスト教のことは、あまり深く勉強していませんでした。しかし、御言葉が深く心にとどまりました。ヨハネ3章16節(口語訳)「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉です。当時は人生に悩み、人を信じられない状態でしたが、友人の優しい誘いによってキリスト教会に導かれて、毎週のように通うようになりました。今考えてみると大変純粋な青年であったと思います。教会での青年達の交わりが大変温かく、彼らは真面目な人々であり、教会の方々も信仰的で温かくて優しく、本当に心の底からの居場所でした。教会の青年会の活動や、清掃、夕拝、祈祷会等も積極的に参加して、日曜日の教会生活が大変充実していました。その後、商社に就職し、北九州、福岡(博多)、東京と転勤になりましたが、東京では淀橋教会で小原十三司先生、峯野龍弘先生の御指導を受けて、キリスト教の聖会等にも出席して、1971年、東京聖書学校に入学しました。

 4年の学びを経て、北九州復興教会で19年間、清水会堂と曽根会堂に仕え、1994年4月、家族4人で桜ヶ丘教会に赴任いたしました。その原点は、あの十代の青年の時、教会に導かれ、受洗したことです。受洗したクリスマスの想い出が、まるで昨日の如く感じます。伝道者となって四六年経過していますが、ますます主の僕として、生ける限りお仕えしたいと、毎日早天密室(デボーション)で神にお祈りしています。

 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に。」(伝道の書12:1、口語訳)

2021/12/12 週報メッセージ

「信仰に生きる」説教準備に際して

朝位 真士 

 今日のⅡコリ4章1~18節を通して、聖書を学びました。米田師によれば、全体は福音に仕えるパウロの態度、1~2節、光の中の生涯、3~4節、福音の光の隠蔽、5節、彼の使命と宣言、6~7節、神の証明と奉仕の力、8~15節、迫害の中における確信と覚悟、16~18節、彼の望み、苦難と栄光の比較。

 竿代照夫先生は、1~6節、栄光を現す人と覆う人。5節の後半で「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と語り、三つの要素がバランス良く捕らえられていくことが伝道者にとって大切だとしました。①イエスのため――人間を喜ばせるのではなく、主の喜びを求めることが基本。②あなた方に仕える――自分を低くして、群のために仕える姿勢を示す。③僕――主人として支配せず、弟子の足を洗われたイエスに倣って仕える者となりきること。7~15節、土の器と宝物。16~18節、永遠の希望。人間の肉体は、土の器のように、もろく、弱く、はかない。しかし、活ける主との交わりを経験し、その方が永遠なるが故に、私達もそれにあやかって永遠的な存在とされた。私達は、やがて消えていくこの世の一時の感覚的な者ではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきである。

 ウイリアム・バークレーは、1~6節、くらませられた目で彼はまず自分自身について語る。大きな使命を意識している人は、驚くべきことをやりとげるものである。音楽的天才の創りだした偉大な作品の一つにヘンデルの「メサイヤ」がある。この楽曲はわずか22日間で書き上げられ、その間ヘンデルは食事も睡眠もほとんどとらなかったといわれている。偉大な仕事の持つ不思議な点は、それを遂行するには必要な力が同時に与えられるということである。7~15節、患難と勝利。16~18節、忍耐力の秘密。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。みえるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)

2021/12/5 週報メッセージ

「信仰に生きる」説教準備に際して

朝位 真士 

 今日のⅡコリ4章1~18節を通して、聖書を学びました。米田師によれば、全体は福音に仕えるパウロの態度、1~2節、光の中の生涯、3~4節、福音の光の隠蔽、5節、彼の使命と宣言、6~7節、神の証明と奉仕の力、8~15節、迫害の中における確信と覚悟、16~18節、彼の望み、苦難と栄光の比較。

 竿代照夫先生は、1~6節、栄光を現す人と覆う人。5節の後半で「私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」と語り、三つの要素がバランス良く捕らえられていくことが伝道者にとって大切だとしました。①イエスのため――人間を喜ばせるのではなく、主の喜びを求めることが基本。②あなた方に仕える――自分を低くして、群のために仕える姿勢を示す。③僕――主人として支配せず、弟子の足を洗われたイエスに倣って仕える者となりきること。7~15節、土の器と宝物。16~18節、永遠の希望。人間の肉体は、土の器のように、もろく、弱く、はかない。しかし、活ける主との交わりを経験し、その方が永遠なるが故に、私達もそれにあやかって永遠的な存在とされた。私達は、やがて消えていくこの世の一時の感覚的な者ではなく、霊的な永遠の神の国に目を留めるべきである。

 ウイリアム・バークレーは、1~6節、くらませられた目で彼はまず自分自身について語る。大きな使命を意識している人は、驚くべきことをやりとげるものである。音楽的天才の創りだした偉大な作品の一つにヘンデルの「メサイヤ」がある。この楽曲はわずか22日間で書き上げられ、その間ヘンデルは食事も睡眠もほとんどとらなかったといわれている。偉大な仕事の持つ不思議な点は、それを遂行するには必要な力が同時に与えられるということである。7~15節、患難と勝利。16~18節、忍耐力の秘密。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。みえるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(4:18)

2021/11/28 週報メッセージ

救いとは何か                                                        

朝位 真士  

  今回は、ジョン・ウェスレーの説教集にある島隆三牧師(前東京聖書学校校長・東調布教会牧師)の論文をご紹介させていただきます。

 聖書においても、救いは広い意味で用いられる重要なことばですが、キリスト教において大切なことは、救いが何よりも神との関係において考えられているということです。「苦しい時の神頼み」式の信仰は、例えば病気が治ったら、問題が解決したら、もうそれでよい、「私は救われた」ということでしょう。しかし、聖書は、そういう人にも「あなたは本当に救われていますか」と問いかけるのです。つまり、救いが人間本位でなく、神本位に考えられているということです。人は誰でも、生まれつき自分本位、自己中心ですから、「自分が救われたと思ったら、それでいい」と開き直るような所がありますが、聖書はそういう自己中心の人間を「生まれながらの怒りの子」(エフェソ2:3)と呼んでいます。「怒りの子」というのは、神の怒り(審き)の対象となるという意味で、そのままでは神の審きによって滅んでしまうということです。私たちは何よりもこの神の怒りから救われねばなりません。

 結論を急ぎましょう。救いも、神が提供して下さっているということです。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神は、自己中心でどうしようもない私たちを救うために、ひとり子イエス・キリストをお与え下さり、その十字架の死と復活により救いの道を備えて下さったのです。ここにキリスト教の救いの根源があり、私たちは、その神の救いをただ信じて、お受けするほかに救いはないのです。エフェソ2・8にある通り、私たちは、ただイエス・キリストを信ずることによって神の怒りから救われるのです。『キリスト教神学辞典』の「救い」の項の一節を引用すると「この救いの経験の特徴を要約すれば、人間がそれによってその罪深い自我から生命の新しさと充満へと解放される神の恵みの行為のことである。すなわち救いとは、神の意思とわざとによって、人間のうちにまた人間のためになされる何かである。」「生命の新しさと充満へと解放される」という点を強調したのがジョン・ウェスレーです。