榊原紀惠子 のすべての投稿

2024/2/4  週報メッセージ

「イエス・キリストを深く知る(フィリピ書3:1-11)

                (イエス・キリストを知る③)

今年の教会標語聖句「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をさらに学びましょう。本日は3回目。「イエス・キリストを深く知る」というタイトルなのに、どうしてパウロの話なのでしょうか。パウロを学ぶのは、イエス・キリストを深く知るためです。

パウロはユダヤ人で熱心なパリサイ派でした。キリスト教徒を迫害、弾圧していました。そのパウロがダマスコ途上で、衝撃的な出来事があり、そのことにより劇的に信仰・価値観などが変えられたのです。それは復活のイエス・キリストとの決定的な出会いでありました。パウロにとってイエス・キリストを知るとは、復活のイエス・キリストとの出会いであり、そのイエスを愛することであり、「そのイエスを信じることが救いである」という信仰でありました。

このところからある牧師から厳しく教えられます。

①「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(8)にパウロは驚嘆していますが、私たちはなんと無関心・無感動でしょうか。私たちの価値観が変わらないのはなぜでしょうか。

②パウロはこの世における自分の有利に思える状況((お金、財産、名誉、学歴、能力、実績、友人…)(5-6)を「塵あくた」(排泄物)ととらえたのに、私たちは人生・生活が少しでもプラスになるように、なぜ塵あくたを求めているのでしょうか。「肉に頼る信仰」「人間の肉によって救いを得ようとする信仰」(4)を大切にしているからでしょうか。

③パウロは「キリストのゆえにすべてを損失と見なした」(7)のに、私たちは、キリストを信じながら、なんとかその一部でも手に入れたいと、物欲しげに求めているのではないでしょうか。

(1/28 山本師説教)

2024/1/28  週報メッセージ

「抵抗せよ」(Ⅰペトロ 5:6-11)

18世紀のフランスに生きたマリ・デュランは、プロテスタント信仰を守るために38年間も牢獄に閉じ込められました。彼女は牢獄の石の壁に、血を流しつつ爪で「レジステ、抵抗せよ」と刻み続けました。レジステという言葉は、本来は「立ち続ける」という意味だそうです。

「信仰にしっかり踏み止まって、悪魔に抵抗しなさい。」(9節)この言葉は、マリ・デュランよりもっと厳しい迫害の中にいた初代教会の信徒たちに、使徒ペトロが送った励ましの言葉です。ペトロは、信仰生活とは悪魔との絶えざる戦いである、と言っています。主イエスも、人間を罪の虜にしようとしたサタンと、戦い続けられました。サタンは、人間を罪から贖い出す十字架を何とか阻止しようとしました。主は、そのサタンと戦い続けられました。

私たちの信仰生活も、常に神様に従うか、サタンの誘惑に負けるか、という戦いの中にあります。サタンは極めて巧妙に私たちを誘惑してきます。ですから自分の力では打ち勝つことはできません。思い煩いをすべて主に委ね、主に戦ってもらうのです。主に大将となって頂き、自分はその後に従って、大将の指示に従って戦うのです。あらゆる恵みの源である神様は、私たちを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。「完全な者とし」という言葉は、破れたものを繕い直す、という意味の言葉です。母親が愛するわが子の着物の破れを丁寧に繕うように、神様は、私たちの欠けを繕ってくださり、本来の姿を回復してくださるのです。

この神様の恵みの中に、私たちは立ち続けるのです。サタンに襲われ易い人とは、神様に委ねることをしないで、一人で思い煩っている人です。自分で何とかしようと思い煩う者は、やがて疲れ果てて、サタンに隙を見せてしまいます。その隙を見せた所に、サタンは襲い掛かってくるのです。どのように神様の恵みの中にしっかりと立ち続けることができるか。それがサタンとの戦いの鍵なのです。(1/21 柏明史師 説教)

2024/1/21 週報メッセージ

「イエス・キリストを知る」(2)(マタイ16:13-20)

今年の教会標語聖句は、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」(フィリピ3:8)というみことばです。この一年少しでも、ひとつでもキリストのすばらしさを体験してみませんか。

もう少し「キリストを知る」ことについて学んでいきます。

第一に、「イエス・キリストを知る」ことは、「永遠の命を獲得する」ことです。聖書は、はっきりと永遠の命とは、唯一の神とイエスを知ること(ヨハネ17:3)だと語ります。どこまでわたしたちは「イエスのご降誕、受難、十字架、復活、昇天、神のゆるし、愛」などを知っているでしょうか。

第二に、「イエス・キリストを知る」ことは、「イエス・キリスト愛する」ことです。創世記の4章1節には、「さてアダムは妻エバを知った」とあります。罪のためにエデンの園を追放されたアダムとエバが、神様の導きによって、夫婦として結ばれていく記事が載せられています。ここで「知る」というのは「愛する」「一体となる」ことを意味します。イエス・キリストを知るということは、「イエス・キリストを愛する」「イエス・キリストと一体となる」ことを示しているのです。

第三に「イエス・キリストを知る」ことは、「わたしたち自身の目で、耳で、体験の中で知る」ことです。ペトロは、人々のイエスの噂、評判を盲信したのではなく、ペトロ自身の目で、耳で、体験の中で知って、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白したのです。

第四に、「イエス・キリストを知る」ことは、「わたしたち自身が変えられる」ことです。イエスを知ることによって、わたしたちの中に重大な変化が起こり、わたしたちの生き方・価値観が変わることです。もし「イエス・キリストを知る」ことによってなんら変化がないなら、いま一度信仰生活を見直す必要があるのではないでしょうか。(1/14 山本師 説教)

2023/1/14 週報メッセージ

「イエスを知ることのあまりのすばらしさ」

(フィリピ3:5-14)

穏やかな、平和な元旦を迎えましたが、その夕方には能登半島で激しい地震、津波、火事、があり、翌日には羽田空港・衝突事故がありました。波乱と恐怖の一年の幕開けなのでしょうか。それとも信仰と祈りに立って歩むべしとの警醒でしょうか。

今年の標語聖句は、フィリピ書3章8節からきらめくようなすばらしいみ言葉が与えられました。パウロはどのような状況でこの信仰告白をしたのでしょうか。それは不潔な、暗い、冷たい牢獄の中でした。鞭で打たれた痛みでうずきました。いつ裁判で死刑にされかねない不安もありました。にもかかわらずパウロは、「喜び」を強調するフィリピ人への手紙を書いたのです。

パウロはこの手紙では、ただ単に「イエスを知ること」だけでなく、「イエスを知ることのあまりの素晴らしさ」を伝えようとしています。

ではそれはどういう意味でしょうか。なぜ「キリストを知る」ことが、そんなにすばらしいのでしょうか。

パウロはイエスに出会って(知って)から、価値観が転換し、これまで大切にしてきたこの世の利益が、無価値に思われるようになったのです。

ところで「イエスを知る」とは、知識としての「知」ではなく、神を「あなた」と呼び、神に「私は」と応える人格的な関係のことをいいます。この人格的な交わりによって、私にとって神がかけがえのない方となり、一緒にいることを喜ぶ関係となるのです。そのような神との交わりが「永遠の命」(ヨハネ17:3)につながるのです。

別の言い方をすれば、「イエスを知る」とは、「私たちに何をしてくださったのか」を知ることです。この世に降臨されたこと、十字架に架けられたこと、三日目に復活されたこと…などの真理をとことんまで知ること、知り尽くすことです。                        (1/7 山本師)