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2024/1/7 週報メッセージ

「いつも感謝していなさい」 (コロサイ3:12-17)

皆様にとって、今年は感謝にあふれた一年だったでしょうか。それとも不満ばかりの一年だったでしょうか。あるいは感謝もあり、不満もありの一年だったでしょうか。

感謝は神さまの「命令」。文法上では命令形で書かれています。しかし神さまは私たちの意思を無視して命令されるお方ではありません。むしろ私たちがどんな状況の中にあっても、いつも感謝できる人になってほしいと望んでおられるのです。感謝すればするほど、神さまは私たちに「最善のもの」、「あらゆる人知を超える神の平安」、「満ち足りる心」、「喜び」、「成熟」を与えて下さるのです。

コロサイ書は最初から感謝を強調しています(1:3)。「…いつも祈り、…神に感謝しています」(1:3)「あふれるばかりに感謝しなさい」(2:7)、「いつも感謝していなさい」(3:15)…。その時のパウロの置かれたところは牢獄の中でした。とても喜べる、感謝できる環境にはいなかったのです。にもかかわらず感謝を続けました。

私たちはどうすれば感謝の心が身につくのでしょうか。感謝は、私たちの感情ではなく、私たちの意思で選択するものです。感謝を「習慣化」する必要があります。まずは小さな感謝を見つけては、感謝をくり返すことが大切です。

感謝できない、愛せない、赦せない…とき、イエス様を見つめ、主の愛を思い起こし、主に愛されてきた経験を思い出しましょう。そこから小さな感謝の心が芽生えてくるのではないでしょうか。

感謝の反対は何でしょうか。それは、不平不満、つぶやきであります。残念ながら、私たちは感謝することより、不平不満が出やすい傾向があります。これは神さまが最も、嫌われるものです。聖書も、不平不満やつぶやきがいかに罪が深いのか警告しています(Ⅰコリント10:10)。

(12/31山本師)

2023/12/31 週報メッセージ

「神が人となられた」 (フィリピ書2:6-11)

         

今週は「説教断片」」はお休みです。

今年のクリスマスも、ベアンテ・ボーマン先生のメッセージとチェロの演奏を聴きました。柔和なお顔で、流暢な日本語を話し、時折出るユーモア、ご夫妻の掛け合いは、楽しかったですね。そしていわずもがなチェロの演奏はすばらしかったです。家に帰ってあらためてボーマン師の「CD」を聞きました。私は音楽のことはよく分かりませんが、心に響くチェロの表現力の豊かさには感動しました。

ボーマン先生は70数年間、神さまに豊かに用いられてきました。なおもこの器が豊かに用いられるように祈っていきましょう。

ところで「なぜ神の子であるイエスが人となられたのでしょうか。」少し補足します。

第一に、人に対する神さまの愛を明らかにするためです。イエスさまが神のご栄光のままであれば、だれも近づくことはできません。人となって、愛し、愛される関係になられたのです。

第二は、私たちの罪を救うため、救い主となるためです。私たち人間には絶対にできないことの一つは、自分の罪を解決するということです。人としてのイエスは十字架につけられて、私たちの罪から救って下さったのです。

第三は、キリストはダビデの町でお生まれになるという預言が実現されるためでした。旧約時代の預言によれば、人類の救い主(メシア)は、このダビデ王の子孫から生まれるとの約束がありました。私たちの約束は何でしょう。「キリストを救い主として信じるものは、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つ」ことです。

それでは皆様よいお年を。(山本)

2023/12/24  週報メッセージ

「限りなく尊い愚かさ」 (マタイ書2:1-12)

         

アドベント(到来)という言葉は、ラテン語の「アドヴェントゥス」という言葉から派生しています。アドベンチャー(冒険)という英語も同じ言葉から派生しています。神の御子の到来アドベントは、また神の冒険アドベンチャーでもあるのです。主イエスは、どれだけの人が主に立ち帰るか何の確証もないままに、ただ私たちを愛するが故に、命懸けの冒険を冒して来て下さいました。占星術の学者たちは、ただ救い主を礼拝するだけのために、遥々やって来て最上の物を献げ、それだけでもう十分に満たされ帰っていきました。これこそがクリスマスの祝い方です。私たちを救うために、命懸けの冒険を冒して来てくださった神様に対して、私たち人間にできることは、ただその神様を礼拝することだけなのです。学者たちの贈り物は彼らの商売道具であったという説があります。それを献げたのであれば、彼らは仕事を変えたのです。自分のためにする仕事から、キリストのためにする仕事へと変えたのです。しかし彼らの目の前には、粗末な布に包まって貧しい若夫婦に抱かれている赤子がいるだけです。貧しさと弱さと無力さの象徴のような赤子に、大切な商売道具を献げて自分の生き方さえも変えようとする。そんなことは愚かです。しかしその愚かとも見える行為こそが、実はクリスマスに最も相応しいのです。なぜならクリスマスとは、父なる神様が最も大切な独り子を、十字架の死という最も愚かな方法で、私たちのために献げて下さった出来事だからです。ご自身に背き、御心を悲しませてばかりいる私たちのために、最も大切な独り子を犠牲にして下さった。それによって人間が神様に立ち帰るという保証は何もないにもかかわらず。これは愚かです。賢くありません。しかし私たちは、この限りなく尊い愚かさによって救われたのです。私たちも、愚かと思えるようなひたむきな思いを持って主を愛していきたいと思います。それが主の冒険に応える私たちの冒険なのです。

(12/17  柏 明史師説教)

2023/12/17 週報メッセージ

「闇に輝くキリストの光」 (ヨハネ書1:1-5)

          

待降節第二主日に入りました。この時期にはキリストご降誕の記事(マタイ書、ルカ書など)を熟読し、思いを深めていきましょう。

クリスマスの二つの特徴を聖書からあげますと、第一は、クリスマスは不思議で、神秘的で、驚きに満ちた出来事であり、第二は、クリスマスは喜びと賛美に溢れる出来事であったことです。私たちが聖書の、真のクリスマスに近づけば近づくほど、不思議と神秘を発見し、喜びと賛美に満たされるでしょう。

今朝の聖書箇所は「暗闇」が強調されています。創世前も、旧約の時代も、イエスの時代もそして現代も「暗闇」の中にあるのです。では「聖書のいう暗闇」とは何でしょうか。聖書の暗闇とは、私たちを造られた神さまに背を向けている、神さまとの関係が断絶している、自分中心に生きている。…その結果、この世は罪と汚れに満ちている。これが闇だというのです。 この暗闇に、『光』として主イエス・キリストが来られたのです。

この「光」は二つの目的を持っていました。一つは「愛の光」です。自己中心の、冷たい私たちの心を、人を愛することができる心に変える「光」でした。もう一つは「いのちの光。永遠の命の光」です。イエスは「わたしは、世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)といわれました。イエスキリストの言葉を聞き、イエスキリストの十字架と復活を信じるものは、「死から命に移っている」のです。

さらに聖書は、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(5)という喜びの知らせを告げているのです。喜びと賛美にあふれたクリスマスを迎えましょう。

12/10  山本修一師説教