榊原紀惠子 のすべての投稿

2026/8/9 週報メッセージ

剣を鋤に、槍を鎌とする

   

                    川﨑 信二

主は多くの民の争いを裁き

はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤とし

槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず

もはや戦うことを学ばない。(ミカ4:3)

上記のミカ書の聖句はイザヤ書2章にもほぼ同じ言葉がある。預言者イザヤとミカは、紀元前8世紀、ほぼ同じ時代に活動していて、滅亡寸前の南ユダ王国に審きと回復の預言を語っている。

 ミカは「モレシュト」という山里の出身。イザヤが貴族階級で、王に進言できる立場であったのと比べ、ミカは農村のどこにでもいるような人だった。ミカにとって鋤や鎌は日常生活で使う道具だった。そんな日常を奪うのが戦争である。鋤が剣に、鎌が槍に変えられてしまうのだ。

日本においても戦時中、鉄が不足し武器を造るために一般家庭では、鍋ややかんを軍に差し出さねばならない状況だった。その逆がミカの預言であり、戦争を終わらせる神の告知なのである。この平和ビジョンは日本国憲法の「平和主義」とも響き合っている。日本は再び戦争への道を進むのだろうか。防衛費倍増、敵地攻撃能力保有という軍拡への道を突き進むことのないよう祈るものである。

主イエスの平和は十字架の贖いによってもたらされる。主は「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」と言われ、権力者に抵抗する弟子たちをいさめ、十字架に向かわれた。主イエスの十字架が、敵意という隔ての壁を取り壊してくださったのである。敵意が日常を壊し、戦争へと向かわせる。敵意……私たちの心の問題である。正義を振りかざす前に、この私こそ、十字架の贖いを必要とする罪人であることを忘れてはならない。

主を信じる者が、主の教えに逆行することのないよう、剣にお金をかけるのではなく、日常を大切にし、毎聖日、主の山に登り、祈ってゆくお互いでありたい、と願わされている。

2026/8/2 週報メッセージ

君が代 日の丸

川﨑 信二

 先週、大相撲名古屋場所が盛況のうちに終わった。千秋楽には結びの一番が終わった後に国歌斉唱と国旗敬礼の時がある。野球観戦でも「君が代」を起立して歌うことが求められることがある。

 私はかつて「相撲の歌」として歌うことがあったが、今は歌うことも止め、起立もしないようにしている。それは戦時中に戦争遂行のために用いられていた軍国主義の象徴というイメージが拭えないからだ。日の丸を掲げて敵を攻撃し、日の丸を振って兵隊さんを送り出したという、多くの人を殺戮するために使われたことは言うまでもない事実である。降伏し敗戦となった時に、日章旗も変えるべきだったのではないか、とも思う。

 クリスチャンが全てそう考えるべきだ、とは思っていない。職場や学校という組織なかで、そうせざるを得ない方もおられるだろうし、それこそ、するしないは自由だからである。その自由を行使して、私は敬礼しないようにしている。牧師ゆえに比較的にそれが出来る立場にあるし、それが許されるのが民主主義だと思っている。それでもその時の状況次第では私の振る舞いも変わってしまうかもしれないが……。

 危険なのは、戦時中のように国歌権力により同じ思想を強要させられ、弾圧や処罰の対象になるような体制になってしまうことである。国家から迫害を受けた桜ケ丘教会に連なる者として、愛国主義が軍国主義に変化する危うさがあることを注視しつつ、武力に頼る国にならないよう祈ってゆきたい。主イエスの十字架は、攻撃ではなく、それを赦す愛そのものであることを忘れないようにしたい。

2026/7/26 週報メッセージ

恐れではなく力と愛と思慮分別の霊

(テモテへの手紙二 1:1〜10)

川﨑 理子

 21日㈫、「朝祷会」に奨励者として招かれて出かけました。東京に来てからは初めて(代々木朝祷会)でした。

 朝祷会は1957年に大阪で14人のキリスト者による「大阪朝食祈祷会」として始まり、その後全国に広がりました。現在では約130会場で開催されており、様々な頻度で行なわれています。この集会はカトリック、プロテスタント、聖公会などの教派を超えた超教派運動としてイエス・キリストを信じる者たちが集まっています。

 「代々木朝祷会」は7月21日で1621回。司会は救世軍の兄弟でした。彼は冒頭にこう言われました。

「朝位先生は朝祷会によくいらしてくださり、大きな声で祈ってくれました。先生が召された後の牧師先生がいない、と聞いておりました。桜ケ丘教会のことは気になっていましたので、本日は桜ケ丘教会の川﨑理子先生においでいただきまして本当に感謝しております。」

 示された聖句に「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」⑺ とあります。

「力」は福音を知る勇気。「愛」は人に仕える心。「思慮分別の霊」は自分を制御する知恵です。

 「神はわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。」⑼

この恵みに応えて、勇気をもって神に近づき、率先して人に仕え、自らの欲を抑えつつ、喜びをもって祈りの場へと出かけてゆきたいと思います。

主イエスの愛に押し出されて世に仕える者とならせて頂きたいものです。

2026/7/19 週報メッセージ

キリスト者という呼び名

川﨑 信二

「……アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった。」(使徒言行録11:26)

 学生の頃、「おしん」という渾名で呼ばれていた。「しんじ」という名前と、戦中戦後を生き抜いた女性の人気ドラマから「我慢強い」イメージで、そう付けられたようだ。我慢強くはないが、人に声をかけられても恥ずかしくて言葉が出てこなかったために、何を言われても口答えしないで「耐えている人」と映ったのかもしれない。

 「キリスト者」という渾名はパウロたちが熱心に伝道する姿から、ユダヤ人から揶揄されて付けられたとも言われている。主の弟子たちがいつもキリストの名を呼び(キリストは名前ではなく救い主という意味)、口にし、主を褒め称えていたのでそう呼ばれるようになったのだろう。

 聖書学校の学生時代に宮崎県に伝道キャラバン隊を組んで実習に行ったことを思い出す。路傍伝道の一環で「わたしはクリスチャン」と描かれたTシャツを着させられ、真夏の商店街で踊りながら「ハレルヤ!わたしはクリスチャン」と歌わされた。恥ずかしかった。先輩たちは笑顔で主を賛美し、喜びに満ちていた。使徒たちがキリストの名で呼ばれる喜びと誇りを伝道の力に変えたように、私も恥ずかしがらずに「わたしはクリスチャンです」と告白できる者になりたい、と思わされた。

 一人では心細い。キリストの名によって呼ばれる「キリスト隊」こそが教会の姿であるはずだ。

 毎朝、「桜上水」と描かれたTシャツを着てジョギングをしている。笑顔でスキップもしている。周りからどんな目で見られているのだろうか(朝早いので人は少ないが)。

 「わたしはキリスト者」と描かれたTシャツに替えてみようかな、と思うこの頃である。

2026/7/5 週報メッセージ

気持ちの問題ではなく、神の事実

川﨑 信二

「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」

(ヘブライ13:8)

信仰や祈りがもたらす心身の改善効果は、医学的に「プラセボ効果」のメカニズムと非常によく似ていると言われています。心理的な信頼感や期待が、不安の軽減、免疫機能の向上、痛みの緩和といった「思い込みによる実効」をもたらす側面があるとされています。

例えば、信仰を客観的に見た場合には次のように見ることができます。「祈りや神への信仰は、ストレスを軽減し、脳内物質の分泌を促すなど、物理的な健康の改善(特に免疫機能向上やうつ症状の緩和)に繋がる」と。

これは医学的な報告です。「信じる力」が物理的効果をもたらすということも事実なのでしょう。

信仰とプラセボ効果には共通点があります。薬の効果を信じることで症状が改善するプラセボ効果と同様、信仰も「神が治してくれる」「良くなるはずだ」という強い期待感によって、自然治癒力を引き出すという点です。

確かに、信仰がメンタルヘルスに寄与する点はあります。信仰が人生の目的や安心感を与え、精神的な安定(ストレス減少)を与える効果です。また「自然治癒力」は人が本来持っている力であり、前向きな希望によってそれが最大限に引き出されると言えるのです。

つまり、信仰による治癒効果は「ただの思い込み」ではなく、科学的にも実証されていて、人間の心身に内在する力として認められているものなのです。

 しかしながら、そのような人間の側の気持ち次第で変わってしまうのなら、何とも心細いです。人の思いや信仰の前に、神の救いの事実があります。主の十字架と復活による約束は私たちの気持ち次第で変わるものではありません。

 神の恵みは、私たちの信仰に拘わらず、揺らぐことのない絶対的なものです。

2026/7/12 週報メッセージ

天のふるさと

川﨑 理子

先日、千歳丘教会のコンサートに行ってきました。ウクライナの民族楽器「バンドゥーラ」の演奏を初めて聴きました。奏者のカテリーナさんは、日本で活動されて20年。「私のコンサートは、事前のプログラムはないんですよ。目の前にいるお客様を見て曲を決めています」と。

1曲目はウクライナでは子守唄として知られている「幸せの鳥」を弾いてくださいました。カテリーナさんは「ウクライナ民謡の歌詞には、花を母に、鳥や動物を父や兄に例えることがあります。幸せの鳥は、木を切らないで、花を切らないで、と呼びかけている歌詞です。戦争で、木や花、命も切られています。私がステージに立つことで、バンドゥーラの音色と歌を響かせることで、ウクライナの現状を知ってもらいたい」と語られていました。

 バンドゥーラは12世紀頃に起源を持つとされる伝統的な楽器です。65本の弦をもち、指に専用のつけ爪を付けて弾いて音を出す撥弦楽器なのです。4.5オクターブの音域があり二重弦になっています。カテリーナさんは「二重弦はピアノでいう白鍵と黒鍵のような関係ですよ」と教えてくださいました。

 また、バンドゥーラはかつて、主に目の不自由な男性が歌いながら演奏し、歌詞の内容も民族の歴史や英雄話が中心だったことから、日本の琵琶にも似ているとのことです。

 カテリーナさんの演奏と歌声には平和や祖国への想いが溢れていて、礼拝堂いっぱいに響き渡りました。

アンコールでは日本の「ふるさと」を会衆の皆さんでバンドゥーラの音色に合わせて全詞を歌いました。

 

 私は、永遠のふるさと、「天のふるさと」へ思いを馳せました。ウクライナも、日本も、世界のふるさとは天にあります。主が創られたふるさとは全ての人のふるさとだ、と感じ、祈りを新たにさせていただきました。

「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ人の手紙11:16)