2021/1/31 週報メッセージ

信仰生活の基準

朝位 真士 

  2021年に入り6回目の礼拝を守ることができて感謝しています。コロナウイルス感染症流行がなかなか収まらない今頃です。ここでもう一度、1517年10月31日に宗教改革をしたルターの「宗教改革の信仰」を整理してみましょう。『新キリスト教ガイドブック』によると、宗教改革者が主張した信仰の内容は次の3点に要約できます。

  (1)信仰のみー人間が、神によって罪の赦しを受け、義と認められ救われるのは、ただキリストを信じる信仰によってのみです。これは、信じてなお、現世で善行を積み、罪のつぐないをすることによって救われると考えたカトリック教義とは根本的に違います。

 (2)聖書のみー人間の信仰と生活にとって、最終的規範となるのは、地上の教会の権威ではなく、神の啓示としての聖書です。イエス・キリストがかしらである教会は、つねに悔い改め、改革されていくべき未完成の群です。

  (3)万人祭司ー救いのためには、神と人間の間にキリスト以外にいかなる仲介者も必要でありません。救いは司祭の儀式や秘跡(礼典)によるものではないのです。一切の聖人礼拝が否定されます。むしろすべての聖徒が聖書に定める祭司であり、キリストを通して神との交わりをもつことができるのです。

 私は三つの「宗教改革の信仰」を心にとめつつ、信仰生活を送っていきたいと思います。それと同時に信仰生活には、基本的原則を実践しなくてはなりません。まず、1日の始めに、①聖書を読む。『アパルーム』や『信徒の友』の日課、その他の黙想書を参考にします。②お祈りをする。私は教会の関係者(ホ群の教職、信徒、求道者)、政治、経済、教育、病気の方、救われる家族、友人知人のために祈ります。また、キリスト教の新聞や印刷物を訪問・郵送でお届けして、キリストを伝えます。③奉仕する。教会の内外で、主の証し人として愛の奉仕をします。私達のカバンの中に、愛の心、感謝の心、信仰の心を入れておきましょう。

2021/1/24 週報メッセージ

「この町には、わたしの民が大勢いる」

朝位 真士 

  今年は使徒18章1~11節が与えられました。特に9~10節「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる。・・・・・・この町には、わたしの民が大勢いる」という御言葉が与えられて、今年も昨年に引き続いて、「祈りと宣教」を目標として密室で祈り、公的集会で祈り、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなければならないと示されています。

 1月7日、政府は「緊急事態宣言」を東京、神奈川、埼玉、千葉の首都圏四都県に発出し、主な感染防止対策として4つの点が特記すべき事として知らされました。①外出自粛-午後8時以降の不要不急の外出自粛を住民に徹底。②営業時間の短縮-飲食店、バー、カラオケなどの営業時間は午後8時まで。酒類の提供は午前11時~午後7時とすることを要請。③出勤・通学など-出勤者数の7割削減をめざすことを含め、在宅勤務(テレワーク)や交代勤務などを推進する。小中高校、大学、幼稚園、保育園などは原則開く。④イベントの開催、施設利用の制限-飲食を伴わず、5千人かつ会場の収容率50%以下で開催。午後8時までの営業時間短縮を働きかける。期間は2月7日までの1ヶ月の予定だそうです。教会の諸集会も影響を受けそうであると心配しています。

 私は過日、次週の週報を二十数軒、ポストに入れたり郵送したりしました。その時、教会に出席されていない信者・求道者の方々にお会いして、お祈りして別れました。いつか、このコロナが終息して、自由に諸集会に出席できることを祈ります。ユーチューブ配信も貴重な宣教のツールです。教会に出席できない方々は、桜ヶ丘教会のホームページをクリックして、礼拝を守ってください。そして、通常の礼拝が一日も早くできることを祈る今日この頃であります。

「キリストは私達の知恵・義・聖・贖いである」2021・1・24説教要旨

 

 朝位 真士

 今日は1コリ1・26~31節を通して聖書を学んで行きましょう。この聖書の注解は米田豊先生のを参考にさせて頂きます。1~3挨拶と祝祷。4~7コリントの信者の霊の賜物のための感謝。8~9彼らの将来に関するパウロの確信。10~13分争に関する訓戒。14~17パウロの使命。18~25神の力また知恵であるキリストと、その福音のあかしー愚かに見える十字架。26~29弱く見える信仰者。30~31私達のすべてであられるイエス・キリスト。この1章全体として資格と経験。教会内の分争。神の知恵と力である十字架。と分解しています。

 1コリ1・26~31節を見て下さい。この世の知恵は神の前には愚かなものであり、神なしの哲学や科学では信仰の奥義はわからない(19~20)。学問も知恵もない者であっても、イエス・キリストの救いの体験を握る時、世の学問や地位が与えることの出来ない幸福を受け、知者も学者も説明することの出来ない心や魂の大革新を実際に経験する(27~28)。実にキリストにある者は幸福であります。(キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとなられたのであります。(30)すなわち、私達はイエス・キリストにあって義とされ、彼にあってきよめられ、また彼にあってこの肉体があがなわれ栄化する。イエス・キリストは(神の知恵)(24)であると共に、また(私達の知恵)でもある。

パウロはコリント人が入信した時のことを思い出させる。この言葉は初代教会を構成していた人々の層を示しています。社会的地位を持った者、富める者が全然いなかったわけではありませんが、それらは多くはないと言われる。大部分は、教育程度の低い、地位も名誉ももたない貧しい人々であった。世間はそのような人々を重んじない。どうかした宗教は、金持ちが信者であるといって誇り、社会的有名人が来ると言って得意になっている。愚かなことである。神のなされたことは、この世の標準とは違っていることを知らなければならない。28節を見て下さい。この世の賢者・富者・権力者はかえってはずかせめられる結果となる。教会の発展した全歴史は、実に、無学者が学者に、卑しい人々が貴い人々に、打ち勝ってきた勝利の歴史である。ついに、ローマの皇帝も、大工の子イエス・キリストの前に、王冠を脱ぎすててひざをかがめたではないか。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。ここに救いの内容が全部書いてあるといっていい。人が何と言おうと、信じる者にとってキリストは「わたしたちの知恵である」そこに人生の根本の解決がある。イエス・キリストに頼る人(聖霊の力を受けた人)の知恵こそ、この世の哲学者の知識も遙かに及ばない知恵である。その知恵の中には、第1に「義」がある。「義」の内容は罪のゆるしである。私達は元来不義(罪)なる者で、神の御前に立ち得ざる者であった。しかるに、キリストは十字架においた、わたしたちに代わり、神のみ前に罪の値(死)を払われた。このようにして、

神はキリストにおいて自分の義を発見することが出来る。だから、わたしたちは自らに何らの義(いさおも力も)、なくて、唯信ずるだけで、義とされ(義と認められ)て、神の前に立ち得るものとされているのである。第2には、「聖」である。義とされた者は、消極的に、自分にあった罪を赦されただけではない。積極的に、自分になかった義をおわされる。このようにして、恵みの中に成長し、ますます神を喜ばせ、善きわざに励み、神に奉仕してゆく力を与えられる。これが聖められることの意味である、第3には「あがない」である。これは唯罪よりのあがないだけでなく、悪魔(罪の原因)と永遠の死(罪の結果)からの全き救いである。それは「誇るものは主を誇れ」と書いているとおりである。人間が自分の知恵を信じ、自分の力を頼って満足している処に、滅びの道がある。しかし愚かと見える福音の中に、神の知恵があり、そこに救いがある。そして、それは、ただ神の恵みによってのみ与えられる。だから人はとるに足りない自分の知識を誇り、自分の力を誇ってはならない。けれども、信仰による救いを体験している者は、心から主を誇りたくなるであろう。いや、誇らずにはおられないのであります。わたしに何の誇るものはない、栄光は主にのみあれ、ここの引用句はエレミヤ9・23からきています。p1194を見て下さい。

結び

もう1度1コリ1・26~30節をみてください。マタイ11・25~30節をみてください。p20~21。ここ言われている「知恵」とは人間に隠されている神の救いの計画に関する神の知恵であって、その知恵を実現した方がイエス・キリストであった(ローマ11・33,コロサイ2・3)。パウロはこの知恵を説明するために「義」「聖め」「贖い」の3つの言葉を出しています。パウロはコリントの信徒に向かって、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分の体を持って、神の栄光を現わしなさい」(6・20)と勧めています。それゆえキリスト者は社会的には自由人であり、同時に「キリストの属する奴隷」(7・22)なのであります。

私達にとってキリストがなんであるかをパウロは4つに分けている。1・キリストに従うときにのみ、私達は人生の道を真っすぐ歩み、キリストに聞き従う時にのみ、われわれは真理の声を聞く。彼こそはまさに人生の達人であります。2・キリストは義である。神との正しい関係を意味している。神が我々のためになさって下さったみわざのゆえにキリストを通してはじめて達成することの関係である。3・キリストは聖である。キリストの臨在の中にあってのみ、人生はあるべき姿の人生たりうるのであります。4・キリストはあがないである。イエス・キリストは人を、過去の罪から、現在の無力から、そしてまた将来の恐怖から、救い出すことのできるお方である。

「神の言葉は力がある」2021・1・17説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント1・18~25節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの所を資格と体験。教会内の分争。神の知恵と力である十字架。そして1~3挨拶と祝祷。4~7コリント信者の霊の賜物のための感謝。8~9彼らの将来に関するパウロの確信。10~13分争に関する訓戒。14~17パウロの使命。18~25神の力また知恵であるキリストと、その福音のあかしー愚かに見える十字架。26~29弱く見える信者。30~31私達のすべてであられるイエス・キリスト。以上のように分解しています。

コリントはギリシャの一都市である。ギリシャは当時の世界における文化の中心地であり、そこの人々は知識を重んじる余り、ナザレのイエスの宗教を浅薄この上ないものとして軽蔑していた。しかしこの世の知恵で神の奥義を理解することが出来ない。(神はこの世の知恵を、愚かにされ)(20)、知恵を頼む者が神を知ることが出来ないようにされる(21)。ただ知恵を求める者には、十字架による救いの道は愚かなものであるが、ここにこそ神の奥義がある。(22-24)。今も、牧師や伝道者の中には、イエスの人格ヤ教訓は説くが十字架のことはなるべく説かないという人がいる。しかし、人々が嫌おうが嫌うまいが、馬鹿にしようがすまいが、十字架こそは神の力である。(18)。これが福音である。(十字架につけられたキリストを宣べ伝える)(23)ところにのみ神の力は表れる。十字架こそ私達の誇りでなければならない。(ガラ6・14)。p351.神の奥義はとうていこの世の知恵で理解することが出来ない。この世の知恵は神の前には愚かなものであり、神なしの哲学や科学では神の奥義はわからない(19,20)。学問も地位もない者であっても、救いの体験を握る時、世の学問や地位が与えることの出来ない幸福を受ける。

一コリ18~25節を見て下さい。パウロは前節で、知恵の言葉に頼らず、ひたすら十字架の福音を宣べ伝えると言ったが、それは何故であるか。その理由をここで述べています。18節を見て下さい。「十字架の言葉」は知識をてらう人々には「愚か」に見える。イザヤ53・2p1149。現にアテネの人々はパウロの証言を聞いて笑ったのだ(使17・32)

 p249しかしそれは「滅び行く者に」とってそう見えるのであって、「救いにあずかるわたしたちには」にはまさしく「神の力」なのであります。その力は人の力ではない。肉の力ではない。聖霊の力であります。生ける神の力であります。不思議な創造の力であります。人を罪から救って一変させる力であります。そこに神の言葉の力があります。神を信ずる者は、その力の事実を体験しています。だから世の中の批判に作用されず、確信は動かない。また感謝もつきない。救いに預かった確信のある人はいつも喜んでオリ、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが出来ます。そしてこの素晴らしいイエス・キリストの福音を1人でも多くの人々に伝えずにはおられないのであります。イザヤ29・14節p1105

人間の知恵で救われるものでないことが旧約聖書イザヤ書に預言してます。知識を誇らず、純粋に神を信ずる者が祝福されることは、今も昔も同じことであります。(マタイ11・25~30)p20を見て下さい。

結び

もう1度1コリ18~25節を見て下さい。イエス・キリストと十字架の事実をありのままを人々に提供する。それを素直な心で信ずるならば、そこに救いがあります。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。現代社会においても、人はユダヤ人型か、さもなくばギリシャ人型である。前者は宗教に何かしるし、すなわち、目に見える御利益がなければ信ずるに足りないという。後者は自分の理性を最高の位置において、この審判に合格するものでなければ、、正しい信ずるに足る宗教ではないと主張する。しかし、パウロはわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。救いはイエス・キリスト以外にはないのである。使3・1~10p217とp219使4・12節を見て下さい。生まれつき足の不自由な男の癒やしの記事です。キリストの弟子使徒ペテロとヨハネの2人のイエス様によって癒やされた記事です。感動的記事です。

さてもう1度1コリ1・23~25節を見て下さい。召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのであります。かって無能と見えたキリストが、今は神の力なのであります。矛盾であり、愚かであると考えられた福音が、今ヤ人生の根本を解決してくれる最も深奥な「神の知恵」となっています。福音は「神の知恵」であり、「神の力」であります。私達は今年この町には主の民が大勢いるとの確信をもって福音宣教のために励みましょう。私達の罪のために十字架にかかって死んで下さり3日目に復活されて今も目には見えませんが聖霊様と姿で私達といつも一緒のおられるイエス・キリスト様と過ごしましょう。ハレルヤ

2021/1/17 週報メッセージ

コロナウイルス感染症に思う                                              朝位 真士 

  昨年の1月よりコロナウイルス感染症が日本ならびに全世界に流行して、現在もなかなか終息の見通しが立ちません。そのような現実の中で、私はユーチューブである礼拝のメッセージを聞き、T牧師が語っておられたことに感動しましたので、その恵みを桜ヶ丘教会の皆様と分かち合いたいと思います。

 まず先生は「コロナの本質は何か」について3つの観点から述べておられました。①生命の恐怖。死ぬのではないかという不安です。病気で死ぬのではないかという恐怖です。②絶望的な恐怖。コロナウイルス感染症流行の最中で、自分も感染するかもしれないという不安の中にあります。それに対して、イエス様が語られたマタイ6章25~34節を引用されました。「思い悩むな。」「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神様は最善以下をなさらない御方であります。すべてを神様に委ねて、任せて生きること、神様に対する信仰を強く持つことが大切です。③社会的な恐怖。コロナに感染すると他者がどう思うかという不安です。しかし、私は先生が言われたことを印象強く感じました。まず祈り続けること、また信仰を持って証しをすること。周囲がどう思うか、皆がどう思うかより、神様の最善を信じて生きることです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8・28)私の愛唱聖句です。  この2021年、明日何が起こるか誰も知りませんが、全知全能の創造主なる神、御子イエス・キリスト様、聖霊なる三位一体の神は、私たちのすべてを御存知です。この方に全幅の信頼を持って、この年も歩んでまいりましょう。主に感謝!!

「主にある一致」2021・1・10説教要

朝位 真士

今日は1コリント1・10~17節を通して聖書を学んで行きます。この1・10~13節は分争に関する訓戒。14~17節パウロの使命。とあります。キリストの教会の進歩発達は、信者の一致結合によってなされる。その進歩衰退は信者の分裂分争に原因する。コリントの信者は恵まれた信者であったが、不幸にもその内部に分裂があり、信者は互いに党派をつくり、パウロ党、アポロ党、ペテロ党などの派閥があり、一方にはまたそのいずれにも属さず、唯キリストに属するだけの者とがあり、互いに反目していた。

 では1・10~17節を見て下さい。ここでは教会内の分争が語られています。人が集まるところ、集団の形成されたところに必ず生まれるのが分争であり、派閥である人は分争を好み、分争を起こすことを喜び、個人的な紛争から国際間の紛争に至るまで、その原因のほとんどは両者の利害関係による自己主張である。これは昔も今も変わらない。パウロが先ず第1に取り上げた問題は教会内の紛争である。しかし彼の態度はきわめて穏やかであった。10節を見て下さい。パウロはコリントのキリスト者に「命じる」のではなく、「お願い」しています。パウロはキリストに代わってお願いしているのであります。パウロが願った内容は、「どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心同じ判断を完全に保つてください」ということであった。パウロは、彼の耳に入った情報があり、コリント教会には4つの党派の対立があって、それぞれのリイダーの名のもとに自分を主張し、他を排斥していることを知った。そこで彼はコリントの信徒に呼びかけて言う。11~12節を見て下さい。この分争は、信仰上の教えについての堂々たる論争ではなく、偏狭な自己中心主義から出た者であった。更にこの分争の原因がどのようなものであっても、教会の一致を乱すのが悪魔の仕業であることは間違いありません。パウロはこの状態を重要視し、主にあって彼らを叱責しています。13節を見て下さい。教会の分争は、その分争の主をキリストの代わりに擁立することである。17節を見て下さい。パウロは自分の使命を語る。自分の使命は福音の種蒔きであって刈り入れでないこということなのであります。コリント教会の分争の原因となったのは嫉妬心であり、競争心であった。コリント教会の分争が教会に大きく打撃を与えたのは、本来自己犠牲に生きるべき教会が自己主張に生きていたからであります。もう1度17節を見て下さい。パウロはひたむきに福音を宣べ伝えるために召された。しかも『知恵の言葉を用いずに』宣べ伝える為と言っています。「知恵の言葉」とは、ギリシャ的雄弁術であり、哲学的衣をつけての表現である。もともと福音は事実である。たんなる思弁ではない。哲学でも理論でもない。十字架につけられたイエス・キリストをそのまま語れば良いのであります。パウロは率直に、福音の事実をありのまま人々の前に提示しようとしたのであります。

結び

もう1度1・10~17節を見て下さい。

パウロは、キリストの愛をもって、コリント人に分裂・不一致がいかに間違ったことであるかを知らせるためにお互いは兄弟であり、したがって美しい兄弟愛の中に生きるべきだと言っています。パウロはコリント教会に4つの分派を挙げています。1・パウロにつく。

2・アポロにつく使徒18・24節に簡単な性格描写がなされています。彼はアレキサンドリヤ生まれのユダヤ人で、雄弁家であり、聖書に精通していた。

3・ケパにつく彼はペテロのユダヤ人名である。ユダヤの律法を守るべきことを人に教えようとしたのだ。4・キリストにつく。―キリストの十字架を最も単純名言葉で人々の前に示すこと。これがパウロの目的でありました。もう1度1・10節を見て下さい。フィリピ22~3節p362お祈りします。アーメン。

2021/1/10 週報メッセージ

最近の出来事に想う

 朝位 真士 

  2021年の元旦礼拝、第1聖日礼拝も終わり、第2回の礼拝を迎えるにあたって、昨年起こった二人の方の召天に思いをめぐらせてみたいと思います。

 一人は狛江教会の担任教師として御用されたH先生です。師は長年婦人牧師として、また聖書学校教師、女子少年院教誨師・篤志面接委員として御用されました。昨年12月20日午前11時10分、天に凱旋されました。90歳でした。私共のホ群の教師、教団の教師として大変良い働きをされ、特に少年院においては長年少女達の更生教育のためにボランティアとして授業や面接をされました。中にはクリスチャンになった者もおり、そのお母さんは献身されて牧師となり、神学校の教師をしておられるということを伺いました。私も同じ少年院で奉仕をさせていただいていますが、いつもニコニコとされ、物事を前向きに考えて行動される若々しい先生でした。師は生前「私は12月20日のクリスマス礼拝の時間に天に帰るの」とおっしゃっていたそうですが、本当にそのように凱旋されました。

 もう一人は私の実妹です。4年前に肺がんの末期(ステージ4)と医師に宣告されていました。私はその時、九州の妹の病院を訪問し、ノンクリスチャンでしたが詩編23編を引用して天国への備えのメッセージをし、祈って笑顔で別れました。下の妹より、12月

21日午前7時頃に召天したという報告を受けました。彼女は、家の貧しさのために学校に行けなくて、若い頃から自立し、結婚して一人息子を育てました。30代で夫を亡くし、母子家庭で一生懸命子供を育てました。今息子はある会社の社長として親孝行をしています。最高の治療を施しましたが病気には勝てず、76歳の生涯を終えました。

 お二方のご遺族の上に、神様の慰めと祝福を心よりお祈りいたします。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」(フィリピ3・20)アーメン。

「この町には主の民が大勢いる」2021・1・3説教要旨

朝位真士

新年明けましておめでとう御座います。2021年の年間標語説教を祈っていましたら、使

徒18章1~11節が与えられました。特に18・9~11節が強く与えられました。皆さん御一諸に読みましょう。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは1年6ヶ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。このところを中心に御言葉を取り次いでまいります。2020年はコロナウイルス感染症流行の為礼拝の様式が変わり、毎週礼拝に来られておられた方々がこのウイルス感染症の為礼拝や諸集会に出席されることが出来なくなりました。教会も諸集会も中止せざるを得ない状態になり、礼拝に来られる方も、三密をさけ、マスクを着け、換気をして、大変不自由な思いをされておられると思います。まだ、このコロナウイルス感染症流行の終息を見ることが出来ません。しかし、教会も Youtube(ユーチーウブ)オンライン配信を礼拝説教では配信しています。皆さん方も慣れない礼拝形式で毎回お疲れ様です。早くコロナウイルス感染症が終息されることを祈っています。皆様にもお願い致します。

さて今日の聖書使徒18・1~11節を見てください。パウロは第二回伝道旅行にコリントに行った。コリントはギリシャの商業貿易の盛んな海港であった。小アジアの諸要港と、イタリヤとを結ぶ地形にあるため、旅行者の往来が激しく、従って、市中は世界的色彩が濃く,遊蕩気分がみなぎつていた。町と、この地の教会の状況については、パウロが、コリント教会に送った2つの手紙から、詳しく知ることが出来ます。パウロは、コリントに着くと2人の友人と親しくなり、彼らの家に滞在した。アキラというポント生まれのユダヤ人と、その妻プリスキラである。2人ともロ―マに住み、ロ―マ名を用いていた。プリスキラは、教養の高いロ―マ婦人であったといわれています。職業は天幕造りで、パウロと同業者であったことが、親交の機会となった。2人は、パウロのためには、「自分の首をさえ差し出してくれる」(ロ―マ16・4)ほどの信仰の友であって、パウロに伴ってエペソに行き、エペソ教会建設の功労者となった(18・26)。パウロの伝道が、最初から自給の精神に立っていたことは、コリント人への2つの手紙の内容によくあらわされています。コリントにはユダヤ人の多く、会堂があって、パウロは必ず安息日には、そこに集まるユダヤ人やギリシャ人の説得に勤めていた。その頃、マヶド二ヤ県のベレヤに残っていたシラスとテモテがパウロの許へ帰って来た。彼らはマヶド二ヤの教会の報告と、彼らからの贈り物を携えて来たことが、2コリ11・9に記されています。パウロの天幕造りの手仕事も、2人がくるまでであった。時間1杯を伝道のためにささげて、イエスがキリストであることを、ユダヤ人に力強くあかしした。その結果は、ユダヤ人の反感と、罵声を浴びただけであった。エゼキエル33・4の言葉を引用して、パウロはユダヤ人の会堂を去って、異邦人ティティオユストの家に場所を移した。ユストは、ローマ人でユダヤ教への熱心な改宗者であった。会堂長クリスポは、パウロ自ら洗礼を施した2~3人のうちの1人であつた。(1・コリ1・14~16)

地位のあるクリスポ1家の受洗は、周囲の人々が福音を聞いて悔い改め、入信する大きな力となった。伝道の成功に反面には、また「敵対する者も多い」とパウロは語っています。(1コリ16・9)。パウロの戦いには苦難と弱さがつきまとうた。そのような時、パウロはいつも聖霊の導きを幻のうちに受けて、励まされ、強められたのである。(使徒16・10,23・11,27・24)。それは迫害から守られるだけでなく、10「この町には、わたしの民が大勢いる」との、教会の発展を約束された御言葉を、受けたのであります。パウロのコリント滞在期間は1年6ヶ月となった。この期間に、彼はケンクリヤ、アカヤ全国にわたって伝道し、コリント教会を築き、また2つのテサロ二ケ人への手紙を書いた。この間の伝道の費用の一部が、マケド二ヤ教会からの援助によって補われた(フィリピ4・15)ことも忘れてはならない。

結び

もう1度使徒18・1~11節を見てください。特に18・9~11節を見てください。

ここでは迫られた熱心。神の激励、模範的信者。1~4始めアキラとプリスキラ夫婦と共に働きながら伝道する。5~11節伝道に専念する。コリントにおける伝道の中で、主イエスはパウロに幻の中で彼に現れ、(恐れるな。語り続けよ、黙っているな)と命じ、また主が共におられるから安全であると告げて、(この町には、わたしの民が大ぜいいる)と、救われる魂が多くあることを示して、彼を励まされた(9~10)。これは、その時ユダヤ人たちの反抗(6)によって、いくぶん心が下向きになっていたであろうパウロに対する力強い激励であった。伝道は人の生来の元気や肉の熱心ではできない。天からの火も、絶えず油を注がれ、心掻き立てる必要があります。エリヤがカルメル山上での大いなる栄光を拝した後、敵の脅威に恐れをなした時も、神は彼に「バアルにひざをかがめなかった7千人を、わたしのために残しておいた」と告げて、励まされた(ロ―マ11・3~4)私たちもまた、どこに行っても、反対ばかりされても、なお神が自分に与えて下さる魂のあることを信じ、また全能全愛の神が常に共におられることを信じ、励まされて証をしたいと思います。

今年私たちの身内や友人知己に方々が救われるように祈ってまいりましょう。ハレルヤ!

2021/1/3 週報メッセージ

今年与えられた聖句とその導き

朝位 真士 

  今年は使徒18章1~11節の御言葉が与えられました。特に「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」という御言葉に、神様の聖なる幻とヴィジョンが与えられました。桜ヶ丘教会が宣教開始九八年目を迎える新しい年に、困難な地である東京都杉並区の区域で、神様は私たちにパウロのように宣教のヴィジョンと信仰を与えられたと信じるものです。もちろんこの業は神様の業ですが、私共一人ひとりが主の手足となって働かなければならないと思います。

 昨年からコロナウイルス・パンデミックの状況で、世相が大変不安な状況にあります。政治、経済、教育、また私共一人ひとりの生活の中に不安の要素が入ってきています。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28~30)とおっしゃっています。今、人々は人生の重荷に押しつぶされて悩み,苦しみ、精神的苦悩の中にいると、私共は1994年に赴任して26年間感じてまいりました。今こそ、主イエス・キリストの福音を大胆に宣べ伝える時ではないでしょうか。

 私は信仰を持って60年目になりますが、本当に若い時に単純に主イエス様を信じて、恵みをいただいていますことを、神様と皆様に深く感謝申し上げたいと思います。この

2021年、どんなことが起こっても「万事を益としたもう神」(ローマ8・28)を信じて、桜ヶ丘教会の関係者の皆様と共に歩んでまいりましょう。

2021/1/1  週報メッセージ

2021年を迎えて

朝位 真士 

  新年あけましておめでとうございます。御言葉を与えてくださいと祈っていましたら、使徒18章1~11節が与えられました。特に9~10節、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いる」という御言葉が与えられて、今年も昨年に引き続いて「祈りと宣教」を目標として、密室で祈り、公的集会で祈り、時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えなければならないと示されています。

 昨年はコロナウイルス感染症流行のために礼拝が制限され、年輩者や病気に罹っておられる方の出席を自粛していただきました。私自身も高齢で病気に罹患していますが、神様と教会員の方々の御理解をいただいて主の御用をさせていただいています。私は神様から「使命がある限り生かされる」という信仰が与えられています。もちろん教会員の皆様方、各々の信仰の決断において行動をおとりくださって結構です。

 昨年は感謝なことに3人の方が受洗の恵みに導かれました。これはコロナ禍における神の恵みの奇跡だと思います。皆様方の強い信仰と行動によって3人の方が救いに入れられたと感謝しています。今年は神様が私共の教会にどのような恵みの業をなされるのか、期待を持って待ち望みたいと思います。

 私共の教会は開拓されて今年で98年目に入ります。1923年6月1日、初代牧師である板井康裕先生が渋谷で開拓され、1975年、西海静雄先生・満希子先生御夫妻の時にパールハイツ桜上水というマンションに会堂が与えられ、その後1997年12月17日、現在地に土地と建物が与えられて今日まで主が守って導いてくださいましたことに感謝いたします。

1923年6月1日創立