2021/4/11 週報メッセージ

フィリピの信徒への手紙を読んで

朝位 真士 

  フィリピの教会は、パウロの第2回伝道旅行の結果生まれたヨーロッパにおける最初の教会です。紀元51~53年の頃と思われます。その設立事情は、使徒16章6~15節に記録されています。創立会員は、テアテラ市の紫布の商人ルデヤという婦人と、占いの霊につかれていた女奴隷、それからフィリピの獄舎の看守とその家族でした。これらのキリスト者が教会形成の礎石となったわけです。フィリピの教会には、その後アジア人、ギリシャ人、ローマ人などのいろいろな民族、またいろいろな国籍をもった人々、上流階級、中流・下層階級からの人々が加わって、教会が形成され成長していったと考えられます。パウロの宣教によって教会の関係者は愛と信頼に固く結ばれました。彼の生んだ教会には、深く親しい交わりが見られています。4章10節、15節、16節から、フィリピの教会の信徒のパウロに対する愛の心と愛の贈り物が読み取れます。

 私の好きな聖句は、フィリピ4章11~13節「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」短い四章の中に、「喜ぶ」「喜びなさい」等が十数回記録されています。喜びの少ない不安と恐怖のこの時代に、キリストの御言に耳を傾けましょう。

「イースター(復活節)の喜び」2021・4・4説教要旨

朝位真士

2021度のイースター(復活節)礼拝を迎えることが出来て感謝です。キリストの復活は、奇跡と呼ばれる『不思議な御業』とちがい、キリストの神性と人性に関する秘儀である。それゆえ、それは、人間の理性が討議をする問題ではなく、人がそれを信仰する事柄である。復活についてはただ1つの説教がある。それは、『信ぜよ』ということである。復活について、パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり」第1コリ15・17)と語っている。それゆえ、ルターが語るように、「キリストの復活を否定する者は、同時に福音の全体と、キリストについて語られる全体を否定する」ということになる。キリストの復活は、キリスト者の信仰の中に、巨大な文字で書き込まれていなければならない。キリスト教義学は、復活を単独の出来事としてではなく、キリスト教の全体にかかわる事柄として重視している。アルトハウスは、これについて、「復活の証言は、単に復活としてのみではなく、他の事柄とのかかわりにおいて力をもっている」と語っている。これは終末という者が、単に、終わりの事柄として孤立して考えられるのではなく、あらゆる(現在)にかかわるものとしてうけとめられるのと同様である。

今日のマタイ28・1~10節を見て下さい。平行記事マコ16・1~8、ルカ24・1~12、ヨハネ20・1~10に記されています。ここでは復活された主イエス様が記されています。復活への信仰と歓喜が内村鑑三の詩「天地を揺らぐラッパの声に更生るらむ春の曙」中に溢れでている。復活は大きな驚きをともなう喜びへの爆発である。復活は決して『終わり』の事柄ではない。ここから、新しい希望の芽が生まれるのである。ヴェルナー・エラートは、「キリストの復活は新しいエオン(神によってつくり与えられる人間の情況とその時代)の開始である」と述べているが復活をまことによく表現した言葉である。今日のところでは安息日が終わってマグダラのマリヤとほかのマリヤが最初に復活の福音を耳にし、最初に復活の福音の主を拝することの出来た者は、主の十字架を目撃し、主の墓に向かって絶望してすわっていた女たちである。2~3節を見て下さい。この有様をみた見張りのローマ兵たちは恐怖の余り震えあがった。5節『恐れることはない』この言葉は4節、5節、8節、10節に語られています。この言葉はなんと慈愛に満ちた深い言葉であろうか。この言葉は、主の使いは、主の御誕生日に野辺の羊飼いたちにも語っている。(ルカ2・8~10節)もう1度マタイ28・5~7節を見て下さい。この単純な言葉は、全世界の人間の情況を変えることが出来るほどの巨大な出来事を意味している。イエス様の3日目の黄泉がえりについては、ペテロのキリスト告白以来(マタイ16・21)、何回も弟子たちに語られている。もう1度8節を見て下さい。主イエスの墓の前に座った時の心の暗さと、今の喜びは何と違うことであろう。マリヤたちは、主の使いの言葉を、いわば「見ないで信じた」のである。9節~10節を見て下さい。イエスは彼女たちに出会って、この信仰ある婦人たちは、主イエスの復活を初めて聞いたばかりか、目を持って復活の主イエスを拝する最初の人となった。み足を抱いて拝したことの中には、当時のラビに対する尊敬の心を持つ以上の愛の感動があった。

結び

 もう1度マタイ28・1~10節を見て下さい。聖書ほど「驚き」について語っている書物は、他にありません。その「驚き」には、いつも「喜び」が伴っていました。聖書の語る「驚き」の中で「最大の驚き」は何でしょうか。それはイースターの出来事です。わたしたちの人生において『恐れる要素』は多くありますが、今日の復活の記事を通して『恐れることはない』といわれた。これは2021年度最初のメツセージにふさわしい説教ではないでしょうか。この年教会においても個々人においても社会においても恐れる出来事を経験されると思いますが『恐れることはない』と主イエスはいつも共にいてくださり語つてくださいます。ハレルヤ!

       

2021/4/4 週報メッセージ

 イースター礼拝を迎えるにあたって

朝位 真士 

  2月17日(水)より4月4日(日)までの四旬節(レント、受難節)にキリストの受難と復活を学ぶ時期を過ごせたことを感謝します。主の復活を祝うキリスト教最大のお祭りがイースターですが、春分の後の最初の満月の次に来る日曜日ということになっています。当時のユダヤの暦が太陰暦に基づいていたからです。このため私たちの使用しているグレゴリオ暦では、毎年日付が変わってしまいます。教会では主の復活を記念して早天野外礼拝を行うところが多くあります。また、死んだような殻を破って新しい生命が出てくることの連想から、彩色された卵が配られます。キリストの新しい命を象徴しています。

 今はコロナ禍の時代です。3密を避け、手指の消毒をし、マスクをして生活しなくてはなりません。ある牧師が「3密(密集、密閉、密接)を避けなければならないが、イエス・キリストには3満があります」と言いました。クリスマスによく読まれるヨハネ1章14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあります。①栄光、②恵み、③真理の3つの満があります。つまり、イエス・キリストは栄光、恵み、真理に満ちておられました。このコロナ禍の時、3満に充足していただきましょう。イースターの時、大いにキリストの3満に充たしていただきましょう。

「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

「キリストに結ばれた生き方」2021・3・28説教要旨

 今日は1コリント4・14~21節を通して聖書学んでいきましょう。この4章は主に忠実であるべきこと。真のさばき。言葉よりも力が語られています。1~2神の奥義である管理者であるパウロ。3~5主からだけ裁かれる身分。6御言葉を超えて人を評価すべきではない。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して使徒の謙遜と忍耐の模範。14~17彼らの父としての訓戒。18~21彼らの使徒としての予告。が語られています。

1コリント4・14~21節を見て下さい。ここでの結論は20節に語られています。神の国の特徴は(言葉ではなく、力である)口で偉そうな事を言って人をけなしても、その生活と奉仕にどれ程の力があるかが問題であります。真に力ある生活を送り、パウロのようにいかなる苦難屈辱をも主イエス・キリストのために喜んで受ける人こそ、真に勇者であります。

コリント人の不遜な態度に対して、憤慨したパウロは、鋭い言葉でコリント人を責めた。しかし、パウロの真の目的は、彼らを責めて辱める為ではありませんでした。むしろ、コリント教会の生みの親であるパウロは、父として、愛する子供らを諭したのであります。第1テサロ二ケ2・11~12p375「あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた1人1人に呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。」といっていますが、同じ気持ちでありましょう。ここでパウロは、急にやさしい口調になっています。15節に「養育係」とありますが、子供の学習を助けたり、学校への往復を守ったりするガラテヤ3・24~25に出て来ます。年配の信頼できる奴隷で、行儀を教えたり、する役目をもっています。1人の子供に多くの養育係がいても父親は1人だけであります。パウロはコリント人にとってたった1人の父親なのであります。福音を説き聞かせ、イエス・キリストにおいて彼らを産んだのはパウロであった。これは養育係では代行出来ない者でありました。ここでパウロは実に驚くべきことを言っています。16節をみてください。キリストに倣って忠実に生きているパウロを見習うのが最も手っ取り早く妥当な方法だったわけです。パウロは自分がキリストに倣っているという自信を持っていました。大変素晴らしい事です。私達は如何でしょうか。フィリップ2・19節以下p363第一テサ3・2p376を見て下さい。テモテは、パウロの信任の最も厚かった弟子であり、職務に忠実な青年伝道者でありました。彼は「キリストにおけるわたしの生活の仕方」つまりパウロが実践しているありのままの生活を思い起こさせてくれるであろうという。パウロの生活は、キリストの福音からにじみ出たものでありました。パウロが、テモテを通して、思いださせようとした生活は、キリストにある者すべてに実践されなければならない生活であります。

結び

もう1度1コリント4・14-21節を見て下さい。ここで大事な事は4・17節「すべての教会がわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう」と4・20節「神の国は言葉ではなく、力にあるのですから」最後の「神の国は言葉ではなく、力である」これは偉大な金言であります。神の国は、それがどんなに巧みであり、美しいものであっても、単なる言葉ではできません。ただ福音が持っている聖霊の力によってのみ建てられます。この力のみが、人の心に信仰を起こし、人を慰め、人を励ますことが出来ます。この力を抜きにした言葉は空しい言葉であります。そしてコリント人が語っていた言葉はまさにそれに類するものでしたそしてこのパウロは、彼らに「むち」を持って行くか、「愛と優しい心」でいくか彼ら自身に選択させています。(21)このことばの奥には、彼らの反省を促すパウロの深い愛が込められています。

2020/3/28週報メッセージ

2020年度最後の礼拝にあたって

朝位 真士 

 教会の年度は4月から翌年3月までとなっている。昨年3月の役員会で感染症対策について話し合った。礼拝は休まず粛々と行う。法令に基づいての規制には従い、牧師は礼拝堂にて、各々は家庭など自らの場で礼拝を行う。新型コロナウイルス感染症流行が続いている中で、手洗い、マスク、手指の消毒をして礼拝を守り、しばらくは例会(婦人会、ホープ会、青年会、エリム会、ふれあい会、夕拝、昼食)は中止する。その時、私に御言葉が与えられた。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)神様は最善以下のことはなさらない御方である。

 教会の礼拝形式として、U姉にユーチューブ配信をしていただくようになり、礼拝に出席できない方も自宅で礼拝を守ることができるようになった。コロナ禍における神様のお導きだと感謝している。U姉のためにお祈りしてほしい。そのような中で、3人の方々が受洗された。神様は試練を通してこのようなお恵みを与えてくださった。O夫妻は5月31日のペンテコステ礼拝に受洗された。高齢の方々だが、若い頃からキリスト教について大変多くの知識をお持ちの方である。コロナウイルス感染防止策を考えながら洗礼を授けさせていただいた。健康が許される限り毎回礼拝にご夫妻で出席されておられる。Y姉は12月20日のクリスマス礼拝で洗礼式をさせていただいた。ベアンテ・ボーマン先生御夫妻の御用の日であった。Y姉は女優さんで、2月に結婚されて他教会へ転出された。このように困難の1年の中にも神様の祝福が与えられた。ハレルヤ!!

「キリストの福音を語る」2021・3・21説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント4・6~13節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの4章全体を主の忠実であるべき事。真の裁き、言葉よりも力と語っています。そして、今日の6節は聖言を超えて人を評価すべきでないこと。7~8高慢なコリント人に対する訓戒。9~13風刺的に彼らと比較して述べた使徒の謙遜と忍耐の模範を語っています。

 1コリント4・6~13節を見て下さい。この4章の1~21節までは神の管理人としてパウロは、自分のことをさきに建築士として、コリント教会の関係を説明しました。ここで、さらに、自分を神の管理人としてコリントの人々に語っています。コリントの人たちは、自らの知恵や知識を誇って、傲慢不遜であります。人の才能も能力も、全て神から与えられたものにほかならないのであります。もし誇るならば、神こそ誇るべきであります。私達は、そうした賜物にゆえに、いよいよ謙遜となって、感謝するべきであります。彼らは自分で、自分たちは、富み栄えていると思って、誇りの座に安住している。そして、伝道者を見下してかれこれと詮議だてています。10節から13節を見て下さい。伝道者もまた衆人環視の中で、悪戦苦闘しています。そしてまさに死に瀕しています。それなのに、信徒はいっこうにこれを助け、これを救い出そうとはしない。コリント教会の現状はそうであったのであります。パウロは、元々博学多識の人でありました(使徒6・24)。しかし、愚かに見える福音のために(12・23)、あえて愚かになった。単純卒直にキリストの十字架の福音を語るためであった。しかしコリント人は、福音を哲学と雄弁によらせようとした。彼らは、キリストにあっても、なお賢い者であった。この「賢い者」という字には、利口者、ぬかりのない知恵者(この世とうまく手を握る)という意味であります。彼らは自信家で、自負心に強く、この世に対しても自己心が強く自分の地位を誇示していた。パウロは、この世にあって何らの名誉もなかった。いや、かえって侮られ、罵られることが常であった。11節をもう1度見て下さい。第2コリント11章には詳細に記されています。ここに第1に生活の苦しさである。衣に窮し、食に困り、しかも定まった住居もなかった。第2に、自分の手でもってする働きの苦労であった。彼はテントをつくる職を身につけていた。第3に種々の迫害である。しかも、その迫害の中で、彼は迫害する者を祝福した。すなわち、はずかしめられても祝福し、迫害されても耐え忍び、ののしられても優しい言葉をかけた。こうして忍従の生活は、排斥を受ける1つの原因となった、この世においてはちりのように、人間のくずのようにあしらわれてきたというのである。こうした鋭くまた哀調を帯びたパウロの文字に接すると、私達は、自分の胸をえぐられる思がします。誠に教会における問題は深刻であります。

結び

もう1度1コリント4・6~13節を見て下さい。

元来信仰は人を謙虚にするはずであります。しかし現実はなかなか厳しく、特に信仰に燃えている時ほど高慢になる危険があります。信仰が自分の自信と化し、自己確信になり、やがて自尊心となって高ぶりに変わるのであります。それは多くの場合他人への裁きとなって現れます。特に多いのは牧師や役員に対する非難であります。牧師や役員は理想的な人物であるべきだというだという期待も手伝って、牧師、役員の1挙1動および一言一句が教会員の裁きに対象にされてしまします。

今日のテーマは「キリストの福音を語る」です。福音のメッセージを語るには2つの方法があると思います。1つは聖書を通してイエス・キリストの十字架と復活、この聖書のメツセージは教会に来られた方は誰でも語れると思います。もう1つはその方の生き様を通して福音を語る。これがある意味で難しい事だと思います。俗にいう教会の顔と、教会を出てからの顔。これが一番難しい事です。何故クリスチャンが少ないかは、勿論いろいろな原因があると思いますが、教会顔と世間顔の極端な区別です。わたしは信仰生活60年になりますがいろいろなクリスチャンの方々や牧師・信徒の方々を見てきました。私は決して模範的牧師、クリスチャンではありません。欠けのあるものですが、もし感謝出来ることがあればそれは毎日聖書を読み、祈り、黙想し、誰かにキリストの福音をなるべくかたるようにしています。この2021年使徒181~11節が与えられて特に「この町には私の民が大勢いる」という御言葉を信じて家族友人知己の方々にイエス・キリストの福音を証しようではありませんか。特にコロナウイルス流行のこの時多くの人々が不安、恐れに悩んでいる方にはチャンスだと思います。

2021/3/21 週報メッセージ

最近の私の霊想書を感謝して

朝位 真士 

  最近私は詩編によって大変恵まれています。米田豊師によると、詩編は宗教的な人民であるイスラエルの昔の多くの詩人の作を、神を礼拝する時に音楽に合わせて歌わせる目的で後代のエズラが編集した聖歌集です。最も古い作者は紀元前1500年代のモーセであり、編集者エズラに至る1000年間にわたる作のうち、ダビデのものが最も多く、73編あります。全体を通じて敬神愛国の情緒にあふれ、感謝賛美、ざんげ祈祷で調子づけられています。

 その題目は多種多様で、義人の繁栄、悪人の災禍、人生の無常などを歌った教訓的なもの、神の義、神の愛、神の恵み、神の力、神の栄光などの神の属性や神の律法、神の摂理などを歌った信仰的なもの、罪の悶えの中よりのざんげ、患難の中よりの哀訴、個人および国民の上に下されたあわれみに対する感謝などの祈祷に関するもの、イスラエルの過去を記した歴史的なもの、および救主来臨(初降臨および再臨)の希望、ならびにイスラエルの将来の幸福を歌った預言的なものなどがあります。詩編という標題の原語たるテヒリームは「賛美」を意味しますが、実際には詩編の中には「賛美」と「祈」と「感謝」「歌」等を含んでいて、もし総括的な名称を付けるとするならば、「宗教的詩歌」と称することができます。

 ヘブル語聖書は5巻に区分され、各巻は頌栄をもって終わります。ただし最終の第150編は全体の終わりの頌栄ともなり、また最初の1編は全体の緒言的詩として入れられたものです。第1巻は1~41編。第2巻は42~72編。第3巻は73~89編。第4四巻は90~106編。第5巻は107~150編となり、「イスラエルの神、主はとこしえからとこしえまでほむべきかな。アーメン」が置かれていることをもって証明することができます。

 さあ皆様、詩編を毎日少しずつ読んでみましょう。きっと素晴らしい神様の恵みと宝が隠されていると思います。

2021/3/14 週報メッセージ

最近思っていること

朝位 真士 

 コロナウイルス・パンデミックの状態が2年目に入り、魂が悩んでいる方が大変多くおられます。教会も2020年には礼拝のユーチューブ配信を始めました。礼拝の1週間前に週報を郵送・ポスティングしたり、電話をかけて安否を問い、電話口で神様に祈り合ったりしています。またライン等のSNSで安否を問うたり祈ったりさせていただいています。その点においては感謝ですが、そういう機会を失っておられる方は大変心配しています。1日も早くコロナウイルス・パンデミックが終息することを祈る毎日であります。

 あるカトリックの神父が、このコロナウイルスは短くても3年半は継続すると語っていました。その言葉は思いつきではなく、ヨハネ黙示録でサタンの働きは3年半は継続すると語っているからだと言われました。神学的な解釈はともかくとして、善意に解釈すると、しばらくはコロナウイルス・パンデミックが続くということでしょう。いつコロナウイルスが終息するかはともかくとして、その後の信仰生活はいかがでしょうか。礼拝を自宅で守る習慣が身について、教会に来るのがおっくうになることを心配しています。高齢の方や病気の方など、事情もそれぞれ違います。私自身高齢であり病気に罹患している者として、礼拝や集会に出席できることには限界があるということを感じています。世の終末の近いこの時、私たちは今こそ、主との交わりを少しでも多く持ちたいと思います。

「主は裁かれる」2021・3・14説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント4・1~5節を通して聖書を見ていきましょう。この4章1~12節は教会の在り方そして副題として使徒の使命について述べています。この4章では。先ず使徒とそのあり方を述べ、次の使徒教会について語り、この教会に対する使徒の思いをパウロは述べています。

 1コリ4・1~5節を見て下さい。1節の使徒について語っています。使徒とは1・キリストに仕える者。2・神の秘められた計画の管理者であること。仕える者(ヒュペレータイ)はこの言葉は三段漕ぎ船の最下層の漕ぎ手で「奉仕者」よりも低い僕、そこから広く他者の手下として仕える者を意味しました。彼らはキリストの使命を果たす為の下働き人である。しかし同時に神の奥義の管理者であります。すなわち神の家としての教会を建てる為の監督であり、キリストによって現わされた神の奥義、福音を管理する家令であります。」ゆえに管理人に要求されていることは、何よりも(忠実)であることであります。人のうわさや批判に耳を傾けることなく、ただ神に対して忠実であることこそ神の奥義を管理する教師に要求されている中心的事柄であります。3節彼自身の経験と態度とを語っています。パウロは自分が忠実であることを示しているだけでなく、あらゆる批判に束縛されないことを示しています。つまり彼は教会から批判されようと、法廷で裁かれようと「わたしには最も小さいことです」(少しも問題ありません)」と言う。そしてパウロは自分で自分を裁くこともしないと言う。これは他者の批判や自己批判を一切無視しているというのではありません。4節むしろそれよりももっと決定的・究極的な者にパウロ自身は支配されています。つまり彼を裁くのは主なのです。自分の内なる法廷においていくらやましいことはあったと自覚していても、それで直ちに神の法廷において義とされることはありませんと言っています。5節ですから、主が来られる時までは、先走って何も裁いてはいけませんとパウロは語っています。主の来臨の時まで、主の来臨を目指して生きることがキリスト者の生きかたです。そこに何ものにも支配されないキリスト者の自由があります。主の裁きは1・闇の中に隠されていた秘密を明らみに出す。2・人の計画を明らかにする。3・そのとき各自は神からの称讃が与えられる。神からの刑罰ではなく、称讃を与えられることこそキリスト者の究極の目標であります。

 もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、自分のことを建築士として、

コリント教会との関係を説明しました。ここではさらに、自分を神の管理人として訴えてています。

伝道者は、神の奥義を管理する役目を負わされています。つまり、御言葉に仕えて、福音を宣べ伝え、教会建設に当たらなければならない。この場合管理人に要求されているのは、忠実であることである。これを委託された神の御意志にのみ添うてひたすら委託された事柄を処理しなければならない。それ以上、人気や世間の風評に左右されて、人間的工作をする必要はない。パウロは人の裁きや、人の批評は、気にかける必要はない。そんなことは神の裁きに比べればとるに足りないと言っています。人を本当に裁き得る方は、ただ1人なる神であります。人が自分であれ、他人であれ、裁く裁きは、みな不完全で不徹底である。消して最後的な者ではない。だから、人の裁きに、余り神経質になって、すぐびくつく必要はありません。いずれ、最後の審判に日がきます。だから、お互いは、その日先走って、つまらない裁きをしてはならない。コリント教会の中には、教師をいたずらに批評して裁こうとする傾向があったようです。ややもすると現代の教会においても、自分の尽くすべき責任をはたさず、他を裁いて快しとする者がないとは言えない。悲しいことです。 

結び

もう1度1コリ4・1~5節をみてください。パウロは、全ての人が直面しなければならない3つの裁きについて語っています。1つは他人による裁き。2つは自分に裁き

3つは神による裁き正しい裁きをなさるのは神であります。真に人を裁き得るのは神のみであります。ですから私達は誰も裁いてはならない。正しい裁きをなさるのは神であります。

「人間を誇ってはならない」2021・3・7説教要旨

朝位 真士

 今日は1コリント3・18~23節を通して聖書を学んで行きましょう。この3章は1~2節はコリント信者が肉に属する者であることを嘆く。3~4肉に属する証拠である妬みや争い。5~9伝道者の使命と神との関係。10~15伝道者の働きとその責任。16~17神の宮である信者。18~20この世の知恵は神の前では愚かであること。21~23信者の特権と身分。が語られています。

 1コリント3・18~23節を見て下さい。この3・18~23節は1言で申し上げるならば、人間を誇ってはならないという言葉につきます。21節から23節をもう1度見て下さい。

パウロはあなた方は神の神殿である16節に言っています。パウロは「あなたがたは神の神殿である」と言ってキリスト者の自覚を呼び起こしてから、自分の知識を誇らないようにと戒めています。さらに「だれも人間を誇ってはいけません」21節と言っています。これは党派についての戒めであります。ここで言っています「人間」には私達も含まれています。信仰者は、自分の信仰を誇りがちであります。私もそうです。私は18歳でキリスト者になって今年で60年になろうとしています。しかし信仰は神から賜るものであります。人には何1つ

誇るものはないはずです。もし誇りたいとすれば、わたしたちの救い主であるイエス・キリストを誇るべきであります。イエス・キリストは、私達の罪の身代わりとなって十字架にかかって死に3日目に復活された活ける主イエス・キリスト様です。私達の誇るべき方は主イエス・キリスト様だけです。牧師も信徒も役員も皆イエス・キリストの僕です。箴言16・18節を見て下さい。p1012「痛手に先立つは驕り。つまづきに先立つは、高慢な霊」

口語訳箴言16・18節p899「高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ」

次に私達は、自分以外の人間も誇ってはならない。他の人を誇るところに派閥が生じる原因があります。そこでパウロは21節をみてください。「だれも人間を誇ってはなりません」と言っています。神様の言葉を語る伝道者は神の僕であるのみならず、私達の僕であります。パウロはさらに22節を見て下さい。キリスト者はキリストに救われて神の子、神の国の相続人とされた。ローマ8・16~17節をみてください。p286キリストが万物の主である以上、キリスト者は世の終わりが来たら、主と共に万物を支配する。それは現在すでに保証されています。その意味ではすべてがキリスト者のものであります。それは信仰者自身の功績ではなく、キリストからの賜物であります。23節を見て下さい。

結び

もう1度1コリント3・18~23節を見て下さい。これまで述べたコリント教会の「ロゴスの危機」に対する批判的論証のしめくくりであります。先ず、パウロは(だれも自分を欺いてはなりません)と命じています。(欺くーエグサパト)は1般的に「欺く」を意味するアパタオーよりも強い意味で「完全に騙す」ことを示しています(ローマ7・11,16・18、2コリ11・3、2テサ2・3)。ここでは他者は勿論自分に対しても欺くことを禁じています。自らの知識を誇り、無知を認めないことは自己欺瞞であり、自らの無知を認めることこそ真の知識への道であります。19節にこの世の知恵は神の前で愚かであることを再び述べています。(神の前で)は審判を意味します(ローマ2・13,14・10)指導者を崇拝し、彼を選んだ自分の知恵誇ることは神の前に(愚かな者として)審判されます。ヨブ5・12、13の一部と、20節では詩篇94・11節を自由に引用して、この段階の聖書証明としています。p932この2つの聖書の言葉によって、パウロは(知恵ある者)が、神の前にいかに愚かであり、空しい者であるかを明らかにしています。21~23節をもう1度みてください。これまで述べてことの結論。

(だれも人間を誇ってはなりません)この命令法の根拠は、(すべては、あなたがたのもの(だから)です。このすべての説明として(パウロもアポロも・・世界も・・将来起こることも)と、キリスト者はあらゆる人間、世界、運命、時間・・・・のすべてに対して主であり、自由であります。(しかしあなたがたはキリストのもの、キリスは神のもの)ここにキリストの自由があります。だから人間を誇ってはならないという結論ではだれを誇るのでしょうか。それは天地万物を創造され人間を創られた父なる神と私達の罪のため十字架にかかって身代わりとなって死に3日目に復活された主イエス・キリスト様と聖霊なる神様の三位一体の活ける真の神様を誇るべきです。

世の中には素晴らしい方は多くおられます。勿論そういう方々に対して尊敬することは大切だと思います。年長者やお世話になった両親や目上の方対しては失礼があってはならないと思います。皆キリストのアガペーの愛をもって愛し合い、仕え合わなければならないと思います。

1923年6月1日創立