2021/5/16週報メッセージ

『スマホ脳』という本を読んで                                            朝位 真士 

  著者はアンデシュ・ハンセン。精神科医、経営学修士。彼は1974年スウェーデン生まれである。私はこの本を読んで大変ショックを受けた。現在、大人は1日4時間をスマホに費やしている。十代の若者なら4~5時間費やしている。なぜ、これほど多くの人が物質的には恵まれているのに孤独を感じるのか。著者は、私たちを取り巻く環境と人間の進化の結果が合っていないことが、私たちの心に影響を及ぼしていると語っている。睡眠と他者との関わりと運動という、精神的な不調から身を守る三つの重要な要素が欠落していると著者は語る。彼はデジタル時代のアドバイスとして次のように語っている。

 自分のスマホ利用時間を知ろうー1日に何度スマホを手に取り、どのくらい時間をかけているのかを把握するために、アプリを使ってみるといい。スマホに奪われている時間が一目瞭然だ。自分を知ることが変化への第一歩になる。

  目覚まし時計と腕時計を買おうースマホでなくてもいい機能は、スマホを使わないようにしよう。

 毎日1~2時間、スマホをオフにー毎日2時間オフにすることを周りの人にも伝えておこう。そうすれば、返事がないという怒りのメッセージが届いたり、人をイライラさせたりせずにすむ。プッシュ通知もすべてオフにしよう。

 スマホの表示をモノクロにー色のない画面のほうがドーパミンの放出量が少ない。それによって、どのくらいスクロールを続けたくなるかが大きく左右される。

 運転中はサイレントモードにー危険な瞬間に気が散るリスクが減る。悪いタイミングでお知らせや通話が来ると、いちばん必要なときに集中が妨げられる可能性がある。それに応答しなかったとしてもだ。  私はこの『スマホ脳』という本を読んで、未だ全てを理解していないが、目から鱗が落ちた感じで、もう少しスマホの使用方法を考えなくてはと思った。                   

「神の定めた生き方」2021・5・9説教要旨

                    朝位真士

今日は1コリント7・17~24節を通して聖書を学んで行きましょう。この17~24節は召された時の身分にとどまるべき事を語っています。17節の「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」との言葉を受けて、結婚問題から転じて信者の身分問題を挿入したものである。かれは奴隷制度の禁止という社会問題よりも、(各自は、召されたままの状態にとどまって)(召された状態ままで、神のみまえにいるべきである)と(20,24)、個人の魂の問題を力説する。彼はここまではやかましい割礼問題にも超越しているように(18,19)、奴隷制度の善悪にふれずに、いかなる境遇のなかにあっても主との関係を意識して(23,主の血によって買い取られた身分であるから)、

聖徒らしく神と共に、神の御前に生活すべきことを勧める(1ペテロ2・18~20)。私達はどのような身分であっても、この心得が必要である。

1コリント7・17~24節を見て下さい。コリント教会の人々は、夫婦のきずなの問題のほかに、社会的身分においても何かしなければならないと思い込んで、騒いでいたようであります。そこで19,20,24節を見て下さい。人間はやたらに騒いで、結局は有害無益に終わることがよくあります。だから21節をご覧下さい。と言うパウロの一見無批判的な言葉に対して不満を感じる人も多いと思います。しかしパウロのやり方は、巨大な氷山を崩そうとして必死につるはしを振りかざしてすぐに疲弊してしまうのではなく、太陽の熱で静かにしかし根本的に溶かし去る道なのです。(ピレモン16~17)p399もう1度17節をみてください。20節も見て下さい。神から賜ったものとしてそこに使命を自覚して生きるべきであります。キリスト者は、毎日の平凡な生活の中に、神の栄光を現わすことです・すなわち、神の御旨に従って「歩む」ことです。私達はキリストの奴隷です。すべてをキリストの御心に服従して生活する。だからキリスト教会においては全てが平等です。お金持ち、貧しいひとも、教養のある人も、ない人の老人も若者も子供も大人も神の前では平等です。すべてのキリスト者は、キリストの尊い贖いの血で「買いとられた」者であります。(1ペテロ1・18~19)p429もはや罪という古い主人の下にはいないのです。新しい主イエス・キリストに仕えて生きなければなりません。そしてキリストに仕え、キリストのものとなりきることが、霊的に自由に徹することであります。(ガラ5・1,13)p349

結び

もう1度7・17~24節を見て下さい。最後の24節は17節以下の精神をもう1度総括してみたのであります。キリスト者は、強いて外的変化を求めず、召されたままの状態でいなさいといっています。ただ大事な事は、「神の御前にいる」という心がけと態度であります。これさえあれば、どんな境遇に中にも、処することが出来ます。

フィリピ4・10~13節見て下さい。p366

ウイリアムバークレーこのコリント教会ここの箇所7・17~24節を召されたままの状態で神に仕える事と言っています。「今ある状態でキリスト者たれ」と言っています。パウロは、キリスト教の機能は人に新しい生活を与えることではなく、彼の古い生活を新しくすることであると言っています。キリスト者はキリストに買いとられたもの、従ってキリストの個人的所有物である。だから人間的身分はなんであれ、彼は全ての人間から自由である。今や

彼はイエス・キリストの所有物なのだから。どんなに卑しい仕事でも、もはや人のためにするのではなく、キリストのためにするのであります。

2021/5/9週報メッセージ

コロナウイルス感染症流行の中で

                        朝位 真士 

  コロナウイルス感染症流行が終息しない中、さまざまな礼拝形式がある。先日親しい牧師達に、この時期の礼拝をどのように守っているのか、率直な意見を聞いてみた。それをこの紙上で皆様にお伝えして、私自身の意見を述べたいと思う。

 意見1、昨年のコロナウイルス流行のきざしの1月より教会の礼拝を中止している。教会の方々へ週報や説教原稿を1週間前に郵送して、当日の礼拝は各自の自宅で守っている。牧師は一人、礼拝堂で礼拝を守っている。高齢者が多い教会なので、万が一感染した場合に社会的責任を問われるので、その点を注意して現在も継続している。たしかにその牧師の主張は常識で大事である。

 意見2、昨年のコロナウイルス流行の際にも、礼拝を会堂で継続している。礼拝は主イエス様を礼拝するものである。世間の情報は大切であるが、私達の罪のために十字架に掛かり、死んで3日目に復活された神の子イエス・キリストを礼拝する。主は私達のために命をかけて罪を赦してくださった。命をかけてくださった神様、イエス様に命をかけて礼拝するのは当然である。たしかにこの牧会姿勢は大切である。私は役員達と相談して、基本的には礼拝を会堂で守っている。しかし様々な理由で教会の礼拝堂で守れない方のために、当日の礼拝をユーチューブで配信している。その前に週報や説教原稿を持って近隣を訪問したり、郵送したりして、1週間後の礼拝を守れるように配慮している。

 これが最善ということはないが、とにかくどんな方法でも、私達を愛して十字架の死をとげられ、復活された主イエス・キリストを毎週礼拝したいと思う。

2021/5/2 週報メッセージ

目的のある人生

朝位 真士  

 聖書の中に「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリ10・31)とあります。なぜ「神の栄光のため」が人生の目的なのか、人生の目的の条件は何かということから考えてみましょう。

 人生の目的の条件(1)魂を満足させる人格的なものー人間は欲望の存在です。食欲、性欲、名誉欲などさまざまな欲望の満足を求めて生きています。しかし、これらの欲望を充足させるだけでは、決して満足できません。何故なら、人間は魂をもつ人格的な存在だからです。真の人生の目的となりうるのは、物ではなく完全な人格的なものでなければならないのです。人生の目的の条件(2)無限の欲求を満たす永遠的なものー人間の無限の欲求を満たすものでなければなりません。人間の魂の欲求は無限です。人生の目的の条件(3)心と心を結ぶ共感を得るものー人と人とを結びつける普遍的なものであるべきです。

 三重苦の試練の中で生き抜いたヘレン・ケラー女史は「人間にとってもっとも悲惨なのは心の世界がないことだ」と記し、最大の苦痛は「わからない」ことではなく、「わからせることができない」ことだと自伝に記しています。ヘレンの言う心の世界とは、心が結ばれる世界です。しかし、人間は心が狭く、罪のゆえに争いに巻き込まれていくのです。真の人生の目的はこの罪と自我の鎖を破り、本当に心と心とを一つに結ぶものでなければなりません(コロサイ3・14)。真の愛、この愛の支配こそ、人間が求めている目的です。神の愛こそが、私たちのあらゆる欲求に本当の満足を与えてくださるということです。(『新キリスト教ガイドブック』より)

 キリストご自身こそ、神の栄光です。このキリストを信じ、愛し、生きることが神の栄光を目的とする人生です。私たちは、一人でも多くの方々がキリストを信じて、神の栄光を現していただくことを祈りたい!!

「平和な生活を送りなさい」2021・5・2説教要旨

 朝位 真士

今日は1コリント7・1~16節を学んで行きましょう。この7章全体は結婚者と独身者。神の前に生活の必要。分解1~9結婚および夫婦生活に関するパウロの勧め。10~11既婚者に対して、離婚してはならないとの主の御命令。12~17未信者の配偶を持つ者の離婚問題。18~24召された時の身分にとどまること。25~28未婚者の結婚に関するパウロの意見。29~35このような意見の生じるパウロの見解。社会の変換と結婚生活の煩雑さ。36~38処女である娘を持つ父に対する注意。39~40寡婦の再婚について。この7章は結婚問題について聖書の中で最も明白にしるされた聖書の箇所であります。神がエデンの園で制定されたことであり、キリストもカナにおいて結婚の宴に臨席してこれを祝福された。結婚は厳粛な礼典であり、夫婦生活は神聖な関係である。パウロはこれをキリストと教会の関係になぞらえて(エペソ5・21~33)、ヘブル人への手紙の記者も、『すべての人は、結婚を重んずべきである』(へブル13・4)。ところが7章ではむしろ独身を推奨するかのように見えるのは、主の再臨が近づいていることを信ずるゆえに、この世のことにとらわれず(29~31)、結婚生活の煩雑さを避けて(余念なく主に奉仕させたい)からであり、(32~35)、更にまた、更にまた、再臨の前に患難時代のあることを知る故に、そのとき家庭の係累のあるものはさらにその患難が増すことを思って(26~28)、パウロの意見を述べたのであります。パウロ自身は独身生活で主のために精進しており、出来れば彼らも主のためにそのような生涯を送るようにと願い(35)、むしろ独身を推奨したのであります。

1コリント7章1~16節を見て下さい。コリント教会は、形成後の日も浅く、未だ教会の固定した慣習もなかった。それで何かの事件にぶつかると、問題をどう処理したらよいかわからないということがかなりありました。パウロは、そうした具体的な問題に対して、またきわめて具体的な解答を与えています。この7章は結婚問題を語っています。ここでは結婚の原理のことよりも、いろんな事態に直面して、実際にどう対処したらいいか、と言う問題であった。例えば、独身の状態はどうであるか。離婚は絶体にいけないのか。夫婦の片方が未信者の場合はどうすればよいか。処女や寡婦の結婚についてはどうか。そうしたことについて、コリント教会はパウロの意見を求めた。パウロは、これに対して、コリントという特殊の土地を考慮にいれながら、答えています。1~7節をもう1度見て下さい。キリストの再臨は近い。できれば、独身でいたほうが身軽であります。パウロの結婚の意義に関する教えはきわめて厳かであり、コロサイ3・18~25,エペソ5・22~23などに見られます。人にはそれぞれの異なった賜物がある。要はそうした場所で、そうした時代に、どうすることが、主の道を守るのに最もよいかということであり、各人がそれぞれ決定しなければならないことであります。8~16節を見て下さい。15節を見て下さい。やむを得ず、離婚が認められる。その理由として、第1には、神が信者を召されたのは心の平和を得させるためであったからである。離れ去った相手と、無理に結ばれていかねばならないとすれば、平和はいつも失われる。第2の理由は、とうてい相手を信仰に導く可能性がないからであります。未信者と生活している信者は、相手を信仰に導き、救いに入れることが義務とされた。しかし、そうして相手に対して、その確信がもてるか。なかなか困難である。その確信が持てないならば、安価な感傷にふけって、いつまでも自分を苦しめる必要はありませんとパウロは語っています。

結び

この1~7節は男性と女性、夫と妻、独身であれ結婚するのであれ、いずれにしても主に従っていくことを進めています。マタイ19・11~12節見て下さい。p367。8~9未婚者と寡婦、7・10~11節結婚した人々に。7・12~16節を見て下さい。配偶者が未信者の場合の離婚。この論法の問題点は、1・結婚してから導くというが、その相手が救われる保証はない。救いは主のみ業であります。御言葉に従わないでいて、主に期待するのは虫がよすぎる。2・結婚してから信者でない相手が救われたという例は確かにあるし、それは素晴らしいことであるが、保証がありません。バークレーこのコリント教会がパウロに相談してきた問題を整理してみると、1~2クリスチャンは結婚すべきではないと考える人々への勧告。3~7すでに結婚している者もおたがい性関係を一切断つべきだと主張する人々への勧告。8~9未婚者および未亡人への勧告。10~11既婚者は離婚すべきだと考える人々への勧告。12~17夫婦の一方がクリスチャンであり、他方が未信者である場合、その結婚は解消されるべきだと考える人々への勧告。

「神の栄光をあらわしなさい」2021・4・25説教要旨

朝位真士

 今日は1コリント6章12~20節を学んでいきましょう。この6章12~20節は3つに分類されます。12節肝要な原理。13~18節きよくあるべき勧め。19~20節私達の身分と肉体の神聖。6章の後半および7章は、肉欲について特に警戒しなければならない彼らに、肉体と結婚の神聖さをといたものであります。肉体はきよめられ義とされたものであるからきよく(9~12)、主のものであるからきよく(13~18)、聖霊の宮たるものであるからきよい(19~20)と説く、食欲も性欲も、それ自身は罪ではなく、神がお与えになった本能であるが、それに支配されてはならない(12)。この体は義の器として主に奉仕するため(13)、また聖霊の宮として主を宿し、からだをもって主の栄光を現わすためである(19~20)。

(主はからだのためである)(13)。キリストは私達の魂を救うだけでなく、からだをもいやし、また再臨の時にはこのからだをあがなって栄化をさせて下さる。キリスト者のからだはこのように尊いものであり、現在においても(キリストの肢体)であるゆえに(15)、淫行によりこの特権を失って遊女と一体となることなく、主と結合して(主と1つの霊になる)べきであります。(16~17)。私達は金や銀でなく、キリストの尊い血によって買い取られた奴隷であるから、身をもって神に奉仕し、ただ神の栄光を現わすために生活すべきであります(19~20。このからだをどのように用いるかによって、きよい生活を送るか不潔に陥るかがきまる。わたしたちはこの体を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として」神にささげ、(ローマ12・1)、こうして聖霊の宮とされ、聖霊の内住を体験し、この体をもって神の栄光をあらわすべきであります。

1コリント6・12~20節を見て下さい。福音は人に自由を得させる。すなわち、罪から解放する。しかし、ギリシャ人の中には、この自由をはきちがえをしている者もいた。そして、何でも」自由である、といっていろいろの不義をあえて犯していた。その中でも、不品行は、大きな問題であった。だから、ここではそれを取りあげて、福音の自由がいかに道徳的に制限のあるものであるかを明らかにする。パウロは、キリスト者は何物にも拘束されない、いわゆる、キリスト者の自由を与えられているからであります。しかし、この自由は放縦ではない。それは喜んで自らを、他のために拘束する自由である。高い道徳的原理のためには、その「全て赦されている」ことが、条件づけられ、制限されるのであります。自由はよいことである、しかし、それは勝手であってはならない。それが、他人の「益になる」かどうか、常に反省されなければならない。何でも許されている。だが、それを正しく「支配」しているかどうか。それに捕らえられ、その奴隷となるならば、そこに災いは始まる。食欲でも、性欲でも、それ自体は許されている。悪いものではありません。しかしそれらを濫用し、その奴隷となるならば、醜い生活とならざるをえません。それは実に「主のために存在」そしてまたするものであります。そしてまた「主はからだのため」にあるという。主は実に、この身をも、あがなわれる。そして、わたしたちが生きるのは、ただ主のためである。わたしたちはこの身をもって、主の栄光を現わさなければなりません。ここに、私達が、不品行を戒めなければならない第一の理由があります。主への奉仕のためにこそ、このからだを、用いるべきであります。ここに、不品行をしてはならない第二の理由があります。15節をもう1度見て下さい。キリストは教会の首であり、信徒はそのからだの肢体である。人は、キリストと結合して聖化され、遊女と結合して、滅びる。ここに不品行を慎まなければならない第三の理由があります。引用された聖句は創世2・24からであります。キリストも、結婚のことを説くにあたり、マタイ19章、マルコ10章が用いられた。19~20節をもう1度みてください。人の体は、聖霊の宿る、宮であるという。教会が神の宮であるだけでなく、ひとり、1人が神の宮である。この体は聖霊の宮である。これをけがす不品行を、あえてしてはならない理由があります。私達は、罪と滅びから、キリストの血という価をもって買い取られたものであります。わたしたちは、積極的に、この体を、神の栄光のために献げなければならない。

結び

もう1度1コリント6章12~20節を見て下さい。わたしたちは不品行の誘惑に弱いものであります。あの怪力サムソンにしても(士師16章)p409、あの信仰深いダビデにしても(サムエル記下11章)p495、不品行の前にもろくも敗北した。わたしたちも他の罪に対しては戦うことが出来ても、不品行からは逃走するのが1番賢明であります。エジプトの総理大臣にまでなったヨセフは、かって奴隷の身分であった時にも、その女主人の誘惑から見事に逃れ、姦淫の罪を犯さなかったのであります。キリスト者はキリストによって罪を贖われた者であります。だからパウロが「あなた方は、代価を払って買い取られたのです」(20)。

むしろ「自分のからだをもって、神の栄光を現わす」ことであります(20、ローマ12・1,

フィリピ1・20)

わたしたちは毎日主の祈りを唱えていますがこの祈りを惰性で祈るのではなく、真剣にいのりたいものであります。

2021/4/25 週報メッセージ

聖書を読みましょう(マルコ)

朝位 真士 

  マルコ福音書について米田豊先生はこのように注解しておられます。

  記者マルコという信者の子で別名はヨハネと言い(使徒12・12)、バルナバのいとこである(コロサイ4・10)。パウロとバルナバに伴われて、その第1回伝道旅行に出たが、途中から帰ったため、第2回目にはパウロに見捨てられ、バルナバに伴われて、その伝道に出た(使徒15・36~39)。のちにパウロと和らぎ、彼の同労者となった(第2テモテ4・11、ピレモン24)。本福音書は、伝説によれば、紀元60年頃、ローマにおいてペテロがとらわれていた時、彼の指揮の下にマルコが記したものであるという。それは、彼がペテロに浮かれたことと、書中にペテロに関しては詳しく記され、また本書の書き様がいかにもペテロの性質を表わすところが多い(「たちまち」「直ちに」などの言葉多いのはその一例である)ことからもうかがわれる。

  マルコはローマ人および一般の異邦人のために記されたものであることは、ユダヤ人の風習や土地言語などに注意深く説明を加えたこと(5・41、7・34など)、またイエスの系図を省いたこと、旧約からの引用の少ないことなどから、知ることができる。マルコは、勝利者たるローマ人に適すように、勝利者たる神の子キリストの働きを簡単に記している。

  皆様、マルコによる福音書を前提なしで読んでみましょう。キリストの働きが直裁的に、単刀直入に書かれています。

「恵みによって救われた」2021・4・18説教要旨

朝位 真士

この6章は聖徒と訴訟。肉体の神聖。聖霊の宮。1~8聖徒間の訴訟を嘆く。9~10神の国を継ぐことの出来ない不義に対する非難。11恵みによって救われた身分。12寛容な原理13~18きよくあるべき勧め。19~20私達の身分と肉体の神聖。6章の前半は訴訟に関する譴責(悪い行いや過失などをいましめて責める事)(1~8)、後半は淫行に関する譴責(9~20)。聖徒たる者はやがてきたるべき時代において世を裁く(支配する)者であり、(2)マタイ19・28)、更にまた天使もさばくべきものである(3)。このような権利を持つ者同志が訴訟事件を引き起こして未信者の裁判を受けるとは、非常な心得違いである。キリスト者たる者は法律の前に争う問うことは、世の人々にキリスト教を嘲笑させることである。異教徒の裁判官の前にこの世のつまらない事柄を持ち出すのは、キリスト者としての真の威厳を忘れさせることである。教会内で解決することが出来ずに、不信者の前に持ち出すこと自体よくない。互いに訴え合うのは間違っている。むしろ、かえって不義を受け、だまされるほうがよい(7)。十字架の主に従う者は、忍んで不義を受けるべきで、権利放棄、無抵抗、忍従こそ、聖徒らしい麗しい態度である。キリスト者の美徳である(へブ10・34、マタイ5・39~41)。

1コリント6章1~11節を見て下さい。彼はローマ13章に、世の中を統治する権威に、服従すべきであることを教えています。社会の公正(絶体的なものではないが)を保つ為に裁判も必要であろう。だからパウロは、全ての訴訟を否認していない。ただ彼が極力拒むのは、信者同志の訴訟である。この係争は兄弟愛によって解決し、それが出来ない時は、教会の指導者たちのあっせんで解決されるべきであります。より高い,より正しい道徳を教会は、持っているはずである、それに信者同志のごたごたを、この世のものにさばいてもらわなければならないとすれば、それは恥以外の何物でもない。教会員間の不和、不義、不実を天下に公表する結果となる。こうして、「訴え合うこと」自体が、教会員一同の「敗北」なのである。6・7~11節をもう1度見て下さい。ここでは10個の不義が数えられています。偶像礼拝と性的不道徳と経済上の不法である。その中でも、性の乱れに関するものが多いのは、特にコリントにそうした危険が多くあったからであろう。この十個の不法は、全てコリント教会の中に、あったとは考えられない。しかし。あるものはすでに教会の中に入り、他のものも侵入する恐れがあった。「神の国を継ぐ」のは、神の子とされた信者の最大の特権である。教会の道徳的郭清がいかに必要であるか。キリスト教が、真に成功するか失敗するかの分かれ目は、ここにあるとパウロは考えていたようであります。コリント人は知識を誇り、福音を理論として理解し、これを知的に表現することによって、一種の自己陶酔にかかっていた。これで神の国を継ぐことが出来ると思いこんでいた。それは間違いであります。福音はもつと具体的な事実であります。生活に具現する真理である。今日もコリント流の信者が多いことでしょう。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなた方は、主イエス・キリストの名によつて、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義となれたのである」ルターの小教理問答書には、「洗礼は罪のゆるしをもたらし、死と悪魔から救い出し」といい、また「わたしどものうちにある古いアダムが、日ごとの悔いとざんげによって、あらゆる罪と邪悪と共に溺れ死に、そして新しい人が日毎に現れ、またよみがえる、神の御前に永遠に義と純潔を持って生きるようになること」といっています。すなわち、洗礼は信者の生涯に一線をかくすることであります。この線に立って、過去の罪の生涯を清算し、将来を望んでは、神のよみされる新しい生涯に踏み出すことであります。コリントの人々も、このような洗礼をうけたのであります。そうだとすれば,旧態以前とした生活に、甘んじてはならないはずであります。(ローマ6・4、ガラ3・27,2・20)

結び

もう1度6・7~11節を見て下さい。2テモテ4・2節を見て下さい。キリスト者は寛容を尽くして、過ちを犯している者を責めると言う大切な使命を負っている。さらに8~9節更に彼は神の国を相続できなくなる罪を列挙して、警鐘をならしています。最後にパウロは、主イエス・キリストの御名と神の御霊に洗われ、聖なる者とされ、義と認められた兄弟達がいることを感謝している。

2021/4/18 週報メッセージ

聖書を読みましょう

朝位 真士

  「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3・16)

 イースターを迎え、マタイ伝より読むことを実行しています。注解書なしで、御言葉の力で1日の生活を始めたらいかがでしょう。

 米田豊先生の注解によると、福音書の記者であるマタイは12弟子の一人で、別名をレビと称し、収税を業としていたが、主の召命を受けて弟子となったものです(9章9節)。この書はユダヤ人のために書かれたもので、記者が目的としたところは、イエス・キリストが旧約聖書に預言されているメシヤすなわち救主であることを証明することです。したがって旧約の預言からの引用が多く、その数は65を下りません。紀元50~60年頃、パレスチナで書かれたもので、キリストの言行を分類的に記しています。簡単に分類すると、5章から7章までが説教、8章から9章が奇跡、10章が使徒に対する教訓、13章がたとえ、23章が律法学者やパリサイ人に対する譴責、24章から25章が再臨に関する警告および比喩集であります。

 マタイ福音書は28章ありますが、1日4章読んでいくと1週間で終了します。皆様もチャレンジしてはいかがでしょうか。もちろん、毎日15分間の御言葉と祈りの習慣を継続していくと、さらに御言葉の恵みに充足されるのではないでしょうか。

「主イエスの力をもって」2021年4月11日説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント5章1~13節から聖書を学んで行きましょう。米田豊先生は5章全体を教会の腐敗。過越の子羊の救い。パン種を除くことと語っています。1~5節姦淫者とそれに対する使徒の位置。6~8節パン種を除くこと。9~13節教会郭清の命令。と分解しています。当時の道徳がいかに腐敗していたかを知るべきであります。教会の中に姦淫その他信者として成すべきでない事をして罪を犯す者があるなら、その人を破門にし、絶交すべきである。(11,13)。この点に寛大であることは、教会腐敗の原因であります。キリスト者の自由を機会として肉欲(ガラ5・13)、神の恵みを放縦な生活に変える者達は、恐るべきパン種である。周囲に悪い感化を及ぼし、(少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませる(6)、教会の神聖を保つために、異性間の交際に罪や汚れが入らないように、特に注意しなければならない。教会は選ばれた者の集会で、キリストの花嫁たるべき者であります。十字架の血によってきよめられ、きよく保たれるべきであります。(エペソ5・25~26)。縁民イスラエルが堕落したのも、異邦人とおn姦淫のためであつた(民25・1)。初代教会においても、悪魔のねらったのはこの点であった。

1コリント5章1~13節を見て下さい。p304パウロはここで、昔の過越祭のことを例に引き、信者がきよくあるべきことを説き勧める。パン種は少しでもあれば直ちに膨れる者である。(マタイ13・35)。罪もそのように、少しの罪でも伝染し蔓延して、全体を腐敗させる。教会には罪と腐敗があってはならない。過越の祭の間は種入れぬパンを食べたが、過越の子羊が予表するキリストの血によって、救われた私達は、私達の心、生涯、家庭、また教会に、少しのパン種が残らないように、全く清められなくてはならない。7節をみてください。すなわち信者は皆、資格としては「キリストにあって清められた」者であるから、(1,2)肉の力すなわち罪の性質を全くきよめられて(古いパン種を取り除いて)教会が新しい群れ(かたまり)とならなければならない。(7)。昔、過越の子羊の血によって民が救われたように、私達は屠られたキリストの血によって救われた者であるから、罪からきよめられてきよい生涯を送らなければならない。それは主イエスの力をもって、させて頂きます。つまり聖霊の力であります。この5章ではコリント教会では不信者の間にもないような不道徳が行われていたのであります。この5章1~13節は不品行の問題が語られています。1~5節事件とその処置が述べられています。そして6~8節で教会に対する勧めがパン種のたとえを用いて語っています。そして9~13節では教会の内と外でパウロが語りたかったのは11節ということであります。教会外の人は神が裁かれるのであります。

結び

ここに3種類の罪が挙げられています。第1は不品行で、性的な罪である。第2は、貪欲や略奪で、経済上の罪である。生き馬の目を抜くような、コリントのような商業都市では、こうした経済上の犯罪も多かったと思われます。第3は偶像礼拝で、宗教上の罪である。第1は肉欲からくるものであります。第2は所有欲から来るものであります。第3は、迷妄から来るものであります。信仰に入っても、こうした民族的習性はすぐに抜けず、時には信者同志の間に、問題が起こるものでありました。そのような時に、どういう態度を取るべきか、それを明らかにするのがこの5章であります。以上3つの根本的罪は、人間が犯す3つの方向をしめしています。第1は不品行の罪は自分自身に対する罪であります。第2は貪欲的、略奪的罪は、私達隣人及び同胞に対する罪であります。それは人間を、助け合う兄弟とみないで、あくまでも利用すべき相手と見る。それは、私達が神を愛している唯一の証拠は、自分を愛するように隣人を愛することであります。そのことを忘れています。

第3は、偶像崇拝の罪は神に対する罪であります。それは事物として神の地位を略奪する罪であります。そしてパウロは13節で申命紀17・7節及び24章7節から引用しています。生まれたばかりの教会を、これをおびやかすこの世の汚染から守りたいという牧者パウロの願いであります。

1923年6月1日創立