「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「神の富・知恵・知識」2020・9・6説教要旨

朝位真士

今日はローマ11・25~36節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの11・25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章(ローマ9~11章)の讃美的結論。と分解しています。パウロは今結論にたどり着く。25節にある「奥義」とは、隠されているやがて啓示されるべき救いの出来事を指しています。イスラエルの1部は、「かたくなに」なって神の民としての実を失ったが、それはいつまでもそうなのではなく、「異邦人に完成のなる時」までと言う期限付きであります。福音が全世界に宣べ伝えるまで再臨はないと言うことはこれと関係している(マルコ13・10)。異邦人の中から選ばれた者がことごとく召されて神の民となる時が到来すると、イスラエルのかたくなさも終わりをつげるのである。

11・25~36節を見て下さい。25~26異邦人全体が救いに達するまであり、こういて全イスラエルが救われると言うことです。しかしふさわしくない者はその群れから除かれ、選ばれた者からなる総体として救われるイスラエルという意味であります。26節27節で語られるイザヤ書の引用は、パウロがここで語る奥義が彼に初めて啓示された内容でないことを明らかであります。(イザヤ59・20-21,27・9)この11・25-27は神の救いの奥義が述べられています。神の奥義は聖書にしるされています。しかしそれを問われるには、聖霊によるほかはない。異邦人がすくわれるのは、キリストを信じる信仰によるのであり、イスラエルがすくわれるのも同じであります。キリストを受け入れるか、受け入れないかによって、救われるかすくわれないかがきまるのである。これは、全人類に対して平等である。この点においてイスラエル人と異邦人との間の差はなくなる。キリストにおいて、民族と民族との間にあったあらゆる差は消え去る。キリストにおいて新しい契約が成立し、万人はその契約の中で救いを約束されるのであります。これこそ、イスラエルの希望がおかれる場所であります。11・28~36節をもう1度見て下さい。パウロは、イスラエル人と異邦人との問題について、いささかの疑念を残さないようにしたいと考えた。だから、11節の結論の中で、更に、突き込んで問題を明らかにしようとしました。イスラエル人と異邦人との差がどこで生じるのか、それは福音を巡って生じるとパウロは語る。この問題は、律法という乗り物に便乗したイスラエルは、福音を理解することが出来なく神の敵となった。しかしこのことは、異邦人のためになることになった。ところが、神の選びは、不変であるから、どれほど、イスラエルが、神にそむいても、その選びは無効にされることはありません。人間の側に不誠実があっても、神においては、誠実があるばかりであります。ただし、人間の不誠実は、そのまま、神に受け入れられるのではなく、不誠実が、誠実にたちかえるには、それだけの道筋があることは、すでに見てきた通りであります。異邦人が神との交わりに入れられたのは、従順だったからではなく、彼らが不従順であったにもかかわらず憐れみを受けたからにほかならない。そうだとすれば、イスラエルも、不従順の状態にあるにもかかわらず、憐れみを受ける望みは、十分、残されているのであります。すなわち異邦人も、不従順だったし、イスラエル人も不従順でありました。しかも、神は、この不従順な者に向かって憐れみを与えられたのでした。だからパウロは、このことについて大胆に次のように言った32節を見て下さい。この言葉は、単なる楽観的発言ではありません。神の深い知恵が、背景をなしています。知恵の輪が解き明かされたのであります。わたしたちには、あまりにも、不可思議であります。独断とも聞こえます。気まぐれな非現実的な、また気休め的な楽観論とも聞こえます。しかし、これはその様なものではありません。だからパウロは、神のこのような活動に対して、33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」と言って「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう」と言っています。これは、宇宙の創造主、またこれを支えるおかたとの接蝕によって、与えられた知恵を背景として発せられる言葉であります。つまり、信仰から出る言葉であります。万物は、神より出でて、神に帰る。そのような循環運動の一局部に歯車のしきりがあったり、断絶があったりしても、神は、これを克服して、あらゆる故障に勝をえるのであります。悪との戦いにおいて、キリストは勝利者であるということは、三位一体の神の勝利ということにほかなりません。キリストの受けたもう栄光は、三位一体の神の栄光であります。神の救いの奥義を示されたパウロは、栄光がとこしえに神にあるようにといって、人間の神格化を戒め、信仰こそ、神と人間との間をつなぐ唯一のものであることを、新しく私達に思い起こさせるのであります。

結び

もう1度33~36節を見て下さい。ここは頌栄であります。イスラエルの歴史を、異邦人の救いという大問題と共に述べた後、パウロは心からの讃美をささげずにはおられなかった。神の知恵と知識は底知れず深く、その裁きは知り尽くしがたく、その道は測り知りがたい(11・33)。これは私達に、全能なる神はイスラエルの歴史を通し、また異邦人伝道を通して啓示してくださった救いの内容があまりにも偉大で私達の理解を超えていると言うことを言っているのであります。神のみ業を前にして心から讃美を献げているのであります。34,35節はイザヤ40・13~14節、ヨブ41・11節の引用であります。特に35節の「主に与えてその報いを受ける」は、律法の業による義認を暗示する表現であります。ここには、神が人類の創造主であり、保持者であり、完成者であることが示されています。パウロは1コリント15・24-28節を見て下さい。p321を見て下さい。世界の救いである神に讃美の声をあげているのであります。

「神の慈しみと厳しさ」2020・8・30説教要旨

朝位 真士

今日はローマ11・11~24節から聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこの11章全体を神の選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸として語っていまして、11~12彼らの躓きと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。

 11~24節を見て下さい。パウロはその同胞の回復されることを期待しつつ(14、15)、特に異邦人信者に対する警告を記しています。選民イスラエルは不信仰の故に、メシヤを受け入れなかったため、異邦人が選民の地位に座して、選民に約束された祝福を受けるようになった。さきには、「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく、神もないものであった」私達異邦人が(エフェソ2・12)、キリストを信じたことによって、アブラハムの子孫とされ、(ガラ3・29)、アブラハムに約束された祝福を受ける身分とされた(14)。よいオリブの枝が切り落とされて、(野生のオリブ)がそこにつながれたのである(17)。これは異邦人が神の教会に受け入れられるために、ユダヤ人が場所をふさいでいるから折られたのではない。彼らが不信仰のために折られたから、その後へ信仰による異邦人が繋がれたのである。それゆえ。恵みに馴れたり、自分の身分を忘れたりして、高ぶってはならない(18-20)。私達は神の祝福を受けるに足る価値もなく、ただ信仰によって祝福に預かっているのであるから、不信仰になれば神はいつでも捨てて惜しまれない。ユダヤ人はその警戒の見本である。彼らは選民の特権を誇った為、今神に捨てられて、あちこちに離散し、放浪の苦難をなめている。これは神の正しい罰である。それゆえ(神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。そうでないと、あなたも切りとられるであろう)(22)。これは実に厳粛名警告である。私達は神の愛と義の両面を見なければならない。愛や恩寵の面ばかり思うと、恵みになれ、放縦になりやすく、義や裁きの面ばかりを思うと、恐れて萎縮してしまう。両面を見て初めて円満に、また健全に、信仰が成長します。選民であるユダヤ人でさえ不信仰のために捨てられたのなら、まして異邦人である私達が捨てられないことがありましょうか(21)。

神が愛によって惜しまれるのは一方の面で、「1度救われたら永遠に滅びない」などと言うことは出来ない。不信仰に陥るならいつでも捨てられる。神の慈愛を信じ、その中に留まっているゆえに神の慈愛は私達に向けられているが、この慈愛から離れるなら、私達もただちに捨てられる(22)。それ故「神の愛の中に自らを保」たなければならない(ユダ21)p451。

結び

パウロはユダヤ人たちのつまずきの問題を9~11章にかけて論じて来たのでありますが、今日の箇所においては、このイスラエルのつまずきは、彼らの失敗、挫折という、否定的な意味しかないのであろうかと問い直しているのであります。もしそうだとするならば、それは神の失敗であって、神は旧約の全歴史を通じてイスラエル民族を救いに導いて来られたのに、最後の土壇場になってこの民族を最終目標に辿りつかせることが出来なかったということになります。このような疑問に対してパウロは「決してそうではない」と強く否定し、イスラエルの挫折が、第1に神の救いが異邦人に及ぶ機会となったこと、第2にイスラエルの奮起を促せるためであることを述べて、ここから信仰的、歴史的教訓を引き出しているのであります。第1の点、すなわちキリスト教がユダヤ人から排斥されたことよって、異邦人世界に広がっていったことは、歴史的事実であります。使徒13・46~48節をp240

を見て下さい。ここに異邦人伝道に専念することになったパウロを見ることが出来ます。このように神は福音に対するユダヤ人達の拒否という悲劇も用いこれを全世界の救済へのチャンスとされたのであります。イスラエルが神の恵みから落ちて挫折を経験したことは、イスラエル自身の責任でありますが、神はそれによってイスラエルを冷たく突き放し滅びに任せるのではなく、むしろそれによってイスラエルが安易な道を歩むことから立ち止まり、目を覚まして奮起一番、新しく立ち上がる為の訓練の機会とされたのでありあます。ここで人間は、神が慈しみに溢れた方であると共に、厳しい方であることを学ばなければなりません。11・22節を見て下さい。「慈しみ(クリストテース)は「親切」とも訳せます。クリスチャンは「クリストテース(親切)である」と言われました。神は「慈しみ深いお方であります。しかし同時に神は侮られることを許さない厳しいお方であります。」「厳しい」とは「切りすてる」という意味であります。神は高ぶる者を切り捨てられます。かってイスラエルの最初の王様サウルが、その地位におごり、神の命令の背いてほしいまま振舞った時

預言者サムエルは彼の前に出て「主の言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(サム上15・23)と告げました。p452

神の厳しさは神の慈しみの裏側であります。イスラエルはたびたび神の厳しい訓練を経験してきました。このことは異邦人キリスト者たちが自分たちにも関わりのあることとして、真剣に考えるようにさとしています。ヘブル12・4~12p417ローマ11・24も見て下さい。

「恵みの選び」2020・8・23説教要旨

朝位真士

 今日はローマ11・1~10節を通して聖書を学んで行きましょう。私の尊敬する米田豊先生はこのローマ11章全体を恵みの選び。神の慈愛と峻厳。神の経綸。として11章全体をイスラエルの将来と奥義1~6イスラエルの中で、恵みによって残された者。

1~2上神はその民を捨てられない。2下~4昔のエリヤの時の残された者。5~6今も存する恵みの選びによって残された者。7~10イスラエル全体の盲目的かたくなさ。11~12彼らのつまずきと異邦人の救いの関係、およびその意味。13~16異邦人の使徒である記者のユダヤ人の救いの願望。17~24異邦人信者に対する警告。25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエル及び異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章の讃美的結論。パウロは9章で、神の選民たるイスラエル人が不信仰の為に捨てられたからといつて、その為に神の約束が無効になったのではないことを述べ、9章から10章にかけて、かえって異邦人が信仰によって救いを受けた事を述べたが、では(神はその民を捨てたのであろうか)(1)という問題を提起する。これが11章の主題である。11章は、この1節の間と、(彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか)(11)との2つの問いを中心にしるした解答で、そのどちらにも(断じてそうではない)とまず答えておいて、その説明をする。神がその民を捨てられたのではないことについて、パウロは、1・自分もまた選民のひとりであるがゆえに(1)、2・エリヤの時の例を引いて、今も少数の残された者がいるゆえに(2~6)、3・約束は最後に必ず成就して、選民は国民として回復され、皆救われること(26)を述べる。その説明の中に預言者エリヤが(わたしひとりが取り残されたのに、彼らがわたしのいのちを求めています)と神に訴えた時、神が(バアルにひざをかがめなかった7千人を、わたしのために残しておいた)と答えられたことを引いているのは(3,4)私達が大いに学ぶべきことであります。エリヤは自分ひとりが残っていると思っていたが、神は7千人も忠実な聖徒がいると言われた。四面楚歌の中にあってただ自分ひとりが信仰に立っているなどと思うと、心細く寂しく感じられるが、自分と同じ境遇の中にあって苦難に耐えている人が他にもいると思うと励まされる私たちは、主に忠実なのは自分だけ、自分の教会だけなどと思うべきではありません。他にも隠れた敬虔な忠実な聖徒がいる。自分だけが熱心だと思うひとりよがりのうぬぼれは、人を高慢にし、偏狭にします。6節は恵みと行いの区別を明白に述べてものであります。恵みとは、神が任意に与えられる純粋の恵みで、それを受けようとする相手のいかんに関係なく、与えられます。行いとは、人間が自分の力で行う事が出来る。神の選びや救いは純粋名恵みで、人の行いや勲功を条件として与えられるものではありません。それゆえ、これを受け、その祝福にあずかる者に必要なものは、ただ信仰だけであります。ユダヤ人はただ少数の者がこの恵みの選びによって祝福を得るだけで、大多数の者は不信仰と頑なさの為に恵まれないが(7-10)、選民の不信仰によって、救いが異邦人に及び、それによって、イスラエルを奮起させるための神の御計画であります。

ローマ11章1~10節を見て下さい。ルーテル教会の岸先生はこの11章1~36節を奇しき救いの計画として11・1~4節イスラエルは捨てられたか。5~12イスラエルのつまずきと異邦人。13~24オリブの木のたとえ。25~27神の救いの奥義。28~36栄光神にあれ。と分解しています。パウロは、信仰の目をもって、神のみわざのきわまりない変転の中に、一貫した神の御計画があることを見極めることが出来たのであります。「神はその民を捨てたのであろうか」という問いに対して、躊躇なく、断じてそうではありません。と答えた。そして自分自身を例にあげたのであります。自分を、エリヤに比較していることが分かります。エリヤは異教徒バアル礼拝者の中にあって、追いつめられて孤立し、この世に自分以外にまことの神を礼拝する者はないと考えた。しかも、バアル礼拝者は、エリヤの命さえうかがっていた。彼が殺されるなら、もはやまことの神の礼拝者はいなくなると考えたのであった。しかし、生ける神は、意外な御告げをエリヤに与えた。「バアルにひざをかがめなかった7千人」が、まだ残っているということであつた。神は、あらかじめ知っておられたその民を、捨てることはなさらなかったというのがパウロの結論であります。残された少数者こそ、人の力によらないで、全く神の恵みによって選び分かたれた者たちでありました。「わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者であるという言葉のうちにこのことがよくあらわれています。1節を見て下さい。もう1度2節から10節を見て下さい。

結び

 パウロは、神の知恵の輪の功妙な仕組みに驚きの目を見張ったのであります。神は、人間より何も求めないで、人間に救いの道を備えられた。「代価なし」という言葉こそ、恵みの意味であります。そうすれば、人間の側で、神の御前に行いが悪いと言うのではなく、行いが出る場所は、ここではないということであります。恵みが純粋に恵めとして受け取られるためには、恵みが、人間を圧倒するよりほかにはありません。恵みが、人間を圧倒して、これによって恵みを受け入れる状態をつくり出す時、これを指して「信仰」というのであります。人間的に見れば、イスラエルは、民族として、自ら、神と無関係となってしまったと考えられますだが、相手は、生きて働き、敵をも愛するまことの神であります。目には目、歯には歯という仕返しをもとめる神ではなく、手におえない者たちを愛しつつ、彼らの留まるところを知らず落下する状態に終始符をうつ神こそこのまことの神であります。パウロは、自分とユダヤ人キリスト者がイエス・キリストに救われているという事実の中に、ユダヤ人に向かって神の手が伸ばされ、神がユダヤ人を捕らえて導いておられる事を、パウロは預言者エリヤの例を挙げて示しています(11・2-4)。パウロはエリヤのことを例に挙げて11・5を見て下さい。それを旧約聖書(申命29・3,イザヤ29・10、ローマ11・9~10詩篇69・23~24、70人訳)。から引用しています。

「福音を伝える者の幸い」2020・8・16 説教要旨

朝位 真士

序 

 今日はローマ10・14~21節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの10章全体を神の義と、律法の終わり。救いを得る道。信仰の根拠と全体をまとめています。また10・14~17節では福音宣伝者の特権と責任。18~21節はイスラエルの不従順と、異邦人の救いとまとめています。(信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである(17)。それゆえ、伝道者の伝えるべきものは主の言葉、神の言葉で、信仰の根拠はこのはかにはありません。しかし、聞いたことのないものを信じる事は出来ない(14)。ここに、すべての伝道者および信者の責任がある。伝道者は勿論「時が良くても悪くてもそれを励み」「御言を宣べ伝え」なければならないが(第2テモ4・2)、全ての信者も、つとめて福音の恵みを、多くの人にあかししなければならない。

18~21節に、神がユダヤ人を悔い改めさせるための3つの方法を示す。神を求めなかった異邦人でさえ恵まれることを示し(ゆえに彼らも信じさえすれば救われる)。次に彼らが異邦人の妬みを起すようにさせ(19、11・14)、そして更に(服従しない反抗する民)にも(手を差し伸べて招いておられる(21)。それゆえ私達も、この神の恵みと愛の心をもって、いかなる反対者や不信仰な者のためにも、祈りまたあかしをするべきであります。

ローマ10・14~21節を見て下さい。14節には3つの問いが列挙されています。この一連の問いの強調点が、「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞く事が出来るでしょう」と語っています。15節のイザヤ52・7節の引用によってp1148宣べ伝える者はすでに派遣されていることが明らかになっています。したがってパウロは、聞いたことを何故信じなかったのか、何故御名を告白し、呼び求めないのかと、ユダヤ人の不信仰を責めているのである。

信仰が従順と結び付くように、不信仰は神が提供しておられる恵みを拒むことに直結しており、そのような人々は不従順の責任を問われる事になる。このイザヤ52・7節の引用は「良いことの知らせを伝える人々」と複数形にすることによって、キリストの福音を宣べ伝える人々をさしています。「なんと美しいことか」は、彼らが派遣され、福音を語ることがちょうど良い時になされたことを物語っています。福音はそれほど周到に伝えられた。したがって、自分は彼らから福音を聞かなかったという言い訳は成り立たないのであります。

しかし16節を見てください。これはイザヤ53・1節からの引用です。ここで言われている「知らせ」は、福音のメツセージ、福音の内容であります。苦難のしもべ(メシヤ)についての使信をだれも信じなかったというこの嘆きのことばは、そのまま、十字架につけられたキリストを語る説教を聞いても信じなかったユダヤ人に対する嘆きとなっています。次に17節は「キリストについてのみことば」であります。しかしユダヤ人たちは、復活して天に挙げられた主が、聖霊によってかたられる御言葉を聞いたのであります。

それにもかかわらず福音を拒絶した彼らの責任は重大であります。18節は、イスラエルから彼らの弁解の根拠となるものをすつかり取り去るために記されたものであります。これは詩編19・4節の引用であります。(詩編19・5節新共同訳)ユダヤ人たちは、キリスト教の説教を聞いた。この詩編19・5節を福音の世界大の宣教という意味で用いています。19節は18節の内容をいつそう深く掘り下げています。まずモーセの言葉、申命記32・21節p333引用言葉によりローマ10・20節はイザヤ65・1節の引用p1167には異邦人によって神が「見いだされ」、また神も彼らに御自身を現された。という特別掲示と、それに対する応答があったという事をイザヤ65・1節で語っています。ローマ10・21節を見てください。これはイザヤ65・2節の引用同じくp1167神は「不従順で反抗する」イスラエル人に、忍耐強く憐れみを持って語り続けられるのであります。

まるでルカ15章の放蕩息子の父親のようであります。しかし、福音の宣教は、復活のキリストの言葉を全世界に向かって語ることであり、信仰と、不信仰、従順と不従順の応答を導き出す。それによって、神の永遠の予定は実現していくのであります。私たちの近くにある御言葉を拒否することは、1・18以下で論じられた「神を知っていながら、その神を神としてあがめない」罪以上の思い責任を人に課すのであります。神のみことばが人と出会うところで実現していきます。それだけに、福音を伝道する者にも、これを聞く者にも大きな責任が伴うのであります。

結び

もう1度10・14~21節を見てください。キリスト教は伝道の宗教であります。キリスト教では、キリストの福音を聞き知った者は自分の方から出かけて行って、これを伝えようとします。伝道、ミツションこそ、キリスト教生活そのものと切っても切れない、基本的な働きであります。エミール・ブルンナー博士は「火が燃えることによって存在しているように、教会は宣教によって存在する」といわれました。このようにキリスト教は伝道ナシにはあり得ない。それは伝道がキリスト教の本質と関わっているからであります。

第1に伝道は主イエス・キリスト御自身からでるものであります。第2にこのキリストは、ただわれわれの所に来られて出会われたというだけでなく、我々の罪のために十字架についてくださいました。ここにキリストの愛があります。このキリストの捨て身の救いを知った私たちは、これを1人でも多くの人々に伝えなければならない責任があります。第3に伝道はキリスト者が人々に対して果たさなければならない責任があります。お互いにこの素晴らしい福音を伝えるものにしていただきましょう。

主を信じる者」2020・8・9説教要旨

朝位真士

 今日はローマ10・1~13節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をイスラエルの失敗と、信仰による救いとして、1は同胞のためのパウロの願いと祈り2~3イスラエルの誤り4~8律法による義と、信仰による義9~11救いを受ける道12~13主の名を呼び求めるすべての人を救う福音とあります。

ローマ10・1~13節を見て下さい。この箇所では、信仰による救いを拒絶したことが、ユダヤ人が捨てられた原因であること、(3~4)、信仰による救いは神の企画と自由の賜物であって、旧約に預言されていること(5~11)、信仰による救いの範囲は限られておらず、一般的であること(12~21)。をしるすユダヤ人は神のために熱心であったが、それは知識による熱心ではなかった。(2)。すなわち神の御旨をわきまえての熱心ではなかった。ユダヤ人が神の義を知らなかったのは(3)、神がお知らせにならなかったからではない。神の義は律法と預言者(すなわち旧約)のあかしするところで(3・21)、神はこれをあまねく示しておられるのに(18-21)、彼らは心をかたくなにし、神の義を無視したので、知る事が出来なかったのであります。

5~13節は、律法による義に対して、信仰による義をあかしする為に、旧約から申命記(6-8、申命記30・12~14)、イザヤ書(11,イザヤ28・16)、ヨエル書(13,ヨエル2・32)など律法と預言者から適当に引用して、信じる者は(すべて)救われ(11,12)神に祈る(全ての人)は豊かに恵まれる(12)事を述べ、信仰とはただ心と口を働かせてする単純な事であると説く(8-10)救いのみ業はキリストにおいて成就しており、人の助けを必要としない。救いを得る道はただ信じるだけで、信仰による救いを得るのは実に容易で、ただ信じ、心でそれを口で告白して祈りの求め、またあかしすればよい(8~10)。ただしその救われるための信仰とは、キリストの復活を信じるのであります。(9)(口で、イエスは主であると告白)するとは、イエスを救い主として承認するだけでなく、口に言い表し、主の名を呼んで祈ることであり、叉イエスを救い主として信じることを証し、あかしすることは救いの完成に関係があります。信仰を告白し、受けて恵みを証することは、信仰生活において最も大切な事であります。(マタイ10・32~33)。p18引用しています。岸千年先生は10・1~4的をはずれた熱心(1~4)としてユダヤ人は、ユダヤ人は、確かに神に対して熱心であろうとしました。しかし、その熱心は、ゆがめられた熱心でありました。深い知識によらない熱心でありました。神の視野にたたない熱心は、馬車馬的な狭い熱狂を産み出す。神との交わりの内に、神によって導かれ。教えを受けることによって、生じる神の視野に立つ知識を、ユダヤ人たちは持ち合わせていませんでした。だから、神が預言者を通して、与えたうた、神のみまえに立つ道を見ることが出来なかった。しかし信仰によって、神の備えたもうものを心からよろこんで、受ける態度は、律法の与えられる前から、神が求めておられることであります。それを実証したものはアブラハムであった。律法には行為つきまとい、キリストには信仰がつきます。ユダヤ人の過失は、信仰によって神の御前に立つ道に、入らなかったことであります。10・5~13節では書かれた言葉と語られる言葉が記されています。

律法は書かれた言葉であります。モーセは、石の板に書き付けられた律法を神から受けた。しかし信仰による義という表現は、信仰のよって与えられる、神のみまえにたちうる資格であいます。さらにパウロは、話の筋を1歩勧めて、この信仰による義が、言葉に関係していることを告げています。主を呼び求める者には、例外なく救いが与えられるというパウロの言葉の中に神における徹底した一貫性をみるのであります。

結び

もう1度10・1~13節を見て下さい。カールバルトは、「神の言葉に」ついて、三つの形があると説明しています。第1は受肉の言葉としてのイエス・キリストであり、第2は書かれた神の言葉としての聖書。第3は語られた神の言葉としての説教だと語っています。第1のことは神御自身が人間の世界に入って来られ、神が人間になるという、イエス・キリストの「受肉」の出来事であります。第2は神の言葉である聖書は、このイエス・キリストを頂点とする「神の救いの歴史」を書き記したものであり、イエス・キリストひいては神へと人間を導くものであり、第2の神の言葉であります。そして第3に説教は、聖書を今ここで神がわたしたちに語るものとしての第3の神の言葉であります。信仰の言葉は、イエスを主と告白し、死者の中からいイエスの復活を信じるように導くものでありますから、人を救う力を持っています。「イエスは主です」との告白は、キリスト信仰の核心であり、聖霊の力のみが、この告白を可能にします(1コリ12・3)。

「神の恵みに感謝」2020・8・2説教要旨

朝位真士

 

私たちキリスト者は神のあわれみや恵みを盛られる器で、それによって神の「栄光の富」また「神の恵みの絶大な富が示されるのであります。(エフェソ2・7)怒りの器は神の裁きのため、あわれみの器は神の恵みのための器で、1つは神の義を表すもん、1つは神の愛を表すものとして用いられる。私たち異邦人信者は、なんの功績もなく、またなんの価値もなく、(義を追い求めなかった)ばかりか、かえってただ罪を追い求め、神に背を向けてわがまま勝手な生活を送っていたものであるが、救われた今は(義、すなわち信仰による義を得た)のである。(30,3・22―24)。けれども選民たるイスラエル人は、正しい律法を熱心に守っていたが、その目的の義を得ることが出来なかった。それは、行いによって得ようと努力したからである。彼らは自分の力に頼ったため、せつかくの救い主につまづいていたのである。(31,32)。彼らが力を尽くして追い求めてもなお得られなかった義を、神は価なしに私たちに与えて下さった。このお恵みを深く感謝し、「あわれみの器」としての本文を全うしたいものでる。

 ローマ9・30~33節を見てください。ここでは信仰か行為かということが記されています。パウロは、いわゆる救いにおける神の知恵の輪に直面して、その輪の跡切れを解決するものは何かという問いを出しているのであります。信仰か行為か。どちらに軍配があげられるのでしょう。この問いに対してパウロは、自分の体験から解答を出しています。「つまづきの石、さまたげの岩」こそ、救いの知恵の輪の「かなめ」である。しかも、その「かなめ」が、隠されています。それを見つけるのは、信仰か、行為か、パウロはもちろん、「信仰のみ」というのであります。神のみ前に立つ資格を得ることこそ、人類の最大の目標であります。イスラエルも、その他の民族を、それを望んでいました。ちようど、ウサギと亀とのかけくらべのように、イスラエルに伍して、他民族も走った。しかし、イスラエルの方が優位であつた。イスラエルには他民族のもたない乗り物があったからであります。それが律法であります。イスラエルは、神のみ前に出るための乗り物を持ちながら、運転を誤ったのであります。神の方向に進路をむけないで、自分の方向に向けてしまった。神に逆行したのであります。ウサギの油断に等しい決課になりました。それは、自分の行為によって神への道をうち開く行為でありました。他の民族は,律法を持たなかったので、律法を彼らのために代わって完全に履行してくださった神の子を乗り物としました。それが信仰であります。

神の子イエス・キリストは、取るに足りないように見えながら、実は、かけがえのない神の知恵であり、無力に見えながら、無限の力をお持ちでありました。これが躓きの石といわれる理由であります。詩編118編のこの言葉はキリストを象徴しています。したがってキリストは愛の人であり、また憐れみに富んだお方であります。ですから「石」は、愛またあわれみをあらわしています。このローマ9章の内容から推察して、パウロは、神の真意こそ、愛しようとし、あわれみもうとする意志であることを告げています。しかも人間の罪のゆえに、其の憐れみが、「つまづく石」として与えられていますのであります。信仰によって、それが得られるためであります。わたしたちには不可解であります。しかし、神様の側には不正はありません。不徹底はありません。あまりにも徹底されていますので、私たちは理解できません。だから信仰がひつようなのであります。へブル11・1~3p414「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人達は、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって、創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」とあります。ここに、信仰によって生きた人々のことが証されています。特徴的な言葉は「信仰」ということばです。これはピステスというギリシャ語ですがこれは信頼。誠実、真実という意味があります。私たちは神様に対してピステスをしていますでしょうか。これは私自身に神様が問われている質問です。皆様は如何でしょうか。

結び

もう1度ローマ9・30~33節を見てください。ここでは異邦人の救いと、ユダヤ人が見捨てられたことと、この2つの立場が生じた理由を述べています。

33節はイザヤ8・14,28・16p1073、とp1103の引用です。(1ペテロ2・6,8)p430を見てください。人が信仰による義の道を追い求める事をためらうのは、そこに十字架というつまづきが置かれているからである。しかし私たちは「失望させられることがない」。この約束は、終わりの日に罪に定められることはないということであります。

来るべき終末の審判に耐え得るためには、キリスト信じる信仰によって神の義をいただく以外に道はありません。その救いの道にそびえるキリストの十字架につまづかない人は幸いであります。

「憐れみの器」2020・7・26説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・19~29節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの箇所を9・19~23信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。24~29このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語りつています。ローマ9章においてパウロは、神の選民であるユダヤ人が、なぜ神の子キリストの福音を受け入れず、選民の資格を失ったように見えるのかという問題を取り上げてきました。これに対するパウロの第一の答えは、ユダヤ人を選民したのは、彼らの能力や素質ではなく、ただ神の憐れみであったという事でした。ですから、人間を神の民とするのもしないのも、神の自由であり、「9・18」。このように、神の恵みが自由な恵みであることを強調したのであります。これに対して人々が強く反論するであろうと予想して、その反論に対する答えを書きしるしたのが、今日の箇所であります。

本 ローマ9・19~29節を見て下さい。ここに神の真意が語れています。神は、人間を悪魔の手から解放するために、悪魔的力に御子をゆだね、そのことによって、悪魔を克服したもう。神の御計画には、一種の循環運動のようなものがある。しかし、知恵輪のように、この循環運動の中には、私達にわからない部分が含まれています。神が悪の力にふりまわされているのである。その「分からない部分」だけを見ていると、それが神に対する疑問となってくるのである。19節を見て下さい。愛と憐れみの神の手になるものが、神から不正な扱いを受けるはずがない。造られた者は、神に反逆しているのだから、当然、全被造物は、神の怒りに値するものである。それにもかかわらず、20~23節を見て下さい。そのことは神の憐れみの証拠ではないでしょうか。そのうえ、それらの「あわれみの器」のみならず、他の、怒りの器さえ、救いの恩恵を被る事が出来れば、神の憐れみは、一層あきらかになるでしょう。怒りの器に対し、「憐れみの器」が神によって前もつて用意されているという、御計画に従って、選びによる召しが、「ユダヤ人」の中だけでなく、他民族の中でも、着々と実行されたのである。パウロは、神のなされる悪の力克服の事実を聖書によって、裏づけた。ホセヤとイザヤからの引用句が、肩をならべるのである。ホセア2・25,2・1、イザヤ10・22―23、1・9の70人訳からの引用(ローマ9・25―29)。異邦人が神の民にくわえられることは、旧約の時代からすでに神の救いの計画と展望の中にあったとパウロは語っています。」ホセアの言葉とイザヤの言葉とだけでも、神は、どれほど、手際よく、悪のちからを克服し、悪の力の奴隷であった人間の身分を変えて、神の子とされるかということを的確に表現したホセアの言葉に注意することを忘れないようにしたい者です。キリストの救いのよきおとずれが、ここにきかれる。救いとは、神のみまえにおける身分の変化である。神への反逆者が、神の子となることである。奴隷と神の子とでは、身分の上に天と地との相違がある。神は、人類を滅亡にみちびくことを考えておいでにならないことをハッキリ知ることが出来る。

結び

イスラエルの歴史は、神の選びが実現されていく歴史である。また、それは滅びに定められた者の実現の歴史である。しかしそれ以上に、滅びに定められた者に対する神の深く大きな忍耐と寛容の歴史でもあり、やがて異邦人が憐れみの器として登場することを促す歴史でもあった。そして神が憐れみの器として「私達」、すなわち教会をユダヤ人と異邦人が混じり合ったものとしてお召しになるとき、神は約束を実現する。神は、ユダヤ民族だけでなく、広く世界の民の中から御自身の民を集めてくださる。教会は、新しいイスラエルであり、真のイスラエルとなるのである。人間おかれている条件の根本が、神に造られた存在ということであります。この点では人間も陶器も変わらないのであります。創世記2章には神が土で人間を造り、それに命の息を吹き入れられると生きた人間になったと言われています。人間あり陶器と同じように土のもろさをもっており、土より出でて土に帰ります。ただその土の器に神が命と恵みを注いでくださるゆえに、万物の霊長として立っているのであります。従って我々は、被造物としての謙虚さを持って、神によって造られ、置かれている条件を受け入れて、神に仕え、神に応えて生きる事が大事であります。

「神の憐れみ(あわれみ)」2020・7・19説教要旨

朝位真士

 今日はローマ9・1~18節を通して聖書を見ていきましょう。米田豊先生はこの箇所をローマ人への手紙は8章までで一段落を告げ、8章の高い経験からすぐ12章の実行の部分に続くべきであるが、教理の終わりの部分に9、10,11章の3章を挿入して、ユダヤ人の選びと福音の関係についてしるしています。信仰による救いとユダヤ人の選びとの調和は、かなり大問題であるが、パウロは「この3章において、信仰による救の道を信じない選民が捨てられたことについて、神のために弁明している。9章では神の絶対主権からこれを弁明し、10章では彼らの捨てられたのは彼ら自身の不信仰のためであることを述べて弁明し、11章では神の知恵ある計画から弁明している。パウロはまず同胞に対する大きな愛を言い表してから(1-3)、彼らの特権を数えあげ(4―5)、神の彼らに対する約束が無効になったのではないことを述べる。信仰による救いと彼らが捨てられた事の関係は、約束に矛盾しない(6-13)。選びは神の大権によることで、信仰による救いと神の選びの秘密は聖書にかなっている。(14-18)。信仰による救い神の選びの秘密は聖書にかなっている(19-23)。このように述べて、異邦人の召しと、選民に残された者のあることを語り(24-29)。かえって、異邦人が救われるのは信仰により、選民が救われないのは不信仰に為であることを説く(30-33)。

 ローマ9・1~18節を見て下さい。ここではイスラエル人に対する神の目的が全体で語られています。1-3パウロの同胞民族に対する切なる感情、4-5ユダヤ民族の7種の特権、6-13彼らに対する約束が無効になったのではないこと、14-18選びに関する神の大能と分解することが出来ます。岸千年先生はこの9章全体をイスラエルの救いを9章全体で語っています。1-5パウロの悩みパウロが、一瞬も忘れなかつた事は、同胞ユダヤ人の救いについてであった。

パウロ自身ユダヤ人であり、キリスト者を迫害した経験の持ち主でありながら、今は、キリストの証人である。彼はキリストの教えの宣教されるたびに、妨害し、時には宣教者の生命を危うくするような挙動にでたことさえもあった、にもかかわらず、パウロの心は、同胞のために燃えたのである。1-5節にパウロの人間としての暖かさを感じます。同胞が、キリストの救いに預かることと、パウロが、悪魔の手に渡されることが、交換条件になっています。6-13節を見て下さい。ここに神の選びー約束の子ここに、パウロは、神の光にてらされた選民イスラエルの実情をここに具体的例としてあげながら、神の御計画の実行にあたっては、人間にとっては、いつも疑問を含んでいるということをあきらかにしています。まず第1にパウロが問題にしたのは、神の言葉の有効性ということである。

何故なら、神の言葉の有効性が、確認されるなら、その言葉は、いつかは、必ず、成就するということも確認されるからである。次にパウロは、冷静にイスラエルの現実をながめる。その観察の結果は、次のようである。このことを追求すると二つの線が出てくる。

神の選びの計画―召しーアブラハムーイサクーヤコブー約束の子、エサウー肉の子。約束の子こそイスラエルであり、アブラハムの子孫にふさわしい内容を備えた者である。これに反して、同じアブラハムから出た者でも、その名にふさわしい備えない者たちは、肉の子である。9・14~18を見て下さい。神の真意が語られています。神は、御自身が、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうとする者を、慈しみたもうのであります。ローマ9・15~16節を見て下さい。神の自由な意志の働きから、憐れみの行為が出てくる。出エジプト7・13、8・15、9・12を見て下さい。この言葉をパウロは引用したのであります。神の愛と憐れみに対し、憎しみと、心をかたくなにすることとは、人間の側の事態に応じ、神の御計画に従ってからみあって、具体化するのである。しかし神は、どこまでも愛であり、憐れみたもうおかたであることに変化をきたすことはない。エジプトの暴君パロに対して神がなさったことでさえ、憐れみの枠からはずれてはいなかった。同時に、神のイスラエル解放の御計画からも逸脱していなかった。この二つの交わる点こそ、エジプトの暴君の立たされた場所であり、その場所で、彼は1つの役割を演じたのである。それは、神の名が全世界に言いひろめられるためであった。

結び

 今日のポイント9・15~16節をもう1度見て下さい。この箇所はわたしが箱根のケジックコンベーションという聖会でスコットランドのジョジ・ダンカン博士のメツセージを聞き献身を決意した箇所でもあります。1970年頃のことであります。そこで決心して1年間祈って毎週土曜日に淀橋教会に行って、日曜日朝5時30分の早天祈祷会に出て、教会学校から礼拝、夕拝に出て千葉の市川の会社の寮に戻り、東京まで出て仕事をして、1年後退社して聖書学校に入学して、1975年に卒業して北九州復興教会、曽根集会所に19年間奉仕して1994年4月桜ヶ丘教会に赴任にて26年目を迎えております。このローマ9・15~16節のみ言葉にお祈りの中で導かれました。先生のメツセージは出3~4章のモーセの召命の記事でしたがその夜徹夜でお祈りして献身の召命が与えられました。出エジプト33・19p150ここで神の絶対主権が確認される。神の憐れみと慈しみは、一方的に神の選びであります。救いも全く神の恵みであり、憐れみであります。前日銀総裁であり、教団阿佐ヶ谷教会の役員でいらした速水優兄弟は人生の目標は神の召しに答えることだと言われました。まさしくその通りダと思います。私達の人生の根底に、我々の誕生の前から我々を知り、神の民とすることを定め、我々を選んで導かれる、神の御手が働いているのであります。このことを心に刻み、この神の召し、招きの御声を新しく聞き、神の民の一員として、神の国の建設のために励んで参りましょう。

「神の愛の勝利」2020・7・12説教要旨

朝位真士

 今日はローマ8・31~39節を通して聖書を見ていきましょう。今日でローマ8章が終わります。米田豊先生はこの全体を通して律法の下からの解放。内住の御霊の働き。勝利の凱歌として、1~2キリストにある自由。3~4律法の要求を満たすキリストのあがない。5~13肉的な人と霊的な人。14~17神の子たる者の特権。18~22今の時の苦しみと、全被造物のうめき。23~25からだがあがなわれることの望み。26~27御霊の助けととりなし。28~30摂理に関する神の御旨と、選びに関する神の目的。31~39キリストによる勝利の叫び31~34神の保護、選び。キリストのとりなし35~39愛、神の愛による勝利。永遠の安全。と分解しています。

本 今日のローマ8・31~39節を見て下さい。ローマ8・31~39節には、主イエス・キリストの溢れる御恵みと、このキリストを信じて生きる者に与えられている勝利の人生が、声高らかに歌い上げています。ここはローマ書のキリスト教信仰の基本の結論であります。「神がわたしたちの味方である」(8・31)は、この結論の要約言ってもよいでしょう。「味方」と訳された言葉(ギリシャ語の(ヒュペル)は、英語ではforであり、「ために」とも「代わって」とも訳されています。神はわれわれのために身代わりになってくださったと言うのであります。32節は「その御子さえ惜しまず」とい言葉は創世記22章12節の言葉そのままであります。族長アブラハムがイサクを献げる場面です。

創世記22章を見て下さいp31です。この時の「自分の独り子を・・・惜しまない」という言葉が、その通りにローマ8・32節に使われています。神御自身は御子イエス・キリストを惜しまないで十字架につけて人間のために犠牲とされたのであります。人間の救いをめぐる神の愛の活動は、それは、現在的であって、過去的ではない。といことである。神によって、御計画のままに行われる救いに実施すなわち、神の救いのみわざは、不思議な面をもっているのである。これによって神の愛の生きた力にふれるのである。愛は理論ではない。悪魔との戦いのなかに、具体的にあらわれるのである。キリストを信じる者は、自分が、その愛の中あることを信仰を持って知らされるのである。

神の愛が、「わたし」に与えられていることを信仰によって知る時、神は「わたし」の味方であるという確信を与えられるのである。神は「わたし」の味方と考えるなら、その線に立って、大別にして2つになる。神の側の事柄と、キリスト者側の事柄とである。神の側の場合は1・神はキリストを死に渡したもう。2・万物をも賜う。3・キリストは、父なる神のみこころに一致して死に、そしてよみがえりたもうた。4・キリストは、神の右に座して、わたしたちのためにとりなしたもう。その支配はおわることがない。キリスト者の側の事柄は、神の側の出来事を原因として、あらわれるのであるが、つぎの3つのことがいえます。1・キリストにある者は、艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣をうける。2・わたしたちを愛して下さったかたによって、あらゆる苦難に対して勝利をえる。3・勝利を得る毎に、神の愛の強さを知り、この愛からわたしたちを引き離すものは何1つないという確信が与えられる。38節をもう1度見て下さい。キリストのうちにある神の愛と「わたし」とを絶縁させるものは1つもない。これがキリスト者が神の愛に押し出されて、わたしのものとするのであります。キリスト者は、神の良き兵卒であります。兵卒は、将軍に対して忠誠をもつ。最悪の事態が身に降りかかっても、たじろがないのが、勝利をねがう兵卒である。キリスト者の信仰の戦いこそ、これである。テモテヘの手紙2・2・1~7節p392見て下さい。キリスト・イエスの兵士としてパウロが書いています。キリスト教の歴史は、キリスト者のキリストへの忠誠の歴史といってもよいでありましょう。

結び

もう1度8・31~39節を見て下さい。特に31節にあった問いに対する回答であります。キリストを通して働く神の愛の力から私達を引き離すものは何もないのであります。神との出会いの故に、永遠なる者と向き合った存在として歴史と人生の最後の瞬間にも、8・39のですから、わたしたちは「御国に生きる」者となるのであります。フイリピ3・20~4・1p365を見て下さい。パウロはローマ書の8・38~39節にもこのことを語っています。どんな被造物もキリストにある神の愛から私達を引き離す事は出来ないと言う確信の告白であります。

悪しき霊の働きは、現代においても種種の占いや迷信の虜になっている。キイスと者はその現実をみて、自らを正すと共に、完全に自由と勝利を得ているかどうかを自問して身を引き締めなければならない。最後に8・31節を歌います。

「万事が益となる」2020.7.5説教要旨

朝位 真士

 今日はローマ8・18~30節を通して聖書を学んで行きましょう。最近地球の温暖化で太平洋上の島国が海面下に沈んで行くという現象も起こっています。人間が自分達だけの快適な生活を求め、また産業を発展させ、環境破壊が地峡の生活を危機に陥れています。生態系の危機であります。これまでの経済を考える人間中心の考え方から、自然環境に関心を広げ、「自然」にやさしい、人間以外の動植物や地球全体と共存する生き方が求められています。パウロはローマ8・19節から22節において、人間と世界が運命共同体として生きており、人間が罪と滅びから解放される日まで、自然や生命もまた、呻きながら、完成の日を待っていると教えています。

 聖書を見て下さい。8・18~25節ここでは栄光の道が語っています。キリストにあって、悪の力に対する苦闘を続ける事は、楽なことではない。しかし、神は、キリスト者が、そのような行き方を続ける事によって、ついには、神との交わりの深さ高さ広さに達することを約束されたのであります。今のこの時に苦しみとやがてわたしたちに現わされようとする栄光との間には、比較にならないほどの大差がある。パウロはここで、被造物全体の秘密をつげるのである。被造物全体は、人間をめぐって、相互に関連している。人間が神との関係の破れの中にいる限り、造られたものはみなその破れの中にいる。

しかし、パウロは、現実から目を離してはいない。被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共にうめき共に産みの苦しみを続けているというのである。神の勝利の歌は、「うめきのシンフォニー」のつづきである。苦難なくして栄冠はない。キリストの中にある呻きこそ、栄光へ通じている。キリストにある呻きは、絶望の呻きではある。確かな根拠にたっている呻きである。その根拠は御霊の最初の実をもっているということである。聖霊の与えられる約束をイエスが与えられたことはヨハネ福音書によって、明らかであるが、パウロにとって聖霊が与えられ、それによって、驚くべきことが、つぎつぎと、あらわれてきたことが重大である。聖霊は、御父と、御子とより出で、御父と御子とともに、創造し、いのちを与えたもうたのである。従って、聖霊の働きのあるところ、そこに、具体的な現象があるのである。全人類、全被造物に、個別的にそれぞれの身分の変化を実現させるおかたこそ聖霊なる神である。このような三一の神のみわざこそ、わたしたちが、忍耐して待望する心のよりどころである。

8・26~27節を見て下さい。ここでは聖霊のとりなしが語られています。キリスト者の弱さは、現実の問題に直面して、正しい方向をとらええないという点である。この弱さを助けてくださるのが、聖霊である。キリストは、聖霊のことを助け手と呼ばれた。それは弁護者という意味である。キリスト者の弱さをしりつくしたうえに適切な支えを与える御方であるというのである。しかも、聖霊は、言葉にあえあわせない切なる呻きをもって、キリスト者に代わって、祈って下さるのである。8・28~30節を見て下さい。ここに選びの奥義が語られています。

結び

ここに神の恵みの選びが語れています。パウロはローマ8・17節において、キリストの救いを与えられたものが、神の子であり、神の国の相続人であることを語りました。そして、18~27節にかけて、最初の人類の堕罪によって、死と滅びの呻きの中にある人間と世界に神が聖霊を送って共に苦しむことによって救いの道が開けたことを教えました。

今日のところは、その結果で、人間を救う為に神恩寵の選びが語られています。8・28をもう1度見て下さい。「神を愛する」のは、神の愛を受けてそれに応える姿であります。パウロは、イエス・キリストの十字架と復活によって、人間を救う神の愛が溢れるばかり注がれたとき、人間はその愛を神に返し、「神を愛する者たち」とされたのであります。パウロはこれを「ご計画に従って召された者たち」と言い換えています。ここに「神の予定」という考えが表されています。神が以前から「ご計画」なさり、その救いを人間一人一人の人生において、実現してくださるのであります。「召される」というのは、神が予定された救いを与える為に、歴史的な働きかけ、呼びかけをされることであります。「万事が益となるように共に働く」という場合の「万事」は、18節に出てくる「現在の苦しみ」のすべてのことだと思われます。それは、具体的には後の35節から39節に列挙されているような苦難や滅びであります。被造物と人間はそれによってうめきくるしんでいうのですが、神はそれら全てを摂理の御手を動かして、究極の救いと光栄へと導かれてゆかれるのであります。8・29~30ここに神の救いのご計画が「救いの秩序」として示されています。

人間の救いは、「予知」、「予定」「召し出し」「義認」「栄光」という順序を踏んで実現するのであります。私達は「現在の苦しみ」の歴史の中で、神の救いのご計画を読み取り、希望が与えられ、それゆえ忍耐をもって前進するものであります。最後に私の証をさせて下さい。5~10分以内です。時間がなければ割愛します。お祈りします。