朝位真士
序
今日はローマ11・25~36節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの11・25~27イスラエルの将来の栄光である国民的救いの預言とその時期。28~32イスラエルおよび異邦人に対する神の経綸。33~36以上3章(ローマ9~11章)の讃美的結論。と分解しています。パウロは今結論にたどり着く。25節にある「奥義」とは、隠されているやがて啓示されるべき救いの出来事を指しています。イスラエルの1部は、「かたくなに」なって神の民としての実を失ったが、それはいつまでもそうなのではなく、「異邦人に完成のなる時」までと言う期限付きであります。福音が全世界に宣べ伝えるまで再臨はないと言うことはこれと関係している(マルコ13・10)。異邦人の中から選ばれた者がことごとく召されて神の民となる時が到来すると、イスラエルのかたくなさも終わりをつげるのである。
本
11・25~36節を見て下さい。25~26異邦人全体が救いに達するまであり、こういて全イスラエルが救われると言うことです。しかしふさわしくない者はその群れから除かれ、選ばれた者からなる総体として救われるイスラエルという意味であります。26節27節で語られるイザヤ書の引用は、パウロがここで語る奥義が彼に初めて啓示された内容でないことを明らかであります。(イザヤ59・20-21,27・9)この11・25-27は神の救いの奥義が述べられています。神の奥義は聖書にしるされています。しかしそれを問われるには、聖霊によるほかはない。異邦人がすくわれるのは、キリストを信じる信仰によるのであり、イスラエルがすくわれるのも同じであります。キリストを受け入れるか、受け入れないかによって、救われるかすくわれないかがきまるのである。これは、全人類に対して平等である。この点においてイスラエル人と異邦人との間の差はなくなる。キリストにおいて、民族と民族との間にあったあらゆる差は消え去る。キリストにおいて新しい契約が成立し、万人はその契約の中で救いを約束されるのであります。これこそ、イスラエルの希望がおかれる場所であります。11・28~36節をもう1度見て下さい。パウロは、イスラエル人と異邦人との問題について、いささかの疑念を残さないようにしたいと考えた。だから、11節の結論の中で、更に、突き込んで問題を明らかにしようとしました。イスラエル人と異邦人との差がどこで生じるのか、それは福音を巡って生じるとパウロは語る。この問題は、律法という乗り物に便乗したイスラエルは、福音を理解することが出来なく神の敵となった。しかしこのことは、異邦人のためになることになった。ところが、神の選びは、不変であるから、どれほど、イスラエルが、神にそむいても、その選びは無効にされることはありません。人間の側に不誠実があっても、神においては、誠実があるばかりであります。ただし、人間の不誠実は、そのまま、神に受け入れられるのではなく、不誠実が、誠実にたちかえるには、それだけの道筋があることは、すでに見てきた通りであります。異邦人が神との交わりに入れられたのは、従順だったからではなく、彼らが不従順であったにもかかわらず憐れみを受けたからにほかならない。そうだとすれば、イスラエルも、不従順の状態にあるにもかかわらず、憐れみを受ける望みは、十分、残されているのであります。すなわち異邦人も、不従順だったし、イスラエル人も不従順でありました。しかも、神は、この不従順な者に向かって憐れみを与えられたのでした。だからパウロは、このことについて大胆に次のように言った32節を見て下さい。この言葉は、単なる楽観的発言ではありません。神の深い知恵が、背景をなしています。知恵の輪が解き明かされたのであります。わたしたちには、あまりにも、不可思議であります。独断とも聞こえます。気まぐれな非現実的な、また気休め的な楽観論とも聞こえます。しかし、これはその様なものではありません。だからパウロは、神のこのような活動に対して、33節「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。」と言って「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう」と言っています。これは、宇宙の創造主、またこれを支えるおかたとの接蝕によって、与えられた知恵を背景として発せられる言葉であります。つまり、信仰から出る言葉であります。万物は、神より出でて、神に帰る。そのような循環運動の一局部に歯車のしきりがあったり、断絶があったりしても、神は、これを克服して、あらゆる故障に勝をえるのであります。悪との戦いにおいて、キリストは勝利者であるということは、三位一体の神の勝利ということにほかなりません。キリストの受けたもう栄光は、三位一体の神の栄光であります。神の救いの奥義を示されたパウロは、栄光がとこしえに神にあるようにといって、人間の神格化を戒め、信仰こそ、神と人間との間をつなぐ唯一のものであることを、新しく私達に思い起こさせるのであります。
結び
もう1度33~36節を見て下さい。ここは頌栄であります。イスラエルの歴史を、異邦人の救いという大問題と共に述べた後、パウロは心からの讃美をささげずにはおられなかった。神の知恵と知識は底知れず深く、その裁きは知り尽くしがたく、その道は測り知りがたい(11・33)。これは私達に、全能なる神はイスラエルの歴史を通し、また異邦人伝道を通して啓示してくださった救いの内容があまりにも偉大で私達の理解を超えていると言うことを言っているのであります。神のみ業を前にして心から讃美を献げているのであります。34,35節はイザヤ40・13~14節、ヨブ41・11節の引用であります。特に35節の「主に与えてその報いを受ける」は、律法の業による義認を暗示する表現であります。ここには、神が人類の創造主であり、保持者であり、完成者であることが示されています。パウロは1コリント15・24-28節を見て下さい。p321を見て下さい。世界の救いである神に讃美の声をあげているのであります。