「礼拝メッセージ」カテゴリーアーカイブ

「神の言葉は力がある」2021・1・17説教要旨

朝位 真士

今日は1コリント1・18~25節を通して聖書を学んで行きましょう。米田豊先生はこの所を資格と体験。教会内の分争。神の知恵と力である十字架。そして1~3挨拶と祝祷。4~7コリント信者の霊の賜物のための感謝。8~9彼らの将来に関するパウロの確信。10~13分争に関する訓戒。14~17パウロの使命。18~25神の力また知恵であるキリストと、その福音のあかしー愚かに見える十字架。26~29弱く見える信者。30~31私達のすべてであられるイエス・キリスト。以上のように分解しています。

コリントはギリシャの一都市である。ギリシャは当時の世界における文化の中心地であり、そこの人々は知識を重んじる余り、ナザレのイエスの宗教を浅薄この上ないものとして軽蔑していた。しかしこの世の知恵で神の奥義を理解することが出来ない。(神はこの世の知恵を、愚かにされ)(20)、知恵を頼む者が神を知ることが出来ないようにされる(21)。ただ知恵を求める者には、十字架による救いの道は愚かなものであるが、ここにこそ神の奥義がある。(22-24)。今も、牧師や伝道者の中には、イエスの人格ヤ教訓は説くが十字架のことはなるべく説かないという人がいる。しかし、人々が嫌おうが嫌うまいが、馬鹿にしようがすまいが、十字架こそは神の力である。(18)。これが福音である。(十字架につけられたキリストを宣べ伝える)(23)ところにのみ神の力は表れる。十字架こそ私達の誇りでなければならない。(ガラ6・14)。p351.神の奥義はとうていこの世の知恵で理解することが出来ない。この世の知恵は神の前には愚かなものであり、神なしの哲学や科学では神の奥義はわからない(19,20)。学問も地位もない者であっても、救いの体験を握る時、世の学問や地位が与えることの出来ない幸福を受ける。

一コリ18~25節を見て下さい。パウロは前節で、知恵の言葉に頼らず、ひたすら十字架の福音を宣べ伝えると言ったが、それは何故であるか。その理由をここで述べています。18節を見て下さい。「十字架の言葉」は知識をてらう人々には「愚か」に見える。イザヤ53・2p1149。現にアテネの人々はパウロの証言を聞いて笑ったのだ(使17・32)

 p249しかしそれは「滅び行く者に」とってそう見えるのであって、「救いにあずかるわたしたちには」にはまさしく「神の力」なのであります。その力は人の力ではない。肉の力ではない。聖霊の力であります。生ける神の力であります。不思議な創造の力であります。人を罪から救って一変させる力であります。そこに神の言葉の力があります。神を信ずる者は、その力の事実を体験しています。だから世の中の批判に作用されず、確信は動かない。また感謝もつきない。救いに預かった確信のある人はいつも喜んでオリ、絶えず祈り、すべてのことを感謝することが出来ます。そしてこの素晴らしいイエス・キリストの福音を1人でも多くの人々に伝えずにはおられないのであります。イザヤ29・14節p1105

人間の知恵で救われるものでないことが旧約聖書イザヤ書に預言してます。知識を誇らず、純粋に神を信ずる者が祝福されることは、今も昔も同じことであります。(マタイ11・25~30)p20を見て下さい。

結び

もう1度1コリ18~25節を見て下さい。イエス・キリストと十字架の事実をありのままを人々に提供する。それを素直な心で信ずるならば、そこに救いがあります。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。現代社会においても、人はユダヤ人型か、さもなくばギリシャ人型である。前者は宗教に何かしるし、すなわち、目に見える御利益がなければ信ずるに足りないという。後者は自分の理性を最高の位置において、この審判に合格するものでなければ、、正しい信ずるに足る宗教ではないと主張する。しかし、パウロはわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。救いはイエス・キリスト以外にはないのである。使3・1~10p217とp219使4・12節を見て下さい。生まれつき足の不自由な男の癒やしの記事です。キリストの弟子使徒ペテロとヨハネの2人のイエス様によって癒やされた記事です。感動的記事です。

さてもう1度1コリ1・23~25節を見て下さい。召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのであります。かって無能と見えたキリストが、今は神の力なのであります。矛盾であり、愚かであると考えられた福音が、今ヤ人生の根本を解決してくれる最も深奥な「神の知恵」となっています。福音は「神の知恵」であり、「神の力」であります。私達は今年この町には主の民が大勢いるとの確信をもって福音宣教のために励みましょう。私達の罪のために十字架にかかって死んで下さり3日目に復活されて今も目には見えませんが聖霊様と姿で私達といつも一緒のおられるイエス・キリスト様と過ごしましょう。ハレルヤ

「主にある一致」2021・1・10説教要

朝位 真士

今日は1コリント1・10~17節を通して聖書を学んで行きます。この1・10~13節は分争に関する訓戒。14~17節パウロの使命。とあります。キリストの教会の進歩発達は、信者の一致結合によってなされる。その進歩衰退は信者の分裂分争に原因する。コリントの信者は恵まれた信者であったが、不幸にもその内部に分裂があり、信者は互いに党派をつくり、パウロ党、アポロ党、ペテロ党などの派閥があり、一方にはまたそのいずれにも属さず、唯キリストに属するだけの者とがあり、互いに反目していた。

 では1・10~17節を見て下さい。ここでは教会内の分争が語られています。人が集まるところ、集団の形成されたところに必ず生まれるのが分争であり、派閥である人は分争を好み、分争を起こすことを喜び、個人的な紛争から国際間の紛争に至るまで、その原因のほとんどは両者の利害関係による自己主張である。これは昔も今も変わらない。パウロが先ず第1に取り上げた問題は教会内の紛争である。しかし彼の態度はきわめて穏やかであった。10節を見て下さい。パウロはコリントのキリスト者に「命じる」のではなく、「お願い」しています。パウロはキリストに代わってお願いしているのであります。パウロが願った内容は、「どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心同じ判断を完全に保つてください」ということであった。パウロは、彼の耳に入った情報があり、コリント教会には4つの党派の対立があって、それぞれのリイダーの名のもとに自分を主張し、他を排斥していることを知った。そこで彼はコリントの信徒に呼びかけて言う。11~12節を見て下さい。この分争は、信仰上の教えについての堂々たる論争ではなく、偏狭な自己中心主義から出た者であった。更にこの分争の原因がどのようなものであっても、教会の一致を乱すのが悪魔の仕業であることは間違いありません。パウロはこの状態を重要視し、主にあって彼らを叱責しています。13節を見て下さい。教会の分争は、その分争の主をキリストの代わりに擁立することである。17節を見て下さい。パウロは自分の使命を語る。自分の使命は福音の種蒔きであって刈り入れでないこということなのであります。コリント教会の分争の原因となったのは嫉妬心であり、競争心であった。コリント教会の分争が教会に大きく打撃を与えたのは、本来自己犠牲に生きるべき教会が自己主張に生きていたからであります。もう1度17節を見て下さい。パウロはひたむきに福音を宣べ伝えるために召された。しかも『知恵の言葉を用いずに』宣べ伝える為と言っています。「知恵の言葉」とは、ギリシャ的雄弁術であり、哲学的衣をつけての表現である。もともと福音は事実である。たんなる思弁ではない。哲学でも理論でもない。十字架につけられたイエス・キリストをそのまま語れば良いのであります。パウロは率直に、福音の事実をありのまま人々の前に提示しようとしたのであります。

結び

もう1度1・10~17節を見て下さい。

パウロは、キリストの愛をもって、コリント人に分裂・不一致がいかに間違ったことであるかを知らせるためにお互いは兄弟であり、したがって美しい兄弟愛の中に生きるべきだと言っています。パウロはコリント教会に4つの分派を挙げています。1・パウロにつく。

2・アポロにつく使徒18・24節に簡単な性格描写がなされています。彼はアレキサンドリヤ生まれのユダヤ人で、雄弁家であり、聖書に精通していた。

3・ケパにつく彼はペテロのユダヤ人名である。ユダヤの律法を守るべきことを人に教えようとしたのだ。4・キリストにつく。―キリストの十字架を最も単純名言葉で人々の前に示すこと。これがパウロの目的でありました。もう1度1・10節を見て下さい。フィリピ22~3節p362お祈りします。アーメン。

「この町には主の民が大勢いる」2021・1・3説教要旨

朝位真士

新年明けましておめでとう御座います。2021年の年間標語説教を祈っていましたら、使

徒18章1~11節が与えられました。特に18・9~11節が強く与えられました。皆さん御一諸に読みましょう。「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」パウロは1年6ヶ月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。このところを中心に御言葉を取り次いでまいります。2020年はコロナウイルス感染症流行の為礼拝の様式が変わり、毎週礼拝に来られておられた方々がこのウイルス感染症の為礼拝や諸集会に出席されることが出来なくなりました。教会も諸集会も中止せざるを得ない状態になり、礼拝に来られる方も、三密をさけ、マスクを着け、換気をして、大変不自由な思いをされておられると思います。まだ、このコロナウイルス感染症流行の終息を見ることが出来ません。しかし、教会も Youtube(ユーチーウブ)オンライン配信を礼拝説教では配信しています。皆さん方も慣れない礼拝形式で毎回お疲れ様です。早くコロナウイルス感染症が終息されることを祈っています。皆様にもお願い致します。

さて今日の聖書使徒18・1~11節を見てください。パウロは第二回伝道旅行にコリントに行った。コリントはギリシャの商業貿易の盛んな海港であった。小アジアの諸要港と、イタリヤとを結ぶ地形にあるため、旅行者の往来が激しく、従って、市中は世界的色彩が濃く,遊蕩気分がみなぎつていた。町と、この地の教会の状況については、パウロが、コリント教会に送った2つの手紙から、詳しく知ることが出来ます。パウロは、コリントに着くと2人の友人と親しくなり、彼らの家に滞在した。アキラというポント生まれのユダヤ人と、その妻プリスキラである。2人ともロ―マに住み、ロ―マ名を用いていた。プリスキラは、教養の高いロ―マ婦人であったといわれています。職業は天幕造りで、パウロと同業者であったことが、親交の機会となった。2人は、パウロのためには、「自分の首をさえ差し出してくれる」(ロ―マ16・4)ほどの信仰の友であって、パウロに伴ってエペソに行き、エペソ教会建設の功労者となった(18・26)。パウロの伝道が、最初から自給の精神に立っていたことは、コリント人への2つの手紙の内容によくあらわされています。コリントにはユダヤ人の多く、会堂があって、パウロは必ず安息日には、そこに集まるユダヤ人やギリシャ人の説得に勤めていた。その頃、マヶド二ヤ県のベレヤに残っていたシラスとテモテがパウロの許へ帰って来た。彼らはマヶド二ヤの教会の報告と、彼らからの贈り物を携えて来たことが、2コリ11・9に記されています。パウロの天幕造りの手仕事も、2人がくるまでであった。時間1杯を伝道のためにささげて、イエスがキリストであることを、ユダヤ人に力強くあかしした。その結果は、ユダヤ人の反感と、罵声を浴びただけであった。エゼキエル33・4の言葉を引用して、パウロはユダヤ人の会堂を去って、異邦人ティティオユストの家に場所を移した。ユストは、ローマ人でユダヤ教への熱心な改宗者であった。会堂長クリスポは、パウロ自ら洗礼を施した2~3人のうちの1人であつた。(1・コリ1・14~16)

地位のあるクリスポ1家の受洗は、周囲の人々が福音を聞いて悔い改め、入信する大きな力となった。伝道の成功に反面には、また「敵対する者も多い」とパウロは語っています。(1コリ16・9)。パウロの戦いには苦難と弱さがつきまとうた。そのような時、パウロはいつも聖霊の導きを幻のうちに受けて、励まされ、強められたのである。(使徒16・10,23・11,27・24)。それは迫害から守られるだけでなく、10「この町には、わたしの民が大勢いる」との、教会の発展を約束された御言葉を、受けたのであります。パウロのコリント滞在期間は1年6ヶ月となった。この期間に、彼はケンクリヤ、アカヤ全国にわたって伝道し、コリント教会を築き、また2つのテサロ二ケ人への手紙を書いた。この間の伝道の費用の一部が、マケド二ヤ教会からの援助によって補われた(フィリピ4・15)ことも忘れてはならない。

結び

もう1度使徒18・1~11節を見てください。特に18・9~11節を見てください。

ここでは迫られた熱心。神の激励、模範的信者。1~4始めアキラとプリスキラ夫婦と共に働きながら伝道する。5~11節伝道に専念する。コリントにおける伝道の中で、主イエスはパウロに幻の中で彼に現れ、(恐れるな。語り続けよ、黙っているな)と命じ、また主が共におられるから安全であると告げて、(この町には、わたしの民が大ぜいいる)と、救われる魂が多くあることを示して、彼を励まされた(9~10)。これは、その時ユダヤ人たちの反抗(6)によって、いくぶん心が下向きになっていたであろうパウロに対する力強い激励であった。伝道は人の生来の元気や肉の熱心ではできない。天からの火も、絶えず油を注がれ、心掻き立てる必要があります。エリヤがカルメル山上での大いなる栄光を拝した後、敵の脅威に恐れをなした時も、神は彼に「バアルにひざをかがめなかった7千人を、わたしのために残しておいた」と告げて、励まされた(ロ―マ11・3~4)私たちもまた、どこに行っても、反対ばかりされても、なお神が自分に与えて下さる魂のあることを信じ、また全能全愛の神が常に共におられることを信じ、励まされて証をしたいと思います。

今年私たちの身内や友人知己に方々が救われるように祈ってまいりましょう。ハレルヤ!

「挨拶と感謝」2020・12・27 説教要旨

朝位 真士

今日からコリントの信徒への手紙を学びます。この手紙を学ぶに当たって、私の尊敬するホーリネス教団の東京聖書学校院長であられた米田豊先生は注解よりこのところを引用させて頂きます。この手紙使徒パウロが紀元56年か57年の春の頃、エペソから(16・8)書き送ったものである。コリントはアカヤ州の豪華な商業都市で、東西に海を控えて、航海交通の要路にあり、人々は贅沢を窮め、罪悪が横行し、その付近に1000人以上売春婦がいたと言われ、非常に淫蕩な町であった。パウロがこの地から書き送ったローマ人への手紙1章に描写されています。罪悪の背景は、この地だったのである。パウロはさきにこの地に1年半ほど伝道して教会を建設した(使徒18章1~18)。のちアポロもこの地に伝道し、またユダヤ人の教師たちがパウロの使徒権を拒んで、ペテロを賞賛したため、教会内に分裂が起こり(1・12)、教会の秩序が乱れ、信者の中に罪を犯す者が起こった。それゆえパウロは、この教会の分裂を憂え、本書送る前に自らコリントに行き(第2コリント12・14、13・1)、また手紙を送ってそれを戒めた(5・9)。するとそれに対して質疑が生じ、結婚問題、偶像にささげた肉を食べる事の可否問題、霊の賜物の問題、その他について質問して来た(7・1、8・1、12・1)。また「クロエの家の者達」から教会に状態を聞いたので(1・11)、本書を送ってそれに答え、また警告し、教訓を与えたのである。

本書はローマ人への手紙のような系統的な教理を説かず、むしろ実際問題を説くものであるが、結婚問題(7)、霊の賜物の問題(12)、愛(13)、復活(15)などの説明は本書独特の記事である。

コリント1・1~9節を見て下さい。この1~3節は挨拶と祝祷。4~7コリント信徒の霊の賜物に為の感謝8~9彼らの将来に関するパウロの確信。1~3節挨拶が描かれています。現実の地上の教会には、当然清算されなければならない、多くの欠陥があり、不純な点があります。コリント教会はまさにそうでありました。教会の中に派閥の争いがあり、信者の中には不品行の甚だしい者さえいました。それでもパウロはそれを見捨てていません。見捨てないどころか、「神の教会と尊んでいます。彼の心の深さを思うべきであります。教会は神に付ける、信徒の集団である。また信徒の交わりである。だから場所にとらわれない。「至るところにあるわけです」またそれはすべての人々に及ぶ者であって、民族や階級、性別や年齢、貧富や賢愚のいつさいの隔てを超越する。ここにキリスト教会がもっている、その世界的、公同的性質が言い表されています。教会は信徒の交われであるといわれるが、その信徒をもっと具体的にいうならばそれは「イエス・キリストの御名を呼び求める人々」である。教会とは、実に、そうした人々の集団である。イエスは、歴史の中に生まれ、歴史の中で死んでいった1人の歴史的人物であります。しかし、そのイエスが、神より来られたキリスト(救い主)であります。復活昇天されて、今も栄光の中に生きておられる主であります。すべての人が礼拝を受けられる救い主であります。信者はキリストの御名を呼び

求めて、かつ御名によって祈り、御名をかざして働き、御名の下に団結し、御名にのみ栄光を帰する。信徒とは、主イエス・キリストの御名を呼び求める者のことであります。別に表現を借りていえば、キリストによって聖者のことであり、また聖徒として召された者の人たちであります。キリストは、私達の主であり、また彼らの主であられる。地上の全教会は同じキリストを首(かしら)と仰ぐ、キリストの体なのであります。そこに、ユダヤ人も、ギリシャ人も、奴隷も自由人もない。「主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つ」(エペソ4・5)である。まことの一致と協力は、キリストの教会がもつ、著しい特徴の1つでなければならない。ルターは「恵みはわれらを罪より救い、平安は我らの良心を平静ならしめる」といったが、いつも恵みが第1に来て、平安が次に来る。恵みと平安これこそ、パウロが愛するコリントの人々のために祈り求めることの出来た最高の祝福である。「「恵みと平安は」「父なる神と主イエス・キリストから」くるという。すべて善きものは神からである。ここでは感謝が語られています。キリスト者とは、どんな時でも、感謝の出来る人のことと定義した人がいます。誰にするのか、勿論、天地万物を創造された創造主なる父なる神であります。とにかく、感謝は、人を生かす1つの力である。わたしたちが、感謝を持って、いつさいの祝福を受けるならば、神はきつとそれに加えた新しい祝福をそなえられるでありましょう。

結び

もう1度コリント1・1~9節を見て下さい。パウロはコリント人が立派な信仰と行いをしていたから感謝すると言うよりも、神の賜物と真実のゆえに感謝しています。パウロは個々のキリスト者について3つのことを語っています。

1・キリスト者はイエス・キリストにあってきよめられたものである。

2・パウロはキリスト者を聖徒として召された方々と読んでいます。

3・パウロはこの手紙を

イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に召された人たちに宛てて書いています。

次に感謝すべきこと(4~9)

1・実現し合う約束

2・与えられた贈り物(カリスマ)a・救いは神の贈り物―カリスマである。b・人が持っている特殊の才能や技術もまたそうである。

3・究極の目的―主の日それは最後の審判がやって来た時、キリストにある者は恐れことなく、これを迎えることが出来る。

「人となって来られた神」2020/12/20 クリスマス礼拝 

お話と音楽 ベアンテ  ボーマン 先生

ピアノ演奏 ルリ子 ボーマン 先生

本日は、クリスマスの特別礼拝をささげました。会堂に集うことが可能な教会員を中心として、少人数によるファミリー礼拝の形で行いました。

ベアンテ・ボーマン先生とルリ子先生によるチェロとピアノの音楽をお聴きしながら、ベアンテ先生による「人となって来られた神」という題で、「本当のクリスマスの意味」のお話をお聞きしました。

輝き渡る希望がある。それは、「イエスは私たちとともにいる」という輝き渡る希望である。どうぞ、メッセージをお聴きください。

イエス・キリストの誕生」2019・12・13説教要旨

朝位真士

 今日は来週のベアンテ・ボーマン先生のクリスマスチャペルコンサート前にマタイ1・18~25節を通してイエス・キリストの誕生について学んで行きましょう。マタイ福音書はユダヤ人のために記されたもので、ユダヤ人人系図を重んじるためにこのキリスト伝の最初にまず系図を載せる。ダビデはユダ王国の初めに神に選ばれた王である。またダビデの子とは特にメシアすなわち救い主を言う言葉で、ダビデ王の子孫から救い主が生まれるという神の約束があった。この系図の中から4人の婦人がでるが、そのうちラハブはもと遊女、ルツは異邦人である。系図を重んじるユダヤ人の、しかも救い主の系図から、このような婦人が入っていることは、この救い主によって、いかなる罪人も、如何なる民族の者も救われるということを暗示している。(イエス)とは(罪から救う者)を示す名、(インマヌエル)とは(神我らと共にいます)の意味である。(21)(23)すなわち、イエスは救い主であるが、これはまた(人間の間に宿られる神の化身であることを表す名前である。このキリストは私達のためにも救い主であり、また日々私と共にいます主であられる。(なお「キリスト」とは,ヘブル語の(メシヤ)と同義語のギリシャ語で「油注がれた者」の意味である。ユダヤでは昔、王や祭司や預言者は、油を注がれてその職に任じられたキリストは、人の心を治める王であり、また、神を代表して人を教える預言者であって、その名は、この3つの職分を持つ救い主であることを示す。

マタイ1・18~25節を見て下さい。これは、主イエスの誕生の次第はこうであった。と紹介するマタイの記録は意義深いものであった。主イエスの降誕の次第が、これほど荘厳に美しく描き出されたのは、神に対するマタイの信仰と誠実名服従と感動によるものである。

マリヤが神の恵みを得て、主イエスの母とされたことは、名もなく、貧しい、ありふれたひとりの乙女を、その恵みの中で選び、主イエスの母とされたのである。マリヤの婚約者ヨセフも、ナザレの村の普通の労働者であったが、神は、額に汗を流しながら勤労に日々を送るひとりの男子を、救い主の父として選び出されたのである。1・18~22節を見て下さい。主イエスは聖霊によって身ごもられたと記しています。主イエスの誕生については処女降誕と言う言葉よりも聖霊降誕という表現が適切であると考えられる。19節を見て下さい。

ヨセフは不義を憎むと共に、マリヤに対してはあたたかい配慮をした。マリヤを傷つけず、密かに縁を切ろうとした。ところが20節をみてください。主の使いの告げることは単純明快である。マリヤもヨセフにも、これを信じることは容易であったとは思われない。ヨセフが主イエスの地上の父として、またマリヤは地上の母として、神にもちいられるためには、試練を通して強くされることが必要であった。

マタイ1・21~25を見て下さい。

結び

「その名をイエスと名づけなさい」イエスとは、ヘブル名のヨシュヤからきたギリシャ名であり「神は助け主」という意味を持っている。「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」イスラエルの民族ばかりではなく、ルカに記されているように「すべての民」(ルカ2・10)が、主イエス・キリストの苦難と十字架の死と復活によって、もろもろの罪から救い出される。罪とは、本来、ふむべき道を踏み外すと言う語義をもって、人が自分の欲望のままに生き、神に背を向け、あるべき道筋を踏み外した存在となっていることである。それゆえ、「イエス」という名前がとなえられるごとに、神の愛があらたにおもわなければならない。「主が預言者によって言われたことの成就するためである」マタイはイザヤ7・14を引用している。「インマヌエル」とは「神我らと共にいます」と言う意味である。この名前は、主の使いが名付けたイエス「神は助け主」という名前と、その意味において同じである。25節しばしば主イエスの母マリヤだけが重んじられ、ヨセフがわすれられているが、主イエスの父ヨセフの苦悩と信仰を見落としてはならない。このようにして主イエスは、信仰あるヨセフ、マリヤ夫妻の祝福された家庭に生まれたのである。

「神への讃美」2020・12・6説教要旨

朝位真士

 今日はローマ16・17~27節を通して学んで行きましょう。このローマ16・17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。パウロは16章において、美しい信徒の交わりを思いつつ、1人ひとりの名をあげて挨拶を書き送った後、17節以下において厳しい警告を与えています。17節それは美しい聖徒の交わりが成り立つのは、「主であるイエス・キリスト」(18~20)とのいける交わりによるのであり、この主との関係が切れるならば、それは源をふさがれた井戸、ぶどうの幹から切り離された枝のように、霊的生命を失うのであります。キリスト者が「聖徒」(16・2、15)であるのは、自分の力による「聖人」ではなく、キリスト・イエスに選ばれ清められるからであります。そして、信徒の交わりは1人ひとりが主に従うという狭き門を通して、真の連帯の広場にでることが出来のであります。最後の16・25~27では、パウロこれまで詳細に説きあかしてきた福音をローマの信徒1同に思い起こさせ、「この福音は、世世にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものであります。その計画は今や現わされて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に導くため、すべてに異邦人に知られるようになりました」(16・25~26)とその意義を確認しています。そして「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように」(16・27)と、いえす・キリストにある神の栄光を讃美して結びとしたのであります。わたしたちも「ただ神の栄光にのために」(soli Deo gloria)と主を讃美しつつ生きたいものであります。

ローマ16・17~27節を見て下さい。パウロは、17節以下のこの部分で、信仰の友のことを思い出して、「主にある交わり」のいかに楽しいものであるかを考えていたでありましょう。しかし17節以下では、教会内の分裂の警告が与えられています。交わりをおびやかすものは分裂である。パウロは、悪の力の侵入を強く警戒したのであります。だから、キリストにあって勝つように、平和の神に対してサタンとの戦いに勝利が与えられるように祈っているのであります。16・21~24ではパウロは、この人々と共にいることの喜びを現実に体験しることを思えば、キリストにあける勝利を感謝せずにはおられなかった。ただ祝祷だけが、口からでるのであった。私達の主イエス・キリストの恵みが、あなたがた

1同と共にあるように。キリストの恵みだけが、キリスト者の生活の道しるべだからであります。25~27節では信仰の従順に至らせたえ福音の宣教は、永遠の神の命令の目的は、信仰の従順に至らせるためであります。従順は、神を仰ぎ、神の備えたもうものを、そのまま受けることであります。

結び

わたしたちを力づける神は、すなわち唯一の知恵深き神です。ローマ11・33節を見て下さい。この知恵とは救いを得させる知恵です。その知恵の内容は、「義と聖とあがない」なのです。義認・聖化・栄化、まさにローマ人への手紙のメツセージの要約です。だからこそ、「イエス・キリストにより」頌栄をささげるのです。ローマ人への手紙に現わされた救いの知恵、ただ十字架と復活のキリストを信じるだけで、赦罪、義認、聖化、栄化の恵みを受け、神を心から愛し、信じ、従う者と立たせてくださる神、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるようにアーメン

「主に結ばれた者達」2020・11・29説教要旨

朝位 真士

序  

今日はローマ16・1~16節を通して聖書をみて行きましょう。この16章は模範的信者。忠実な牧者の心。分裂の霊に働きと征服。1~2女執事フェベの推薦。3~16諸聖徒によろしくとの個人的挨拶。17~18厳粛な警告。19~20推賞と祝祷。21~24伝言と祝祷。25~27頌栄。となっています。プリスカとアキラの夫婦(3)は、天幕造りを職業とする信徒であるが、御言葉に通じ、恵みの経験に深い人たちであります。(使徒18・2,26)。パウロも天幕を製造しながら、自給伝道をしたことがあるので、彼らと同業であるため一緒にいたことがあります。そして、いつ頃わからないが、2人はかって身命を落としてパウロをかばったことがあります。それ故パウロはここで、(わたしの命を救うために、自分の命を救うために、自分の命を救うために、自分の首をさえ差し出してくれたのである)と言って感謝し、なおこの異邦人への使徒を救ったために(異邦人のすべての教会も感謝している)と言う(4)。2人は実に文字通り「兄弟にためにいのちを捨てる」愛の人であった(第1ヨハネ3・16)。更にこの夫婦は、至る所で家庭を開放して家庭集会を開いたらしく、恵まれた彼らの家庭が中心となって、信者が集められ集会所すなわち教会となった。(彼らの家の教会)とはそれを言う(5)。彼らは御言葉には詳しく、深い経験に進んでいたので、聖書に精通し、雄弁で熱心な伝道者アポロを自分の家に「招き入れ、更に詳しく神の道を解き聞かせ」て、更に深い経験に導いたことがあり(使徒18・24~26)、また命がけで兄弟を愛し、伝道者を守り、伝道心に燃えていた。まことに模範的な信者であります。

ローマ16・1~16節を見て下さい。ここに一人一人への懇切な挨拶には、大いに教えられる。ヨーロッパ大陸をまたにかけての巡回伝道者パウロが。1地方の信者個人個人の名をあげ、勲功や自分に対する親切などを1つ1つ記して、安否を問う。なんという愛の心であろう。パウロでさえ一人一人を覚え、それぞれの奉仕を忘れなかったのであれば、まして主がお忘れになるようなことはないと言うことを教えられる(へブル6・10)。パウロは、信者個人個人をつねにその心に刻んでいたことがわかる。これが忠実な牧者の心である。ここにひとりびとりのいろいろな勲功があげられている。共に働く(同労者)(3)、(自分の首をさえ差し出し)生命をも提供して捨て身になって尽くす援助者(4)伝道者のために(一方ならず労苦した)世話人(6)獄まで伴い(一緒に投獄された)忠実な同族の者(7)、(キリストにあって練達)な者(10)、(主にあって労苦している)女達(12)など私達もこのような奉仕と生涯において、主に推賞されるものになりたいです。ローマ16章は、初代教会における信徒相互の交わりが、いかに深く広いものであったかを、生き生きと示すものであります。パウロは未知のローマ教会宛に、キリスト教信仰の核心を記した長い手紙を書き送りましたが、その終わりに、自分の知人の1人1人の名を挙げて、心からの挨拶を書いたのであります。

結び

このパウロの挨拶から、初代教会の特徴をいくつか示されています第1・当時の教会には、差別と並んで女性や奴隷の名が多くみられることであります。「フェベ」(16・1)、「プリスカ」(16・3)、「マリヤ」(16・6)など、女性名が多く出てくることは、女性を男性と等しく考えるのが、キリスト教の大きな特徴であったことがうかがえます。また「フェベ」(16・1)、「アンプリアト」(16・8)、「ペルシス」(16・12)などは奴隷に多い名前でありました。さらに「アリストプロ家の人々」(16・10)、「ナルキソ家・・・人々」というのは、その家に属する奴隷のことでありました。これらの女性や奴隷は、当時社会においては男性より低い地位に甘んじなければなりませんでした。場合によっては人権も認められませんでした。しかしキリスト者は神の前ですべての人間が同一であることが知らされ、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて1つだからです」(ガラ3・28)と言う確信を持っていました。キリスト教は人間ひとり1人に対する神の愛を知ることによって、差別を廃止、人間を解放したのであります。

第2パウロはこれらの主にある兄弟姉妹たちの名を記すに当たって、「愛する」という言葉を何度も用いており、またその人達が人々のために「非常に苦労した」(16・8)ことを教会全体が特に覚えるように促していることが注目されます。「わたしの愛するエパイネト」(16・5)、「主に結ばれている愛するアンプリアト」(16・8)、「わたしの愛するスタキス」(16・9)「主のために非常に苦労した愛するペルシス」(16・12)、キリスト者は自分の使命を果たす時に、誰もみてくれ図、理解してくれなくても「神知りたもう」、「神は御心に留めて下さる」ことを信じて、自分の道を進みます。1コリ15・58節を見て下さい。p323です。第3に注目されるのは16・13節の「ルフォス、およびその母」であります。マルコ15・21節p95ルフォスはキレネ人のシモンの子であった。シモンは、キリストの十字架を負わされた、それがきっかけとなって、自分の家族がキリスト者となり、

ルフォスの母、すなわちキレネ人のシモンの妻は、使徒パウロから「彼の母は私にとっても母なのです」と感謝されています。このようにパウロはローマ16章において、美しい信徒の交わりを思っています。

「平和の源である神」 2020/11/22説教要旨

朝位真士

今日はローマ15・22~33節から聖書を学びましょう。この15章はパウロの書簡ですが、一致と自己放棄。種々の満たし。霊的負債。22~29ローマ訪問の希望、30~33祈りの要求、祈祷が語られています。今日の題目はローマ15・33節よりつけさせて頂きました。

 ローマ15・22~33節をみてください。ここではパウロは、ローマ訪問を望んでいました。しかし、ローマには、すでに、教会の土台が出来ていました。けれども、ローマを拠点として、スペインは勿論、ローマから西のヨーロッパ全土に目が向けられたかも知れません。パウロはこの手紙の冒頭でローマ訪問の切願について触れましたが、22節以下では再びそのことについて言及すると共に、ローマからスペインまでの遠大な宣教計画を明らかにします。ところが、25節からは一転して、当座の計画であるエルサレム教会訪問について、熱い胸中を明らかにしています。22節から24節をみてください。パウロの心を満たしていたものは福音を「地の果てにまで」という世界宣教のヴィジョンでした。すでにパウロはエルサレムからイルリコまで福音を満たしてきました。東地中海世界において「もはや働く余地がなく」なったと言っています。次の宣教戦略は西地中海世界です。西の果ての国がイスパニヤ、つまり、今日のスペインまでの宣教です。23節で、ローマ行きを「たびたび妨げられた」と打明けていますが、世界宣教に燃えるパウロにサタンがどんなに水をかけても、それは火に油を注ぐものなので、妨げられれば妨げられるほど、世界宣教の情熱は燃え上がったのです。24節を見ると、パウロの遠大なヴィジョンをはっきりと読みとれます。第1のことは、彼の最終ゴールは福音をスペインまでということ。第2のことは、そのことのために、ローマ教会を通過点ではなく、拠点、基地としたいという目標見です。イエス・キリストの再臨を前に、何としても福音を地の果てにまで満たしたいというパウロの世界宣教戦略は、まさに福音の遠心力によるものです。ローマ帝国の西へ西へという福音の遠心力がすさまじい勢いで働いていたことは確かです。やがてローマはその拠点となり、ペテロもパウロもその地で殉教を遂げたと言われています。25~29節を見て下さい。ここに福音の求心力が25節以下に見ることが出来ます。福音は、常に外への伝道の力と内への交わりの力をもたらすのです。26節にマケド二ヤとアカヤの教会で集めた献金をエルサレム教会に手渡すためでありました。エルサレム教会は貧しい聖徒が多くいました。この貧しい人々をかえり見ることはエルサレム教会との約束事項でありました(ガラ2・10)。何よりも福音の霊的祝福はエルサレム教会から全世界に及んだのですから、物質的祝福をもって感謝をあらわすのは当然なことであるとパウロは語っています。ここに教会の真の交わりを見ることが出来ます。26節の「援助する」も27節の「霊の物に「預かった」もコイノ二ヤという言葉が使われています。貧しさを「共有する」という「共生」の理念があります。パウロは、福音の実である愛の献金を渡すことにより、異邦人教会とユダヤ人教会が全く1つのキリストの教会の交わりに生きることを示したかったのです。パウロのエルサレム教会への感謝を表す福音の求心力は、さらに爆発的な遠心力となって世界宣教へと拡大するのです。キリストの満ち溢れる祝福の使徒、それがパウロです。遠心力による宣教、求心力による交わりを通して、行く先々にキリストの祝福が満ち溢れました。強力な遠心力を生かして救霊のみ業に当たりましょう。信仰の祈りと愛の呼びかけを持って、家族、友人、知人に救いを拡大ささせましょう。貧しい人々、国々、諸聖徒、諸教会へ、もつともつと愛の献げ物をもつて交わりを深めましょう。15・30~33節を見て下さい。熱烈な祈りに包まれて小島伊助先生は、ここに聖徒の3大意欲があるといわれました。伝道と献金と祈祷であるというのです。

結び

15・30節をもう1度見て下さい。ここに祈りの戦いの要請が語られています。祈りは戦いです。格闘です。神と相撲を取ることです。ヤコブのように、神に勝つのです。神に勝つつまり神の御手を動かすしかも1人で戦うのではありません。共闘でなければ勝てないのです。こうしてパウロは3つの祈りの課題を出しました。第1の祈りの課題はユダヤにいる不信仰者から救われることです。第2の祈りの課題はエルサレムに対するパウロの奉仕が聖徒たちに受け入れられることです。パウロは献金通して、ますます、ユダヤ人教会と異邦人教会が1つになり、「エルサレムから」世界宣教の使命が果たされるように願っていました。第3の祈りの課題は、ローマ教会において共に慰め、共に憩いを得ることです。第1と第2はセツトとなつて、その結果の最終的な祈りの課題ですから「共に憩う」そしてついに神の御旨により、喜びをもってローマに向かい、主イエスが「休ませてあげよう」と約束されたその憩いのハ-モ二―を共に奏でるのです。教会の交わりの最たるものは「憩い」です。33節は、平和の神の祝祷です。忍耐と慰めの神、希望の神は、ここでは、平和の源なる神です。波乱万丈のパウロの生涯に、常に伴っていた方が、平和の神から来る真の安息でした。ストレスの多いこの時代です。教会が真の慰め家、憩いの場所となり、そこで常に新しい力が与えられることを求めようではありませんか。平和もう1度15・33節を見て下さい。「平和の神」すなわち。神と「わたし」との間にあった不和の状態が、キリストにおいて除かれ、救いを与える神がローマの兄弟たちとともにあるようにとパウロは、祈って、この15章を終わっています。祈りに始まって、祈りに終わっているのであります。